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      現在「懐古趣味」は江戸の職人の姿を当時の浮世絵師の手で描かれたものを彩色しなおすととともに、それぞれの職業を出典の「江戸職人聚(三谷一馬:中公文庫)」から選びだして解説しながら紹介している。 青色の太字をクリックすると 、画像が表示される。

 江戸の職人 第十話「遊」の部2023年


雛人形師
 三月三日の上巳(じょうみ)の節句に、女の子のいる家では雛を飾って雛祭をしました。
 古代の人形は、いずれも形代(かたしろ:身がわりのもの、もしくは神霊のかわりのもの)でした。御を行うとき紙の人形(ひとがた)を作り、それに人々の年齢、名前を記してその人の災を人形に移し、神前で無事息災を祈ったあと川などに流しました。
 また、信仰的な意味をもつ天児(あまがつ)と呼ばれる人形があります。これは生まれた子を形どったもので、平安時代には新生児の枕もとに必ず置くものとされ、後にはその子が三歳になるま枕頭に飾りました。万の凶事から小児を守るという意味合いがあったのです。天児と同じ意味をもつ這子(ほうこ)という人形もあり、天児と同じく形代としての心がふくまれていました。這子には布で作ったものと紙で作ったものの二種類がありました。次に紙で作る立雛が生まれました。立雛も神事に関係していたので神雛とも呼ばれ、紙で作られたことから紙雛ともいわれました。古い立雛には天児、這子と同じく男女の別はありません。室町時代になって座っている座雛(すわりびな)が出来ました。雛祭が年中行事としての形をととのえたのは江戸時代からです。現在のように幾段にも飾るようになったのは天保、弘化の末頃からといわれます。
 絵の雛人形師が手にしている男雛と下に置いてある女雛はともに座雛で、後ろの右二体も座雛ですが中央のは立雛で、その左のものは這子です。
(出典・職人本『人倫訓蒙図彙』元禄三年 蒔絵師源三郎画)

胴人形師
出典の文に、「〔胴人形師〕十四経類経をもつて経絡を考つくる。諸の医師これをもとむ。所々に住す大坂あはぢ町八丁目、江戸京橋北へ一丁目大蔵」
とあります。経絡は漢方用語で、経は動脈絡は静脈です。十四経は、『日本医学史綱要』(富士川游著、昭和五十一年刊)に「その脈は、手に三陰、三陽あり。足に三陰、三陽あり。共にこれ十二経とし、別に任脈、督脈を併せて十四経とす」とあります。
この人形は胴のところが取りはずしになっていて、内臓の模型が中に納めてありました。後には生薬屋の店頭に飾られました。
(出典・職人本「人倫訓蒙図彙」元禄三年 蒔絵師源三郎画)

土人形師
 全国の土人形の源流は京都の伏見人形といわれていますが、いつ頃から作られたものか、はっきりした定説はないようです。一説によると、始まりは元和頃だともいわれています。江戸の今戸人形も伏見人形の流れを汲んだものです。今戸で人形を作るようになったのはおそらく江戸中期であろうと推測されます。江戸の地には元来良質の粘土がないため、瓦、炮烙、火鉢、蚊遣、土器の製作が主で、今戸人形は今戸焼の片手間に作られたようです。土人形を作る土を「ねば土」とも「へな土」ともいいます。この土を水槽に入れて、水と一緒にかきまぜ、小石などの沈むのを待ってその上澄みの肌理の細かいものを使います。これを練り上げた粘土を型に入れて素像を作り、乾燥を待って七、八百度の温度で窯で焼きます。そのあと胡粉を塗って彩色しました。
 絵は今戸の土人形師の家で、人形師が人形の首に胡粉を塗っているところです。伏見人形などではこの胡粉を膠で溶くとき、菜種油を少量入れました。そうすると塗り上がった胡粉につやが出ました。その油の量に秘伝があると昔からいわれています。この上に泥絵の具の群青、朱丹を基調にした彩色をしました。
 人形師の後ろに重ねてある黒い土器は手あぶりでしょう。その上の棚にある布袋(ほてい:安産や乳がよく出るため、また火伏のまじない)の膝のところに裃をつけて口入れと書いた絵馬を持つ狐がいます。これは今戸の土人形でよく見かけるもので、一体に今戸人形は狐の題材が多いようです。江戸では「伊勢屋稲荷に犬の糞」といわれるほど稲荷が多く、それに供えるためにいろいろな狐の人形が作られたのでしょう。狐馬、子守狐、鉄砲狐、招き狐、太郎稲荷狐、九郎助稲荷狐狐面などがありました。狐のほかに、天神、子抱、女郎、三味線持、馬乗加藤、客寄せ狸、与造、招き猫、月見兎、雛など二十数種の人形がありました。
 人形師の背後の壁に貼ってあるのは暦です。筵の上にいるのは人形師の女房で、前髪の少年は主家の子息です。 (出典・合巻『鶴山後日囀』文化十四年歌川国貞画

張子師
 「犬はり子をはじめ、一切のかたちをあらはし、香合等をつくる。絵師これにゑかくなり。所々に住す。」(『人倫訓蒙図彙』)
 張子は、まず木型を彫り、それに最初の和紙一枚(江戸時代は反古紙が殆どだった)を水で濡らして型の全面に張ります。水張りした紙の上に糊を塗った紙をある程度の大きさにちぎって張り、これを幾度か張り重ねてから乾燥します。次に背とか裏側から小刀で切り離し、そこから木型を抜き取り、抜き取ったあとを元通り張り合わせて紙張りをします。その上に膠で溶いた胡粉を塗ります。あとは彩色をして仕上げます。
 絵は犬張子を作っているところで、左の職人は犬の型に紙を張り、右の職人は胡粉を塗っています。絵の犬張子は、現在の犬張子とは形が違っています。前文にもありますように、元禄の頃は張子を作るのと彩色する絵師とは別々だったようです。
   (出典・職人本『今様職人尽百人一首』正徳元文近藤清春画)

押絵師
 羽子板に押絵をつけ始めたのは文化、文政の頃からです。この頃も人物は少なく、風景と花鳥が殆どでした。江戸末 期の押絵は浮世絵師が作りました。現在は顔、手、足、着物の模様などの上絵を描く面相師と押絵だけをする押絵師の分業になっていすが、江戸時代は浮世絵師が一人で作りました。
 押絵は羽子板のほか、押絵雛、絵馬、屏風などにも用いられています。また押絵は、綿を入れて肉づけをするので立体的に見えるところから、浮絵とも呼ばれていました。絵の女の人は押絵師で、切れにこてをあてています。後ろの男の人は羽子板の裏の竹を描いているようです。
(出典・風俗本『風俗画報』百三十二号明治三十年尾形月耕画)

楊弓師
 出典の文に次のようにあります。「〔楊弓師〕楊弓は玄宗帝の御代にこれをはじめて、楊貴妃これをあひすとかや。書一巻あり。所々につくる。近世雀小弓又所々につくる。楊弓矢師外にあり。中にも下御霊の前小倉出羽拯其名聞ゆなり。江戸は神田天神の前。」
 楊弓は室町時代以前から七夕の行事の遊戯で、その古式の作法は厳しいものでした。江戸時代になると作法はなくなり、神社、寺の境内などに矢場が出来ました。十本四文で景品をうたせて、矢場女をおいて客に接しました。この矢場女が私娼化したので幕府は天保に禁止令を出しましたが、余り効果はなかったようです。
 絵の弓は二尺八寸より短めに見えます。
  (出典職人本『人倫訓蒙図彙」元禄三年蒔絵師源三郎画)

かるた師
 「カルタ」はポルトガル語だといわれています。天文12年(1543)8月にポルトガル雌と同時にカルとも伝えました。この伝来のカルタを手本にして模作したのが「天正カルタ」と呼ばれるものです。
 「天正カルタ」の図柄はポルトガル語の「こっぷ」(酒盃)「わうる」(貨幣)「ほう」(棍棒)「いす」(剣)の四種で、四種それぞれ1から12まであり、全部で48枚です。今も使われている「ピンからキリまで」はここからきています。天正カルタが製作されたのは九州の城下町三池(大牟田市)で、このカルタの裏には「三池住貞次」の印刻があります。天正カルタといわれたのは、最初の一枚に特別に彩色して「天正金入極上仕上」と極印を記してあったからです。天正カルタを売っていた店は、京都の五条橋通りに密集していました。その中でも著名だったのが布袋屋と松葉屋でした。絵は布袋の絵をのれんに描いてあるので布袋屋であることが知れます。絵のカルタは天正カルタです。
 次に元禄頃、天正カルタ48枚をもとにして、図柄を5種にした75枚の「ウンスンカルタ」が生まれました。ウンスンカルタが最も流行したのは明和、安永頃でした。博徒などを「ヤクザ」というのは、八、九、三の札がつまらない札という意味からきたものです。そのほかに「一か八か」「四の五のいわずに」「うんともすんともいわなくなった」などという言葉も、カルタから誕生したものです。

賽師
「京坂賽ヲ掌二握リ席上二投テ勝負ニ握り席上ニ投テ勝負ス 江戸ハ賽ヲ掌ニ握ラズ椀二納レ席上ニフセ而後発之テ勝負ヲ決ス 三都トモ専ラ三賽或ハ二賽モ用フル歟一賽ト四賽以上不用之」(『守貞謾稿』)
「一、長半博奕仕方 是はぼん蓙と唱蓙を敷、手合之者、何人にても廻りに並び、賽弐ツ又は一ツ坪皿に入伏置、銘々長半と分け当分に金銭張置、坪明ヶ勝負いたし申候
 一、投長半
 是は賽三ツにいたし、手に持投申候、其外仕方は右同断
 一、大目小目
 是は賽之内四より六迄を大目と定め、壱より三迄を小目と定め、賽三つ又は壱つ坪皿に
入伏、又は手にて投、勝負いたし申候
 仕方は長半博奕同様に御座候」(『博奕仕方風聞書』)
賽は、古くから勝負ごとの勝ち負けを決めることに用いられていました。
賽の材料は木、陶器、動物の骨で、そのうちで象牙を最上とし、鹿の角がこれに次ぎます。
(出典・職人本『人倫訓蒙図彙」 元禄三年 蒔絵師源三郎画)

花火師
 絵は筒に薬をつめているところです。この花火は筒形で、その先に火をつけると炎や火の粉を出して燃えます。一般には「吹き出し」と呼ばれますが、筒に薬をつめたものなので「筒物」ともいわれています。花火師の横の筒にさしてあるのがそれで、「ひご」の上のだんだら模様の花火は「朝顔」と呼ばれ、これは薬を薄い紙でより込んだもので「より物」ともいわれます。
 梅桜同じ匂ひの花火かな(朝日嶽)
 花火屋か舟も鵜飼の闇に似て(俳諧)
   (出典職人本「略画職人尽」

碁盤師
 『和漢。一才図会」に
 「按秤(ぺい)大¨抵厚六寸縦一尺四寸横一尺三寸八分罫七分各十九、罫其木以榧為良檜次之桂為下」
 とあります。榧(かや)、檜(ひのき)、桂(かつら)のほかに銀杏(いちょう)が使われましたが、これらは高級品です。その下のものには柳、栃、楓、柏があり。下級品には樅が用いられまそ。榧は日向・宮町県)とされでいますが、九州、四国。和歌山産のものか最高とされています。また盤は弾力があり、堅く駒音の饗がのよいもので、しかも四方に木目が通った四方柾が最良といわれます。それには三百年以上の樹齢のものが最適です。最近は原木が不足して入手困難だそうです。
 盤を乾燥するときは切り口に和紙を貼るか、蠟を塗るかして、割れないようにします。俗に「一寸一年以上」というように、六寸の板なら六年以上。割れのこないように日陰で乾燥させます。それでも割れやすい榧は、木取りした五分の四に割れがきて使い物にならないそうです。乾燥した盤材を鉋で削り、また乾燥させ。この繰り返しの作業を何回か続けて盤が出来上がります。盤作りは鉋かけが命だといわれるほどこの削りの技術が難しいものとされています。盤の裏の中央に「血溜り」と呼ばれる四角に彫り込んだところがあります。これは碁石や将棋の駒を打つたとき。澄んだよい音を出すためのものです。銀杏、桂そのほかの盤は、その木によって藤黄(しおう)、砥粉、梔子(くちなし)を塗ります。
 脚は盤と同じ木で別に作られて、盤に差し込まれます。脚の彫りは梔子の花を型取ったもので、これには「側で口を入れない」という意味があるそうです。次に盤に縦横それぞれ十九本の目盛り{漆で盤に線を引くこと}をします。現在、目盛りには昔のままの筆を使うのと、刀で引くもの、鋼の箆(へら)を用いるものの三種類があります。筆は鼠の髭四本か五、六本をまとめ。その先を切ったもので線を引きます。絵では箆の先に筆をつけて線を引いています。箆や刀で線を引くときは、一本の線を一気に引きますが、筆のときは絵のように半分づつ引いたようです。目盛りか終わると汚れを防ぐために、盤面に玉子の白味を塗り、植物性の油で磨いて出来がりです。
 絵の灯火は瓦灯といわれるもので、江戸では浅草今戸で作られました。苦さ双紙ななどには、裏長屋で使っているところか描かれています。盤の目盛りをするときは、気の散るのをきらい、周囲が静かになった深夜にするそうです。絵の盤は現在のものより薄いものになってます。当時はこの厚さが普通だったようです。
 盤の寸法は時代によって違いがあります。ただし碁盤は将棋盤より早くから寸法が定まっていたようです。三世本因坊が定めた寸法は総高七寸八分(23.5センチ)、厚さ三寸九分(12センチ)、長さ一尺四寸五分(44センチ)広さ一尺三寸五分(41センチ)です。現在の厚さ六寸盤は、よほど新しい時代に始まったものと推測されます。「増川宏一著『将棋』昭和五十二年刊より」。 『出典』職人本「今様職人尽歌合』文政八年北尾紹真画」

碁石師
 一局用の碁石は黒が百ハ十一個、白が百ハ十個、これを盤上に並べるとちょう一杯になるそうです。なお白石は黒石より大きく見えるので、白石は黒石よりやや小さくしてあります。したがって黒石を入れる碁笥(ごけ:碁石を入れる容器)は深く作られてあります。
 碁石は古くは土製の黒石、白石が使われていて、人れ物は笊(ざる)でした。粗悪な碁石と笊でることから、下手な囲碁を「笊碁」と呼ぶようになりました。
 黒石は三重県熊町市の山中から採れる本那智黒と呼ばれる黒色珪質頁岩(けいしつけつがん)です。ほかに甲州(山梨県)の雨畑があります。白石は宮崎県日向市の小倉ヶ浜から採れる朝鮮蛤(スワブデ貝)の貝殻から作ります。この貝は筋目がつんでいて光沢があり、重量、手ざわりともに優れています。ただ人きいものが少ないので、。一個の貝から作れる石はせいぜい二個ぐらいです。白石の厚さは普通三分から三分三厘で、三分七厘から四分になると貴重なものです。一つの貝から厚さを減らさないように作り出すには熟練が必要です。江戸時代は貝のまま大阪方面へ出荷し、 日向では作られていなかったようです。
 絵の上部の人物は碁石を砥石で磨いているところで、手にしている棒は「貝棒」と呼ばれ、この先端に石をはさんで磨きました。白石の磨きは「面ずり」「仕上げずり」「漂白」「荒磨き」「仕上げ磨き」「乾燥」「塗装」の順序で仕上げます。右下の前髪の人物は鑿で石を削つているところで、 その左の人物は碁盤を鋸で引いているところです。
 (出典・風俗本『風俗画報』百十号明治二十九年尾形月耕画)

将棋師
 将棋の発生は印度で、中国 に渡つて象戯(しょうぎ)となり、日本へ伝わったのは養老元年(七一七) 以前のことであろうとぃわれます。この象戯は、現在の将棋とは余程相違したものです。当時は小将棋、中将棋、大将棋、大々将棋、摩訶大々将棋、泰将棋がありましたが、一般に行われていたのは小、中、大将棋で、他は一部の人が行つただけでした。平安時代の末期には、現在の将棋の飛車と角を除いた形の小将棋が流行し、 のちに飛車と角が加わった中将棋になり、現在の将棋の形になります。さらに取つた駒は使い捨てであったものを、持ち駒として使用するようになりますが、これは日本だけのものだそうです。
 専門の将棋師の生まれたのは江戸時代になってです。徳川家康治下の慶長十二年(一六〇 七)、大橋宗桂が幕府公許の将棋所の司として、第一世名人に就任したのが将棋家元と将棋所名人の始祖であり、禄は五十石五人扶持を賜りました。
 駒の材質は御蔵島、三宅島、薩摩の柘植が有名で、なかでも御蔵島のものは島柘植と呼ばれて最上のものとされています。駒の木地は木目がつまって白く、かつそれなりの重さをもったものが良いとされます。四寸丸木を二年以上乾燥し、それをさらに鋸で引いて天日で乾燥させます。側面、底面を駒の形にととのえ、特に上部になる山形のところの剣立てを作り、仕上げの削りをして鏡で磨きます。書き駒は水棲動物の毛で作つた筆で漆書きをします。書き駒は最も歴史が古く、江戸時代武家の内職として作られました。文字は車書体、一般の庶民に使われたので「番太郎駒」と呼ばれています。彫り駒には彫り埋めと盛り上げがあります。彫り理めは彫つた字に「とのこ」で下塗りをして漆を埋めたあと、平らに磨き上げます。 盛り上げは彫つたあと、漆を幾度も塗つて字を盛り上げるもので、 これには最高の技術が必要なので極上物に使われます。 慶長頃にfな無M瀬親具が銘を書いたのが水無瀬駒の初めです。
 幕末の頃、天童織田藩では財政の建て直しのため、藩士に将棋の駒作りを獎励しました。その当時の天童駒は、古くから伝わる車書体の錦旗(後水尾天皇の御一辰筆といわれる書体)の書き駒でした。
 現在の将棋は取り駒を駒台に置きますが、江戸時代に駒台がなかったので懐紙の上に置きました。
 絵は書き駒で、机の上の曲物は漆を入れたものです。
  出典・番付『新板諸職人絵番付』年代不明筆者不明

釣竿師
 釣竿には延べ竿(竹を継がずに一本の竹をそのまま使うので一本竿とも呼ばれる)と継ぎ竿(別の竹と継ぎ合わせて一本の竿にする)とがあります。歴史からいえば延べ竿が古く、継ぎ竿が文献上に登場するのは延宝三年(一六七五)、場所は京都です。江戸の継ぎ竿は享保八年(一七二三)で、当時のものは二継ぎか三継ぎでした。
 竿師が専門の職業として生まれたのも京都が早く、継ぎ竿が登場した延宝の前後であろうと想像されます。江戸の竿師は京都より百年ほど後で、天明三年(一七八三)、泰地屋初代束作が広徳寺前で釣具店を開業したのが最初でした。
 江戸では、釣竿を作る職人のうちで継ぎ竿を専門に作る者を竿師といい、延べ竿を作る者を延べ屋と呼んでいました。 さらに竿師は並竿師と上竿師とに分かれます。 並竿師は弟子を養成して多量に竿を作り、問屋、釣具店の客の注文に応じました。上竿師は特別誂えの数少ない竿を作りました。
 釣竿に使われる竹には布袋竹、真竹(まだけ)、淡竹(はちく)、黒竹、矢竹、内竹、丸節、高野竹等があります。以上の竹の中で、昔は真竹が延べ竿に使われました。延べ竿は、本来釣竿の原点なのですが、遠方の釣には持ち運びが不自由なためだんだんに継ぎ竿にとって代わられました。延べ竿の長さは九尺、二間、二間半、三間で、これが定寸です。昔の延べ竿では庄内地方で作られた庄内竿が知られていました。
 竹は育つ竹は少なくとも三年、長いときは二十年も枯らします。継ぎ竿作りの工程で一番大切なのは最初の木取りです。選んだ竹の中から素性のよいものをさらに選び出して切り、竹の種類、年齢の違いを考えて一本の竿に組み立てます。この長さ、節の間隔、継ぎ数を判断して竹を切つて組み合わせるのを「切組み」といっています。切組みの次は「火入れ」で、竹の曲がりを直すために橋炭火を入れた七輪の上であぶり、桜材の織き木で矯めます。絵は矯木で竹のクセを直しているところです。この火入れは、最後の仕上げまでに約四、五回行います。この切組みと火入れの過程によって竿の調子が決まってしまうとされ、 この作業は大切です。実際、竿作りの言葉に「一に切組み、二に火入れ、三に細工」とぃわれています。次に竿の継ぎ口へ絹糸を巻き、その上に人さし指に漆をっけてこすり込むようにして塗ります。そのほかに、継ぎ口のすり合わせ、穂つけなどがあります。なお継ぎ竿には継ぎ竿全部を一本に納める一本仕舞、継ぎ竿がいかほど多くても二本に納める二本仕舞、三本に納める三本仕舞があり、これが定法になっています(極楽寺三郎著『釣具曼陀羅』昭和五十五年刊より)。
(出典・番付『新板諸職人絵番付』年代不明筆者不明)

三味線師
 三味線には、太棹、中掉、細掉があります。
太棹は義太夫、中棹 は地唄、常盤津、富本節、新内、清元、細棹は長唄、小唄、端唄に用いられます。
現在三味線の製作は、掉、胴、胴に皮を張る張り師、糸巻き師の分業になっていますが、江戸時代は胴も棹も皮張りも一人の職人がしました。
 胴、掉の材料は堅木の紅木、紫檀、花梨、樫で、樫を除くとあとは南洋からの輸入品です。
堅木で作つた三味線は音の響きがよいのだそうです。 なかでも紅木は大変高価ですが、 木が重く、 赤い色が時がたっにしたがい黒く酸化して美しくなり、 音が柔かくきれいだといわれています。樫は稽古用のものに使われ、品質は落ちます。胴は現在すべて花梨で作つていますが、明治時代以前は桑でも作られたそうです。高級品になると、胴の内側二面に細かく綾杉文を刻みっけてありますが、これは音を共鳴させて微妙な音を出すためのものです。
 皮には猫、犬、人造皮があります。猫皮は音が柔かでよいのですが、一般に音の堅い犬皮が使われます。猫皮の値は犬皮の三倍ほどになり、三毛描の雄で発情前のものがよいとされています。発情期には、噛み傷などが出来るからです。猫皮は背中から裂いて腹のところを使います。革を半分にして使うので、乳が四つ並びます。犬は腹から裂いて背皮を使います。犬皮は一枚で七枚 描より厚いそうです。 人造皮は稽古用です。
皮を張る前に日本手試にしめりをくれて皮を巻き、柔かくします。 次に皮の裏を軽石で強くこすって脂を落とします。 胴のふちに餅米を練つて作つた糊をっけて皮をかぶせます。 しめりと糊の練り加減は、その日の天気によって違います。皮の四囲を木栓(普は金栓)で強くはさみ、張台の上に置きます。現在の栓は五センチほどの円い棒で、中央を針金で締めて片方にくさびを入れ、片方で皮を強くはさみます。張台は欅の二枚板で、下板のまわりに角が出ています。その角と栓に張り綱をかけて締め上げます。張台の二枚板の間にくさびを打ち込みます。 もじりと呼ばれる五センチほどの鯨骨で出来た棒を綱にかけて回しながら捻ります。皮を指で軽くはじき、音を聞きながら張り具合いをみて、また締めます。このようにして皮が破れる寸前まで一杯に張ります。皮が破れる寸前にまで張らなぃと、いい音が出ないからです。 これは金部勘だけが頼りです。三味線の善し悪しはこの皮張りが生命だといわれています。皮はそれぞれ違っていて、百の皮には百通りの張り方があります。締め終わってから備長炭で二時間ほど乾かし、撥の当たるところに補強の撥皮を張ると出来上がりです。
 三味線に限らずどの楽器でもそうですが、出来たときよりも二、三年弾き込むことによって音色がよくなるといわれています。しかし文楽では、一興行で張り替えます。皮にリキがなくなり、はね返す力が弱くなるからです。
 絵は棹の反りを見ているところです。 職人の前に胴に皮を張つたものがありますが、 栓がありません。張台は二枚の板で、下板に角が出ていますが、数が少なぃような気がします。
昔は金栓だったので.現在の木栓とは違っていたようです、後ろの火鉢では膠を煮ています。膠は四枚の胴木を接着するのに使いました。.
        (出典・職人本「今様職人尽歌合」 文政八年 北尾招真画)

琴師
琴には飾り琴と素琴があります。琴の材料は、会津か秋田の樹齢三十年から五十年の北側で育つた桐材がよいそうです。北国の桐は木日がしまり、音響がよいといいます。まず、桐材をだぃたいの大きさに木挽して二、 三年間屋根にあげ日と雨にさらして木のアクを抜き、木を狂わせ、さらに三年間陰干しします。次が「甲」作りです。十分乾燥させた桐材は荒削りされ、甲と呼ばれるものになり、甲の表と裏を丸飽で削ります。音色や音質は琴の:絞を張る甲の部分の厚薄で決るので、琴師はこの作業に一番苦労するそうです。高級品は音を共鳴させる為に、甲の裏に綾杉文、麻の葉を刻みます。
甲が出来ると、裏板(琴の底の部分)を膠か餅米糊で接着させ、糊が乾くまで縄でしばり七日間、ねかせます。それから龍頭と龍尾の板をはめ込み、銀で甲の表裏を真黒く焼き、「うずくり」(細い竹を東ねて糸で巻いたもの)で磨き、表面の炭を全部落とします。次に石膏の粉をまぃてうずくりでこすると木日が浮かび艶も出てきます。 飾り琴は甲の龍頭と龍尾の飾り付けがあり、花梨、紫檀、紅木、鯨骨、蒔絵などで細かぃ丹念な細工をします。
琴の製作は、現在は始ど分業化しています。専門家は琴の寿命は二十年とぃいます。桐材の脂が抜けすぎて音が鳴り過ぎるためだそうです。 琴の寿命二十年、 ふと美人薄命を思わせます。
風俗本「風俗画報」五十八号明治二十六年尾形月耕画)

笛師
日本の笛は殆どが竹製で、木、玉製は例外です。神楽笛は最も古く別名を大和笛、太笛ともぃい、神楽を奏するときに用い、長さ一尺五寸、太さ三分八厘.指孔六です。龍笛(横笛) は中国伝来のものを我が国で改造したもので、形は神楽笛に似て小さく、長さ一尺三寸二分、指孔七、左方唐楽に用いられます。高麗笛(狛笛)は右方高麗楽に用いられ、形は龍笛に似て細く、長さ一尺二寸、指孔六で、推古朝に朝鮮より渡来しました。右の三種は古くは竹を縦に細く割り、裏返しにして竹の硬い表皮を内側に向け、歌口と吹き口とを除き、全部樺巻きにしました。能管の作り方は龍笛と始ど同じですが、吹き口と第一指孔の間の管中に薄い管(ノド或いはッッ)を差し込みます。長唄囃子は能管のほかに篠簡を使います。篠笛は柔かい篠竹(女竹)で作り、樺巻きはしません。長さ一尺九寸、指孔六です。神楽笛、龍笛、高麗笛の素材は八十年から百年の歳月を経た煤竹が最良とされていました。
笛の穴をあけるには舞錐を用います。舞錐で穴をあけると、竹に割れがこなぃためです。
笛の内側には「ざひ」(との粉と生漆を混ぜたもの)を塗りますが、これは笛のひずみを直して息の通りをよくするためです。笛の外側に朱漆を七回塗り重ね、桜の皮紐で吹き口、歌口とを除いて全部を巻きます。吹き口から頭端まで笛の内に鉛をみたし、蝶で固着し、頭端には小木で栓をし、赤地錦を貼ります。
(出典・番付『新板諸職人絵番付』年代不明筆者不明)

太鼓師
 太鼓を大別すると二種になります。一っは宮大鼓で、芝居の大太鼓のようなくり抜いた円筒形の胴に直接皮を張ったものです。鼓楼で時を知らせるのはこの太鼓で、もとは中国から渡来したものです。もう一つは締太鼓のように皮面が胴の直径より大きく、調べ紐で両側の間を結び、張力で調節するものです。
 前者には相撲の櫓太鼓、里神楽の大拍子があり、そのほか胴の薄い陣太鼓、一枚皮の団扇太鼓などがあります。これらは手か撥(ばち)で打ちます。後者には雅楽の羯鼓(かつこ)、能の囃子太鼓、長唄、芝居下座の大拍子等があり、これらは撥で打ちます。
 太鼓の胴は膚目のよい、節のない欅の一木作りです。その欅は寒い国のものがよく、暖国のものは使い物になりません。欅のほかに紫檀、桑などが用いられます。伐採してから一、二年間寝かせた欅を輪切りにし、さらに半年ぐらい自然乾燥させます。その間にひび割れがして、使用出来るのは二割ほどになります。胴をくり抜くには鋸と手斧を使います。胴の内側には青の乱反射を起こす刻みを入れ、内外に漆が塗られます。
 皮は三歳から四歳までの和牛の尻皮を最高とします。皮の表側を銀(これは丈夫)と呼び、裏を床とぃいます。江戸の太鼓は銀と床をそのままに皮を張ります。その音は低く腹の底に響くようです。大阪の太鼓は銀を取り去り、床だけを使いますので音が高音です。皮の脱毛には米糠を水に入れてよくかき回し、これに毛皮を入れ、米糠の発酵で脱毛する方法が用いられます。この皮は「なめし皮」ではなく生の皮です。張るときは、乾燥した皮を水で湿らせてから張ります。 張り方はむずかしぃのですが、 それ以上に大切なのが皮の選定です。胴の大きさ、厚さによって皮の厚さを合わせねばなりません。それを決めるのは永年養われた勘だけです。これを間違えるとよい音は出ません。皮を張るときは絵のように皮を綱で締めっけます。綱には「もじりくだ」と呼ばれる一尺ほどの締め上げ用の竹がついており、 これをねじ回して締めつけます。時々たんぽ撥でたたきながら音を聞いて締めっけます。皮の張り具合いがよいとなると皮の周囲に手鋲と呼ばれる太鼓釘を千鳥打ちに打ち込みます。 手鋲は江戸時代からのもので、 現在では束京と新潟の二軒だけで作られているそうです。皮のへりは二、 三日手鋲を打ったままにしておいてから切り取ります。
(出典・番付『新板諸職人絵番付』年代不明筆者不明)

「鼓師」
鼓は、推古帝の時大陸伝来の佼楽のく解一能-始まるといわれます。腰鼓は舞楽に使われた一ノ鼓、二ノ鼓、高麗楽に用いられた三ノ鼓、四ノ鼓の別があります。いずれも構で左右の両面皮を打ち鳴らしましたが、平安時代末期から片面を手で鳴らすようになります。さらに時代を経るにっれて変、遷し、能楽の大鼓、小鼓になると鼓を右肩にのせ、調べ緒によって音を調節するようになります。
鼓の胴の全長は八寸三分で、両端の椀形のところを乳袋、それを連結した筒形を如弧と呼び、中央のふくらんだところを孤心といっています。皮の表皮を「打つ方」、裏側を裏皮といいます。皮端に両面とも調べ緒通しの孔が六孔あり、この孔を調孔と呼びます。調べ緒は縦調べ、横調べとがあり、普通は紅染めの麻緒を撚り合わせたものです。この調べ緒を作る人を調べ-師と,-,-ますn調べ-師が生まれたのは案外新しく、明治十年頃だそうです。 皮は生まれて三か月ぐらい経つた子馬のものがよいとされています。ただし大鼓の皮は親馬の皮が
きじこ
よいそうです。 皮に生地粉と綿を、糊と生漆で練つたもので塗ります。 さらに「どろづくろい」という砥粉を膠で練つたもので何回も重ね塗りをします。この塗りによって鼓の音の善し悪しが決まるといわれています。胴は桜の木を轆轆で削り、前飽などで仕上げます。
絵は調べ緒を通しているところです。
(出典・職人本『職人尽発句合』
寛政九年梨本祐為画)

鼓師
鼓は、推古帝の時大陸伝来の伎楽の腰鼓に始まるといわれます。腰鼓は舞楽に使われた一ノ鼓、二ノ鼓、高麗楽に用いられた三ノ鼓、四ノ鼓の別があります。いずれも構で左右の両面皮を打ち鳴らしましたが、平安時代末期から片面を手で鳴らすようになります。さらに時代を経るにっれて変遷し、能楽の大鼓、小鼓になると鼓を右肩にのせ、調べ緒によって音を調節するようになります。
鼓の胴の全長は八寸三分で、両端の椀形のところを乳袋、それを連結した筒形を如弧と呼び、中央のふくらんだところを孤心といっています。皮の表皮を「打つ方」、裏側を裏皮といいます。皮端に両面とも調べ緒通しの孔が六孔あり、この孔を調孔と呼びます。調べ緒は縦調べ、横調べとがあり、普通は紅染めの麻緒を撚り合わせたものです。この調べ緒を作る人を調べ師といいます。調べ-師が生まれたのは案外新しく、明治十年頃だそうです。
皮は生まれて三か月ぐらい経つた子馬のものがよいとされています。ただし大鼓の皮は親馬の皮が
よいそうです。 皮に生地粉(きじこ)と綿を、糊と生漆で練ったもので塗ります。 さらに「どろづくろい」という砥粉を膠で練ったもので何回も重ね塗りをします。この塗りによって鼓の音の善し悪しが決まるといわれています。胴は桜の木を轆轆で削り、前鉋などで仕上げます。
絵は調べ緒を通しているところです。
(出典・職人本『職人尽発句合』寛政九年梨本祐為画)

 



 







 





 

 
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