2023.12.3 諺集に見るわが人生(236)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「さから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「触らぬ神に祟りなし『触らぬ神に祟りなし(さわらぬかみにたたりなし)』
その物事に関わりさえ持たなければ、余計な災いを招かないという意味がある。
それが転じて、『面倒になりそうなことには手出しをするな』『余計なトラブルには関わらない方が我が身のため』、という戒めの意味も含まれるようになった。
トラブルを解決しようと仲裁に入ったものの、思わぬ形で新たな事件に発展してしまうケースも少なくない。こういった状況を防ぐために、お節介をしようとする人を止める表現としても使用される。主に、事なかれ主義や、逃げの処世をいう。
(対義)「義を見てせざるは勇無きなり」
私の知人で柔道が強く、喧嘩の仲裁が大好きで、大概は相手を投げ飛ばして幕を引くという豪のものもいる。
今楽天の安楽投手のパワハラが取りざたされており、契約が問題視されている。師匠の田中(将)投手は「触らぬ神に祟りなし」と決め込んでいるようだ。
「三界に家なし(さんがいにいえなし)」どこにも身を落ち着ける所がない。三界は所なし。
※三教指帰(797頃)下「三界無レ家、六趣不定」
三界とは仏教の宇宙論では、欲界・色界・無色界の三つに分かたれる。
(1) 欲界とは淫欲と食欲がある衆生の住む世界で,地獄,餓鬼,畜生,修羅,人,天の6種の世界のこと。
(2) 色界とは「物質的な世界」の意味で,淫欲と食欲の2欲を離れている衆生の住む世界。ここには清らかで純粋の物質だけがあります。
(3) 無色界とは物質的なものから完全に離れた衆生の住む世界。そこには物質が全然存在しない。
出典ブリタニカ国際大百科事典
(類義)「女三界に家なし・男子家を出れば七人の敵あり」
女三界に家なし《「三界」は仏語で、欲界・色界・無色界、すなわち全世界のこと》女は幼少のときは親に、嫁に行ってからは夫に、老いては子供に従うものだから、広い世界のどこにも身を落ち着ける場所がない。
男子家を出れば七人の敵あり男が社会に出て活動すれば、多くの敵があるものだ。
これは昔のこと。時代が変わって、フェミニズムを女性の課題だけではないという視野で考えると、強さを殊更誇らない男性たちの不遇について目を向けるべきだろう。 次回に続く。
2023.12.10 諺集に見るわが人生(237)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「さから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「三寒四温(さんかんしおん)」冬季に寒い日が3日ほど続くと、そのあと4日ほど温暖な日が続き、また寒くなるというように7日周期で寒暖が繰り返される現象。朝鮮半島や中国東北部に典型的に現れる現象で、日本でもややみられる。一般に寒い日は晴れで、暖かい日は天気が悪い。日本では本来は冬の気候の特徴として使われたが、最近では春先に使われることが多い。
手紙で使われることが多く「三寒四温の候、皆様いかがお過ごしでしょうか」などといった手紙の冒頭の挨拶として使われ、その他「三寒四温の季節~」「三寒四温のこの頃~」といった言い方もある。
今年は異常気象のため秋を飛ばして冬になった。朝起きるのが辛くなった。
「三顧(さんこ)」地位ある人や目上の人が、礼を尽くして頼み込むこと。また、目上の人がある人物を信任し、優遇すること。「三顧の礼」ともいう。
(故事)中国。蜀の劉備(りゅうび)が諸葛孔明(しょかつこうめい)を軍師として迎えるために、礼を厚くしてその庵(いおり)を三度も訪ねたという故事による。
(脚注)諸葛 亮(しょかつ りょう)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・武将(軍師)。亮は諱(いみな:人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称)で字(あざな)は孔明(こうめい)。この頃、劉備が40代であったことに対して、諸葛亮は20代だった。中国では儒教の考えが浸透しており、上下関係(とりわけ年齢の上下)が厳しく守られている。劉備は、儒教の社会通念にとらわれない応対をしたことで、故事成語としても有名になった。
「三顧の礼」は、あくまでも目上の者が目下の者に対して働きかけることを表す言葉。目下の者が目上の者に対して使うと、失礼に当たる。
(対義語)言葉や態度など表面だけは丁寧に装い、内心では尊大な様子を表す「慇懃無礼」や、人を見下す様子・態度を表す「傲岸不遜」などがあげられる。 次回に続く。
2023.12.14 諺集に見るわが人生(238)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「さから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「三国一(さんごくいち)」三国は、昔の大和(やまと)、唐(から)、天竺(てんじく)のこと。つまり、現代の、日本、中国、インドを指す。この「三国一」は、室町時代に生まれた言葉と考えられており、この時代の日本では、大和、唐、天竺の3つの国を、全世界としていたとみられる。
「三国一」や「唐天竺」は、昔の日本人が持つ、地球や世界、距離に関する考え方を窺い知ることのできる、面白い言葉といえるかもしれない。
(使用例)昔の結婚式の披露宴などで、親戚のおじさんが花嫁を褒める時によく聞かれた言葉。昔は、この「三国一の花嫁」という言葉が、結婚式の披露宴での定番の褒め言葉として、よく使われたようだ。
今ではあまり使われなくなった昔の流行り言葉も、年配の人や地方では今でも使うことがある。
「三矢の教え(さんしのおしえ)」前段に「三子教訓状(さんしきょうくんじょう)」がある。これは、中国地方の戦国大名・毛利元就が1557年(弘治3年)に3人の子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)に書いた文書。
これを含む「毛利家文書」は重要文化財に指定されて中国地方の戦国大名・毛利元就が1557年(弘治3年)に3人の子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)に書いた文書。
この教訓状は文字通り3人の息子たち宛てに書かれたものではあるが、一族協力を説いた倫理的な意味だけでなく、戦国大名としては独自の「毛利両川体制」とも呼ぶべき新体制をとることを宣言した政治的性格をおびている。それで、「兄弟が結束して毛利家の維持に努めていくことの必要性を説き、元就の政治構想を息子たちに伝えた意見書であり、単なる教訓とは異なる」
言葉として残した「三矢の教え」は、晩年の元就が病床に伏していたある日、隆元・元春・隆景の3人が枕許に呼び出された。元就は、まず1本の矢を取って折って見せるが、続いて矢を3本を束ねて折ろうとするが、これは折る事ができなかった。そして元就は、「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に折れないので、3人共々がよく結束して毛利家を守って欲しい」と告げた。息子たちは、必ずこの教えに従う事を誓った。
確かに一人ではできないことも、ニ、三人集まればできることはよくある。力を合わせることが大切ということ。 次回に続く。
2023.12.17 諺集に見るわが人生(239)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「さから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「三尺下がって師の影を踏まず(さんじゃくさがってしのかげをふまず)」弟子が師に従うときは、師を敬い礼を尽くすことを戒める言葉である。もとは仏教の作法であり、師僧に従って歩くときの心得であった。三尺は約91センチメートルで、師に随行するときは三尺離れて歩き、師の影を踏まないようにしなくてはいけない。本来は「弟子七尺去って師の影を踏まず」という言葉であった。
大谷翔平と通訳の水原一平の関係を見ると、一平は常に翔平(193㎝)後ろを守っているように見える。一平も大男(186㎝)で立派なボディーガードの役も果たしている。
「三舎を避く(さんしゃをさく)」辞退したりしりごみをすることを意味する。 相手に一目置くために謙遜することも含まれる。 三舎とは、古代中国の軍隊が1日行軍して宿舎した距離のことで、三舎を避くというのは、戦意のない態度を表す言葉。
(由来)『左伝』の中に登場する。晋の公子重耳が楚の人質となり、中原で楚の君主に会うことになった時に、「晋楚は兵を治めて中原に遇わば、君を避くること三舎せん」と言ったとされている。この言葉から、「三舎を避く」の意味が広まった。
今戦乱の中にあるロシアとウクライナ、イスラエルガザ地区の戦いなども、守る側に『三舎を避く』意志があれば100歩譲った形で戦を治めることもできるだろう。
「三十にして立つ(さんじゅうにしてたつ)」
(原文)
子曰く、
吾十有五にして学に志し、
三十にして立ち、
四十にして惑わず、
五十にして天命を知る、
六十にして耳順う、
七十にして心の欲する所に従えども矩のりを踰こえず 。
知らない人はいないほど、有名な言葉。
孔子みずからの生涯を要約した言葉だといわれている。
十五歳のとき学問で身を立てようと決心し、
三十歳でその基礎ができ、
四十歳で自分の進む方向に確信が持てるようになった。
さらに五十歳で天命を自覚し、
六十歳のときにはどんな意見にも
素直に耳を傾けられるようになり、
七十歳になると、欲望のままにふるまっても
人間の規範きはんを逸脱いつだつしないような自在の境地に達することができた。
容易ではないけれども、人生の道しるべとするだけでも、意義のある言葉だ。
次回に続く。
2023.12.21 諺集に見るわが人生(240)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「さから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「三十六計逃げるに如かず「三十六けいにげるにしかず)」計略には様々なものがあるが、困ったときは逃げるのが最良策であるということ。この言葉は、中国古代の兵法書『三十六計』に由来する。『三十六計』には、36種類の計略が記されており、その中には、敵を欺いたり、混乱させたりするための計略が多数含まれている。しかし、状況が不利になった場合には、あれこれと策を練るよりも逃げるべきであるということが、この言葉の意味。つまり、逃げることが最良の策である場合があるということ。
(故事)会の長官であった王敬則は、反乱 を起こして斉の都に攻めのぼったが、皇帝父 子が逃げ出そうとしているという情報が入っ た。これを聞いた敬則は、「檀公税の三十六 華 ぐるは是れ上計。汝が父子、ただ 応に急ぎむぐべきのみ(檀将軍の三十六計 のうちでも、逃亡するのが最上の策だったそ いだ。おまえたち父子は、さっさと逃げるが よい)」と言ったという。
(類語)「逃げるが勝ち」。戦わずに逃げるのは卑怯にも見えまるが、勝ち目がないときや、勝っても利益がない戦いは逃げた方が自分にとって得だという意味の言葉。
「逃げるが勝ち」の方がよく使われるようだ。
「山椒は小粒でもぴりりと辛い(さんしょうはこつぶでもぴりりとからい)」体は小さくとも気性もしくは才能が鋭く優れている人の例えとなる言葉。
意志の強い者は侮れない、ということをあらわすこともある。
見た目で判断すると痛い目を見るぞという教訓的な用い方がされることもある。
見た目に反して、能力や実力に長けている人を賞賛する言葉となっている。
(類義語)山椒は小粒でも実は辛い/小粒の山椒/小人に鈍なし/小さくとも針は呑まれぬ/細くても針は呑めぬ/小敵と見て侮(あなど)るな
(対義語)大きい大根は辛くない/大男の見かけ倒し/独活(うど)の大木/大男総身に知恵が回りかね/大男の殿(しんがり)
(補説)山椒は「ミカン科の落葉低木で実が香辛料になる」「漢方薬や香辛料の一つ」、"小粒"は「粒の大きさが小さい」「体が小さい」「度量が小さい」、"辛い"は「舌や喉を刺激する味」「他人に冷酷」「苦しい」「困難」となり、山椒の実は小粒でもとても辛いので、それを小さな体の人にも当てはめたのが「山椒は小粒でもぴりりと辛い」。 次回に続く。
2023年のご挨拶
本年も多くの方々に本ホームページを閲覧いただき感謝申し上げます。
最初に掲載したのが「2013.8.29風物詩:蚊」暑い盛りで変な話題から始まりました。平均月3回の掲載を続けていますので、今年で丁度10年経過したことになり、約360回ほどを掲載したことになります。
ホームページの構成は当初6つのポケットと日常細事の7部構成で始めました。取材中心の内容が中心で活動してナンボというものでした。ところが5年ほど経って足腰を痛め、取材活動が困難になり、今は今は1つのポケット(えがく)と人物百相・生物百様そして日常細事のみの更新掲載となってしまいました。
こうした背景のなかでどうホームページを運営していくかが大きな課題となりました。
したがって、12月28日~令和6年(2024年)3日まで見直しのため休刊させていただきたいと存じます。
知恵を振り絞ってリニューアルできるようにしますので、ご支援よろしくお願いします。