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2024.8.1 諺集に見るわが人生(291)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「尻馬に乗る」無批判に他人の言動に便乗して軽はずみなことをすることを意味する。 分別もなく相手に同調して、自分の考えもなしに行動することをあらわすこともある。
人の後について、調子に乗ってその行動や意見を真似をすること、ということになる。
「尻馬」は、他人が乗っている馬の後部のこと。また、前を行く馬の尻のこと。
他人が乗っている馬の尻に乗ったり、前を行く馬についていく意味から、考えもせず他人の言動に同調して軽はずみなことをしたり、人の後についてまねをすることをいう。
(類語)尻馬/尻馬に付く/尻に付く/尻に立つ/尻舞/尾に付く/付和雷同/付和/雷同/便乗/唯々諾々/矮子看戯/吠影吠声/後塵を拝する//あやかる/後追い/など
(例文)皆が買うので、自分も尻馬に乗って買ってしまった

 

 「支離滅裂(しりめつれつ)」ばらばらでまとまりがなく、筋道が立っていないさま。▽「支離」はばらばらなさま。「滅裂」はきれぎれ、離ればなれ。ばらばら。
(由来)この四字熟語は、「支離」と「滅裂」の2つの言葉の組み合わせから成り立っている。
(例文)あの人の言うことは、支離滅裂だよ
(類語)滅茶苦茶/とんちんかん/四分五裂

 

 「各ん坊(しわんぼう)の柿の種」食べる時には邪魔で、食べた後にも無用となる柿の種のようなものですら、大事にしまいんで物惜しみするという意味から。「上方いろはかるた」の一つ。
(補説)「柿の種」は、柿の中にある小さな種のこと。柿の種は小さくて、ほとんど価値がないが、このことわざに出てくる人は、そんな小さな柿の種さえも惜しんでしまうほどのけちだ。
(例文)吝ん坊の柿の種といわれても、役に立つことがあるかもしれないと思うとなかなか捨てられない。
(類義語)しわん坊の柿のへた/出すことは舌を出すのも嫌い/ 袖から手を出すも嫌い
次回に続く。

 

2024.8.6 諺集に見るわが人生(292)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「人間至る処青山有り」世の中は広く、死んで骨を埋めるくらいの場所はどこにでもあるのだから、大望を成し遂げるためにならどこにでも行って、大いに活躍するべきであるということ。
(注釈)ここでの 「人間」は、人の住む世界・世の中という意味。「青山」は、死んで骨を埋める地・墓地のこと。
(由来)この詩の作者は村松文三であり、幕末の僧、釈月性が酔った際に壁に 「男児志を立てて郷関を出ず、学若し成る無くんば復還らず、骨を埋むる何ぞ墳墓の「地を期せん、人間到る処青山あり」と記したのが誤って月性の策として伝えられたという説もある。
「じんかん到る処青山あり」ともいう。
(例文)人間到る処青山ありというから、思いきって行ってみることに決めた。

 

 「人語に落つ」他人に比べて能力が劣ることをいう。これは、競争や比較の中で、他人よりも後ろに立つこと、つまり不利な立場にあることを意味している。「人後」とは、人の後ろや、人よりも下の位であること、という意味。
(出典)李白の「夜郎に流され辛判官に贈る」757 年に、李白は安禄山(あんろくざん)一味の反乱軍に加わったという罪を着せられました。犯罪者として、中国の夜郎に流された李白は、当時の心境を友人の辛判官に詠いました。
「気岸遥かに凌ぐ豪士の前、風流あえて落ちんや他人の後に」これの現代語訳は、「盛んな心意気は豪傑を遥かに凌ぎ、風流さは人後におちなかった」
意味は、「かつては王族と酒を酌み交わし、心意気は豪傑をしのいでいた。風流をたしなむことにかけても人後に落ちていただろうか、いやそんなことはなかった」
李白の心情が描かれている。流刑という逆境にありながら、人には劣っていないという強い心意気が現れている。友人に対して、李白が本音を示した詩であろう。
(例文)お酒は好きだが、すぐ酔ってしまう。こればかりは人後に落つのも仕方がない。 次回に続く。

 

2024.8.12 諺集に見るわが人生(293)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「唇歯輔車(しんしほしゃ)」一方がだめになると、他方もだめになってしまうような、お互いが助け合うことによって成り立つ関係のたとえ。もちつもたれつの関係をいう。▽「唇歯」はくちびると歯。「輔車」は頬骨ほおぼねと下あごの骨のことで、一説に車の添え木と車ともいい、他にも説がある。くちびると歯や頬骨と下あごの骨は、切っても切れない密接な関係にあることから。
(故事)中国春秋時代、晋が虢(かく)を攻めようとして虞(ぐ)を通ろうとした。宮之奇(きゅうしき)が「虢は虞の日陰をはかる日時計の立木のようなもの。虢が亡びれば(影に当る)この虞は
消えてしまいます。晋の野心に道を開き兵を甘く見てはいけません。諺に"輔車は相依り、唇亡ぶ歯寒し"というのは虞と虢の関係を言ったものです」と虞公を諫めたが聴き入れず、晋を通してしまい、晋は虢を滅ぼし、ついでに虞も急襲して滅ぼしてしまった。
(例文)この町の名の由来になっているように、あの企業とは輔車唇歯の関係なんです。
難しい諺であまり使われないが、企業の連鎖倒産など、使える表現である。

 

 「神出鬼没(しんしゅっきぼつ)」自由自在に現れたり隠れたりする様子を表す四字熟語。では、どうして神様や鬼が関係してくるのか、次に言葉の語源について、深く掘り下げてみよう。
(語源)昔から、神様や鬼神(きしん)とは、人間を超越した存在で、その所在は不確かなものと言われている。人間の生息する次元にはとどまらず、何の前触れもなく突然現れたり消えたりするものとして人々から認識されていた。
古くは中国の『淮南子(えなんじ)』が出典とされている。『淮南子』は、前漢の武帝時代、淮南子劉安によって編纂された思想書の事。その中の、戦いの策略について述べられた、巻十五 『兵略訓』の中に 「神出鬼行 (=神出鬼没)」という言葉が登場している。
(例文)「現れたと思ったら、あっという間に帰っていったね。彼っていつも神出鬼没だよね」 次回に続く。

2024.8.16 諺集に見るわが人生(294)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。


 「信賞必罰(しんしょう-ひつばつ)」手柄のあった者には必ず賞を与え,あやまちを犯した者は必ず罰すること。情実にとらわれず賞罰を厳正に行うこと。「信賞」は間違いなく賞を与えること。「必罰」は罪ある者は必ず罰すること。
(出典)中国の思想家である韓非子(かんぴし)の著作『韓非子 外儲説(がいちょせつ)右上』という文献にある言葉。
「信賞必罰」は晋という国の統治者と家臣の会話の中に出てくる言葉で、「どのようにすれば民衆を統制できるのか」という統治者の問いに対し、家臣は「信賞必罰を徹底すること」と答えている。
また「刑罰の限度はどの程度にするべきか」という問いに対しては「親しい者、身分の高い者、寵愛する者にも行う」と答え、公平性を説いているのが特徴である。
(例文)多くの人を動かすためには、信賞必罰が必要だ。

 

 「人事を尽くして天命を待つ」自分で全力の力を尽くしたら、後は天の意思に任せる」という意味。 人ができることには限界があるのだから、どんな結果になっても後悔はないという心境のときに使うことができる。
(由来) 南宋初期に中国の儒学者「胡寅 (こいん)」の「読史管見 (とくしかんけん)」に登場する「人事を尽くして天命に聴 (まか)す」。
(類義語)人事を尽くして天命に委せる/人事を尽くして天命に聴いて可なり/天は自ら助くる者を助く/果報は寝て待て/運否天賦/運を天に任せる/能事畢る/我が事終わる
(例文)人事を尽くして天命を待つ。最大限の努力をしたのだから、結果がどうであれ後悔はない。

 

 「人生意気に感ず」人は金銭などの欲や、名誉のために行動するものではないといういましめ。「意気」とは、やり遂げようとする積極的な気持ちのこと。
(由来)魏徴の詩『述懐』に「人生意気に感ず、功名誰か復論ぜん (人生は心意気を感じて行動するもので、功名のことなど誰が問題にするものか)」とある。
(例文)人生意気に感ずで、心を打たれるものがあったから、この会社に就職することを決めた。 次回に続く。

 

2024.8.19 諺集に見るわが人生(295)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「人生は朝露(ちょうろ)の如し」朝日が出ればすぐに消えてしまう朝露のように、人生ははかなくて短いものだということ。
(由来)前漢時代に李陵が蘇武に会い、健康を気遣って「人生、朝露の如し。何ぞ自ら苦しむこと此の如き」と言い、降伏を勧めたという『漢書・蘇武伝』の話に由来する。出典にはこのあとに「何を久しく自ら苦しむこと比(かく)の如き(どうしていつまでも自分から苦しむ必要があろうか」とある。
(例文)同級生も皆孫ができるような歳になって、人生の折り返し地点もとっくに過ぎた。まさに人生朝露の如しだ。

 

 「進退これ谷(きわ)まる」進みも退きもできない困難な状態に陥る。立ち往生する。進退窮まる。
(由来)古典文学である「詩経」の中の「大雅・桑柔」に出てくる「進退これ谷まる」という言葉に関連している。
「谷まる」の部分は、険しい山の間にある谷に落ちてしまい、前にも進めず後ろにも退けなくなる状態を指している。
つまり、進行方向が完全に閉ざされ、どう行動しても困難な状況になってしまう様子を示している。
この部分は、進むことや退くことを指しており、それができない状態を表現するために「谷まる」と組み合わせて使われている。
古く、「進退」は「しんだい」と読まれていた。
(類語•言い換え)
進退維谷まる/進退維谷/進退両難/のっぴきならない/抜き差しならない/去るも地獄残るも地獄/どうにもならない/どうしょうもない/にっちもさっちも行かない/窮する/窮地に陥る/窮境に陥る/窮地に立たされる/切羽詰まる/雁字搦め/逃げ場のない/逃げ場を失う
(例文)進むも引くも、その先にある結果はろくなものではないように思えたから、進退窮まってしまった。
旅先で山道を歩いていて、方向が分からなくなり、進退窮また。 次回に続く。

 

2024.8.24 諺集に見るわが人生(296)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。


 「死んで花実が咲くものか」生きていれば良いこともあるが、死んでしまえば良いこともないという意味のことわざ。死を望む人に対して、むやみに命を捨ててはいけないと言い聞かせるときに使われる。
たとえば、何か大きな夢や目標がある場合、生きている間にそれに向かって努力することが大切で、死んでしまえばそのチャンスはなくなる。このことわざは、人生の有限性と、生きている間に行動を起こすことの重要性を教えている。
(由来)枯れた木に花も咲かず実もならない意味から来ている。
(例文)仕事に失敗したくらいで死にたいだなんて、死んで花実が咲くものか。 

 

 「深謀遠慮(しんぼうえんりょ)」ある行動や計画をする際に、慎重に考え抜いて判断することを指す。将来のことを考慮に入れた上で行動することを意味する。この言葉は、物事を深く考えることで将来の利益やリスクを見極め、最善の選択をすることを表している。
「深謀遠慮」の「深謀」は、深く考えられた綿密な謀(はかりごと)を意味しており、「遠慮」は、遠い先の事まで見通してよく考えることを表している。
「謀」とは、「事がうまくゆくように、前もって考えた手段・方法・計画」のことです。
(由来)「深謀遠慮」は中国前漢の「賈誼(かぎ)」の著書『過秦論(かしんろん)』に由来する。原文は「深謀遠慮、行軍用兵之道、非及曩時之士也」で、意味は「深く考えを巡らして遠い先のことの計画や、軍事利用の方法においても、諸侯国には及ばない」となる。
(例文)軍師は深謀遠慮を巡らして戦略を立てるものだ。

 

 「人面獣心(じんめんじゅうしん)」読んで字の如く「人の顔をしながら、心は獣のような人間のこと」を指します。つまり、まるで獣のような、残忍で冷酷な人間のことを意味する四字熟語です。良い意味で用いられることはまずない。
(由来)『史記』の著者である歴史家の司馬遷(しばせん)は、この異民族の様子を、「夷狄(いてき)の人、被髪左袵(ひはつさじん)して人面獣心なり」と『史記』の中で記述している。
(例文)罪のない人に手をかけるなんて、犯人は人面獣心の人間に違いない。 次回に続く。

 

2024.8.27 諺集に見るわが人生(297)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「(し)から始めて(す)まで、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「森羅万象(しんらばんしょう)」天地間に存在する数限りないすべてのもの(万物)や事象を意味する四字熟語。「森羅」は樹木が限りなく茂り並ぶ意で、たくさん連なることを、「万象」はすべての形あるもの、有形のものを意味する。
(由来)『法句経ほっくぎょう』、仏典のひとつで、仏教の教えを短い詩節の形で伝えた、韻文のみで構成されている経典だ。この中で、「森羅及萬象」という言葉が出てきており、由来だとされている。
(例文)君が悩んでいたことは、森羅万象の考え方からすると、とても小さいことだ。

 

 「水火を辞せず」水に溺れ、火に焼かれるような苦しみや危険があろうと、恐れずに事をやり抜くたとえ。この言葉では、「水」と「火」が古来から人間にとっての大きな障害や危険を象徴している。
(出典)出典:漢書(かんじょ)「門をふさぎて水火を通ぜず」
(類義)・水火を通ぜず・たとえ火の中水の中(底ともいう)
(例文)水火も辞せず、できるかぎりのことをして、あなたのお力になることをお約束しましょう。

 

 「水鏡私無し(すいきょうわたくしなし)」公明正大、公平であることのたとえで、水や鏡が、ありのままにものの形を映し出すように、人間も感情など交えることなく、公平無私でなければならないことである。水鏡は垂鏡とも書く。
(由来)「三国志」の「水鏡の能く物を窮めて怨無き所以は其の私無きを以てなり」
(例文)人として垂鏡私無しでありたいが、どうしても好き嫌いが出てしまう。 

 

 「水魚の交わり」水と魚のように、切っても切り離せない非常に親密な関係。
(由来)三国時代の蜀の王であった劉備が、諸葛孔明と自分の間柄について、「孤 (君主の自称)の孔明あるは、猶魚の水有るがごとし」と言ってなだめた故事から。
(例文)両国は水魚の交わりを結ぶの関係にあります。 次回に続く。

 

2024.8.31 諺集に見るわが人生(298)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「す」を、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「推敲(すいこう)」詩文の字句や文章を十分に吟味して練りなおすこと。
(由来)《唐の詩人賈島 (かとう) が、「僧は推す月下の門」という自作の詩句について、「推す」を「敲 (たた) く」とすべきかどうか思い迷ったすえ、韓愈 (かんゆ) に問うて、「敲」の字に改めたという故事から》
(例文)推敲を加えていくうちに、構成が変わりより良いものになった。

 

 「酔生夢死(すいせいむし)」"虚しく一生を終えること"。まるで酔ったような夢をみた心地のまま、何一つ有意義なことをせず、一生を終えることを表した四字熟語。ぼんやりとしたまま日々を過ごし、何もしないまま虚しく一生を終えることを指すときに使われる。一方、「意義あることを成し遂げたわけではないが、自由奔放な生き方」と解釈して、それをよい生き方だと捉える使い方もある。
(由来)中国の北宋時代に活躍した儒学者「程顥」(ていこう)の残した書物に起源がある。程顥は自著『程子語録』(ていしごろく)のなかで次のように記している。
雖高才明智 膠於見聞 酔生夢死 不自覚也
(読み)『高オ明智と建(いえ)ども、見聞に膠(あやま)られ、酔生夢死して自ら覚(さと)らざるなり。』
(現代語訳)「どれだけ才能があっても見たり聞いたりしたことをそのままにしていたら、酔生夢死、なにひとつ有意義なことをせずに無自覚のまま死んでいってしまう」 
このように漢文詩の中で語られた「酔生夢死」が四字熟語として独立して使われるようになった。
(使用例)ネガティブな意味で「酔生夢死」」を使った例文「酔生夢死の人生を送ることは虚しい」
ポジティブな意味で「酔生夢死」を使った例文「あくせく働くよりも、酔生夢死な生き方の方が私には向いている」
できれば、やりたいことだけをやって死を迎えたい。 次回に続く。