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2024.4.2 諺集に見るわが人生(261)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「慈なるが故に能く勇なり(じなるがゆえによくゆうなり)」慈(いつくしみ)の心があるからこそ大きな勇気が生まれてくるの。やさしい慈愛の心から生まれた勇気こそ真の勇気であるということ。
(出典)次いで「慈なるが故に能く勇なり。倹なるが故に能く広なり。敢えて天下の先と為らず、故に能く器(き)の長(ちょう)を成す(倹約するからいくらでも施しができ、あえて天下の人の先に立たないから、あらゆる官の長となれるのである」とある。
(例文)人を慈しむ心から生じる勇気は、慈なるが故に能く勇なりで真の勇気だ。
人を思う心を持ち続ければ、いつかそれが本当の勇気につながるということを忘れてはならない。

 

 「詩に別才あり」詩は、天賦の才能によって作られるものであって、学問の深さや教養の高さによるものではないということ「詩は別才」ともいう。
詩作りには特別な感性が求められ、単に勉強ができるというわけではないという意味がある。そこでチャレンジする。
「外に出て新鮮な空気を吸おう
空は高く澄み切っている
おだやかに流れる風には甘い香りがついている
鼻から大きく吸うと腹一杯元気の素になる
歩き始めたが体のあちこちが痛い
家に籠っていたツケが表に出る
ここでへばれば明日は来ない
さあ力の限りあるくとしよう」
これって詩になっているだろうか。

 

「死ぬほど楽はない」生きることはつらいことが多いので死んだ方が楽だということ。
(補説)「世の中に死ぬほど楽はなきものをどこの阿呆が生きて働く」という狂歌もある。
(例文)悲劇と苦痛に満ちたこの世に辟易する。死ぬほど楽はない。
カザやウクライナでは毎日爆弾の雨が降る。死ぬほど楽なことはないのに、皆家族のため故郷のために必死で戦い生き延びようと努めている。 次回に続く。

 

2024.4.7 諺集に見るわが人生(262)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「死ねば死に損、生きれば生き得」死んでしまえばそれで全てが終わりで損をしてしまうが、生きていれば良いことがある可能性もあって、それだけで得をするという意味。
(補説)日がすごくつまらなくて悲しい日だったとしても、明日はもっと楽しいことが起きるかもしれないものだ。でも、もし生きてなかったら、その楽しい明日を迎えることはできない。だから、生きてるだけで、何かいいことがあるかもしれないチャンスがある。
(例文)死んで花実が咲くものか。死ねば死に損、生くれば生き得だから歯を食いしばって生きろ。
今年には86歳になる。もう少し頑張ってみるか。

 

 「鎬を削る(しのぎをけずる)」「鎬を削る(しのぎをけずる)」互いの刀の鎬を削り合うようなはげしい斬り合いをする。転じて、はげしく争う意。「しのぎを削る」は「能力が近い同レベル同士の争い」に限定される。能力に差があり、すぐに勝負が決まってしまう場合は「しのぎを削る」には相応しくない。
(補説)鎬とは、日本刀の側面(刃と峰の間)の山形に高くなっている筋のことを指す。
(例文)この地区は複数の飲食店が生き残りをかけてしのぎを削っている。 各政党がしのぎを削り、有権者にアピールをしている。 優勝杯をめぐってしのぎを削る戦いが繰り広げられた。 実力伯仲のチームがしのぎを削る。

 

 「痺れを切らす(しびれをきらす)」あまりに長く待たされて、我慢できなくなる。待ちきれなくなる。
(由来)慣用句で、長時間座っていた時の状態に由来している。長時間正座していると、足がしびれて感覚がなくなってくる。そのために我慢する気持ちが切れてしまい、動こうとすることを表している。
(例文)相手から折り返し返事があるとのことでしたが、いつまで経っても返事が来ないので、痺れを切らしてこちらから催促の電話をした。
今は正座はできないが、そういう状況に陥ることはある。 次回に続く。

 

2024.4.10 諺集に見るわが人生(263)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「渋柿の長持ち」取り柄のない人や悪い人が長生きすることという意味の慣用句。
(説明)渋柿は、そのままでは渋味が強くて食べられない。そのため、枝からとって食べる人もないので、長く枝に残るからきている。
また、渋柿は熟しても実が崩れにくいという特徴がある。
甘柿は実が熟すと実が崩れやすく、枝から落ちてしまうので、熟す頃には人や動物がとって食べるのですぐになくなってしまう。
同じようみ見える柿でも、甘柿と渋柿では長持ちの度合いが全く違うのだ。
そのような大きな違いがあることが人々に知られているので、「渋柿の長持ち」のような慣用句にたとえられるようになったのだろう。
(例文)世の中変わらぬものはない。渋柿が熟柿に成り上がる。
時間が経って経験を積むと、だんだんといい味出てくるというが、私の場合出がらしになってしまった。

 

 「自分で蒔いた種は自分で刈らねばならぬ」自分がしたいことの結果に対しては、当然自分が責任を持たなければならないことである。自分の身に起こることはすべて自分の過去の言動や行動がもたらしたものであるという意味。
(説明)自分で種をまいたら、その種が成長して収穫の時が来たら、自分で刈り取るのが当然だ。それと同じで、自分のしたことには自分でちゃんと向き合わなくてはならない。
(例文)トラブルの原因は自分にあるから、自分で蒔いた種は自分で刈らねばならぬと考える。
公園で子どもたちとソフトボールをしていたら、ある子が暴投して、近所の家の窓ガラスを割ってしまった。私が責任を取って弁償した。高いものについた、公園でのボール遊びで、以後子ども相手にボール遊びはしなくなった。 次回に続く。

2024.4.17 諺集に見るわが人生(264)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「釈迦に説法(しゃかにせっぽう)」自分と比べてより詳しく深い知識を持っている人に、そうとは知らずに自信満々に教えているさまの愚かさを表す。
(補説)例えば趣味の釣りで出会った人に、自分がこれまで釣った魚の自慢や、高価な釣り道具の説明を交え指導していたら、全くそんなふうには見えない相手が実は釣りのプロだった、という状態が上げられる。
(語源)「釈迦」とは、北インドの人物で「仏陀」「仏教」の開祖です。
その仏教の教えを説いた釈迦本人に、仏教を教えを説くという行為から、すでに知り尽くしている人に、その分野の教えを説くという恥ずかしさや愚かさを「釈迦に説法」と言い表すようになった。
(補説)「説法」の代わりに「念仏」または「経」を使い、「釈迦に念仏(しゃかにねんぶつ)」や「釈迦に経(しゃかにきょう)」という場合もある。
(例文)こんなことを言うのは釈迦に説法ですが、一言言わせてください。

 

 「杓子定規(しゃくしじょうぎ)」一定の基準や形式で、すべてを律しようとすること。また、そのために融通がきかないさま。曲がっている杓子の柄を無理に定規の代用とする意から。▽「杓子」は汁や飯などを盛ったりよそったりする道具。古くは柄が曲がっていた。
この言葉は、他の人が柔軟な発想やアイデアを求める場面で、堅苦しくて柔軟性に欠ける人々を揶揄するために使用される。
(歴史)具体的な年代や起源は明確ではないが、「杓子」という言葉は、食事の際に使われる調理器具の一つであるため、そこから派生して堅苦しいことや厳密なことを意味するようになったと考えられる。
その後、「定規」という言葉が加わり、「杓子定規」という表現が広まったといわれている。
(例文)役所は杓子定規な対応を基本としている。
(類語)「機械的・規則的・型通り・規則正しい・決まり切る・判で押したよう・堅苦しい・窮屈・気詰まり・官僚的・形式的・儀礼的・事務的」 次回に続く。

 

2024.4.21 諺集に見るわが人生(265)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 「弱肉強食」弱いものの犠牲の上に強いものが栄える」という意味の四字熟語で、野生動物の世界や現代社会を説明するときに使われることがある。「弱の肉は、強の食なり」と訓読することで、弱いものが強いものの犠牲にされるという意味だということがわかる。
(由来)「弱肉強食」は、中国は唐の時代800年前後に活躍した文人である韓愈(かんゆ)の作品である「送浮屠文暢師序」から生まれたとされている。
(例文)現代社会は弱肉強食になった。
野生動物の世界「適者生存こそ自然の摂理」
実際の野生動物の世界では、強い動物が弱い動物をいかに捕まえるか、弱い動物はいかに強い動物に捕まらないようにするかという攻防が起きている。もしも弱肉強食が動物の摂理だというのなら、弱い動物はとうの昔に絶滅していることだろう。しかし実際には弱い動物も生き残っている。
このことから動物の摂理とは弱肉強食というよりも、生態系に適応したかどうか、つまり「適者生存」という考え方の方が相応しいと言える。
世の中が競争社会になると強い者が弱い者を虐げて儲けるという縮図ができ上る。

「車軸を流す」車軸のような太い雨脚の雨が降る。大雨の降るようすをいう。車軸を降らす。車軸をくだす。
車軸のように太い雨脚(あまあし、雨が線状に降り注いで見えるもの)の雨が降ることを言う。
盆を覆す」(ぼんをくつがえす)とは、「激しく雨が降ることの例え」です。「盆を傾ける」(ぼんをかたむける)などとも言います。違いがあるとすれば、「車軸を流す」が「太い雨脚」、「盆を覆す」が「雨の水量が多い」という些細なものでしょう。他にも、「大雨」「豪雨」「土砂降り」「ザーザー降り」「滝のような雨」「篠突く雨」(しのつくあめ、雨が竹林のように強く細かく高密度で振ること)なども「車軸を流す」の類義語
今年の異常気象では、車軸どころか車そのものも流してしまった。 次回に続く。

2024.4.24 諺集に見るわが人生(266)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「弱冠」 数え年における"20歳の男子"を指す言葉。数え年は、生まれた時を1歳と数え、その後新年が訪れるたびに1歳を加えていく。
 現在「弱冠」は、20歳の男子に限定するのではなく、「年齢が若いこと」の意味合いに転じて使われている言葉となっている。20歳以外や、女性に対して使われている例も見受けられている。
(由来)かつての中国で20歳の男子を「弱」と呼んだことに由来しています。男子は20歳になると、元服して「冠」(かんむり)をかぶるようになったことから、20歳の男子を、「弱冠」と呼ぶようになりました。
(使用上の注意)「若干」は、「弱冠」と同じ「じゃっかん」の読み方を持つ言葉。そのため、「弱冠」と「若干」を混同して使われることもある。しかしそれぞれの言葉は異なる意味を持つため、使い分けが必要になる。
(例文)彼は、弱冠20歳にして会社を立ち上げ、25歳には一部上場するまでに会社を成長させたやり手だ。
私は「若干」の方を多く使う。例えば、若干の狂いとか。

 

「斜に構える」
1. 剣道で刀を斜めに構える
2. 改まった態度を取る。身構える
3. 皮肉で不真面目な態度で臨む
となる。
「斜」は「傾いている・ななめ」、「構える」は「事に備えて、ある姿勢・態度をとる」を表す。
1つ目の意味が語源で、もともとは2つ目の意味だった。
3は誤用として使われ始め、今は定着しつつある。
また、「世間や物事を斜めの視点で見る」という意味も含まれる。
このように、「斜に構える」は人の態度を表す言葉である。
(由来)剣道には、上段・中段・下段という構えがある。
"中段"という構えは相手に向かって刀を斜めに延ばした状態であることから、その構えを「斜に構える」と呼ぶようになった。
(使用法)「斜に構える」は物事に正対せず、皮肉やからかいなどの態度で臨むことを表す時に使う。 次回に続く。

 

2024.4.28 諺集に見るわが人生(267)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「蛇の道は蛇(じゃのみちはへび)」同類のことは、同類がよく知っている。 その道の人間がその社会のことに、よく通じているというたとえ。 漢字だが、「蛇(じゃ)」は大きなヘビ、「蛇(へび)」は小さなヘビのことを表している。
(由来)「蛇(じゃ)」とは、へびよりも大きなおろちや大蛇のことをいう。 小さなへびでも、大蛇の通る道はよく知っていること。
(類義)・餅は餅屋・商売は道によって賢し・船は船頭に任せよ・仏の沙汰さたは僧が知る
(例文)蛇の道は蛇だ。ここは専門家に頼んで調査してもらおう。
「じゃ」は「へび」より大きいへびというのは知らなかった。こんな真っ暗な夜道を歩いていると、へびが出るかじゃが出るかさっぱり分からない。

 

 「蛇は寸にして人を呑む」優れている人物は、幼いときから常人とは違ったところがあることのたとえ。
(由来) 蛇はわずか一寸(約3センチメートル)ほどのものでも、人間を呑みこもうとする気迫を持っていることから。
(類語)竜は一寸にして昇天の気あり・栴檀(せんだん)は双葉より芳し・虎子(こし)地に落ちて牛を食らうの気あり・虎豹(こひょう)の駒(く)は食牛の気あり
(例文)この子は蛇を寸にして呑む気が感じられる。

 

 「沙弥(しゃみ)から長老にはなれぬ」仏教で修行僧である沙弥がすぐには高位の長老になれないことから、どんなことでも段階を踏まずに一気に高い地位やレベルに上がることはできないという意味。
(言葉の意味)「沙弥」は、仏門に入ったばかりの未熟な僧。「長老」は、長年修業した徳の高い僧。
(類義語)・仏に成るも沙弥を経る・沙弥を経て長老にいたる・長老になるも沙弥を経る・始めから寺とる坊主はない
(例文)亀の甲より年の劫といい、経験を積んだ年上のものにはなかなかかなわないので沙弥から長老にはなれぬ。
経験が如何に大切か分かる諺だ。 次回に続く