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2024.1.1 新年のごあいさつ
謹賀新年 
 明けましておめでとうございます。元日のホームページのは休刊注の特別掲載ですので、リンクなどにうまく繋がらないところが多々あるかも知れませんが、追々更新してまいりますので、暫くの間ご容赦お願いします。
 1月のカレンダーはどうにか間に合いましたので、このページの「時の風物詩」アイコンをクリックしてご覧ください。
 今年もスタートは元日になりました。この仕事も10年が経過し、高齢化が進み、気力と体力に余り自信はありません。できる限り頑張りますので、多くの方が閲覧していただけると力を貰えます。よろしくご支援お願いします。

Kingasinnen by Weblio
A Happy New Year. As one of the homepage of New Year's Day is a special publication of the suspension of publication note, there may be many places that are not connected in links well, but please forgive it for a while as you will update it in time.
As the calendar of January was enough somehow, I click the "pastime that gives poetic charm" icon of this page, and please see it.
The start was New Year's Day this Year. Ten years pass, and aging advances to this work and is not confident of willpower and physical strength very much. As I do my best as much as possible, I get power when many people can read it. please support it.

 

2024.1.7 諺集に見るわが人生(241)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「さから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「三代続けば末代続く」家は三代目で滅びることが多く、そこを切り抜ければ、後はいつまでも続くものであること。 創業者は苦労して築き上げ、二代目はそれを見ているので堅実にあるが、三代目になると苦労も知らず、結局家運を傾かせることが多いことから。
(解説)話を簡単にすると、最初の人(創業者)はすごく頑張って、何か新しいことを始めたり、家や会社を築き上げたりするわけ。で、次の二代目は、その初代の頑張りを目の当たりにしてるから、ちゃんとその基盤を守ろうと頑張るんだ。
でも、三代目になると、最初の人の苦労を直接見てないことが多いから、時々、お金の使い方が大雑把になったり、気を抜いたりしてしまうことがあるんだ。そうすると、家や会社が大変なことになっちゃうことも。
でも、もし三代目がそれを乗り越えて、うまくやっていけたら、その後も家や会社は順調に続いていく可能性が高くなる、っていうわけ。(proverb-encyclopedia.com)
中小企業などでは後継者不足で店を畳んでしまうことも多い。

 「三度目の正直」一度や二度は当てにならないが、三度目なら確実であるということ。また、物事は三度目に期待通りの結果が得られるということ。三度目の正直の「三度」には、特に意味はないようだ。しかし、「仏の顔も三度」や「二度あることは三度ある」などの「三度」を使った慣用句は多いことからも、古来「三度」には重要な意味があったと考えられる。
 (由来)「三度目の正直」の由来は定かではないが、最も有力な説として、占いや賭け事から来ているとされている。3度目が本番という言い伝えが昔からあるとされており、それが占いや賭け事にて用いられていたことが由来となっている可能性が高い。
 (例文)三度目の正直ということもあるから、もう一度だけ挑戦してみるつもりだ。
 昔の話、私は初めて買った宝くじで5万円あてた。 それではまってジャンボは必ず買った。いつも連番10枚で大穴狙い。それを続けたが、3度目もそれからずっと当たらないまま、あっという間に元手の5万円を使い果たし、その後も負け続け、すべて夢に終わり、仕事を辞めてから購入したことはない。
 3千円 元手をかけて 買い続け すべてが消える 春の淡雪   次回に続く。

 

2024.1.10 諺集に見るわが人生(242)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「さから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「山中暦日なし(さんちゅうれきじつなし)」
 世間から隔たって山中にのんびりと暮らしていると、歳月のたつのを忘れる。
 (出典)「唐詩選‐太上隠者作、答人詩」の「偶来二松樹下一、高レ枕石頭眠、山中無二暦日一、寒尽不レ知レ年」から
 (例文)季節ごとの行事を楽しむのも良いが、山中暦日なしのような時に縛られない大らかな生活も良い。
私なども高齢化するにしたがって体のあちこちが軋み自由に動けなくなり、人との交流も減っている。一日に大半は暦日なしの生活だが、週1回リハビリ施設で多くの人と接し対話する。これも楽しいかな人生である。

 

「三人寄れば文殊の知恵(さんにんよればもんじゅのちえ)」凡人であっても三人集まって考えれば、すばらしい知恵が出るものだというたとえ。
▷文殊=知恵をつかさどる菩薩。このことわざは、単独で考えるよりも、複数人で協力することが大切であることを示している 。
 (例文)三人寄れば文殊の知恵というように、みんなで話し合っていると、他の人の言葉がヒントになって新たな考えが生まれるものだ。
(由来)元々仏教から来ており、知恵(智慧)をつかさどる文殊菩薩からできたことわざ。本来は、1人でも3人でも文殊菩薩に知恵で勝ることはできなが、"1人よりは3人の方が良い"という比喩表現。 
 現役の頃はよく会議をした。これはそれによって知恵を出し合う機会とする面が大きい。

 

「三遍回って煙草にしょ」さんべんまわってたばこにしょ)」念には念を入れて,手落ちがないことを確かめてから休憩にしよう。休むことを急いで仕事をいいかげんにするな,という意。夜回りする時、三度見回って安全を確かめてから一服しようというところから。『江戸いろはかるた』の一つ。
 (由来)昔、夜回りの人が念のために三回夜回りをしてから、休憩の煙草を吸おうとしたことが由来とされている。
 (例文)会議に使う書類を作っていて、完璧だと思ったけれど三遍回って煙草にしょというから、もう一度確認をしよう。
 (類義語)・念には念を入れよ・浅い川も深く渡れ・石橋を叩いて渡る
 何をするにも慎重な心構えが必要だ。  次回に続く。

 

2024.1.13 諺集に見るわが人生(243)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「さから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「三位一体(さんみいったい)」キリスト教において・父(=父なる神・主権)・子(=神の子・子なるイエス・キリスト)・霊(=聖霊・聖神)の三つが「一体(=唯一神・唯一の神)」であるとする教え。
三位一体の教義は新約聖書に基礎を置き、イエスと神の関係を理解しようと試みたときに議論を引き起こし、系統立てて説明され、確立したものである。
ブリタニカ百科事典はこの教義の基礎である聖句について、
「父と子と聖霊の関係は,大宣教命令として知られる次の新約聖書の個所でも関連づけられている。「それゆえ,あなたがたは行って,あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け (なさい) 」 (マタイ 28・19)。
(祈祷文)祈祷においては、カトリック教会の典礼・祈祷、聖公会および一部プロテスタントの祈りにおいて「父と子と聖霊の御名において」、正教会の奉神礼で「父と子と聖神(せいしん)の名に依る(よる)」[64]と唱えられることに反映されている。
神様の三位一体性を信じるこの信条はキリスト教会にとってきわめて大切であり、このことを認めない人はキリスト信仰者とみなされない、というのが教会の伝統に基づく立場である。

 

「三余(さんよ)」 勉学に最適な三つの余暇。人間の生活の中には冬 (年の余り )、夜 (日の余り )、雨 (時の余り )の三つの余暇があり、勉学するにはこの余暇を使えば十分であるということ。
(補説)魏の董遇(どうぐう)いう学者が、学問をする暇がないという弟子に教えたことばで、出典には「 ・・・まさに三余をもってすべし。……冬は歳(とし)の余り、夜は日の余り、陰雨 (長雨 )は時の余りなり」とある。
(出典)中国三国時代、魏ぎの董遇とうぐうが勉学する時間がないと嘆く弟子を諭した語。
私は「読書の秋」という成句がすきだ。とはいえ最近は本ではなく、スマートフォンで風呂に浸かりながら、一日の出来事を中心に見ている。スマホにはkindle(アマゾンキンドル本)にダウンロードした書籍が保存されており、気の向いた時に読書している。三余ではなく「風呂」が勉学に向いた余暇である。時たまのぼせるという弊害もあるが。  次回に続く。

 

2024.1.17 諺集に見るわが人生(244)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「塩にて淵を埋むが如し」してもしがいのないこと、とうていできないことのたとえで、次々と消えてしまい、たまることのないようすのたとえ。 深い水たまりを塩で埋めようとする意味から「淵に塩」ともいう。
(使い方)どんなに頑張っても無理そうなことや、結果が期待できないことを示す時に使う。
(使用例)コツコツ500円貯金をしても、10億円貯めるのは塩にて淵を埋む如しだ。
「塵も積もれば山となる」ということわざもある。
私などは無駄な努力をしている。

 

 「四海兄弟(しかい-けいてい)」真心と礼儀を尽くして他者に交われば、世界中の人々はみな兄弟のように仲良くなること。また、そうすべきであること。▽「四海」は四方の海。転じて、天下、世界中の意。「兄弟」は「きょうだい」とも読む。
(由来)『論語』の子夏の言葉から。「"四海兄弟"是一个四字成语,意思是"世界上的人应该像兄弟一样相互爱护"。其中,"四海"指的是东西南北的海洋,引申为"世界中的人",而"兄弟"则表示人们像兄弟一样互相珍视。这个成语的出处是中国春秋时代的思想家孔子的《论语·颜淵》一文。
(用例)一視同仁、四海兄弟といえば、この地球はあたかも一家の如ごとく、地球上の人民は等しく兄弟の如くにして、その相交るの情に厚薄の差別あるべからず。<福沢諭吉・文明論之概略>
(類義語)四海同胞/四海皆兄弟/四海の内は皆兄弟なり/和を以て貴しとなす
世界では今こうしたことわざとは真逆な事態が多く発生している。国連は全く機能していない。

 

 「志学(しがく)」学問にこころざすこと。
(出典)『論語』為政篇、孔子が自身の生涯を語ったことば――吾十有五にして学を志し、三十にして立ち、四十にして惑わず。五十にして 天命を知り、六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えずから「一五歳を志学、三〇歳を而立、四〇歳を不惑、五〇歳を知命、六〇歳を耳順、七〇歳を従心と称する。「吾、15にして学に志し、30にして立ち、40にして惑わず、50にして天命を知る。60にして耳順(耳にしたがう)、70にして心の欲するところに従って矩(のり)をこえず」
私は回顧するに、未だ学成り難し  次回に続く。

 

2024.1.21 諺集に見るわが人生(245)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「自画自賛(じが-じさん)」 自分で自分のことを褒めること。この言葉は、自分で描いた画に自分で詩文を書くことが由来になっている。詩文を書くことを「賛」と言い、普通は他人に書いてもらうものだが、自分で書くこともある。自画自賛は、ポジティブな意味で喜びを表すこともあれば、ネガティブな意味でずうずうしいと批判することもある。
ではなぜ自画自賛なのか?自分自身を褒めることなので、自画ではなく自我ではないのか・・。
(由来)自画自賛とは、もともと自分で書いた画に、自分自身の手で賛を入れることからきている。
(類義)・手前味噌(てまえみそ)・一分自慢(いちぶじまん)・自惚れ/己惚れ(うぬぼれ)
長くやっている事柄の内面にはこうした一面があるかも知れない。

 

 「自家撞着(じかどうちゃく)」同じ人の言動や文章などが、前後で矛盾していること。自分で自分の言行に反すること。▷自家=自分自身のこと。撞着=突き当たること。矛盾すること。
(由来)禅宗における課題が書かれている「公安集」に語源があるとされている。そのなかにある記述が「回頭撞着自家底」というもの。ここでは、「山の頂上は見えず、海の底も見えず、目の前には土埃が立ち、前方すらも見えない。振り返っても自分自身がどのように来たのかもわからない」ということが書かれている。
過去に辿ってきた道がわからなくなってしまうという意味が転じて、前後の言動に矛盾が生じるという意味の「自家撞着」という言葉ができたのだろう。
(例文)多くの人の意見を取り入れていると、やがて自家撞着をきたすだろう
私は歩行音痴だから道を覚えられずに、車を運転していた時代には目的地に着くのに、何回も道を間違えたものだ。まさに言葉通りの自家撞着である。  次回に続く。

 

2024.1.24 諺集に見るわが人生(246)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「歯牙にもかけない(しがにもかけない)」問題にしない、相手にしない、無視するという意味の言葉。歯牙は歯と牙の意で、口や言葉を表してる。この言葉の由来は、中国の古典「史記」にある陳勝という武人の話から来たとされている。また、嫌な出来事や批判などを気にしないという意味で使われることもある。
(類義語)【目もくれない】見向きもしない。少しの関心も示さない。
【眼中にない】気にかけない。何とも思わない。
【けんもほろろ】頼みや相談事を無愛想に断るさ
【にべもない】愛想がない様子。そっけがない様子。
【木で鼻をくくる】無愛想に相手をもてなす様子。
【取り付く島もない】相手が無愛想で、話を進めるきっかけがない様子。
(使用例)歯牙にもかけないほど弱かったチームなのに、まさかあそこまで強くなるとはね。
冗談で言ったことは本気に取らず、歯牙にもかけない。又聞きの美味しい話なども歯牙にもかけない。ということは詐欺が横行する世の中では心がけるべき対応の仕方である。

 

 「自家薬籠中の物(じかやくろうちゅうのもの)いつでも自分の思う通りに利用できる人や物。また、すっかり身についた知識や技術のたとえ。
(注釈・由来)
「自家」は、自分。「薬籠」とは、薬箱のことで、自家薬籠中の物は、自分の薬箱に入れてある薬品のように、いつでも自分の思うままに使えるものということから。
現在では多く、自分のものとした知識や技術に対して使われる。
唐の元澹が首相の狄仁傑に「ご使用になっている薬の一つに、私を加えてお使いになって下さい」と言ったところ、狄仁傑は「君はすでに私の薬籠中のもので、欠かせない人だ」と言ったという故事に由来する。
(類義語)無用の用(むようのよう)一見役に立ちそうもない物や事柄などが、実際には大きな役割を果たしていること。
(由来)『旧唐書・元澹伝げんだんでん』にある故事に基づく。唐の元澹(げんたん)が首相の狄仁傑(てきじんけつ)に「ご使用になっている薬の一つに、私を加えてお使いになって下さい」と言ったところ、狄仁傑は「君はすでに私の薬籠中のもので、欠かせない人だ」と言ったことから。
(使用例)世界中の人にとって、スマホは自家薬籠中の物だ。
私はパソコンを使い始めてから25年が過ぎ、やっと自家薬籠中の物になった。  次回に続く。

 

2024.1.27 諺集に見るわが人生(247)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「鹿を追う者は山を見ず」1つの対象を追求するあまり他を顧みる余裕がないことを例えた表現。 また、利益を得ることに熱中している者は、他のことを顧みなくなることの例えとしても使用される。 特定の物事に囚われていることで、本質を見失っている状態を指すこともある。
「淮南子」の「獣を逐う者は、目に太山を見ず」から来ていて、ある目的や利益に熱中して追い求める者は、他の大事な事柄や状況に気を取られなくなる、という意味。
(類義語)・木を数えて林を忘れる・木を見て森を見ず・金を攫つかむ者は人を見ず・木っ端を拾うて材木を流す
(例文)「目先の利益だけではなくお客様のことも考えましょう。鹿を追う者は山を見ず、今は良くても続きませんよ」
目先のことに捉われて、つい本来の目的を忘れてしまうことはよくある。

 

「只管打坐(しかんたざ)」ひたすら坐禅すること。 「只管」とは、ひたすら、ただもっぱらそのことだけをする、という意味である。「打坐」とは、座ること、坐禅をすることという意味です。 また、「只管打坐」の重要なポイントは、悟りを求めるなど、なんらの目的も持たず、ただひたすらに坐禅することにある。
「只管打坐」は曹洞宗の道元が説いた、ただひたすら座り続ける坐禅修行のやり方のこと。只管打坐は「心身脱落」の境地を目指す。
「只管打坐」によって「心身脱落」の境地に至ることが、道元の禅の教え。道元の著書『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』には、「仏道を学ぶとは、自己を学ぶことです。自己を学ぶとは、自己を忘れることだ」と書かれている。
道元禅については、ポケットの「話の市」の中の老いて後に「禅を知る」を閲覧して頂きたい。 次回に続く。

 

2024.1.30 諺集に見るわが人生(248)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 「色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)」色は空にほかなからず、空は色にほかならない。現実世界はそのまま空であり、しかし、空がそのまま現実世界として現れているのだということ。
▷色=因縁によって生じた事物・現象。空=実態がなく空無であること。
(出典)仏教用語。『般若心経(はんにゃしんぎょう)』のなかのことばとして有名。物質的なもの(色(しき))はそのまま実体性をもたず(空(くう))であり、しかも空でありながらいろいろの原因条件によって現象しつつある、という般若経典の基本である空の思想を表現したもの。前半は、あらゆるものを空とみることによって人間の煩悩(ぼんのう)や妄想(もうそう)を取り除くことをねらい、否定的であり、後半は、執着のない目でみたとき、あらゆるものがそれぞれの働きをもって生き生きと現象し存在していることを肯定的に表している。
禅においては「不立文字」といって禅においては「不立文字」といって中心経典を立てず、唯一「般若心経」を使っている(他の宗教でも多く使われている)この文言は2段目に書かれている。

 「四苦八苦(しくはっく)」色は空にほかなからず、空は色にほかならない。現実世界はそのまま空であり、しかし、空がそのまま現実世界として現れているのだということ。
▷色=因縁によって生じた事物・現象。空=実態がなく空無であること。
(出典)仏教用語。『般若心経(はんにゃしんぎょう)』のなかのことばとして有名。般若経典の基本である空の思想を表現したもの。お釈迦様(ブッダ)は苦しみを以下の8つに分けて表している。
生苦(生まれる苦しみ)・老苦(老いる苦しみ)・病苦(病の苦しみ)・死苦(死ぬ苦しみ)・愛別離苦(あいべつりく:愛するものととの別れによる苦しみ)・怨憎会苦(おんぞうえく:恨み憎しみを感じる人と会わなければならない苦しみ)・求不得苦(ぐふとっく:求めても得られない苦しみ)・五蘊盛苦(ごうんじょうく:煩悩が盛んが故に苦しむ)
上記4つ(生老病死)を四苦といい、他の4つと合わせて四苦八苦という。
(使用例)とても辛いときや激しい苦しみをうけているとき、「四苦八苦した」「四苦八苦する道のりだ」などと使う。
(例文)この世は色即是空、空即是色だ。地位にしがみっく必要などないよ。
禅においては「不立文字」といって中心経典を立てず、唯一「般若心経」を使っている(他の宗教でも多く使われている)この文言は2段目に書かれている。 次回に続く。