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      現在「懐古趣味」は江戸の職人の姿を当時の浮世絵師の手で描かれたものを彩色しなおすととともに、それぞれの職業を出典の「江戸職人聚(三谷一馬:中公文庫)」から選びだして解説しながら紹介している。 青色の太字をクリックすると 、画像が表示される。

 江戸の職人 第九話「武」の部2023年


鑪師(たたらし)
 一口でいえば、鑪は砂鉄から鉄を取り出す吹製鉄法です。古くは蹈端(たたら)の字をあてていました。これは踏んで風を出す鞴(ふいご)という意味だそうです。鞴とはこの大きな鞴と、この鞴での製鉄法のことをさしました。
 砂鉄には、黒色で磁鉄を多く含んだ真砂(まさ)と、赤鉄を多く含み赤色をした赤目(あこめ)とがあります。
真砂からは鉧(けら:鋼を産しやわらかく、鍛冶に適す)を産し、赤目からは銑(ずく:質は堅く折れやすい。鍋釜等をつくる)を産しました。鑪吹きには鉧を製する鉧押法と、銑を産する銑押法の二つがあります。
 鑪に関係する人たちには、鉄穴師(かんなし)、村下(むらげ)、炭坂(すみさか)、炭焚(すみたき)、番子(ばんこ)、鋼造(はがねつくり)と呼ばれる人たちがいます。鉄穴師は山、河などで砂鉄を採取する者、村下は鑪の一切の責任者、炭坂は村下の見習役であり補佐役、炭焚は土炉に炭を投げ入れる役、番子は端を踏む者、鋼造は鉧を細かく砕く者です。鉄穴師、番子はその土地の農夫が作業をしたので鑪師ではなく、村下、炭坂、炭焚、鋼造が鑪師です。村下は鐘の全責任者ですが、これになるには十二歳ぐらいから見習いに出て、最初は炭焚、次に炭坂を経なければなりません。鋼造は銑に歩鉧(ぶげら)を加え、さらに炭素を抜いて庖丁鉄(錬鉄)を造ります。
 鑪が行われる所は高殿と呼ばれる木造りの掘立て小屋で、二十八坪の広さがあります。この高殿の中央に、山土と真砂とを混ぜ合わせたもので土炉を築きます。土炉の大きさはだいたい横が五尺に縦が十尺、高さ四尺くらい、壁の厚さは上が四寸、下が二尺以上ありました。土炉の左右に天秤山と呼ばれるものがあり、それへ番子が交替で上がって踏んでは風を送りました。絵は番子が天秤山を踏んでいるところです。番子は二人ずつ交替で天秤山を踏みましたが、絵は三人ずつになっています。天秤山から通風パイプの木呂竹が十九本か二十本炉内に通じていて、それによって強風を炉内に送り込んで炭を燃やします。
  鉧押法の一仕事が終わるのは三昼夜、銑押法は四昼夜かかり、これを一代(ひとよ)と呼んでいます。その間三十分か十五分間隔で砂鉄と木炭とを交互に投げ入れ、火の色を見ながら、その時その時によって経験と勘をたよりに処置します。そのとき炉底の温度は千四百度に達するといわれます。村下は、この間少しの仮眠をとる程度で、三昼夜、四昼夜、土炉を監督し続けます。一代が終わると土炉をこわし、鉧の塊の熱の冷めるのを待って分銅で粉砕し、鋼と粗悪鉧とに選り分けます。銑は鋳物屋に渡し、鉧と銑と包丁鉄(錬鉄)を作る作業に移ります。
(石塚尊俊著「鍛冶」より)(出典・図会本『日本山海名物図会』宝暦四年長谷川光信画)

刀鍛冶師
 刀鍛冶の仕事場はだいたい二間四方ぐらいの広さだったようです。四方に注連縄をはりめぐらして仕事場を浄めます。絵の右の箱形のものは鞴(ふいご)で、刀工(これを横座と呼ぶ)は左手での引き手を動かして風を送り、火をおこします。絵の炭は量が少ないようです。炭は五分角または一寸角に切ったものを長さ三尺、幅二尺ぐらいに積んであるのが普通です。備前伝は赤松の木炭を、相州正宗伝は栗炭を使い、流派による相違は炭だけに限らず道具類にもありました。絵の鉄床(かなとこ)は鉄のようですが、山城の三条宗近、伯耆の安綱は石を使いました。また備前伝は横座の小鎚は長船の熊山に産する卵形の石で、これを紐で棒に結わえたものです。相州伝は小鎚、大鎚、鉄床を鉄製にしてあります。絵の刀工の前に刀の形をしたものが置かれていますが、この向鎚(先手)で打っているときは折り返し鍛錬の段階で、刀の形はしていませんから絵空事といえます。先手のことを吉川金次著『鋸』では次のように記しています。
 「先手は金敷に向かって、右足を前に、左足をうしろに引いて構え     る。大鎚の柄は端を余さず左手でしっかり持つ。右手は鎚に近接したところを持つ。左手をシッテと言う。シッテは物が砕けるほど堅く握り、右手は卵をつかむように軽く握る。」
 絵の先手が二人とも左手の柄を余して持っているのは明らかに間違いです。鍵を絵のように半月形に振りかぶって下ろすのは振り鎚といって、大きい物を打ち伸ばすときとか、鏨の頭打ちなどにするものです。
(出典・絵本『教訓絵抄』年代不明西川祐信画)

研師
「まず打をろしのあら身のとぎやう。壱番とぎ、あま草砥礪(アラト)なり是にて、刀背(むね)・凌(しのぎ)・鋒(ほこさき)・切り刃共にむらなくとぎて、弐番の砥は御戸のアラト(きめの粗い砥石)にて、あら砥のとき目をよくときをろし、三番上敬寺天草と同色にて、砥にもく目あり四番名倉砥白ねづみいろなり、五番黄砥(あはせど)打ぐもりと云、以上砥は五つにてとぎたつる。硎(けい)は銘々の  流儀、手ごごろのひとつにて、切の味ひ、焼のあらはれ、寄異の妙どもある事なり。そのうへを手砥とて、剃刀砥の如くなる砥にてよく片(はけ)る砥あり。是を右の上敬砥にてすい分うすくとぎ、至極うすくなりたるにて、水をそゝき立々してみがく。よくみかきて後、そのうへの仕あげ、つしま石の粉、これをいかにも少し斗石の身へふりかけ、打綿に油をしめし、やはらかき紙をもみてそれをつみ、身を横にそろりそろりと心ながくみがきあぐる。しのきとむねは、鉄にて===(サキマルシ)如ㇾ此したる鉄べそれにて少しは力をいれみかきたつる。是によつてむねとしのきは鏡びかりして人影うつる。此のみがきやう、いつれはすこし手垂いるなり。また惣しての刀槽のうちのみかきやうは、大きなる刀槽は漕相応の、尖のまろき竹へらをこしらへ、右対馬石の粉を少し斗かけて、竹べらにてみかき立る。また倶利伽羅龍の鱗のうち、あるひは八幡大菩薩の文字の画、その物々相応に細き竹へらを楊枝のことくにこしらへ、同し右のつしま石の粉にて、いかにもこまかにみかく事なり。右の通にて、まづは大概ときやうの一通り、かくの如く仕あげて後、そのうへ身に菜種の油をたつぷりとぬり、そのま、すぐに古さやに納めて、半月斗も打捨てをき、取出し奉書の紙をよくもみ、手砥の粉をふるひにかけて油の気をよく拭ひとる事なり。おほよそ今打出しのあら身のとぎやう。又古身は第三ばんめの上敬寺砥よりとぎはしめて、それよりの段々全くあら身と同じ事なり。とぎ、みがき、紙の品々まで、一つとしてかはる事なし。○手砥の粉の取やうは、右上敬寺砥にて手砥をときへらし、そこに沈し淪(い)たまり、その上水をしたみ日にほしつけ、かたく塊しを、ひたと砕きて砥の粉とす。○付け焼の仕やうは、身を右のことくとぎたて、焼おもはしからざるか、或は一向に焼のなきをは、身相応のやき、援(すぐやき)にせんとおもは、紙を刀背(むね)しのぎへ如ㇾ此(右図)
はりつけ、焼だけ斗をのこし、それへ右の手砥の粉をふりかけ、打綿に油をひたし磨く。よくみかきたて少し間を置き、はり付し紙をはなすに、紙際より自然と生まれのことく焼の色つくなり」(『万全産業袋』)  出典・職人本「今様」職人尽歌合文政八年 北尾招真画

鞘師
鞘師は木を削りかきて刀を入れるので、一名「かき入れ師」ともいいました。このかき入れ師は、白鞘だけをつくる人のことです。「万金産業袋」には次のようにあります。
「鞘の事、刀脇指ともに、さやの下地はみな厚朴(ほうのき)なり。木に脂気なく、殊に厚朴は鉄に磁石の通路を隔るの妙あり。その功をもつて古来より用ひ来る。けづりやうは鞘だけの木のねぢなきを改め、寸ンに合せてあらけづりし、それを二つに引わり、内にむね、しのの形を両方へこみ、幾度も身を合せて、鞘鳴なきやうに仕くはせ、それを合せてよく形をつくり、上下二所三所ほどに榺(ちぎり)を入れ口をしめ合せ、口角こひ口といふ、小尻はみれ角をいれるなり。又栗形、折かね、うら瓦、是等をもみな角にてする。その所々へ角それぞれの物ずきの形にして仕合せ、その木のけづり上ケにさび皮とて牛皮のあまはだがわあり、それをもち糊にてよく着せ、かうして後、塗はめいめいの好みに応しぬる。惣じて鞘のぬり、まづ蝋色、はな塗、朱ぬり、弁がら塗、びんらうじ、むしくひかはきじじ、やすりこ木口め、蛇皮ぬり、はけ目、たたきたたきには、あぼし、中たたき、けしたたき、等のかすかす大概まず比類(このたぐい)。〈略〉
 またさめざやといふは木地こしらへ、右の通りにかわる事なし牛皮を着するを着せす、鞘鮫をかくる。此さめの懸やうに二しな有。もりにて鮫をかけ、そのうへをぬり仕立れは、今度またさやをわり、内のさびをも取なしをするに鮫すこしも損する事なく自由にて幾度の厄にたつ事なり。又かけ殺しとふは、最初ぬる下地の時に漆にてかくる。尤さやはかたき道理なれとも、ぬり直さん鮫を取はなす事ならす、二度の厄に立す。よつてかくは名付し。扨え、その鮫をかけたる上をはさび漆にて鮫の粒のかくるかくるほどうめてよくからし、砥にてとぐ。磨にしたがひ鮫のつぶあらはれいづる。尤あられ、あいざめ等は下地の鮫の紋次第。みぎのことうしてよくとぎあげ、上の光は角粉にてみがく。また鞘に入れ子ざやというは、右厚朴(ほうのき)にて常の木地のことくわりざやにして、身をいれよく合せて、そのうへを両方よりずいぶんと薄く削り、至極けづりあげてのち、其した鞘とも本ンの鞘に納るやうに上さやを作る。此義いかんとなれば、身にさびのおこる時、さやの内のさびをも取たきながら、ぬりさやなればわりかたし、その時この内ざやをぬき出し合口をひらき、心のままに鞘の内のさびを取事なり。尤余慶なきさやのうちにて、二重にこしらゆる事なれは、至極もつての手際事なり。尤内さやは白木なり。上ざやはぬり成とも鮫なりとも、好む所にしたかふへし。〈略〉また草なるなみ鞘になりては、木は厚朴ながら、ぬり下のさび皮の代りに紙を着せ、ぬりも糊さび、にかわさびの類にして、景気一へんに仕立る事なり。惣じて鞘の仕やういかにも品多く、人々の物ずきにて、形、あるひはまた筋金入こじりがね等、さまざまにかはるなれは、只一概には定めがたし。折にふれての弁へなるべし。」
その他の鞘に山刀鞘、朱鞘、唐木鞘棒等がありました。
(出典・風俗本「風俗画報」百三十号明治二十九年尾形月耕画)

柄巻師
 柄巻は、刀の柄に組糸を巻いて滑り止めと柄木地の補強をするためのもので、柄巻師はその職人です。
 柄巻は奈良時代からありましたが、現在のような柄巻が一般的になったのは桃山時代かと思われます。
 柄糸の種類は常組糸、高麗打、龍甲打、蛇腹糸、琴糸があり色も白茶、鶯茶、献上茶、金茶、濃金茶、焦茶、などがあります。特に黒色はお歯黒の鉄漿(かね)で染めたものなので、底に茶色を含んだ深味のあるものでした。
 柄巻の道具は、くじり、鋏、くすね、留通箆(へら)、やっとこで、くすねは松脂と菜種油を混ぜて煮てつくった接着剤です。
 巻き方には、絡巻、結玉巻、捩(よじり)巻、雁木巻、蛇腹糸組上巻、武蔵巻があり、柄形には献上風、並反(なみぞり)、刃一、諸立鼓(もろりゅご)があります。昔から柄巻は柄糸を堅く巻き、手で握ったときフンワリと柔かく感じるのが良いとされていますが、それは、巻くときに入れるよく揉んで綿のように柔かくなった菱紙の生紙の良し悪しにあるといわれています。
(出典・狂歌本「狂歌芸監百人一首」天保三年歌川貞景画)


鍔師(つばし)
『万金産業袋』に次のようにあります。
「惣じて鍔(鐔:つば)ともの形は丸、角、なで角、木瓜、信玄もつくほう、なまこなり、菊鍔等。彫はすかし・地彫 置上とも・界彫(きほり)片たかねにてほそくほるなり・象眼。〈略〉
 扨又鍔の鉄の性、これまた大ふん品ある事。本ン鍛ひ鍔といふは、古鋤から古鍬がらを水に漬、数日を経てのち、土砂を洗をとし是を吹革(ふいご)に入れ、尤至極きたふ事なり。それを鍛ひゝて鍔につくる。形彫(なりぼりは好に随ふ。これきたひ鍔の上品。もつとも常の地鉄にても。鍛だによければよしといへとも、右がらがらには、何れにすこし鋼も入り、又久しく土石を砕て、ひとりをのれと凝るがゆへに、鍔にしての鉄のはだへ、何となく目出て、無的におもしろき所あり。又菊形のすかし鍔、十六英より廿四えう、三十六間なんといぶすかしの数あり。〈略〉
唐鍔は大かたみな、鍔うすくすかし彫にて、地紋、ひがき、輪ちがひ等に菊ほたんの上紋あり。但もやうは此類にも限るべからす、人物鳥獣草花の類、界彫さうがんさまゝ有へし。金鍔、銀鍔、紫銅(しゃくどう)、四分一(銅三に銀一を混じた合金)、真鍮鍔、無地鍔、その品誠にかそへかたし。
 是(A)を小刀櫃、かうがい櫃といふ。但脇さしの鍔斗にあり、横
刀鍔にはなし。しかれとも鍔に此なきは、見てよからぬゆへ、当世みな小刀櫃をすかし、金銀・銅・鉛等にてつめる事あり。すはまひし、小木瓜(こもつこう)等の形さまゝ有。此所の上と下とに銅(あかがね)をいるる事あり。是(B)を関かねといふ。これ何のためそといふに、身に鉄の鍔、直にあたれば、古鍔のさび、身にうつるがゆへの関がねといふ。尤さも有へし。又出来合鍔は身に合さすこしらへ置なれは、茎(なかご)の形に合かたきゆへ、上下に銅をいれ置けは、身に合せ錯子(やすり)にてをろすに、鉄よりは銅のかた、はるかに勝手よきがゆへに、兼て銅をつめ置くともいへり。いつれらんや。〈略〉」
(出典・職人本『今様職人尽百人一首』正徳元文近藤清春画)

弓師
 太古の弓は長弓であったことが想像されます。また当時は丸木弓でしたが、弓幹(ゆがら)は古くから上が長くて下が短く、弓束(ゆつか:弓を握るところ)は中央より下につけられており、この形は近世まで変わりません。この丸木弓は丸木の枝を切り払っただけのものでしたが、後には太い木材から削り取った単木弓(奈良時代前後)と呼ばれるものが出現します。丸木弓の多くは、雨湿と乾燥の両方を防ぐためと、装飾を兼ねて丹、黒の漆が塗られています。榧(かや)、桑、梓(あずさ)、檀(まゆみ)、槻(つき)などが使われています。
 平安時代の中期頃になると、木弓の外側に真竹を張りつけた伏竹弓が現れ、さらに外側と内側に竹をつけた三伏の弓が作られ、両側へも竹をつけた四方竹の弓へと進歩しました。伏竹の弓は寒暖乾湿によって竹と木の離れることが多かったので、糸でぐるぐるに巻き込み、その上に漆を塗りました。さらに籐皮を巻く間隔を短くしたものを重藤の弓と称しました。重藤には、籐の巻き方によって本重籐、三所藤、節重籐、塗籠藤などがあります。
 弓作りは竹の取り扱いから始まります。真竹を十、十一月頃に切り出して選定します。一定の長さにして三年間ほど陰干しにし、さらに七年ねかせます。次に油気を火にあぶって取ります。また二、三年ねかせ、最後に夏の炎天で乾燥させて青みを抜きます。竹の切り出しから加工準備の完了まで、約十二、三年が必要です。
  加工の第一は、竹の裏を削って平らにします。側木(竹と竹の間にはさむ木)を削ります。側木(そばき)の両側に竹をニベ(鹿皮を煮つめてつくった接着剤)で張り合わせます。射手の前になるのを前竹、外側になるのを外竹と呼び、前竹は弓の力になるので強い竹を、外竹は力を受けとめるために柔かい竹を使います。竹に反りをつけるために籐を弓にぐるぐると巻きつけ、藤づるの間に平ぐい(約二十センチの竹製)を百数十本木槌で打ち込んで締めます。弓師のことを「弓打ち」ともいうのはこのためです。絵は平ぐいを打ち込んだところです。また平ぐいだけではゆがみが出るので、丸ぐい(五センチ、竹製)を差し込んで狂いを直します。このまま三、四日おいてから丸ぐい、平ぐい、籐をはずして小刀で荒むらを取り、木賊(とくさ)で磨き、籐を巻いて出来上がります。ものによっては鹿皮や籐で化粧をし、上等なものは糸を巻いて漆で塗り固めるなどします。弓の長さは現在は七尺三寸(約二・二メートル)ですが、昔は七尺五寸(約二・二七メートル)でした。弓師は一張作るのに、三日はかかるといわれていました。
   (出典・職人本「職人尽発句合』寛政九年梨本祐為画)

矢師
 矢は箭とも書きます。平安朝の初期までは、矢幹(やがら:箆:い)には、やなぎ、葦、篠竹が使われました。太古の鏃(やじり)は石、獣骨、角で、次に銅、やがて鉄が使用されるようになります。
 矢を大別すると野矢、征矢(そや)、的矢の三種になります。野矢は最も原始的なもので、征矢は戦闘用のもの、的矢は礼典用のものです。弦に番(つがえ)るところは筈(はず)といって角製ですが、儀仗用のものには、水晶、銀、朱塗りのものもあります。
 箆の種類には砂でみがいた白箆(しらの)、漆塗りの塗り箆、節を火でこがした焦箆があります。箆には飛ぶ速度を加えるために羽をつけます。羽は矢羽(やばね)といわれ、鷲、鷹、ときを第一とし、ほかに鶏、鶴、はくちようなどの羽を用いました。後者は雑羽(ざっぱ)と呼ばれています。鷲は特に真鳥(どり)と呼び、その羽は真羽 (まば)(真鳥羽)として喜ばれました。特に真羽の場合にはその斑により、本黒、本白、妻白、白尾、高麗などという名がついております。雑羽のときは鶴の白尾というように鳥の名を冠しました。特殊なものでは染色した染め羽もあったといわれます。
 矢竹は山から切り取ってから二年間乾燥したものが使われ、節数は四つに定められています。あく抜きして良質のものだけを選び、炭火のかまのトンネルの中にくぐらせ、タメ台にかませて曲がりを矯(たわ)め直します。これを「あら矯め」といいます。この炭火の火加減がむずかしくて一子相伝だといわれています。あら矯めが終わると、焼いた針金で節を抜き、次に節を削る「削り」をします。「あらい」と呼ばれる川砂と磨粉を混ぜたもので磨き、さらに木賊(とくさ)で水磨きします。もう一度火入れをして茜色に火の色をつけ、それに鏃と水牛の角で出来た筈をつけます。
 矢羽は中央から一気にひき裂くのがコツとされています。矢羽を切って形を整えてから、矢竹に膠ではりつけ、上と下を糸巻きでとめます。これを末矧(うらはぎ)、本矧(もとはぎ)といいます。
羽根の羽心を二つに割きます。羽心は中心が空洞になっていて、割くと断面は半円形になります。矢竹に取りつけるには、つけやすいように平面にする必要があります。そこで割いた片羽を竹枠にはさみ、焼鏝を羽心に当てて平らにします。絵は羽心に焼鏝を当てているところで、次に羽根を矢に接着します。
 接着が終わると紙の筒ですっぽりと包んでから、上下の両端を糸でしばります。筒を抜き羽毛の丸まったのを蒸気を当てて伸ばしたあと、鏝(温め)羽根の両面に当ててピンとさせてから切り揃えます。
(出典・黄表紙『敵討名誉一文字」文化元年 歌川豊広画)

弦師(つるし)
 弦は弓の上下の端の弾(はず)にかける糸で、弦師が作りました。
 弦はからむし、麻を材料として松脂で練り、それを片捻りしたものです。これに漆を塗った塗り弦、巻き糸で補強した禦弦(せきづる)がありました。
 松脂と菜種油を混ぜ合わせて煮て練った「くすね」というものがあります。これは柄巻きのときの接着剤ですが、これを塗ると材質が強くなります。弦にくすねを塗って敵の襲撃に備えたところから「手ぐすね引いて待つ」という諺が生まれました。
 絵の弦師の前にあるのは弦巻で、予備の弦を巻く道具です。多くは皮で環のように作り、太刀や箙(えびら:矢をさして背に負う武具)等にさげました。
(出典・職人本『職人尽発句合』寛政九年梨本祐為画)


根鍛冶師
 鏃は、初めの頃は刀匠が片手間仕事に作っていましたが、需要が多くなるにつれて鏃製作の専門家が生まれ、「根鍛冶」と呼ばれました。そして刀匠も及ばない名工が生まれました。
 鍛は古くは「やさき」近世では「やじり」「やのね」と呼ばれています。銅、鉄の発見されない太古には、水晶、黒曜石の石片や骨角で作られていました。やがて銅、青銅製のものから鉄製のものとなりましたが、その形は近世のものと異なっています。中古以後は全部鉄製で、柳葉、雁股、銀杏、そのほかのものなど多種多様です。
 鏃は征矢尻(そやじり)と呼ばれる軍事用と、狩用の雁股(かりまた)とがあります。征矢尻の矢羽根は三枚で回転して飛び、鏃は細く鋭く作られています。形の上から柳葉(やないば)槙葉(まきのは)といわれるものがあります。雁股は羽根が四枚で水平に飛んでゆき、鳥獣の足、羽を射抜くために、形が股開きに作られています。雁股は鎌の上部に鏑(かぶら)といわれる木や骨製の球形のものをつけてあります。
この球形の周囲に孔があけてあり、飛行するとき音を発して敵や鳥獣を恐れさせました。これを鏑矢といいます。矢は鎌が半月形をした雁股で水鳥、魚を射ました。
 鏃の焼き入れは古くから油刃焼といって、桶の底に水を入れ、上部には油を入れ、これに焼いた鏃を差し込んで焼き入れしました。これは鏃だけの独特な方法でした。
 絵は鎌鍛冶が女房の向鎚で、雁股の鏃を打っているところです。
 (出典・合巻『源平外伝源太梅ヶ枝物語』文化十二年歌川国直画)

弓懸師 (ゆがけし)
 ゆがけ(弓懸、弽、韘 )は日本の弓道・弓術において使用される弓を引くための道具。弓を射るとき手指をいためぬためにつける革の手袋です。ただし絵のゆがけ蝶は、手袋としては長いように思えます。
 右下の解説図のものが普通です。弓懸には右手用と、左手用とがありました。
 絵は灯火のもとでの夜仕事です。弓懸師の前にある明りは瓦灯で、江戸では今戸で焼かれました。
    (出典・職人本『職人尽狂歌合』文化五年魚屋北渓画)

鎧師
 中世以後の鎧(よろい)を大別すると大鎧、胴丸、腹巻、腹当、当世具足の五種類になります。
 大鎧は、室町時代には式正の鎧、江戸時代には本式の鎧と呼ばれましたが古くは単に鎧といいました。大鎧は兜、鎧、袖、小具足の各部分からなり、左右の肩に大袖、小道具として半首(はつぷり)頬当(ほうあて)喉輪(のどわ)籠手(こて)膝鎧、脛当などがつきました。引合(胴を合わせる)は右脇にあり、その隙を脇盾で防ぎます。胸板の左右に鳩尾板(きゅうびのいた)、栴檀板(せんだんのいた)をつけ、胴の弦走(つるばしり)、背後の逆板、障子板等は他の四種類の鎧にはないものです。これらの特徴は、大鎧が騎馬戦に適するように作られたからです。
 胴丸鎧は徒歩の士卒が着用し、徒歩戦闘で軽快敏捷な行動が出来るように作られていました。引合は右脇にあり、大鎧と異なるのは脇盾、鳩尾板、栴檀板がなく、杏葉(ぎようよう)を両肩につけて大袖のかわりにしました。鎌倉末期以後は、戦争の様相の変化につれて上級の武将も着用するようになり、鳴尾板、栴檀板のかわりに杏葉をつけ、袖は大袖をつけました。
 腹巻は正面の腹、左右の脇をぐるりと覆い、背後で引合わせるので背割具足とも呼ばれ、肩に引合わせの緒と胴に胴先の緒があります。大鎧にくらべてたいへん軽便なところから狩衣、束帯の下に着しました。室町時代になるとこの腹巻が盛んになり、背後の引合わせの隙間に背板を上につけて完全な武具として、胴丸と並んで使われました。
 腹当は以上の甲(よろい)に比べると最も簡単で、歩卒の着用したものです。胸と腹を覆うのみで背後は無防備です。
 当世具足は形式を胴丸にとったので、引合わせは右脇になっています。槍、鉄砲の貫通力を防ぐために胴は鉄板を矧(はぎ)合わせた堅胴とし、胴の動きをなくしてあります。開閉の便のため、胴を前後二枚にして左脇を蝶番(ちょうつがい)付けにした二枚胴、四か所に蝶番をつけた五枚胴などがあります。この具足の特色は、背に旗指物をとめる合当理(がったり)、待合、胸に采配付鐶を打ち、亀甲縫いをした肩当、小鰭(びれ)などをつけてあることです。袖は幅が狭く短い小形になり、裾すぼまりの壺袖になります。
 兜は鉢、眉庇、内張、兜の緒、錏(しころ)、立物などで構成され、鉢が主要部分で、その下に錏がついています。眉庇は鉢の腰巻の前につけられています。立物はつけられる場所によって前立、後立、脇立、頭立等があります。
 甲冑の製作者のことを古くは甲作(よろいづくり)、鎧作、後世になると、物具細工師、鎧師、具足師と呼んでいます。室町末期まで鎧作は銘を彫りませんでした。彫るようになったのは戦国時代からです。鎧師には流派があり、奈良の岩井、春日、紀州の雑賀、京の明珍、地方に早乙女、長曾禰その他がありました。
(出典 職人本「略画職人尽」文政9年 岳亭定岡画)

鉄砲鍛冶師
 鉄砲の伝来は、天文十二年(1543)種子島伝来説が一般には通説になっています。
「於是不問其価、而購二砲、令小臣笹川小四郎学薬製紀州根来寺有僧杉坊某来請学、我父教之、且贈二一砲、後使鉄匠模製而不知塞其底、明年蠻賈復来、中有一鉄匠乃使金兵衛清定者学之然後得塞其底之方」(『鉄砲記」)
 「鉄砲記」にあるように、銃の底を螺子留にすることがわからず苦心の末にこれを製作することが出来ました。信長、秀吉は、国友鉄砲鍛冶を保護したので、近江の国友村では大集団の工業部落が出来ました。また鉄砲鍛冶は各地の求めに応じるため、地方に分布して鉄砲の需要に応えました。徳川幕府は国友鍛治を厚遇し、国友村に代官を設置し、年寄役には苗字帯刀を許すなど御用鍛冶として重用しました。しかし太平が続くと鉄砲の注文が減り、職人もしだいに窮乏して、諸工は分散、衰退してゆきました。江戸時代には鉄砲の進歩はなく、火縄銃の域を抜け出ることが出来ず、銃身に金、銀の象嵌をする程度でした。そのなかで見るべきものとしては、現代の空気銃を国友藤兵衛久米通賢が工夫して製作したことくらいです。
 絵は銃身を製作しているところです。
   (出典職人本「職人尽発句合」寛政九年梨本祐為画)

鞍師(くらし)
 鞍は前輪と後輪とあり、両者の間に乗者が尻に敷く居木があります。木で作り、前後輪ともに金属を貼りつけてあります。
 鞍には唐鞍(からぐら)、移鞍(うつしぐら)、倭鞍、干鞍、軍陣鞍があります。唐鞍は唐からきたもので儀式用の革製ので、螺鈿(らでん)、金、銀、赤銅の板を貼ってあります。移鞍は唐鞍を簡単にしたもので、黒漆塗螺鈿がほどこされています。倭鞍は和鞍とも書き、どちらかといえば平常用か軍事用に使われ、我が国で案出された鞍です。水干鞍は公家、武家ともに略装の乗用鞍で、螺鈿のほか蒔絵が用いられています。水干鞍は室町時代になると軍陣来たものです。手形という二つの繰形をつけたのはこの鞍からです。鞍全体が厚手に幅広く頑丈に作られ、装飾は螺鈿で飾ってありました。しかし、大鎧から腹巻、さらに当世具足へと変化した鎧(あぶみ)の軽便化は鞍にも影響を与え、重々しい軍陣鞍は使用されなくなりました。
 鐙は乗馬者が足を踏むために鞍の両側にたらしたもので、多くは鉄製です。鐙は最初輪鐙でしたが、古墳時代の後期頃から靴の先のような壺鐙に変化し、さらに踏み板がしだいに伸びて「舌長(したなが)鎧」となります。近世鐙は室町末期になってやや踏み板が短くなり、この形が江戸幕末まで続きました。鐙には木製鉄心の武蔵鐙、鉄製で近江佐々木氏の領内で作られた日野掛けとも呼ばれる佐々木鐙、加賀象眼をした加賀鐙があります。鞍打工としては徳川幕府召抱えの越前出身の辻政貞が知られており、江州在住の辻家は鞍工として著名でした。絵は鞍師が鞍と鎧を前において煙草一服の場面で、鞍の下にある紐は鞦(しりがい)で馬の尻のところにかけるものです。
 鞍には前述のもののほかに、荷物を運ぶための牛、馬に乗せる荷鞍があります。荷鞍には嫁入りの花嫁を乗せる乗掛(のりかけ)とか花鞍、または化粧荷鞍と呼ばれるもの、農用駄馬荷鞍、馬車荷鞍などがあります。
(出典職人本『略画職人尽』文政九年岳亭定岡画)

鑓師(やりし)
 鑓が発達したのは鎌倉時代末期から南北朝頃にかけて、戦術の変化したのが原因です。戦国時代には一番、二番といって、武功の標準を鑓をもって表しました。『本朝軍器考』には次のように記されています。
 「足利殿の末に及びて、我が国の軍制やや改まりて、東国にこそ騎戦もありけれ、なべて世は歩戦を用ふるほどに、凡そ軍功を論ずるに、まじる事の一番、二番などいふ事にて、その賞格を定むる事になりしかば」
 当時の歩戦では鑓が第一の武器として使われ、短いものより長い柄が有利とされ、二丈一尺、三間柄などが用いられていました。
 鑓の身は素鑓が普通です。その他に長鑓、小鑓、鎌鑓、山剣、十文字、月剣、毘沙門、鋼又、手島、大身の鑓などがあります。
 江戸時代以前の鑓の柄は素地のものが多く、それ以後は瑇瑁(たいまい)鑓、皆朱鑓、赤鑓、青貝鑓、鉄延附柄、金柄等があり、一般には樫柄でした。
 絵の鑓師が持っているのは素鑓で、打粉をうっているところです。下においてある鑓は鞘がしてあります。室町時代の鑓の鞘は至極簡略で、絵のように黒漆塗りでした。江戸時代になると、鑓師の背後にかけてある毛鑓のように、たいへん派手になりました。これには、鳥の羽毛を植えた鳥毛と呼ばれるもの、虎、豹の毛皮で鞘をつつみ、上部をたらした投鞘がありました。これらは大名行列の道具で、家紋と同じく一種の飾り鑓でした。江戸時代には二百石以上の十分と諸役人に限り持つことが許されました。(出典職人本『今様職人尽百人一首』正徳元文近藤清春画)









 





 

 
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