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北斎人物像


北斎の魅力
 このホームページでは7浮世絵として『北斎』をお送り上げている。それは編集者(私)が大の北斎ファンであるからだ。
  紹介したファイルをフォルダ別に紹介すると「花鳥風月」「山中の不二」「雪月花」「千絵ノ海」「名橋奇覧」「琉球八景」「北斎大全」「北斎 肉筆画大全」とほぼ全作品に及んでいる。
 そこで、これほど人を魅了して止まない葛飾北斎とはどんな人物だったのか紹介する。(Wikipediaより)

・北斎の生涯
 葛飾 北斎(かつしか ほくさい、宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉~ 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)は、江戸時代後期の浮世絵師。化政文化(*江戸時代後期,文化文政時代 (1804~30) に江戸を中心として展開した文化をいう。同じ町人文化でも,元禄文化が上方を中心としたのと対比される)を代表する一人。
 代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。しかし、北斎の絵師としての地位は「富嶽三十六景」の発表により、不動のものとなっただけでなく、風景画にも新生面を開いた。北斎は、浮世絵で高い芸術性を表したが、大衆的な『北斎漫画』の中にも彼の卓越した描写力を見ることができる。さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したこと、毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところ大であった。葛飾派の祖となり、後には、フィンセント・ファン・ゴッホなどの印象派画壇の芸術家を始め、工芸家や音楽家にも影響を与えている。シーボルト事件では摘発されそうになったが、川原慶賀(*長崎の今下町(いましたまち、現・長崎市築町)に生まれる。当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、頭角を現す。出島オランダ商館への出入りを許され、文化14年(1817年)、来日したブロムホフの家族肖像画などを描いたほか、長崎の風俗画や風景画、出島での商館員達の生活等を描いた。慶賀は異国の風俗と日本の浮世絵を融合させた独自の画面を創り出した)が身代わりとなり、難を逃れている。
 ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究、試みたようである。また、油絵に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても、遂に果たせなかった。1999年には、アメリカ合衆国の雑誌である『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインした。門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いといわれる。

・改号すること30回
 彼は生涯に30回と頻繁に改号していた。使用した号は年代順に示すと「春朗」「群馬亭」「北斎」「宗理」「可侯」「辰斎」「辰政(ときまさ)」「百琳」「雷斗」「戴斗」「不染居」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「九々蜃」「雷辰」「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「鏡裏庵梅年」「月痴老人」「卍」「是和斎」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」「土持仁三郎」「魚仏」「穿山甲」などで中でも「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主たる号である。
 現在広く知られる「北斎」は、当初名乗っていた「北斎辰政」の略称で、これは北極星および北斗七星を神格化した日蓮宗系の北辰妙見菩薩信仰にちなんでいる。

・引っ越し魔
北斎は、93回に上るとされる転居の多さもまた有名である。一日に3回引っ越したこともあるという。75歳の時には既に56回に達していたらしい。当時の人名録『広益諸家人名録』の付録では天保7・13年版ともに「居所不定」と記されており、これは住所を欠いた一名を除くと473名中北斎ただ一人である。北斎が転居を繰り返したのは、彼自身と、離縁して父のもとに出戻った娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからである。また、北斎は生涯百回引っ越すことを目標とした百庵という人物に倣い、自分も百回引っ越してから死にたいと言ったという説もある。

・臨終
嘉永2年4月18日、北斎は卒寿(90歳)にて臨終を迎えた。そのときの様子は次のように伝えられている。
翁死に臨み、大息し天我をして十年の命を長ふせしめバといひ、暫くして更に謂て曰く、天我をして五年の命を保たしめバ、真正の画工となるを得べしと、言吃りて死す。
すなわち「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天が私の命をあと10年伸ばしてくれたら』と言い、しばらくしてさらに言うことには『天が私の命をあと5年保ってくれたら、私は本当の絵描きになることができるだろう』と言吃って死んだ」。
辞世の句は、
悲と魂で ゆくきさんじや 夏の原
「人魂になって夏の野原にでも気晴らしに出かけようか」というものであった。








 


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