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2023.8.2 諺集に見るわが人生(205)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「心は二つ身は一つ」あれもしたいこれもしたいと思うけれども、体は一つで思うに任せないことをいう。 同時に二つのことができずに嘆くときに用いる言葉。
「心は千路に、身は一つ」あれもしたいこれもしたいと思うけれども、体は一つで思うに任せないことをいう。同時に二つのことができずに嘆くときに用いる言葉。
(原典)説経節・をくり(御物絵巻)(17C中)一三「さてひとつのそのみは、きみのちゃうどのに、もどしたや、さてひとつのそのみはの、このがきあみがくるまもひいて、とらせたや、こころはふたつ、みはひとつ」
「心は千々に乱れ、身は一つ」など心の悩みは限りない。

 

「心を鬼にする」「気の毒に思いながら厳しい態度をとること」や「かわいそうに思いながらその人のために厳しい態度をとること」などの意味を持つ表現。一般的に他人に対して使われる言葉で、自分以外の第三者のためを思って厳しい態度やきつい言動を取ることを「心を鬼にする」と表現。「鬼」とは、「この世のものではない化け物のこと」を表している言葉だが、この場合「冷酷な人間のたとえ」として使う。
(使用例)『心を鬼にしてわが子を叱る』

 

「虎視眈々(こしたんたん)」強い者が機会をねらって形勢をうかがっているさま。とらが獲物をねらって、鋭い目でじっと見下ろす意から。▽「虎視」はとらが獲物をねらい見ること。「眈眈」はとらが見下ろすさま。ねらい見るさま。
(出典)五経の一『易経』の「虎視眈眈、其ノ欲遂遂タレバ咎无シ」。
「虎視」は虎が獲物を狙い見ること。「眈々(眈眈)」は鋭い目つきで獲物を狙うさまを意味する。
(使用例)彼は競争相手を落とし入れようと虎視眈々としている。 次回に続く。

 

2023.8.6 諺集に見るわが人生(206)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「五十歩百歩(ごじゅっぽひゃっぽ)」少しの違いはあっても、本質的には同じであるということ。似たり寄ったり。
(例文)「10分遅刻も15分遅刻も―だ」
(由来)中国の漢文『孟子』にある。戦国時代に梁の王様が、孟子に「わたしはいつも人民のために心をくばっている。凶作の地の民を、より豊作の地に移住させようとしている。他の国より善政を行っているのに、どうして人民はわたしを慕って集まってこないのだ」と問われて答えたことから来ている。
孟子は王様に「王様は戦争がお好きなので、戦争をたとえに申し上げます。戦争の時に、武器を捨て戦から逃げ出すものが出て来て、あるものは五十歩、あるものは百歩逃げた。五十歩逃げた兵士が百歩逃げた兵士に対して臆病だと笑ったらどうでしょうか?」
王様は「それは違う。百歩逃げていないというだけで逃げたことには変わりない」と言いました。すると、孟子は「王様にその道理がお分かりになるのでしたら、あなたの国の人民が隣の国の人民より多くなることをお望みにならないことです」と言った。
同じ立場でありながら違う国の王様の政治を蔑む愚かさを、孟子は表現した。当時の中国では、人民の数が優れた王様であるとされていた背景があった。本当の善政とは何かを伝えようとしたのだ。
この諺などは対話の中で多く使われる方である。

 

「五十にして四十九年の非を知る」常に自らを省みて高めようとする意志のあること。 年を経ても更に成長しようとする様。 年の五十にもなると、自分自身を省みなくなって驕りや妥協が生ずるものだが、そうではなく、それまでの人生にはまだまだ直すべきところがあったと自己を律して己を更に向上させんとすることを含む。
淮南⼦|⼆⼗⼀巻。
凡⼈中壽七⼗歳、
然⽽趨舍指湊、
⽇以⽉悔也、以⾄於死。
故蘧伯⽟年五⼗、
⽽知四⼗九年⾮。
{書き下し⽂}
凡(およそ)人の中壽(ちゅうじゅ)は七十歳、
然(しか)り而(し)こうして趨舎指湊(すうしゃしそう)、
日よりして以て月となれば悔やみ、以って死に至たる。
故に蘧伯玉(きょはくぎょく)は年(よわい)五十にして、
四十九年の非を知る。 
人の寿命は当時よりずっと帯びているが、それに応じて自己をさらに向上することがあるようだ。 次回に続く。

2023.8.11 諺集に見るわが人生(207)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「後生大事(ごしょうだいじ)」一生懸命物事にはげむことや、非常に物事を大切にすることを表す四字熟語。 「後生大事」の語源 「後生大事」の「後生」は仏教の言葉で死んだ後の世界、つまり「来世」を表し、「大事」は「大切にすること」を表す。 「後生大事」は元々、「来世を幸せに生きるには、一心不乱に仏道にはげむことが大事である」という仏教の教えを説いた言葉。
(例文)娘はそのぬいぐるみを小さいときからずっと後生大事に持ち歩いている。

 

「後生願いの六性悪(ごしょうねがいのろくしょうあく)」来世の幸福を願う者は、善行を積むべきであるのに、実際には陰険な行いをする者があるということ。 「六性悪」は後生と語呂を合わせて六情(喜・怒・哀・楽・愛・悪の六種の情)にかけたもの。
(例文)隣人を愛せよというキリスト教徒なのに、他国に攻撃を仕掛けた。あの大統領は後生願いの六性悪だな。
このことわざには続きがあり「後生は徳の余り・信心は徳の余り・信心も欲から」とある。
後生は徳の余り = 生活にゆとりがあって初めて、来世(後生)での幸せを祈ることができるということ。(生活に追われていては、来世(後生)のことまで考える暇がないということ。)
信心は徳の余り = 生活にゆとりがあって初めて、信心を持つゆとりが生まれるということ。
信心も欲から = 信心も、結局のところは、よい御利益(ごりやく)を望む『欲』から生まれるものだということ。
ゆとりがないと善行も行えないということか。

 

「胡椒の丸呑み(こしょうのまるのみ)」胡椒の味は、かまずに丸呑みしただけではわからないところから、表面だけを見て、真の意味を理解しないことのたとえ。
胡椒と言えば家庭で使われることが多いスパイスだが、ことわざや慣用句としてはあまり有名ではない。胡椒の実を丸のみしたとしても、胡椒特有のあの辛味を感じることはない。砕いてこそ、胡椒の特徴である辛味を感じるわけで、そのような胡椒の特徴を引き合いに出しているのが「胡椒の丸のみ」である。 次回に続く。

 

2023.8.16 諺集に見るわが人生(208)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「後生より今生が大事(ごしょうよりこんじょうがだいじ)」先のことより、現在のことが大事であることで、おぼつかない来世のことを考えるより今をいかに生きるかが重要だという意味。 「後生」来世。 仏教で、死後生まれ変わる世界。 「今生」現世。
ヒッチコック監督映画『知りすぎていた男』の主題歌で、主演女優で歌手でもあるドリス・デイが歌った「ケセラセラ」 (アカデミー歌曲賞を受賞した)を思い出す。ケセラセラは直訳すると「何が来るものなら来るがいい」を意味し、この表現は、未来の結果について過度に心配せず、現在の状況を受け入れるという意味合いを持つ。

 

「小食(こしょく)は長生きのしるし」飲食を節制すれば長命であることをいう。 暴飲暴食を戒める言葉。
(類義)・大食短命・大食は病のもと・腹八分目・腹八分目に医者いらず
私などは子供時代の反動で大食の時期もあったが、老いた今は小食で十分になった。腹をすかした方が飯が旨い。

 

「古人の糟粕(こじんのそうはく)」聖人の残した言葉や文章。聖人の道は言葉で伝え尽くすことはできず、書物に残された聖人の言葉は酒かすのようなものであるということ。
(故事)中国斉の国の桓公が読書をしていると、車輪作りをしていた男が「殿様がお読みになっているのは、どんな本ですか」と尋ねた。桓公は「聖人が書かれた本だ」と答えた。すると男がまた「その聖人は今生きておられますか」と尋ねたので「いや、もう亡くなられた人だ」と答えると「それでは殿様が読んでおられるのは、昔の人が残したかすのようなものですね」と言ったという故事による。「荘子」天道から。
文明というものはそうした糟の上に成り立っているのかもしれない。 次回に続く。

 

2023.8.21 諺集に見るわが人生(209)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「梧前灯下(ごぜんとうか)」書斎で本を読むこと。
「梧前」は桐の机の前のこと。
桐の机の前の明かりの下という意味から。
(文例)「朝(あしたに)法を聴き、夕(ゆうべ)に道を聴き、梧前灯下に書巻を手にするのは皆この自証(じしょう)を挑撥(ちょうはつ)するの方便の具に過ぎぬ。夏目漱石」
「吾輩は猫である」は読書家なら誰でも読んでいることだろう。従ってこの四字熟語も目にしているはずだ。しかし他に使用例を見たことはない。

 

「五臓六腑に沁みわたる((ごぞうろっぷにしみわたる)」美味なものや渇望していたものを口にしたときの満足感を、「まるで(飲食物が)体の隅々に染みこんでいくようだ」とたとえた言葉。 「五臓六腑」とは東洋医学の言葉で、五臓と六腑すべての総称。五臓は心臓、肝臓、肺臓、脾臓、腎臓。
六腑は大腸、小腸、胃、胆、膀胱、三焦。
六腑にある三焦は、上中下の三つに分かれ、上焦は横隔膜より上部、中焦は上腹部、下焦はへそより下部にあり、呼吸・消化・排泄をつかさどる器官のこと。
(使用例)炎天下の中で木陰で一休みして、冷やした水を飲むと、五臓六腑に沁みみわたった。

 

「胡蝶の夢(こちょうのゆめ)」中国戦国時代の思想家の荘子(荘周)による、夢の中の自分が現実か、現実のほうが夢なのかといった説話である。この説話は「無為自然」「一切斉同」の荘子の考え方がよく現れているものとして有名である。「無為自然」を荘子の言葉でいえば「逍遥遊」となり、それは目的意識に縛られない自由な境地のことであり、その境地に達すれば自然と融和して自由な生き方ができると荘子は説く。
(補説)「荘子」の哲学は、一般人にはちょっと難解だ。そこで、故事成語としては、「人生は夢のようである」というところから、主に人生のはかなさのたとえとして使われる。美しい胡蝶の姿を踏まえて、楽しいできごとやすばらしいできごとも実ははかない、という文脈で用いるのが、一般的だろう。 次回に続く。

 

2023.8.26 諺集に見るわが人(210)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「骨肉相食む(こつにくあいはむ)」親子・兄弟など血縁の者どうしが互いに争う。骨肉相争う。
(注釈)「骨肉」は、骨と肉のように切っても切り離せないもののこと。ここでは親子や兄弟など血の繋がった者の関係をいう。
「食む」は、害する、損なうなどの意味を持つ。
たとえ兄弟であっても、利害が生じるような状況になると、他人同士以上の憎しみを生む場合もあるものだということ。
遺産相続をめぐって親族間で骨肉相食む争いが起きるという話は多く聞く。

 

「コップの中の嵐」仲間うちだけの,外部には大した影響を及ぼさないもめごと。
(出典)『W=B=バーナード作の劇の題名 Storm in a Teacup による』当事者どうしは勢いこんでいる争いやもめごとが、狭い範囲にしか影響を与えないで終わってしまうことのたとえ。内輪もめ。
ちょっとしたもめ事はよくあることだが、はた目からは「コップの中の嵐」にしか見えない。

 

「言伝は荷にならぬ(ことづてはににならぬ)」人から頼まれた伝言は、荷物にもならないたやすい事だということ。
(例文)言伝は荷にならぬというが、しなければいけない事があると気になって落ち着かない。
今は誰でもスマホを持っているので、直接相手に話せばいいけど、たまに電話を教えない人もいるから、誰かに伝言を頼むという手をとる。こうした時は伝言を預かった人は結構気を使うことになるものだ。 次回に続く。

 

2023.8.29 諺集に見るわが人生(211)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「事なきを得る」事なきを得る」とは、大事にならないで済むことのこと。ギリギリのところで失敗やトラブルを回避することを表す。例えば、スポーツの試合で最後の瞬間に逆転を防ぐプレーをすると、事なきを得たと言える。このように大事に至ることなくほっとするようなときに「事なきを得る」という言葉は使われる。

 

「言葉は心の使い」心に思っていることは,自然に言葉に表れてしまうものであるということ。
(類義)・口は心の門・思うことは口に出る・言葉は身の文(あや)
口にチャックをするのは難しい。

 

「事は密を以って成り、語は拙を以って敗る」事業の計画は秘密のうちにことを運んでこそ成就するものであり、打ち合わせの相談事は外部に漏れることによって失敗するものである、という意味。 『韓非子』説難(ゼイナン)篇にでている言葉で、権力者に進言するときの説き方の難しさを述べているところ。
(原文)「夫事以密成、語以泄敗」。
AI社会においては益々情報の漏洩が多くなり、戦略的に使われるようになっている。

 

「子供叱るな来た道じゃ、老人笑うな行く道じゃ」子どものいたずらなどは誰しも身に覚えがあるので叱るべきではないし、自分もいずれ年をとるので老人をばかにしてはいけないということ。自分もいたずら盛りの子供の時期を過ごしてきたし、これから年を取っていずれ老人になるのだから、ということから。
老人になってはじめて実感することわざだ。

 

「子供の喧嘩に親が出る」子供の喧嘩に親が出るとは、つまらぬことに口出しをする大人げない行為のこと。
(由来)子供同士の他愛ない喧嘩にそれぞれの親が干渉し、親同士が憎んだり恨んだりすることから。
世の中結構こういうケースは多いのではないか。親バカにもほどがある。 次回に続く