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2023.7.2 諺集に見るわが人生(197)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「豪放磊落(ごうほうらいらく)」気前がよく太っ腹で、小事にこだわらず豪快を意味する四字熟語。 人の性格や態度に対する褒め言葉として使う。
「豪放」は気が大きく小さいことを気にしないの意。「磊」は大きな石が高く積み重なっている様子。「落」も本来の、おちるの意の他に「磊」と同じ意味をもつ。
大酒飲みの人にこういうタイプを見ることがある。

 

「高木に縁りて四方を望む(こうぼくによりてしほうをのぞむ)」実力もないのに高い地位に就いたり、働きもしないで大金を手にしたりすることは、身を誤るもとになるたとえで、高い木に登って四方を見渡すことは楽しいが、いったん大風が吹けばきわめて危険であることから。
(出典) 「推南子」 人間訓「功無くして大利ある者は、後に将に害を為らんとす(功績もないのに大利ある者は、あとで害を受けることになるだろう)譬(たと)えば猶(なお)高木に縁りて四方を望むがごとし。愉楽(ゆらく)なりと雖(いえど)も(愉快ではあっても)、然(しか)れども疾風至らば、未だ嘗(かつ)て恐れずんばあらず(恐れないわけにはいかない)」とある。
宝くじで大金を手にしてから人生を誤った人が多くいると聞き及ぶ。

 

「紺屋の明後日(こうやのあさって)」当てにならない約束のたとえ。 紺屋(染物屋)の仕事は天候に大きく左右されることから、客が期日を聞いても、紺屋はいつも「明後日」と言うことからきている。
(類義語)問屋の只今/医者の只今/呉服屋の後ほど/鍛冶屋の晩げ/鍛冶屋の明晩/髪結いのそこへ行こ/坊さんのおっつけ/
「いつまでに金を返す」などと当てもない約束を繰り消し。まったく信用を失った人を結構見ている。 次回に続く。

 

2023.7.6 諺集に見るわが人生(198)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「紺屋の白袴」紺屋が、自分の袴は染めないで、いつも白袴をはいていること。他人のことに忙しくて、自分自身のことには手が回らないことのたとえ。こうやのしらばかま。一説に、染色液を扱いながら自分の白袴にはしみ一つ付けないという職人の自負を表したことばともいう。
(類義語)・医者の不養生・易者身の上知らず・学者の不身持ち・駕籠舁き駕籠に乗らず・髪結い髪結わず・儒者の不身持ち
など多数。
仕事に精いっぱいで家族を顧みず。女房に逃げられる職業は確かにある。ドラマの刑事などに多く見られる。

 

「甲羅を経る(こうらをへる)」 年功を積む。熟練する。また、世間ずれしてずうずうしくなる。「甲羅」とは、亀(かめ)や蟹(かに)などの背中のかたい甲のことを言う。また、人の背中を表すこともある。
(由来)「甲羅(こうら)」の「甲(こう)」と、「功(こう)」や「劫(こう)」が同じ読みであることから、「年功」や「劫﨟」などの意味合いとして使われるようになったようだ。
(例文)長年、甲羅を経てきても、まだなお修業は続く。

 

「紅炉上一点の雪(こうろじょういってんのゆき)」紅炉の上に置いた雪がたちまちとけてしまうように、私欲や迷いなどがすっかりとけてしまうこと。
紅炉とは火が盛んに燃えているいろりのこと。
(出典)中国の宋代の公案集『碧眼録』の一節。
啗啄(たんたく)の無き処、祖師の心印、
状(かたち)、鉄牛の機に似たり。
荊棘林(けいきょくりん)を透る衲僧家、紅炉上一点の雪の如し。
(意訳):言葉では言い表せない世界、つまり祖師の悟りというものは、大きな鉄の牛のように途方もなく大きい。難解な公案を透る修行僧は、消えて跡がなくなる火中の雪のようだ。
つまり、目に見えているものは消え去ってしまったりするが、大切なものは目に見えずに残っていく。 次回に続く。

 

2023.7.11 諺集に見るわが人生(199)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「甲論乙駁(こうろんおつばく)」互いにあれこれ主張して議論がまとまらないこと。甲の人が論ずると、乙の人がそれに反対するというように議論がいろいろと出る意から。
「甲論乙駁」の「甲」と「乙」は、ある人とまたある人ということ、「論」は論じること。また、「駁」は反論することで「反駁」ということもあるが、もとは「不順なものが入り交じる」という意味から来ている。
(例文)全員が妥協せずにそれぞれの考え方を主張していたので、激しい甲論乙駁となった。
(説明)人が複数集まって何かをしたり決めたりするとなると、たいてい妥協する部分が出てくるのだが、誰も譲らないと議論はいつまでも終わらないということもあるという話。

 

「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」敵対していたり、仲が悪いもの同士が同じ場所や境遇にいること、またその者同士が反目しながらも、当面の難局を切り抜けるために協力し合うこと。「呉越」とは昔の中国にあった「呉」と「越」という2つの国のことを指し、「同舟」とは同じ船を意味する。
(出典)孫氏「「呉の人と越の人は互いに憎み合っているが、偶然にも同じ船に乗り合わせてしまい、川を渡る間、嵐にあって助け合う様子は、まるで左右の手のようであった」と記されている。たまたま同じ船に乗り合わせてしまい、激しい嵐の中、船が転覆すれば命の保証はなく、彼らは敵同士とは思えない団結力を発揮し、無事川を渡ることが出来た。この故事から、たとえ犬猿の中でも互いの利害が一致すれば協力することを「呉越同舟」と表現するようになった。
(使用例)・犬猿の仲だったあの2人が呉越同舟でこの難局を乗り越えようとしている。
・離婚の危機にある夫婦には難病をかかえた子供がいるため、当面呉越同舟の関係にある。 次回に続く。

2023.7.14 諺集に見るわが人生(200)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「氷は水より出でて水より寒し」弟子が師よりもまさることのたとえ。水からできた氷が、もとの水よりもつめたくなることから。荀子の言葉で、「青は藍より出でて、藍より青し。氷は水これをなして、水より寒し」に由来する。「出藍の誉れ」のほうが広く使われる。

 

「呉下の阿蒙(ごかのあもう)」いつまで経っても進歩しない人のことを指す言葉であり、基本的には悪い意味合いで使われているが、あとに「~にあらず」を付け加え、よく進歩する人という意味に変えて、褒め言葉として利用することもできる。また、「阿蒙」の部分は「おバカちゃん」という意味も同時に含んでいて、この一語だけで「おバカな蒙ちゃん」という意味を表している。
中国三国時代、呉王ごおう孫権そんけんの将軍の魯粛ろしゅくが呂蒙に会ったとき、以前とは比べものにならないほどの博学多識ぶりに感服し、「君は武略に通じているだけの人間だと思っていたが、今では学問も上達して、もう呉にいたころの蒙さんではない」と言ったという。
〔使用例〕「きみはもう3年間も中国語を勉強しているが、少しも進歩の跡が見えないね。中国ではきみみたいな者を呉下阿蒙というのです」とか、「いつまでも呉下阿蒙では困ります。しっかり勉強してくださいよ」などと使ったりする。
中国の故事はスピーチなどで使われる。

 

「弧丘の誡め(こきゅうのいましめ)」人は、地位や収入が高くなればそれだけ他人から恨みをかうので身を慎むようにという戒め。
(故事)中国、春秋時代、狐丘の地の長老が楚(ソ)の孫叔敖(ソンシュクゴウ)に「人には三つの恨みがある」と教え、孫叔敖は「位が高くなったらますますへりくだり、職権が増せばますます他への気配りを細かにし、収入が増えれば他への恵みを厚くします」と答えた故事から。〈『列子』〉
「 他人からうらまれないようにといういましめ」だが、三つの恨みすべて免れるのは難しいようで、日々悩まされる人は多いだろう。 次回に続く。

 

2023.7.19 諺集に見るわが人生(201)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「故郷へ錦を飾る」「故郷へ錦を飾る」故郷を離れていた者が、立身出世して華やかに帰郷することのたとえ。「錦」とは種々の色糸や金銀糸を用いて模様を織り出した絹織物のことで、総じて豪華な織物をいう。功成り名を遂げた者が、それで身を着飾り故郷に帰る意味から。
(由来) 「梁書―柳慶遠伝」に出て来ることばから。六世紀初め、南北朝時代の中国でのこと。梁王朝を開いた武帝は、大臣の柳慶遠をとても信頼していました。柳慶遠が出身地の中国西部の長官として赴任するときには、「そなたが『錦を衣きて郷に還える(豪華な衣服を着て故郷へと帰る)』ことになったから、私は西の方の政治については何の心配もない」と言って送り出したということです。

 

「虎渓三笑(こけいさんしょう)」瀧の落ちる渓流に大笑する人物が三名。
ここは中国の廬山(ろざん)にある虎渓という渓流。
廬山に隠居し虎渓を出ないと誓っていた慧遠法師(えおんほうし)(中央)は、ある日訪ねてきた陶淵明(とうえんめい)(向かって左)と陸修静(りくしゅうせい)(同右)と世を忘れて清談に興じていた。
二人が帰る段になったときのこと。慧遠法師が二人を送る途中、話に夢中になるあまり、気づいたときには虎渓を数百歩出てしまっていて、そのとき三人手を打ち大いに笑ったという。この故事を虎渓三笑といい、日本では室町時代以降に水墨画の画題として多数描かれた。

 

「虎穴に入らずんば虎子を得ず(こけつにいらずんばこじをえず)」とは、「身の危険を冒さなければ成果を上げられない」という意味のことわざ。虎子は文字通り虎の子どものことで、ここでは「成果」を表している。虎子を捕まえるには虎が住むほら穴に入らなければならないことから、成果を上げるにはそれなりの危険が伴うという意味合いで使われる。
(由来)漢の時代、虎穴に入らずんば虎子を得ずの出典は『後漢書』の班超伝で、匈奴との戦いで危機に陥った際、後漢の班超が部下に言って勇気づけ、匈奴に突撃させた際の言葉に由来する。 次回に続く。

 

2023.7.22 諺集に見るわが人生(202)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「沽券(こけん)に関わる」「沽券」とは、「品位や価値・値打ち」のことをいう。また、古くは「土地や財産・家屋などの売買成立証」の意味としても使われていた。現代においては、主に前者の「品位・価値」を表わす。また「関わる」とは、「ある事柄と関係がある。つながりがある」という意味。
そのため、「沽券に関わる」は、「人の品位や価値に関係する事柄」を表すときに使われる慣用句。「自分のプライドに関わること・差しさわりがあること」を表わす。
(語源)「沽券」は、江戸時代頃は土地や不動産の売買成立証であったため「売券」や「沽却状(こきゃくじょう)」ともよばれていた。その後「沽券」は「売値や価値」を意味する言葉として使われるようになり、時代とともに言葉の使い方も変化。現代では「人の品位や価値」を表す言葉として用いられている。
(例文)「私の沽券に関わることは、決してしません」自分自身のプライドに差し障りがあることや「立場的評価の下がるような行動はしない」と決意を表明するときに使う。

 

「糊口を凌ぐ(ここうをしのぐ)」どうにか暮らしを立てていくこと。貧しくても粥をすすってなんとか生活していけるということ。▷糊口=「糊」は粥のこと。粥は、コメや雑穀を水で煮ることで穀類が水を吸って量が増していく。使用する穀物の量は少なくても、水で膨れ上がることで食後の満足感を得ることができるうえに、少しずつ使うことで在庫を長くもたせることができるため、高い節約効果が生まれまる。
少しのコメしか買えない状態であっても、粥にすることでなんとか生き延びられることから、「粥=貧しい食事」というイメージが定着した。
(例文)この夏の台風被害によって農作物が壊滅状態となり、糊口にも窮する状態が続いている。 次回に続く。

 

2023.7.26 諺集に見るわが人生(203)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「心焉に在らざれば視れども見えず(こころここにあらざればみれどもみえず)」何事にも心を張り詰め、精神を集中することが必要である教えで、心が他のことにとらわれていると、じっと見つめても何も見えない。うわの空では何も理解できないこと。
出典では、このあとに「聴けども聞こえず、食えどもその味を知らず(耳をすましても何も聞こえず食事をしても味がわからないように、物事の正しい判断ができなくなってしまうのだ」と続く。『大学』を元に書かれた貝原益軒の『樂訓』でも同じようなことを言っている「心ここにあらざれば、見れども見れず。目のまへにみちみちて、楽しむべきありさまあるをもしらず。春秋にあひても感ぜず。月花を見ても情なし。聖賢の書にむかひてもこのまず。只私欲にふけりて身をくるしめ、不仁にして人をくるしめ、さがなくいやしきわざをのみ行ひて、わづかなる命の内を、はかなく月日をおくる事をしむべし」
精神が集中を欠き、上の空になること屡々(しばしば)である。

 

「志は満たすべからず」望みは十分にかなえさせない方がよい。なにもかも思い通りになることはかえってよくない。
『禮記』曲禮(キョクライ:日常生活のこまかな礼式を述べたもの)で、人が平生心掛けるべきこととして掲げた四つの事柄の中の一つ。http://fukushima-net.com/
「敖不可長」敖(おごり)は長ずべからず(傲慢な態度、おごりの気持ちを増長してはいけない)。
「欲不可從」欲は従(ほしいまま)にすべからず(欲望(ヨクボウ)に溺(おぼ)れてしまってはいけない)。
「志不可滿」志は満たすべからず(望みは十分にかなえさせない方がよい)、
「樂不可極」楽しみは極(きわ)むべからず(歓楽は限りを尽くしてはいけない)。
ほどほどのところで手を打って生きることが望ましいと言っている。
(対義)「志ある者は事竟に成る(こころざしあるものはことついになる)」固い決意をもって臨む人は、最後には事を成し遂げることができるということ。 次回に続く。

2023.7.29 諺集に見るわが人生(204)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「心の駒に手綱ゆるすな」常に心引き締め(こころのこまにたづなゆるすな)」心を馬にたとえ、放っておくと自由奔放に悪いほうへ走りがちなので、手綱で常に制御するようにという意味。 古歌「引かれなば悪しき道にも入りぬべし」の下句。 「心の駒」煩悩を奔馬にたとえたもの。「駒」は、元気な子馬のこと。
手綱を締めていないと自由奔放に走っていく馬のように、欲望も抑えがたいものだから、常に心を引き締めて制御しないといけないという意味から。
(由来)「論語―為政」に見える、孔子のことばから。この章は、「十有五にして学を志す」、「三十にして立つ」、「四十にして惑わず」、「五十にして天命を知る」、「六十にして耳順う」と続き、「七十にして己の欲する所に従えども矩のりを踰こえ(七十歳になってからは、心の欲するままに行動しても道徳の規準をはずれるようなことがない)」で終わっています。
孔子Iま、自分の人生の各段階で学問に励み、天命を知り、言葉に従い、最終的には自由に生きることができたと迷べている。この吉葉は、人間の成熟や自己旨理の高さを示すものとして引用される。
現代は八十歳内から九十歳代と人の寿命が延びている。これらの年代にはどんな言葉を当てはめるのだろうか。

 

「心は小ならんことを欲し志は大ならんことを欲す」心遣いはできるだけ細かく、望みはあくまでも大きくあってほしい、という意味。
(出典)「淮南子‐主術訓」の「凡人之論、心欲レ小而志欲レ大、智欲レ員而行欲レ方、能欲レ多而事欲レ鮮」による) 細心綿密な思慮とともに高尚遠大な志操を持ちたいものである。胆大心小。
人は大胆で、かつ細心であるべきである。度胸は大きく、注意は細かく払うべきである。勝負に勝つ秘訣である。矛盾する二つの心の使い方は難しい。 次回に続く。