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      現在「懐古趣味」は江戸の職人の姿を当時の浮世絵師の手で描かれたものを彩色しなおすととともに、それぞれの職業を出典の「江戸職人聚(三谷一馬:中公文庫)」から選びだして解説しながら紹介している。 青色の太字をクリックすると 、画像が表示される。

 江戸の職人 第七話「器」の部2022年


硝子師
 我が国では、硝子は古くは瑠璃、破璃、富岐玉(ふきだま)と呼ばれ、ポルトガル語のビードロ、オランダ語のギヤマン、江戸中期になって硝子といわれるようになりました。硝子の文字は中国からきたものです。
 文化年間の清閑主人著「鴨村現記抄」に次のように記されています。
  「江戸にて硝子を吹き始めたるは、長島屋源之丞といへる者、初めて江戸に至り、吹出したる由、其子孫今に浅草に住して、長島屋半兵衛といふ由。其頃尾張の赤津にて、硝子壺を焼きて出せりと也。夫れ故。今以て赤津にては硝子壷の事を、源之丞壺と唱へる也。半兵衛なる者七十歳余の老人也。源之丞の孫なる由。是れを以て見れば、宝永、正徳の頃に も姶りたるやらん。文化六年、予上へ申上げて、シヨメールといへる細工事を書きたる書を御買上げになし、阿蘭陀通辞馬場佐十郎〈真由〉を申立て、西洋の硝子吹方を和解して、 西洋硝子製法書物三冊出来して、初めての阿蘭陀の水晶硝子を吹出し、品々献上もなした り。其時に硝子吹千右衛門といふ者、予が手に附きて、細工物などなしたり。源之丞の話 は千右衛門語れり」
 硝子は熱しているときに作るので時間の制約があります。だいたい二分間ぐらいのうちに 吹いて作らないと、割れたりして失敗するそうです。硝子の種を窯から管(梵天という)につけて出すのが難しいそうです。これを玉取りといいます。昔から玉取り三年、素地 (形づくり)八年といわれております。 (出典•絵本『北斎漫画』文化十一年 葛飾北斎画)

 陶工師その1
 出典の文に次のようにあります。
 『○陶器(やきもの)刕
  諸刕召数品有中にも 肥前国伊万里焼と云を本朝第一とす此窯山凡十八ヶ所を上場とす
 〇大津内山〇三河内山○和泉山〇上幸平〇本幸平○大樽○中樽○白川○稗古場〇赤絵町○中野原○岩屋○長原○南河原上下二所○外尾○黒牟田○広瀬○一の瀬○応法山《略》
 ○白土泉山に出て国中の名産本朝他山に比類なし中華ハ中国の五六処にも出せり是土にして土にあらず石にして石にあらず其性甚堅硬し玄能をもって打かき金杵の添水碓に是を春しむ杵の幅一尺斗厚さ一尺五六寸長一間半斗最水勢つよくしかけて碓の数多く連らねよく末粉となりたるに又他の土の柔軟(やわらか)なるを二三品和し合せて家の内の溜池に漂し度々拌通(かきまわ)しよく和したるをいかき(竹のざる)に漉し又外の溜池へ移しよく澄し其上に浮たるものを細料とし中を普通の上品に用ひ底に下沉(しずみ)たる(取捨て不用さて其水干(すいひ)の土を素焼窒の脊に塗附内の火力を借りて吸乾かす最これによき程を候ひミて掻き落し重て清水に調和しかの団古のごとく粘和して工人に与ふなり是まで婦人の所為なり
 ○造瓷坯埋器(うつわをつくる)凡瓷坯を造るに両種あり一にハ印器(かたにし)と云方円数品瓶(どびん)甕(つう)炉合(こうろ)の類屏風燭台の類にも及べり是等ハ凡そ塑性(つくね)して或ハ両或は両に截り又再び白泥(つち)をねりて範(かた)に摸し或ハそのまゝに印を押すもあり又おなし土に銹水(くすり)を和して塗り合取付などもするなり
 ○一には円器といひて凡大小億万の杯盤ハ人間日用の物にして其数を造る事十に九なり此円器を造るにハ先陶車を製す其円盤上下ニツにして下の物少し大なり真中に真木一根を堅て埋む事三尺許高さ二尺許上の車の真中に土を置て造る也下の車(エ人の足にて廻し須臾も廻り止ことなく両手を以てかの上の土を上へ押捧げ指自ら内に交り車の旋転(めぐる)が中輪臺二栂指ハ器の底にありて其形の異法心にまかせすべて手のうち指尖の妙工見るがうちに其数を造り其様千万の数も一範の内に出るがごとくにして大小をあやまらず又椀鉢の類の外の輪墨を付るにハ微(すこ)し乾して再び車に上せ小刀を以て輪臺の内外を削り成し砕欠も此時に補ひ或ハ鈕手瓶(とってびん)の水口などハ別に造り粘土を合わせて和付す。又是を陰乾とし極白に至らしめ素焼窯へ入るゝなり。

陶工師その2
〇素焼窯ハ図するごとく糀(こうじ)室の如き物にて器物を内に積ミかさね火門一方にありて薪を 用ゆ度量を候ひ火を消し其ま、能くさます
〇打圏書画再入窯(わをうちえをかきふたたびかまにいるる)
 右素焼のよく冷めたるを取出し 一度水に洗ひ毛綿裂にて巾き磨なり茶椀鉢などの内外上下の圏輪の筋を画くにハ又車に上せ筆を其所にあてゝく るまをめぐらせり然して書画を施し其上へ銹漿(くすり)を二度過てよく乾し本窯へ納れて焼けバ火を出て後画自顕る取出し又水に洗ふを全備とすすべて土を取るよりはしめて終成(できあがる)までハたヾ一枚の小皿なりといへとも其工力を過ること七十二度にして其微細節目尚其数云尽すべからず
〇素焼の窯ハ家の内にあり本窯ハ斜阜(ななめなる)山岡の上に造りて必平地にハなし皆一窯宛一級高(ひとつあがりに)くし内の広さ凡三十坪是を六ツも連接して悉く其接目に火気の通ずる窓を開く然れども火ハ窯ごとに焚也内にハ器物をのする臺あり即上にて制し一ッ宛のせて寸隙なく一方を細長く明置それへ薪を入る、此火門ハ寸に高二尺計余にして焚こと凡昼夜三四日にして一窯に薪凡二万本を費やす尤焚様に手練ありて上人下人(じょうずべた)の雇賃を論ず追々投込にたヾ木の重さならぬやうにするをよしとす又戸口の脇に手鞠程の穴有是を時々蓋をとりて度量を候ひ其成熟美を見れバ火を消し其まゝよく冷して取出すに一窯の物凡百俵に及べり(出典・図会本「日本山海名産図会」寛政十一年 法橋関月画)

継物師・焼継師
 出典にある文です。 「〔継物師〕万の器 物の破損をうるしを 以てぬりつぎて全ふするなり。ふろしき包をかたにかけ、継物〃とふれあるくも、くるしきわざなり」
 古くは器物の破損 を漆で接いだようで、 寛政頃には、陶器のわれものは焼継師が修復しました。
 「昔ハ陶器ノ破損皆漆ヲ以テ修➁補之①寛政中始テ白玉粉ヲ以テ焼接グコトヲナス今世モ貴価ノ陶器及ビ茶器ノ類ハ再竃ニ焼コトヲ好マズ故ニ漆ヲ以テ補ㇾ之金粉ヲ粘ス日用陶器ノ類ハ焼接ヲ専トス」(守貞謾稿)
 白玉粉とあるのは鉛化ガラスのことのようです.焼継を専門にした行商が来ました.三都とも服装は似通ったものですが、担い籠がが江戸と京阪では少し異なっています.江戸は食物を入れる御膳籠で京阪は朧目に編んだ籠です。 
(継物師の出典・職人本「人倫訓蒙図彙」元禄三年 蒔絵師源三郎画)   
(焼継師の出典・職人本「略画職人尽」文政九年 岳定岡画)

 玉磨師
 緒メの玉の作り方と目鏡について、出典の解説文では、次のように記しています。
〇水晶 日向を上とす。近江より出るを次とす。紙にのせて見るに日向はくもらす、紙の色にすけ、近江水晶は紙にのせて影すこしくもる。但今は日向はめづらし。扱惣じて玉のこしらへも通しは、みな鑽(たがね)に金剛砂を用ひそろそろと彫。急にほれは石をくだく。すりやうは鉄にてちいさきわり竹のことくなる。樋といふ物をこしらへ置、手たらいに水をいれ、右の鉄の樋をすへて、金剛砂に水をそゝき玉を串にさして、爰の図のことくしてする。(出典・実用本「万金産業袋」享保十七年 筆者不明)

角細工師
出典の文にこうあります。
「〔角細工〕校槩(こうがい)、櫛払(くしはらい)、掛落(くはら)、根着(ねつけ)、緒占(おじめ)、挽盖(ひきぶた)、鉄炮の薬入等角象牙をもちゆるたぐ ひ、これをつくる。寺町通をはじめ所々にあり。」
校槩は笄(こうがい)、掛落は袈裟のことです。
(出典•職人本『人倫訓蒙図彙』元禄三年 蒔絵師源三郎画)

木地師
 木地師は轆轤(ろくろ)師、木地屋、挽物師などといわれています。広い意味の木地師は木地四職と 呼ばれる轆轤師・塗物師•杓子師•挽物師をふくめて使われているようです^ 絵の轆轤は、一人が廻し一人が削る、つまり二人で操作するところから二人挽き轆轤とい われています。轆驢は絶えず廻転させ磨滅がはげしいので、栗、欅、槐(えんじゅ)、おのれ等の堅木で作ってあります。廻転に使われる引き綱は古くは強い獣皮を使用しましたが、のちには藤蔓、麻縄にかわったようです。引き綱は椀の二百枚も挽くと切れるので、多くの補充を用意 しなければなりません。綱の端にはテジリと呼ばれる木の輪を結びつけて握りやすくし 左右交互に引張っては軸を廻転させます。轆轤の廻転は調子よく廻り出すとそれほど重いものではないそうですが、綱引きと削る者との呼吸を合わすことがむずかしいといわれます。 絵の削り手が持っている、端に柄のついたものは鉤で、これで椀、盆の内側を削ったり、外側の形を整えたりしました。鉤には荒木地(用材から荒取りしたもので、例えばまだ椀の形 になっていないもの)の外側を挽くもの、内側を削るもの、鉤目を削り取るものとがありま す。内外を挽く鉤には荒挽き、中挽き、仕上げとありますが、各人によっても相違していま した。なお鉤は木地師がめいめい鍛冶をして作ったものなので、木地師の道具の中で、鞴(ふいご)は 必要道具の一つでした。
 削るときに鉋(かんな)を安定させるために支えの台を置きます。絵には二本の角棒が描かれていま鉋すが、踏台形のものもあり、これを木枕、鉋枕といいます。
 木地師は弟子をとりませんでした。その理由は、木地師は自分の先祖は皇子惟喬親王(これたかしんのう844-897文徳天皇の第一皇子)だという誇りがあり、一般の百姓、町人とは交際を断っていたのです。当時の結婚は木地師同士の間で結ばれ、もし娘が木地師以外の者と縁組をすると勘当されました。木地師に小椋、小倉、大蔵の苗字が多いのは、同職結婚のためだともいわれます。木地師の娘にはなかなかの美人が多くいたそうで、それにまつわる伝説めいた話がいくつか残っています(橘文策著 『木地屋のふるさと』、橋本鉄男著『ろくろ』より)。
(出典•絵巻『作業のあゆみ椀師作業工程絵図」明治八年 佐藤五郎右衛門画)

菅笠師
 菅笠は菅で作った笠で、産地により加賀笠、伊勢笠、薩摩笠、島笠、材料により菅笠、檜笠、竹の子笠、蘭笠、作り方により網代笠、編笠、塗笠、葛籠(つづら)笠、形により一文字笠、三度笠、貝尻(ばいじり)笠、八つ折笠、天蓋等があります。
 『守貞護稿」には次のようにあり ます。
 「菅笠ハ今世モ加賀産ヲ専トス 一文字笠士民トモニ用ㇾ之ト雖 ドモ武家旅行及ビ行列ノ時ハ用 ㇾ之他ヲ用フコト稀也 一文字 ニハ必ラズ白晒木綿練紐笠枕モ 同品也
 今世三都トモ士民旅行二ハ菅笠ヲ用フ形種々アリ或ハ人品ニ応テ用ㇾ之或ハ随意用ㇾ之」
 菅笠の一種に三度笠がありますが、これは三度飛脚が用いるためで、又の名を大深と呼ばれるほど深い笠です。深いのは誤って落馬をしたときに、顔を怪我 しない用心のためとも、四時烈風を防ぐためともいわれています。この笠は貞享(一六八四 〜八八)に初めて作られ、文化(一八〇四〜一八)以前はもっぱら旅の商人が用い、文化以後は擂鉢形の菅笠に代わりました。しかし飛脚の宰領は、やはり三度笠をかぶっていました。 絵は笠屋の家の内部で、笠師の前に竹の骨と糸が見えます。(出典・合巻『鹿島宮筒潮来』文化十二年 扇島徳秀画)

籠師
『守貞謾稿』には次のようにあります。
 「笊味噌漉売、笊籠味噌コシ柄杓杓子水囊箒等ノ類ヲ売ル詞ニ『ザルヤミソコシ』ト云或 ハ柄杓一種ヲ売ルアリ又水囊一種ヲ携へ或ハ売レ之或八損ヲ補フ者アリ」 絵の籠師が竹を小刀(刀を折ったものが多く使われる)で割っているところです。口にくわ えているのは竹の皮の部分で、上体を前後に動かすことによって皮と身を片方に偏らず、歪まずに割ることが出来ます。
 口を使って割るのは籠などを作るより、 どちらかというと細かい小物を細工する人たちに多いそうです。桶師は竹を割るとき、 左足の指にはさんで口は使いません。 竹材には真竹(苦竹)、孟宗竹、女竹、根曲竹、矢竹などがあり、このうちでは真竹が最もよく使用されました。竹を切る時季は秋の彼岸から春の彼岸までで、竹が水あげしない時を選びます。真竹は三年のものが最良で、二年ものも四年ものも使いものにならないといわ れています。
 編み方は四ッ目、六ツ目、ハッ目、.網代編み、笊編み、籠目編み、牡丹編み、波形編み、 鎖編み等があり、絵の右下の笊は網代編み、籠師の後ろの籠は籠目編みです。籠師の姿は盲縞の腹掛け、股引き、浴衣の双肌ぬぎで、肩に豆絞りの手拭を引っかけた職人の意気な姿です。
(出典•合巻『宝船桂帆柱』文政十年 歌川広重画)

箒師
出典の文に次のように記されています。
 「箒師(ほうきし)梭櫚(しゅろ)の皮葉並に藁芯等の箒あり。手箒、鍬箒等あり。羽ははきは諸の鳥羽屋にこれを造る。箒は草より名付しなり。箒木といふ草あり。寒山拾得以ㇾ箒落葉をあつめて有無をさとり給ふ。禅家のほつすもは、きのごとくにまよいを払さとりをあつむの心とかや。」
 昔、京都の棕櫚(しゅろ)箒は丹波山の棕櫚を使いました。現在は和歌山のものだそうです。 棕櫚箒のほかにホウキグサ(ホウキギともいう)、竹、砂糖黍の箒があります。 ホウキグサは六月中旬に種を播いて、九月中旬に収穫します。青い茎を釜で煮て、三日間 天日で乾燥します。このとき雨にあててはいけないそうです。強い日射にあてると光沢が出て、これによって品質の上、 中、下がきまります。作る手間は同じでも、材質によって品物の値段がきまります。
 穂があっちこっち向いているのを、木槌でたたき、鉄のお酉様の熊手のような「実こぎ」でしごいて真直ぐにします。製法の肝心要は、穂をそろえてそれに竹の柄を差し入れ、そし て糸できつく締め上げるコツで、この元編みがゆるいと、すぐにがたがたになるそうです。 熟練した人で、棕櫚箒だと一日四、五本、ホウキグサなら手箒は三十分、座敷箒は一時間 で出来るそうです^
 箒屋ハ逆サに立ッて客を待(新柳多留)
(出典・職人本「人倫訓蒙図彙」元禄三年 蒔絵師源三郎画

磨臼師(すりうすし)
『江戸大節用海内蔵』に、
「磨臼(すりうす)
籾を去りて米を出すの具竹を編て囲ミを作り内に泥土を貯へ状小磨の如くになし竹木を 以て密かなる歯を為り籾を破り米を損することなし俗に唐臼(からうす)といふ」 とあります。唐臼のことを土臼(とうす)といいます。
出典の文には次のようにあります。
「磨臼ハ竹箍(たが)を上臼へハッ下臼へ六ツぐらゐかけ其箍の中へ松の木の大割を打込透たる所 へ小割を打込造り立る也大さ径 二尺位第一に丈夫にて多く挽(ひか)る、事比る物なし此臼を千俵挽といふ」
(出典•職人本『俳諧職人尽』天保十三年 筆者不明)

臼の目立師
  をかしさは月を日切も共に待ち
 江戸町代、八月十五日の中秋の名月には、芒と団子を供えました。米の粉で、各家庭で挽臼で挽いて団子を作ったものです。この季節の頃になると、行商の臼の目立屋が街に廻って来ました。前の川柳の目切とは臼の目立屋のことで、「目とり」とも叶ば呼ばれています。
 絵の目立屋が持っているのは「たたき」という鑿で、現在では両面に刃がついています。昔は片刃の平鏨を使ったといわれています。挽臼は、下臼が上臼より薄いのが普通ですが、絵の臼は余りにも薄すぎるように思えます、
 粉を挽く臼のほかに茶臼があります。これは抹茶を作るときに使用される臼です。粉挽きの臼に比べると小形で、下臼に槃(だい)がついていて、型が美Lく、美術品としても立派でした。
                  (出典・合巻「君子威徳富貴機」寛政十年 知道画)


 

 
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