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2024.2.6 諺集に見るわが人生(249)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「自業自得(じごうじとく)」自分の行為の結果を自分が受けることを表す言葉。一般的には悪いことをするとその結果を受け取るという意味で使われるが、善行の結果を受け取るという意味も含まれている。
(由来)インドの古い言葉である「カルマ」が語源となっている。カルマは行為を表し、中国語で「業」と訳されてから「自業」という言葉が生まれた。「自業」とは自分の行為という意味。
また、「自得」とは、自分が結果を得ることを表す。そのため、「自業自得」は「自分の行為の結果を自分が得る」という意味合いとなる。
(例文)試験の結果が悪かったのは単純に勉強しなかったからで、「自業自得」である
(類義)因果応報」や「自縄自縛」など
私も勉強嫌いで、実力もないのに、高望みの受験した経験があるが、見事に落ちた。自業自得である。

 

 「地獄の沙汰も金次第(じごくのさたもかねしだい)」『地獄での裁判もお金次第でどうにかなる』という意味。これはつまり、『不可能だったり無理だと思えたりするようなことでも、お金さえあれば何とかなるものだ』ということを示している。本当の意味は「大きな富を持つ人間は守銭奴となってお金に固執するのではなく、世の中のためにお金を使って徳を積みなさい」ということらしい。
(由来)、いろはかるたの一つ『上方いろはかるた』に採用されている。発祥は上方(関西地方)といわれ、47音に『京』を足したものが『京かるた』と呼ばれて分けられました。
なお、当時は地獄を『ぢごく』と記しました。そのためいろはかるたでは、『地獄の沙汰(えんま大王の裁き)さえお金で何とかなるも金次第』は『し』ではなく、『ち』に当てられている。
(使用例)ビジネスでは、お金の力が物事をスムーズにすることが多々ある。企業がお金でトラブルを回避したと聞いたら、「あの会社はうまいことやりましたね。地獄の沙汰も金次第とはこのことだ」などと使われる。 次回に続く。


2024.2.10 諺集に見るわが人生(250)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 「地獄耳(じごくみみ)」地獄耳には以下の2つの意味がある。
1.人の秘密などをいちはやく聞き込んでいること。また、そういう人
2.一度聞いたことをいつまでも覚えていること。また、そういう人
地獄耳の語源は「地獄の閻魔様(えんまさま)のような耳を持つ人」ということ。地獄の閻魔様は、下界にいる人間が生きている間にウソをついたり、人の悪口を言ったり、悪事をはたらいていないかを全て聞いている。
それがどんな隠れた場所で、どんなに小声で話したとしてもいちはやく聞き込んで、いつまでも覚えていることから、そういう何でも聞き着ける人(またはこと)を「地獄耳」と呼ぶようになったと言われている。
小さな声で話しているのに聞こえてしまうのは何故かというと。
・実はヒソヒソ声はとても目立つ音域だから
・「小声=秘密や悪口」という意識になるから
・老人は高音が聞こえにくくなるから
「聞く側の人の意識」「声の音質」「高齢者の聴力」に関わるこれら3つの理由による。

 「獅子身中の虫(しししんちゅうのむし)」外見は立派だが内面には欠点や弱点があることを指す。獅子は強くて威厳があるが、その中には虫が隠れているという意味。このことわざは、人々に見かけだけで判断せず、内面を知ることの重要性を示している。
(由来)
獅子の体内に寄生しておきながら、獅子を死に至らせる虫の意味から。
もと仏教語で、仏教徒でありながら仏教に害をもたらす者のことをいった。
『梵網経(ぼんもうきょう)』に「獅子身中の虫、自ら獅子の肉を食らい、余外の虫に非ざるが如し。是くの如く仏子自ら仏法を破り、外道・天魔の能く破壊するに非ず (獅子は自身の体内に巣食う害虫に食われて死ぬのであり、外からの虫に食われるのではない。これと同じように悪い仏徒が自ら仏法を破壊するのであり、外道や天魔が仏法を破壊するのではない)」とある。
(例文)
獅子身中の虫を駆除しなければ、この組織が潰れるのも時間の問題だ。 次回に続く。

 

2024.2.14 諺集に見るわが人生(251)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「事実は小説より奇なり」現実に起こる出来事は、作られた物語の中で起こることよりも不思議で面白いものだということ。
(由来)イギリスの詩人バイロンの 『ドン・ジュアン』にある「Fact is st「ange「than fiction.Jに由来する。
(例文)事実は小説よりも奇なりで、嘘のような本当の話だ。
人の人生においては時たまあることで、新聞などで紹介されることがある、

 

「死して後止む(ししてのちやむ)」この句は、日本の俳句や詩の中で見られる短い言葉。直訳すると「死んでからやっと止む」となるが、より深い意味を持っている。この句は、死者が苦しみから解放され、平穏になる瞬間を表している。死は終わりではなく、新たな始まりでもあるという考え方が込められている。
このような短い詩句は、日本文化や美学の一部として、感情や哲学を表現する手段として重要だ。
[由来] 「論語―泰伯」に出て来る、孔子の弟子、曾(そう)子しの言葉から。「仁(思いやりのこころ)に基づく政治を行うのは、とても重大な仕事だし、『死して後已む(死んだ後になってようやく終わりとなる)』という遠大な仕事でもある」とある。
職人などの職業は引退などしない限り、仕事は一生続けられる。

 

「獅子の子落とし」我が子に苦しい思いをさせることで力量や能力を試し、乗り越えた者だけを育てるということをたとえたもの。りっぱな人物に育てあげるためには、あえて苦難の道を歩ませることも必要だという意味でも用いられます。
そのため、「獅子の子落とし」は一般的に、子育てのたとえとして用いられる慣用句。
(由来)『太平記•十六』に 「獅子は子を産んで三日を経る時、万じんの石壁より母これを投ぐるに、その獅子の機分あれば、教へざる中より身を翻して、死する事を得ずといへり」とある。
(例文)獅子の子落としというけれど、子供が苦労している姿を見ているのは、とてもつらいものだ。

 次回に続く。

 

2024.2.18 諺集に見るわが人生(252)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「獅子奮迅(ししふんじん)」獅子が、獲物をねらって、すさまじい勢いで奮(ふる)い立つときのように、激しく活動すること。事に対処する意気込みが果敢なさま。また、猛烈な活動や華々しい活躍のたとえ。▽「獅子」はライオン。「奮迅」は激しく奮い立つさま。
(出典)『大般若経だいはんにゃきょう』中国唐時代に誕生した仏教経典「大般若波羅蜜多経」(全600巻)で、その第52巻に「如獅子王自在奮迅」と記されている。そこから現在は仏教用語としてはもちろん、獅子舞や舞楽の曲名や演技として日本では定着している。
(例文)売れっ子芸能人は寝る間もないほど働き詰めで、獅子奮迅と表現できる程だ。
戦国の世では、豪傑、英雄と称される武士は、戦場で獅子奮迅の働きをするからだ。

 

 「四十にして惑わず」 「論語」為政第二04から
私(孔子)は15歳で国に仕えるためのより専門的な学問を志した。30歳で専門の学問を確立した。40歳でものの道理が分かって迷わなくなった。50歳にして天が自分に使命(生きる意味)を与え、何をするべきか理解するようになった。60歳で人の言葉を素直に聞きすらすらと理解できるようになり、70歳に至っては、心の思うがままに行動しても、決して道理を外すことがなくなった。
(原文)「子曰、吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩。」
子曰わく、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従へども矩を踰えず。「論語」為政第二04
(解説)有名な「不惑」の章句だが、それぞれ「志学」「而立」「不惑」「知天命」「耳順」「従心」の歳という。
私などは人生死の覚悟ができた八十にして「不惑」に至ったようだから、孔子の倍の年数がかかっており、論語では八十以上の記述はない。当時は人生はそれほど長いものでは無かったのだろう。 次回に続く。

 

2024.2.22 諺集に見るわが人生(253)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「自縄自縛(じじょうじばく)」自分の言動が自分をしばって、自由に振る舞えずに苦しむこと。自分の縄で自分をしばる意から。▽「縛」はしばる、縄をかける意。
(例文) 言い訳を重ねた挙げ句に矛盾だらけになってしまい自縄自縛に陥った。
 自縄自縛の類語と使い分け
自縄自縛の類語としては「自業自得」「因果応報」「身から出た錆」などが挙げられる。いずれも「自分の行いの結果が自分の身に降りかかる」という意味合いの(基本的に悪い意味で用いられる)表現である。なお「自業自得」と「因果応報」は仏教の用語である。
(類義語) 自分で自分の首を絞める/墓穴を掘る/我が刀で首切る/己が刀で己が首/我が脛 に鎌/罠招えて首突つ込む

 

 「沈む瀬もあれば浮かぶ瀬あり」人生には浮き沈みがあるということのたとえ。
(注釈・由来)人生の局面を川の瀬に見立てて、浮き沈みがあることを表している。 人生には良いことも不運なこともあり、不運なことばかりが続くわけではないから、くよくよしてもはじまらないということ。
(類義語)「明日は明日の風が吹く」「禍福は糾える縄の如し」「人間万事塞翁が馬」などの言葉が挙げられる。
人生いろいろで、明日のことは分からない。今日を精一杯生きることが大切だ。

 「死生、命あり(しせいめいあり)」論語顔淵第十二の五「司馬牛憂曰。人皆有兄弟。我獨亡。子夏曰。商聞之矣。死生有命。富貴在天。君子敬而無失。與人恭而有禮。四海之内。皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也。」から) 人の生死は天命によるもので、人の力ではどうすることもできない。「死生」は、死ぬことと生きること。
生きるか死ぬかは、これまさに天命。金持ちになるか貴くなるか、これもまた天の配剤。紳士は人々を尊敬し、失わない礼儀正しく、礼儀正しく、四つの海の中で、すべての兄弟。なぜ紳士に兄弟がいてはいけないのかという意味。
準備計画、やるべきことは十分にやったうえで、その先は天に任せよう。 次回に続く。

 

2024.2.27 諺集に見るわが人生(254)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「時節の梅花春風を待たず」自然の流れは、人間の力ではどうすることも出来ないことで、梅の花は、温かい春の風が吹くのを待ったりしないで、開花の時期が来れば自然に咲くことから。
物事にはそれぞれのタイミングがあって、それは自然に任せるしかないという言葉である。例えば、人間が何かを急いでいる時でも、自然の流れには逆らえないから、じっと待つしかないこともある。
桜がずっと咲いていれば素敵だと思うが、時節の梅花春風を待たずで人の力でどうこうできない。だからこそ美しい。
四季を色に例えるなら、春は緑。夏は赤。秋は黄。冬は灰だと思う。その色は自然に移ろっていく。そこに趣がある。

 

 「舌先三寸」口先だけの誠実さにかける物言いで相手を言いくるめることを意味する四字熟語。 主に、相手を騙したり嘘をついたりする人に使うため、マイナスなイメージで使われている。    (由来)舌先三寸」の「三寸」とは1寸の3倍つまり、9cmのことを意味しています。 そしてこの三寸を小さいことに例えて、三寸ほどの小さい舌から繰り出される、口先だけの言葉という意味で使われるようになった。 ただし、人間の舌の長さは平均7cmなので、厳密に言えば9cmは小さいサイズではない。
しかし、「一寸法師」や「一寸の虫にも五分の魂」などのように「寸」は昔から小さなもののたとえとして用いられてきたことから、いつの間にか「三寸」も小さなものとして捉えられるようになってしまったと言われている。
(例文)営業の舌先三寸の言葉に惑わされて、うっかり高い値段で買わされそうになった。
(補説)本来の言い方とされる「舌先三寸」を使う人が23.3パーセント、本来の言い方ではない「口先三寸」を使う人が56.7パーセントという逆転した結果が出ている。 次回に続く。