2024.11.4 諺集に見るわが人生(312)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「せ」を、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「世間は広いようで狭い」世界がとても大きいように感じられるけれど、実際には思いがけず知っている人に出会うことがよくある、という意味を持っている。
たとえば、遠くの旅行先や、予期しない場所で突然、昔の友達や知り合いに会うことがある。これは、世の中が思ったよりも狭くて、人々のつながりが広がっていることを示している。
(例文)偶然会ったんだ。こんなところで会うなんて世間は広いようで狭いね。
「是々非々(ぜぜひひ)」良いことは良い、悪いことは悪い、と事に応じて判断すること。「是」は「道理にかなったこと。良いこと。正しいこと」、「非」は「道理にあわないこと。よくないこと。不正。あやまり」を意味する。
(由来)『荀子』の「是を是とし非を非とする、これを知といい、是を非とし非を是とする、これを愚という」という一文から。
(例文)是々非々の討論が活発に展開する。
「世帯仏法腹念仏(せたいぶっぽうはらねぶつ)」信心 ・ 信仰 も現実 世界 を生活していくためのものであるという風刺の意を込めた俗諺。 仏法 は世帯(所帯)のため、 念仏 はお腹を満たすため、つまり 仏法 も所詮は生計を立てるためのもの、 念仏 は飯を食うためのものということ。
(例文)仏に救済を願うためにお経を唱えるものなのだが、お布施をもらう以上世帯仏法腹念仏だ。
「切磋琢磨(せっさたくま)」学問や精神、また人格や道徳心を磨き、仲間同士で励まし合いながらお互いが相互に向上すること。
(由来)中国最古の詩集として知られる「詩経」の「衛風(えいふう)」と「淇奧(きいく)」にある「如切如磋 如琢如磨」から来た言葉。
(例文)「切磋琢磨」することで、お互い成長することができる。 次回に続く。
2024.11.7 諺集に見るわが人生(313)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「せ」を、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「切歯扼腕(せっしやくわん)」歯ぎしりして腕を自分の手で握って押さえ付けるほど悔しがること。
(由来)燕(えん)の太子、丹(タン)は秦の人質でしたが、脱出して燕に帰り、秦王政(セイ)の暗殺を企てます。それに選ばれたのが荊軻(ケイカ)です。荊軻は、秦の将軍で燕に亡命していた樊於期(ハンオキ)の首と燕の肥沃な土地の地図とをもって、秦王に近づき、隙を見て刺殺(シサツ)する方法しかないと考え、樊於期にこの計画を話したところ、樊於期は自分の腕を強く握りしめて(扼腕)、「これこそ わたしが日夜切歯(「歯ぎしり」のこと。 前歯の意味ではありません)して、心を砕いてきたところだ」(「切歯扼腕」)と、自ら自分の首を切り落としました。
(例文)先手をとられたことに、切歯拒腕するほかない。
「絶体絶命(ぜったいぜつめい)」どうしても逃れられない困難な場合・立場にあること。追い詰められた状態。
[補説]「絶体」「絶命」はともに九星術でいう凶星の名。「絶対絶命」と書くのは誤り。
(由来)「絶体」は、体をそこねること。『荘子(そうじ)』に見える。「意(おもい)を繚(めぐ)らし体を絶ちて此(これ)を争う。亦(ま)た惑(まどい)ならずや」(人々が心をめぐらし、体を損なってまで財貨を争うのは、迷いも甚だしいではないか)とある。
「絶命」は、死ぬことで、古くは『書経(しょきょう)』にも見え、今も普通に使われる語だ。
(例文)どちらも勝ち目はなかった。 絶体絶命だった。 我々は絶体絶命のピンチに追い込まれた。 次回に続く。
2024.11.11 諺集に見るわが人生(314)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「せ」を、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「雪中の松柏(せっちゅうのしょうはく)」志や節操、主義を決して曲げないことのたとえ。
植物の松や柏の葉の色は、雪が降っても緑色のまま変わらないということから。「柏」はブナ科の落葉樹で、「かしわ」ではなく、檜(ひのき)や椹(さわら)、側柏(このてがしわ)などの常緑樹を総して称する言葉。
(由来)「謝紡得(しゃぼうとく)」の「初めて建寧(けんねい)に到りて賦するの詩」雪中松柏愈青青 雪中の松柏は愈(いよいよ)青青この志 ますます燃えなん
(使用例)時代が変わっても、雪中松柏、職人がやることには変わりがない。
「節を折る」自分の主義や主張を変えて、人の意見・考えに疑うこと。
元々「節」は「ふし」とも読み、竹の継ぎ目を表す。竹の節目はとても硬く、少々のことでは曲がったり折れたりすることがない。その強固な状態を人間の意思や強い気持ちに例えて「節を屈する」という言葉ができている。
(由来)秦策の「戦国策」にある。
(例文)権力に負けて節を折るのは格好悪いなあ。
「銭無き男は帆の無き舟の如し」お金がない男性は、帆のない船のように自分で方向を決めることができないという意味。 帆がない船は風に流されてしまうように、お金がないと、人は自分の意思で物事を決めるのが難しくなるということを表している。
総じて、この表現は、金銭が人の生活や選択に大きな影響を及ぼすという社会的な現実を反映しており、その影響力について考えさせる言葉である。
(例文)自由がほしいなら金持ちになるしかない。銭無き男は帆の無き舟の如しだ。
(類義)中国のことわざでは、「銭ある時は鬼をも使う」
あの怖い鬼でさえ、金の力にはかなわないという意味。
次回に続く。
2024.11.14 諺集に見るわが人生(315)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「せ」を、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「背に腹は代えられぬ]「差し迫った状況を回避するために、やむなく物事を選択する」という意味。 この他にも、「大きな犠牲を避けるために、多少の犠牲を仕方なく受け入れる」「大切なものを守るために覚悟をする」という意味でも使われる。
(注釈)背中は背骨や肋骨で守られているため、少しの傷くらいであれば生命に影響はないが、守るものがなく五臓六腑がおさまっている腹は、傷つけられれば生命に関わることから、大切なこと(腹)のためには多少の損害 (背中への傷)はやむを得ないことをいう。
「背」を他者、「腹」を自分自身に見立てて、切羽詰った状況では他を省みる暇などないという意味でも用いられる。
(例文)・背に腹は代えられない状況だから、君たちの相手をしている余裕はない。
(類義語)・仕方ない・やむを得ない・泣く泣く・涙を飲む・不承不承(ふしょうぶしょう)・時のようには鼻をも削ぐ
私のように長く生きていると、このことわざのような場面以遭遇することは多くあった。
「狭き門より入れ」狭き門より入れとは、事をなすときに、簡単な方法を選ぶより困難な道を選ぶほうが、自分を鍛えるために役立つという教え。
(由来)「狭き門」は、キリスト教で天国に至ることが困難であることをたとえた言葉。
転じて、入学試験や就職試験など、、競争相手が多くて突破するのがむずかしいことのたとえ。
『新約聖書』マタイ伝第7章に 「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きくその路は広く、これより入る者多し。いのちに至る門は狭く、その路は細く、これを見出す者なし」とある。
(例文)挑戦してみることに賛成する。狭き門より入れだ。
私は勉強嫌いだったから、狭き門には入れなかった。 次回に続く。
2024.11.18 諺集に見るわが人生(316)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「せ」を、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「瀬を踏んで淵を知る」前もって試して、どんな危険があるかを察知することのたとえ。まず浅瀬を渡ってみて、深い淵の位置を知るということから。この言葉は「瀬踏み」とも呼ばれている。
川を横断する時は流れの影響を考慮して対岸にある目的地より上流から入り、流れに押されながら下流に向かって斜めに渡っていくと楽だ。地形や周囲の状況によりけりだが、無理に流れに直角に歩く必要はない。
(例文)成功させるためには、瀬を踏んで淵を知るのは大事な工程の一つだ。
(類義語)・石橋を叩いて渡る・濡れぬ先の傘・浅い川も深く渡れ
川での犠牲者を少なくするため経験から生まれた言葉だろう。
「善因悪果を招く」良いことが起きた後には、次に悪いことが起きやすい。
このことわざは、良い意図や行為が常に良い結果をもたらすとはないという現実を教えている。また、良い行いをする際には、その結果や影響に注意深く考慮する必要があるという教えも含まれている。物事の結果は複雑で予測不可能なことが多い、故に善行をする際にも慎重に行動することが大切である。
(語源)仏教の因果応報の思想。「善因」は、善い結果を招く善い行い。「善果」は、善い結果、果報。
(類義語)•善の裏は悪•禍福は糾える縄の如し
(例文)善因悪果を招くし禍福は糾える縄の如しだから、いつまでも幸福というわけにはいかない。
世の中良いことばかりではない。必ず不幸も起きるものだ。
経験から言えば悪いことの方が多いようだ。
「千軍万馬」多くの兵士と多くの軍馬。大軍。非常に大きな軍隊。また、その勢いが強いことの形容。数多くの戦いを経験していること。転じて、豊富な社会経験があること。
多くの苦労を重ねたしたたかな老練の人を形容する。
(語源)「千」「万」は数の多いことを示す。現在では商売や仕事などの経験が豊かな意味として用いる。
(類義語)・海千山千・千兵万馬(せんぺいばんば)・•百戦錬磨 (・飽経風霜 (ほうけいふうそう)
(例文)超大物タレントとの契約がまとまり、我が事務所は千軍万馬の援軍を得た。
私の周りにも今は敗残の身だが、かつては「千軍万馬」の社会経験をして名を馳せた者も見かける。 次回に続く。
2024.11.21 諺集に見るわが人生(317)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「せ」を、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「千古不易(せんこふえき)」遠い昔からずっと変わらないこと。永久に不変であること。
注記「千古」は、遠い昔。また、長い年月のこと。永久、永遠。「不易」は、変化しないこと。「千古せんこ、易かわらず」と読み下す。命や天候など、時間とともに移りゆくものに対して使われることはない。
(類義語)万古不易、永久不変、不朽不滅など
(例文)変化の多い時代だけれど、だからこそ千古不易というものを大切していきたいと思っている。
「千載一遇(せんさいいちぐう)」滅多に訪れそうもないよい機会。二度と来ないかもしれないほど恵まれた状態。▽「載」は「年」に同じ。「一遇」は一度出会う。「遇」は思いがけず出くわす。千年に一度偶然訪れるくらいの機会という意味。
(語源)「三国志」の名臣 (立派な家臣)20人の生き方を讃えた 「三国名臣序賛」という書物に記載されている。
「千載の一遇は、賢智の嘉會なり」万年に一度しかこの世に生まれることができないのは、人間だれしも持つ決まりである。千年に一度でも、聖人・賢人に巡り合えるなら、それは幸せな出会いである。その相手に会えた場合には喜びにあふれ、会えない場合には悲嘆にくれるのである。「遇」を「偶」や「隅」と間違えて書かないように。
(例文)待ちに待った千載一遇のチャンス到来だ!
「前車の轍を踏む(ぜんしゃのてつをふむ)」これは転倒した車の轍を後の車が踏んで同じように転倒することを表した言い回し。転じて「前の人と同じ失敗を繰り返す」という意味で使われる。単体で「轍」を使う場合は「わだち」、「轍を踏む」といった言い回しの中では「てつ」と読まれることが多い。
(由来)もともとは「前車の覆(くつがえ)るは後車の戒め」という故事成語に由来する。転倒した車の跡は避けよ、つまり、前の人の失敗を繰り返すなという戒めをいう言葉で、よい手本を見習いたい場合には用いない。
(例文)前任者の轍を踏まないように注意する
次回に続く。
2024.11.24 諺集に見るわが人生(318)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「せ」を、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「千畳敷に寝ても一畳」物は必要なだけあれば事足りるということ。 [注釈] 千畳もある大きな部屋に寝ても、必要な広さはせいぜい畳一枚である意から。
(類義語)•起きて半畳寝て一畳•千石万石も飯一杯•千石万石も米五合•天下取っても二合半
(例文)大量生産大量消費の時代は終わった。これからは、千畳敷に寝ても一畳と戒め、欲望と戦い生きていく。
類義語の「起きて半畳寝て一畳」の方がよく使われ、イメージがが浮かびやすい。その意味は次の通り 1.人間が生活するのに、無駄に広いのは不要なだけという教え。 2.どんな人間でも立ち上がれば半畳、寝ても一畳あれば十分足りる。 3.人並みの生活で満足し、贅沢は禁止。
私も「人並みの生活ができればそれで十分」だと思う。
「禅譲放伐(ぜんじょうほうばつ)」中国における天子ないしは王朝を交代する二つの方法。 「禅譲」は世襲せずに、君主が自ら選んで徳がある人に譲ること。 「放伐」は悪政を行う君主を、臣下が武力で打ち倒したり、追放したりして地位を奪うこと。天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを簒奪と呼ぶことがある。
歴史的な文脈で見ると、禅譲と放伐は、王朝の正統性と継承の問題を考える上で重要な概念である。これらの方法がどのように実践され、どのような結果をもたらしたかは、多くの歴史書や文献で議論されている。
(出典)『孟子』梁恵王(りょうけいおう)下
具体的には克帝から舜帝への政権交代は禅譲、殷の湯王が夏の架王を伐ち位を奪ったのが放伐。
(例文)政治家が世襲をやめて、禅譲放伐の禅譲を行えば平和な世の中になるかもしれない。
今の中国は「禅譲」なのか「放伐」なのか、どちらだろう? 次回に続く。
2024.11.27 諺集に見るわが人生(319)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「せ」を、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「千緒万端、遺漏あることなし(せんしょばんたん、いろうあることなし)」多くの事柄や細部にわたって、一切の手落ちや過ちがない状態を意味している。「千緒万端」とは数え切れないほど多くの事柄や細部を指し、「遺漏」とは手落ちや忘れ去られた点を意味している。
(由来)「晋書」陶侃。陶侃(とうかん、259年 - 334年)は、中国の西晋および東晋の武将です。字は士行(しこう)で、現在の江西省九江市にあたる尋陽県の出身です。彼は東晋初期を代表する名将の一人であり、武廟六十四将にも選ばれています
(例文)—つの映画を見てもその感想は千緖万端です。
私の場合は「万端遺漏あり」
「千辛万苦(せんしんばんく)」色々な苦しみや困難のこと。 または、たくさんの苦労を経験すること。 「千」と「万」は数が多いことのたとえ。 千万の苦労をするということから。
(由来)「秦簡夫 (しんかんふ)」「趙礼譲肥 (ちょうれいじょうひ)」四より出典。
(類義語)•悪戦苦闘 (あくせんくとう)・報難辛苦 (かんなんしんく)•千荊万棘 (せんけいばんきよく)•粒粒辛苦 (りゅうりゅうしんく)
(例文)千辛万苦して手に入れた資格は、彼の努力の証だ。
私は目下将棋で悪戦苦闘している最中だ。
「先生と呼ばれる馬鹿はなし」先生と呼ばれていい気になっている者をあざけることば。また、人をむやみに先生呼ばわりする風潮への皮肉。
(由来)先生と呼ばれて得意になっている人を皮肉る川柳。詠み人知らず。
(例文)先生と言われるほどの馬鹿でなしというから、先生と呼ばれていい気になってはいけない。
私はかかりつけの医者は「先生」と呼ぶ。ほかに呼びようがないから。この場合は尊敬の念を込めている。 次回に続く。