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2024.7.3 諺集に見るわが人生(284)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「掌中の珠(しょうちゅうのたま)」
もっとも大切にしているもの。特に、最愛の妻、わが子のたとえ。
(注釈)「掌中」は、手のひらの中。
「珠」は、きわめて大切に思う貴重なものの意。
いつも手のひらの中にある大切なものということから。
(由来)傳玄の詩『短歌行』に「昔、君、我を視ること掌中の珠の如し、何の意か一朝にして我を溝渠に棄つるや (昔あなたは私を大切な子供のように見てくれたのに、今となって珠を溝に捨てるようにどうして見放すのか)」とある。
(例文)彼にとって娘は掌中の珠のようなもので、目の中に入れても痛くない存在だった。

 

「少年老いやすく学成り難し」」人は若いうちから時間を惜しんで学問に励むべきだという戒め。
(注釈)人は、若いうちは先が長いものだと思っているが、すぐに歳をとってしまうもの。
反して、学問は容易に修めがたいものであるから、若いうちから時間を惜しんで勉学に励むべきだということ。
ここでの 「少年」は男子だけではなく、女子を含めた少年少女の意。
(由来)朱嘉の詩『偶成』に
少年易老學難成
一寸光陰不可輕
未覺池塘春草夢
階前梧葉已秋聲
少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢
階前の梧葉(ごよう)已(すで)に秋声
とある。

 

 「少年よ大志を抱け」洋々たる前途を持つ若者たちは大きな志を持って勉学に努め、成し遂げたいことを持って世の中に出るべきだという励ましのことば。
(由来)明治初頭の1876年、札幌農学校の新設に伴い、日本に招かれた教育者
ウィリアム・スミス・クラーク。
多くの生徒から恩師と慕われる彼の教えは、明治以降の日本において数々の有識者を生み出した。
そんなクラーク博士には、日本の生徒に残したある名言があります。
「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」
あまりにも有名なこの一言。
1877年4月16日、帰国に際し見送りにやってきた札幌農学校の学生たちに、クラーク博士は馬上からこの言葉を投げかけた。このあとクラーク博士の教えを受けた生徒たちは、日本の未来を背負う存在となり、さまざまな分野で活躍していくことになった。
次回に続く。

 

2024.7.8. 諺集に見るわが人生(285)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「商売は草の種」商売の種類が非常に多く、さまざまな形があることを表している。草の種が数多く存在するように、商売もまた多種多様で、それぞれ異なる特徴や方法があることを示している。
この言葉は、世の中には様々なビジネスのチャンスがあり、それぞれの商売には独自のニーズや市場が存在するということを示している。例えば、食品業界、技術業界、教育業界など、多くの異なる分野があり、それぞれが特有の特性や対象顧客を持っている。
つまり、「商売は草の種」ということわざは、ビジネスの世界が非常に広く、多様であることを表していて、新しいアイディアや機会が無限にあることを示唆している。それぞれの商売がその独自性を持ち、それぞれに合った方法で発展していくということを教えている。
(使用例)商店街を歩いていると商売は草の種なんだなって思うほど業種が多いのに驚くほどだ。
商売するチャンスは多くあるが、資金面で手当てできずに諦めることが多い。

 

 「焦眉の急(しょうびのきゅう)」非常に差し迫った危険、問題を抱えていることのたとえ。
(由来) 眉毛が焦げるほど近くまで火が迫っていて、きわめて危険な状態である意味から。
「切迫する事態とはどんな事だ?」との問いに対して、「火が眉をやく時だ」と答えたという中国の禅問答故事に由来する。『五灯会元(ごとうえげん)』という書物が由来です。「五灯会元」とは中国南宋代に成立した禅宗の歴史書のことです。
その中の一節に、「禅問答」に関する興味深いエピソードが残されています。※「禅問答 (ぜんもんどう)」とは「修行者が疑問を発し、師匠が答えること」
(例文)今日中に緊急会議を開かねばならない。焦眉の急だ。 次回に続く。

 

2024.7.11 諺集に見るわが人生(286)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「章甫を資して越に適く(しゅうほをししてえつにゆく)」場所や状況に合わない行動や判断をすることを表している。具体的には、価値のあるもの(章甫の冠)を持って、それが全く必要とされない場所(越の国)へ行くことから来ている。
(補説)「宋人(そうひと)章甫を資して越に適く。越人(えつじん)は断髪(だんぱつ)文身(ぶんしん)にして之を用うる所なし(越の人はみな頭髪を短くしており、身体には入墨をし、原始的な風俗であって冠などまったく必要なかった。)」とある。
裸族と交われば衣装などまったく無用であると同じか。

 

 「小利は大利の残(そこ)い」短期的で小さな利益が長期的で大きな利益を得ることを妨げるということ。これは、目先の利益にとらわれて大切な大きなチャンスを見失うことの愚かしさを表している。もっと大きな利益をもたらす長期的な計画や投資を見落としてしまうような状況がこれにあたる。
(由来)「論語」速やかなるを欲するなかれ。小利を見るなかれ。速やかならんと欲すれば、則ち達せず。小利を見れば、則ち大事成らず。
(例文)目先の利益に飛びつきたくなるのが人間の性だが、小利は大利の残いだ。
最近のネット詐欺は、人の目先を欺いて大金を稼いでいる例がみらっれる。

 

 「蕉鹿の夢(しょうろく)のゆめ)」成功や失敗が夢のようにはかなく、一時的なものであるということ。つまり、「成功も失敗も、夢のようにはかないもんだ」ということ。
(出典)「列子」昔、鄭の国の人が捕らえた鹿を堀に隠し芭蕉の葉で覆った。そのうち隠した場所を忘れ、あれは夢だったとあきらめたという故事から。
(例文)人生の成否は蕉鹿の夢ではかないものだから、執着してもしょうがないとあきらめる。
次回に続く。

 

2024.7.17 諺集に見るわが人生(287)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「蕉鹿の夢(しょうろくのゆめ)」人生の損得は夢のようにはかない。あきらめがよいこと。そして時には現実を受け入れて新たな道を進むことが重要だとしている。
(出典)「列子(れっし)」昔、鄭の国の人が捕らえた鹿を堀に隠し芭蕉の葉で覆った。そのうち隠した場所を忘れ、あれは夢だったとあきらめたという故事から。
(例文)人生前に進むために蕉鹿の夢の姿勢が大事だ。
ヘソクリを隠した場所を忘れてしまい、ゴミと一緒に出してしまったという話は枚挙に暇がない。

 

 「小を捨てて大に就く(しょうをすててだいにつく)」小さな利益や事柄を犠牲にしてでも、より重要な大きな目標や価値を達成することを意味している。これは、長期的な視野で考え、大きな成果や利益を得るためには、一時的な小さな利益や快楽を放棄することが必要だという考え方を表している。
(例文)小を捨てて大に就く、私には大事な任務があるから君の愚痴なんて聞いていられない。
(出典)「荘子・天下」の「大同にして、小同と異なる、此を之れ小同異と謂ふ」。

 

 「諸行無常(しょぎょうむじょう)」この世に存在するすべてのものは、同じ状態を保つことなく移り変わっていき、永久不変なものなどないということ。
(由来)諸行無常の 「諸行」は、この世の一切の事物・現象。
「無常」とは、この世にある一切のものは常に移り変わり、不変のものはないということ。
仏教の思想にある根本的なもので、あらゆるものは刹那 (一瞬)の間にも変化をくり返していることをいう。
人生のはかなさを表す言葉であり、一般的には、世の中の移り変わりの激しさや人の死を嘆くときに使われる。
諸行無常は、仏法の大網である『三法印』の一つで、宋代の仏教書『景徳伝灯録』では、釈迦牟尼仏が入滅するときに、沙羅双樹の木の下で説いた言葉とされている。
『涅槃経』にある「諸行無常是生滅法生滅滅已寂滅爲樂」のことを『諸行無常偶』とい
う。
『平家物語』の冒頭では、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらわす」と使われている。
迦牟尼仏が入滅するときに、沙羅双樹の木の下で説いた言葉とされている。 次回に続く。

 

2024.7.21 諺集に見るわが人生(288)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「初心忘るべからず」世阿弥が40代の頃から20年ほどかけて書いた『花鏡かきょう』という本に出てくる言葉で世阿弥が40代の頃から20年ほどかけて書いた『花鏡かきょう』という本に出てくるフレーズで三つの分けて書かれている・
是非の初心忘るべからず。
時々の初心忘るべからず。
老後の初心忘るべからず。
 誰もが知る「初心忘(れ)るべからず」は、もともとは世阿弥のことば。現代では、「物事に慣れると慢心してしまいがちだが、最初のころの志を忘れてはいけない」という意味で使われるのが一般的だ。しかし世阿弥のことばはもっと深く、繊細な意味を持っているのだという。
ご存知のとおり、世阿弥は能の大成者。それまで各地で催されていた猿楽や田楽を、室町幕府三代将軍足利義満の庇護を受け、観阿弥・世阿弥親子が能という芸術に進化させたわけである。
 世阿弥が観阿弥から伝えられた芸の極意をまとめた『風姿花伝』、後期に著した『花鏡』は、日本の文化史上特に優れた作品であり、世界的に見ても類のない芸術論として有名だ。
 「初心忘るべからず。」は、そんな『花鏡』の最後、「奥の段」に出てくることば。上記のように「是非の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。」と3つに分けられている。 
「是非の初心忘るべからず。」が説いているのは、「未熟だったときの芸も忘れることなく、判断基準として芸を向上させていかねばならない」ということ。
 「時々の初心忘るべからず」は、「その年齢にふさわしい芸に挑むということは、その段階においては初心者であり、やはり未熟さ、つたなさがある。そのひとつひとつを忘れてはならない」ということ。
 そして「老後の初心忘るべからず」は、「老年期になって初めて行う芸というものがあり、初心がある。年をとったからもういいとか、完成したとかいうことはない」ということ。
 限りのない芸の向上を目指すべしと説いているわけで、これは定年を前に老後に至ってからも自分の未熟さを忘れないことが大事だということ。
今回は紙数を多く取ったので、以下次号に続く。

 

2024.7.24 諺集に見るわが人生(289)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「食指が動く」その対象に興味を持って、食したり、得たりすることを求める、という意味の言葉。「食指が動く」は食べ物についてだけではなく、食べ物以外への興味にも使うことができる。
普段の生活でも、何かを取ろうとしたときや、つまんで食べようとしたときに、まず動く指は人差し指である「食指」です。この動きから、興味を持って行動に出ることを「食指が動く」と言う。
「食指」は「人差し指」の別名です。同じように、人差し指を示す類語には"示指"や"塩なめ指"などがある。
「示指(しじ)」とは医学用語での"人差し指"のことで、物を示すときに使う指、という意味で「示指」と言われている。他にも、医学では「第二指(だいにし)」とも言うそうだ。
「塩なめ指」とは、大和言葉のひとつで、これも"人差し指"のことです。塩をなめるときに使う指、という意味と言われている。
(由来)中国の史書「春秋」の中にある、「春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)」。
「春秋左氏伝」では、周の時代の人物「子公(しこう)」について書かれている一説がある。そこには「子公は自分の人差し指が勝手に動いたときは、ご馳走を食べられる、と縁起を担いでいた」、と書かれており、実際にその通りになったことが何度もあるとも残されている。
(例文)・熱々のステーキは写真を見ただけで、思わず食指が動くね。・新しい商品には、ついつい食指が動くものです。

 

 「白河夜船(しらかわよふね)」何が起きても気づかないほど、ぐっすり眠っていることのたとえ。また、知ったかぶりをすること。
(由来)白河は、京都の地名。
「京都を見物してきた」と嘘を言った者が、白河のことを聞かれて川の名前だと思い、「夜中に船で通ったので知らない」と答え、嘘がばれたという話からとされている。
「白川夜船」や 「白河夜舟」とも書いたり、「夜船」は 「よぶね」とも読む。
(由来)とある人物が実際には京都を訪れたことがないが、「京都を見物してきた」と嘘をつき、白河について知らなかったため、「夜に船で通過した」と答えた逸話から。
(例文)せっかくの夜景も白河夜船で見過ごしてしまった。  次回に続く。

 

2024.7.28 諺集に見るわが人生(290)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「しから始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「知らざるを知らずと為せ、是知るなり」知っていることを知っていることだとし、知らないことを知らないことだとする。 それが本当に物事を知っているということだ。
(出典)之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す。 是れ知るなり 之 これ を 知 し るを 之 これ を 知 し ると 為 な し、 知 し らざるを 知 し らずと 為 な す。 是 こ れ 知 し るなり「子曰、由、誨女知之乎。知之為知之、不知為不知。是知也。」 出典: 『論語』為政第二17
(補説)この教えは、知識や理解において自己の限界を自覚することが、真の知恵の始まりであるということを示している。つまり、自分が何を知らないのかを理解することが、さらなる学びや成長への第一歩であるという考え方を示している

 

 「知らぬが仏」知らぬが仏とは、不愉快な事実を知れば、腹が立ったり悩んだりするが、知らなければ平静な心でいられる。また、本人だけが知らずに澄ましているさまを、あざけって言うことば。
(例文)知らぬが仏ということもあるから、そのことは知らせずにおこう。
(類義語)知らぬが仏、知るが煩悩/知らぬが仏、見ぬが秘事/知らぬは仏、見ぬが神/聞かぬが仏/聞くは気の毒、見るは目の毒/聞けば聞き腹/無いが極楽、知らぬが仏/見ぬが仏、聞かぬが花/見ぬは極楽、知らぬは仏枕/見ぬもの清し/人生字を識るは憂患の始め/世間知らずの高枕
これだけ類義語が多いのは、世の中それほど知らない方がいいのだとつくづく思う。

 

 「白羽の矢が立つ」《人身御供 (ひとみごくう) を求める神が、その望む少女の家の屋根に人知れずしるしの白羽の矢を立てるという俗説から》多くの中から犠牲者として選び出される。また、一般に多くの中から特に選び出される。
(類語)白羽が立つ/白羽の矢が立てられる/白羽の矢を立てられる/選抜される/抜擢される/選択される/選び出される/選び抜かれる/選ばれる/決まる/貧乏くじを引く/お鉢が回る /出番になる
「白羽の矢が当たる」は誤用になってしまうので、気を付けょう! 次回に続く。