今回のは話の市は「魅るヒント」をテーマにして、過去のコラムをピックアップしてみた。
ここには人がどう空気を読んで物事に対処するか、私は「こう考える」というキーワードから改めて見直していく。
ヒント(1)
普段散歩を日課としている人は多いことだろう。大体散歩のコースは決まってしまうものだ。どこかをぐるっと回って戻ってくるというのが相場だろう。人によっては犬の散歩だったり、夫婦・友達など同行者のいる場合もあるだろう。
私の場合、見慣れた光景だから特別興味を引くようなものもなく、考え事などしながら歩くことが多い。大抵ホームページに掲載する内容をどうするかを考えている。このことは以前にも書いたことだ。
まるで変化のない見慣れた光景も、実は時の経過で少しづつ、しかし確実に変化している。今の時期だと梅雨入り前で天気は不安定だが、外の風は気持ち良い。湿度も低くしのぎやすい時期と言えよう。
木々や道端の草の緑が色濃くなってきている。庭先を飾る花々も移ろいながらも華やかな彩りを見せてくれる。道沿いの花壇のサツキの花が今見頃だ。やがて夕方にはオシロイバナの可憐な花も咲き始める時期となることだろう。
このように少し自分の視点を絞ると、自然の変化は時の移ろいの中で違った貌を見せてくれる。私のホームページのメインテーマは『風を楽しむ』であるが、これは少し硬い表現だが、森羅万象( あらゆる現象、宇宙に存在する一切のもの。「森羅」は樹木が限りなく茂り並ぶことであり、「万象」は万物やあらゆる現象。なお、「宇宙」はあらゆる存在物を包容する無限の空間と時間の広がりのこと:Wikipedia)に対し感覚というアンテナを広げて移り行くさまを感じ取ることである。空・雲・風・光という自然現象。樹木・草花といった植物。年中行事といった人の行い。これらはサイクルとなって巡り巡ってくる。同じようでいて受け取りようによっては別の貌を魅せてくれるものだ。それを感じ取ることが「魅るヒント」となって返ってくる。
今回は私がどのようにしてホームページに掲載する題材を見つけているか、そのきっかけとなるヒントを得ているかについて示してみた。さらに策を練って、次なるヒントについて語るため、今回を(1)として、このテーマをシリーズ化したいと思っている。
ヒント(2)
「みる」という言葉は通常「見る」と書く。しかし、ここでは「魅る」と表現した。これは一般的には「みせる」という表現の時に使う言葉だが、敢えてこれを「みる」と読んでもらうには、それ相応の意図があるからだ。
見るは漫然とした「視る」ことと同義語で、それ自体には情緒的感覚は含まない。私の造語である「魅る」は辞書には出てこない言葉だが、人の感覚に呼びかけることを意図した「見る」ということに特化させたものと理解していただきたい。
従って、前の稿でも述べたようにあらゆる事象(森羅万象と書いた)を固定的でない開放的な感覚、またはフィーリングで自分の五感というフィルターを通してみることが大切である。
それを具体的に示しているのが、ウェブ上で展開されているホームページということになる。これは私的作品(見方によっては人真似)を公開している場所である。このことを再確認して先に進む。
その中身はいくつかのアイテム(むつかしく言えばジャンル)で構成されている。大別して4つのポケットで示しているが、ほかにもメインであるコラムとして「日常細事」があり、トップ画面のイラストとして「人物百相・生物百様」(合わせて『万物百態』 の図)を置き、さらに毎日が「何の日」であるかを暦や年中行事、県内のイベントなどでまとめた「時の風物詩」がある。
中でも力点が置かれる「日常細事」は週2回のペースで書き続けているため、題材探しに大変苦労する。自分が見聞した諸々のことを、新聞のように特定の出来事を論調(評論) していくような話題を避けて書くことにしている。
それはそうした話題に対する知見がないことは確かだが、政治ネタには必ず二面性があり、同時にグレーゾーンも多い。そこに切り込むのは危険だと「ささやく声」がある。あえて「花壇に咲く花」ではなく「道端に咲く野草」に目を向けるように、地味で日常的な事柄や事象に視線を据えている。次回以降にそれぞれのジャンルについて自分なりの目の付け方を示していくが、こうした作業に必要なのは、自分自身の「魅る」位置取りということになる。
ヒント(3)
私のホームページを基に『魅る』ヒントを探ることにする。第3回目は「Watchのぞむ」の中身を見て、その発想の要因から「魅る」に至った経緯を説明する。
Watchには4つの区分がある。「名所・旧跡」「四季の散歩」「公園散策」「風の記憶」の4つである。
「名所旧跡」は市内の寺社が中心で、ほかに旧東海道の跡などを取材した。これらに共通するものは歴史の跡である。現在目にする寺社などは、中にある仏像やご神体に関わる由緒あるものは残されているだろうが、外見は復元(古い形を維持して建て替える)されたものばかりだ。道路脇などにひっそりと残っている道祖神などは、江戸時代のものと思われる古いものが多く見られる。こうしてものを実際目の前にすると、昔の旅人の姿が、恰も北斎や廣重描く道中姿で浮かんでくるような気になる。
この感覚は郷愁にも似た懐かしさを伴うものだ。これは日本人のDNAとして引き継がれた血のなせる技かもしれない。この感覚が「魅る」に繋がっている。
神社仏閣でも同様、往時を偲ぶ姿が再現されたものだから、そこに古き時代を「魅る」感覚が涌き出してくる。
「四季散策」は季節ごとに変わる風景を、公園などを散策して感じ取ることができる。その名が示すように『四季の森』は、季節ごとに変わる花や樹木を飽きることなく見せてくれる場所である。これは庭園である『三渓園』も同じである。大体毎年訪れるが、その度に生まれ変わった景色に出合う。その裏には庭師と呼ばれる匠の技が、隠し味のように滲み出している。人の手を感じさせないところが匠の匠たる由縁であろう。もし人の手が入らなければ、一年で荒野と化してしまうに違いない。この庭園美は最早芸術の域に達している。時の流れの中に「魅せる」べきものを見せるように、「企む(たくらむ)」ことが匠の技であると言えよう。
こうした「企み」を「魅る」という感覚で読み取ると、一味違った美を自分のものとすることができる。
『公園散策』も似たような体験を得ることができる。一種の森林浴のような肉体的なリフレッシュとなる。これは公園の木々が発する電子のように目に見えないイオンが満ちているからなのかもしれない。何気ない小川のある『せせらぎ緑道』 も忘れてならない自然の彩の一つである。水の流れは静の中にある動である。木々のざわめきと水の音が自然のハーモニーを奏でるのも「魅る」感覚を呼び覚ます役を果たす。
『風の記憶』は本来このジャンルの中核をなす項目なのだが、数が少ない。タイムトリップさせてくれる年中行事の中に身を置くことで感じる、一種のノスタルジーめいたもので、実体験としての神輿を担いだり、盆踊りの中に交じって踊るわけでもないので、中々「魅る 」にまで至らず、「見る・観る」の段階で終わってしまうのが残念である。「魅る」は実体験の中にあるものなので、そこが難しい。
「暦と日本人の生活」(明日改訂版を掲載する予定)などが、それに当たる。残念ながら技量不足でいささか自信がないが、伝統を引き継いでいくという作業は学ぶところも多くいい勉強になっている。実体験を基にしたドキュメンタリーは、このホームページの立ち上げをした経験を掲載したところから始まる。生みの苦しみはどんなことにも共通で、一つや二つの苦労話はあるものだ。ノンフィクションを嫌味ないようサラッと表現するには「魅る」(この場合他人の目で見る感覚)態度が言葉の選択に欠かせないと思っている。
ヒント(4)
第4回目は「Writeしるす」から「魅る」がどこにあるか探ってみる。
「Write」は大別して「エッセイ」と「ノート」に分けられる。エッセイはコラムの字数が多い文章で、大体1500字くらいが目安になる。随筆と呼ばれるもので、折々に感じたことや出来事をまとめて文章にしたものだ。ノートは仕事に関する「覚え」みたいなもので、少し専門分野風の内容となっている。
現在「エッセイ」で取り組んでいるテーマは『老いて後に(禅に学ぶ)』と『魅るヒント』でシリーズ化している。このテーマのどこに「魅るヒント」が隠されているというのだろうか。
ここでは『魅るヒント』は課題そのものなので外して、『老いて後に(禅に学ぶ)』について探ってみる。
私の場合生きているうちに自分ならではの人生哲学を確り固めておきたいという意欲がある。それ故にファイル名は"my_philosophy"と名付けている。人によっては小難しい哲学なんてどうでもいい。それより毎日を元気で楽しく暮らせればよいといった向きも多いだろう。実はそう考えることが、その人の人生哲学なのである。
最も難解と言われている『正法眼蔵 現成公案の巻』の読解は、私にとって大きな挑戦である。エベレストの初登頂に挑んだマロリーは「なぜ、あなたはエベレストに登りたいのか?」と問われて「そこにエベレストがあるから(Because it's there. )」と答えたという。「そこに山があるから」と訳されて、それが定着している名文句である。道元は曹洞宗の開祖にして偉大なの思想家であり、道元禅の生みの親である。道元禅を知るということは、大げさに言えば「マロリーの山」に挑むのに等しい。そこには辿り着かねばならない「悟り」への道があるからだ。それで老骨に鞭打つて今は学んでいる最中なのである。ここ一番、最後の知恵を振り絞るといった塩梅だ。続けるには「魅る」感覚で臨むと、頭の体操になり、エンドルフィン(脳内活性ホルモン)が出る。これは登山家のクライマーズ ハイといわれる興奮状態に陥るのに似ている。「どうにもとまらない」とはずっと昔の歌の文句だが、そういう状況を作り出すことが「魅る」ことであると言えよう。
次に「ノート」に話題を移すと、これは文字通り雑記帳やメモ帳の中身をまとめたもので、一種のドキュメンタリーや小論文の類(たぐい)に入る。
実体験を基本に置いたものや、段々に人の関心が失われていくような文化遺産の考察を柱にしている。そういうことで、現在取り組んでいるテーマは「日本の古き良き遺産を後世に残す」である。
ヒント(5)
第5回目は「Imageうつす」の中の「公園散策」から「魅る」ヒントになるキーワードを探ってみる。
ここではムービーやスライドショウで撮影したものを編集して紹介している。特にWatchの記事と連動しているものが多いので、その中からキーワードをピックアップすることにした。
最初の公園散歩は三ッ池公園の紹介で、2013年8月頃だからHPを対上げたばかりの時のことで、もう4年近くが経っている。
この頃は足腰が確りしていたので、精力的にあちこちの公園に出かけて、「随分と行動範囲が広かったな」と懐かしい思いがする。
この当時は公園の樹木に関心が強かったようで、図鑑づくりの真似事をしていたようである。木名札の付いた幹だけを写して紹介している。この時は「魅る」という感じで樹々を観察していない。そこでの記事で『名前も分からぬままに、大きな木だな。何の木なんだろう』と腕をこまねいているのでは、芸がなさすぎる。樹の図鑑を見ると写真を整理する段階で名前が分かることがある。樹の観察は色々な手段を使って解明していくことで楽しみ方を増へてくる」と書いてあった。ここで読み取れることは「見る」と「観察する」と「調べる」が一つになって「魅る」が生まれるということである。
次は「山下公園からフランス山」の絵を紹介している。これは9月初めである。文中で5月でバラの品評会をやっていたという記載があるので、時間に開きがあるところから撮りだめしたものを掲載したものかも知れない。ここでも樹木に関する関心が強かったようである。興味の対象はよく変わる。
撮り溜めするということは、いつもカメラを持参して散歩に出かければ、その時々のスナップ写真を後で生かすことができるからだ。瞬間を捉えることが「魅る」感覚を養ってくれる。
ユニークな緑道として「新田緑道」を紹介したことがあるが、ここは「時代遅れになった旋盤やフライス盤等々、かつてはモノ造りの主役が役目を終えて、モニュメントもしくはオブジェとして配置されている」と記されている。その時はほかにない新鮮さを感じ取ったが、今見直してみると、それだけではこのモミュメントだけでは、機械を操作して汗を流してモノづくりに励んだ人々の姿が浮かんでこない。紹介ページでも書いたことだが、役目を終えた道具の裏にはそこで働く人の苦労の歴史があるものだ。そうした一面も併せて伝える仕掛けのようなものを加えれば、単に鑑賞するだけで終わらせず、より深く「魅る」ものとしての味わいが増すことだろう。歴史的遺産はより正確に伝えてこそ後世の人の共感を呼び覚ますものだから。参考までにPaintの懐古趣味の原画の掲載されているイラスト本の中の「働く人と道具」をご覧いただきたい。(2017.6.23)
ヒント(6)
第6回目は「Paintえがく」からヒントを探すことにしよう。えがくは絵を描くことで、対象はかなり多い。昔から絵を描くことは図画の時間が一番楽しかったせいか、今でも飽くことなく描くことができる。 「好きこそものの上手なれ」という諺があるが、たとえ上手でなくても「好き」もしくは「好きになる」ことが魅るヒントになる。現在HP上で掲載している絵は、画家のような独創的な作品ではない。以前にも書いたが塗り絵である。要は輪郭さえあれば色は好きなように塗る。絵筆や絵具の代わりにタブレットペンとペイントソフトのカラーを使う。パソコン上の絵はドット₍点₎の集まりである。その点を組み合わせて形を作っていく。必要なのは根気で、地味だがこつこつ続けることが大切だ。それゆえ好きでないと続かない。
それでも得意、不得意はある。抽象的図形はイメージが湧かず、ほとんど写実的な絵になってしまう。葛飾北斎が好きで、富嶽三十六景は終わり、いまは富嶽100景の塗り絵をしている。ほとんどが無彩色なので、着色は今までの北斎の色彩感覚を思い出して、手探りで色付けすることになる。ここでのヒントは画風を知ることである。浮世絵は版画であるため、赤、青、緑、黄、白、黒の基本色に茶色や橙色の混色合わせて色数は10色程度の使い分けで済む。濃淡を気にすることもない。せいぜい空にグラデーションをかける程度である。写実的な絵といったが、北斎にしろ写楽にしろ写実というより、印象を大切にしているようだ。
ここでヒントだが、絵を描く場合どこかにピントを合わせ特徴を持たせないと、印象に残らない平板な絵になってしまう。見た光景なり対象(花など)を再現する場合、無駄なものは極力排除して、何に惹かれたかを表現できれば成功である。
できるだけ名画を鑑賞すると審美眼が養われるのは確かである。よく「目利き」という言葉を耳にするが、これは即「魅る」目を持っている人のことをいう。
こと絵に関して私が審美眼があるかないかは自分でもよく分からないが、絵画は光と影が醸し出すシンフォニーと受け止めて眺めてみると、名画はどれも独特の調和と輝きを放っていることに気がつく。現在手掛けているベンシャーン模写は美術館の特別展で実際に目にし、大きな感銘を受けたのが忘れられず、その時購入した図録を原本に、書き写して着色したものである。模写であるので、これだけは自分で線を描くからコピーをしたものではない。その分画家のオリジナルとは程遠い絵になってしまっているが、構図のアンバランスと手の書き方が独特で一味違う味わいがある。彼の絵は写真をベースにイメージを表現しているが、写真にはない「思い」のようなものが伝わってくる。やはり優れた画家は「魅る」目が違うものだと感心する。
「魅るヒント」シリーズは一応ここで終わりとするが、また新たな発見でもあれば、再開したいと考えている。(2017.6.28)