saji2017pre

2024.9.4 諺集に見るわが人生(299)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「す」を、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 「水泡に帰す(すいほうにきす)」努力したことが無駄になること。これまで積み上げてきた努力や苦労が一瞬にして無駄になってしまうことを言い表す。
「水泡に帰する」ともいう。
(語源)「水泡」とは「水の上に浮かぶ泡」のことです。
「水泡」は大きく膨らみますが、ちょっとした刺激などであっという間に消えてしう。この水泡の様子から、はかないことの喩えとして使用されている。
「帰す」は「戻る」「終わる」という意味の文語。
「水泡」と「帰す」という言葉を組み合わせて「努力をしてきたものがあっけなく無駄になってしまうこと」を言い表す慣用句として使用されている。
(類語)・徒労に終わる・骨折り損のくたびれ儲け・画餅に帰す・元の木阿弥・棒に振る・灰燼(かいじん)と化す
(例文)ほんとうの名前を知られては、すべての計画が水泡に帰してしまう。

 「酸いも甘いも噛み分ける」人生経験を積み、人情・世事によく通じていること。主に、人生経験が豊富で世の中のことをよく知っている人を例えるような際に用いられる。 
このような人物を「酸いも甘いも噛み分ける人だ」などのように言う事ができる。つまり、様々な経験により物事の良し悪しを知っている人のことを「酸いも甘いも噛み分ける」と表現する。
(語源)「酸い」「甘い」「嚙み分ける」の三つに分けてみる。
まず、「酸い」は「酸っぱい物・悪いこと」を意味する。「酸」が付く熟語としては「酸味」(酸っぱい味)や「辛酸」(辛い目・苦しい思い)などがある。
そして、「甘い」は「甘い物・良いこと」を意味する。「甘」が含まれる言葉は、「甘味」(甘い味・面白み)や「甘い汁を吸う」(苦労せずに利益だけ得る)などが代表的。
最後の、「嚙み分ける」は、「違いを区別して味わうこと」を意味する。ここで言う違いとは「酸い」と「甘い」の違いなので、つらくて苦しい人生経験を「酸い」、楽しくて心地よい人生経験を「甘い」に例えている。
(類語)・酸いも甘いも知り抜く・酸いも甘いも知っている
(例文)彼は酸いも甘いも嚙み分けているから、心配する必要はないだろう。 次回に続く。

 

2024.9.8 諺集に見るわが人生(300)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「す」を、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。


 「騅逝かず(すいゆかず)」志と違って物事が思いどおりにゆかず苦境に陥るたとえ。
(由来)《垓下 (がいか) の戦いで漢軍に包囲された項羽が、愛馬が歩み出さないのを嘆いたという、「史記」項羽本紀の故事から》
意志と現実が異なることの難しさを教えてくれる言葉。計画通りにいかないこともあるけど、それに立ち向かうことの大切さを示している。
(例文)こんなはずじゃなかったのに。騅逝かずうまくいかなくて落ち込む。
初めて目にする諺だが、現実を看破している。

 「数奇(すうき)」 ・運命のめぐりあわせが悪いこと。また、そのさま。不運。・運命に波乱の多いこと。また、そのさま。「数」は運命、「奇」は不遇の意。
また、この言葉は 「さっき」とも読むことができる。
しかし、「すき」という読み方になると、意味が変わり、風流や文化の道、特に茶道のような伝統文化や、それを楽しむことを指す。
この場合、「数寄」とも書かれることがある。
(出典)李広(りこう)老いて数奇なり、
(例文)どんなに頑張っても成功しない、数奇な人だと思われている。

 

 「頭寒足熱(ずかんそくねつ)」頭部を冷たく冷やし、足部を暖かくすること。また、その状態。▽「頭寒」は頭部を冷やすこと。「足熱」は足を暖める意。このようにすると健康によいとされる。
(語源)スコッチ・ウィスキーの銘柄の名前にもなり、なんと「152歳」まで生きたといわれるイングランド人トーマス・パー(オールド・パー異名で知られる)が言った言葉。
足は「第二の心臓」とも呼ばれるくらい大切な部位。下半身の温度が下がってしまうと、脳が心臓により多くの血液を送るよう、命令を出す。それは身体にとってストレスになってしまい、身体機能を下げる原因となる。したがって、身体に悪い影響を与えてしまう。
反対に、頭を温めることはあまり良くない。頭を温めると、たとえ身体が冷えていても、脳は身体全体が熱くなっていると勘違いしてしまう。そのため体温を下げてしまい、身体に良くない。 そうしたことから「頭寒足熱」でいることが、健康でいる一つの方法とされている。 次回に続く。

 

2024.9.12 諺集に見るわが人生(301)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「す」を、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「好きこそものの上手なれ」どんなことであっても、人は好きなものに対しては熱心に努力するので、上達が早いということ。「上手なれ」の 「なれ」は 「なり」の未然形で、「こそ」に応じた係り結び。
誰でも好きでやっていることは一生懸命になるし、それに関して勉強したり工夫したりするので、自然に上達するものである。
芸事は無理して嫌だと思いながらやっても、成長はないということ。
(例文)好きこそ物の上手なれで、絵を描くことが好きな妹は最近漫画コンクールで賞をもらったらしい。
うまいか下手かは別として、私は絵を描くのが好きだ。だから、このHPも絵が中心に構成されている。飽きないのである。

 

 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」程度を超えているというのは不足していることと同じことであり、良くないことであるということを意味している。このため物事というのは程々にするのが良いとされている。
(由来)孔子の弟子である子貢が、子張と子夏のどちらが優れているかを孔子に問うたことがあった。そこで孔子は、子張はゆき過ぎていて、子夏はゆき足りていないと答えた。それを聞いた子貢は、ならば子張の方が優れているのかと再度孔子に問うたところ、孔子はゆき過ぎているのは、ゆき足りていないことと同じであると答えた。孔子は中庸を徳の最高指標としていたことから、ゆき過ぎていても、ゆき足りなくてもどちらも好ましくないと考えていた。
(原文)子貢問、師与商也孰賢。
子曰、師也過、商也不及。曰、然則師愈。子曰、過猶不及。
徳川家康は論語を学んでいて、過ぎたるは猶及ばざるが如しの考えを推し進めていた。その全文「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」
(例文)残業もほどほどにしなさい。過ぎたるは猶及ばざるが如しだ。
次回に続く。

 

2024.9.16 諺集に見るわが人生(302)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「す」を、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「好く道より破る」自分が得意だと思っていることでも、油断したり調子に乗りすぎたりすると、かえってうまくいかなくなる。だから得意なことでも油断しないで、いつも真剣に取り組むことが大切だっていうこと。
(例文)油断大敵というし、好く道より破るので常に気を配った方が良い。
(類義語) ・好きなことには騙され易い 。過ちは好む所にあり 。川立ちは川で果てる ・木登りは木で果てる
いくら得意なことでもやりすぎると、とんだところに落とし穴があり、失敗することはあるものだ。

 

 「杜撰(ずさん)」物事のやり方がいい加減で手抜きが多いこと。「とせん」とは読まないので注意。
(出典)「杜」は宋の杜黙 (ともく) のこと、「撰」は詩文を作ること。杜黙の詩が定形詩の規則にほとんど合っていなかったという「野客叢書」の故事から。
(例文)杜撰」は主にビジネスシーンで、計画性のなさを批判したり、詰めの甘さを指摘する際に使われれることが多い。・杜撰な仕事・杜撰な計画・杜撰な管理・杜撰な対応
役所でのこうした例は公に糾弾されるkとがある。政治においてもしかり。

 

 「進を知りて退くを知らず」進を知りて退くを知らず前進することだけを考えて、時と場合によっては退くことも必要だということを知らないこと
(出典)出典は『易経』乾・文言傳 亢之爲言也 亢の言爲るや 高龍問いうのは 知進而不知退 進を知りて退くを知らず
(例文)進を知りて退くを知らずというが、AIはまさにそれで人間は退くことを知っている。
戦国時代には、このことわざは実戦の中で生かされたのであろう。

 「雀の上の鷹猫の下の鼠」危険が近くに迫っているが、避けるのが難しいことを表す。また、下位の者には強くても上位の者にはかなわないこと。
(例文)雀の上の鷹猫の下の鼠なのに、のんきに鼻歌なんか歌ってやがる。 次回に続く。

 

2024.9.19 諺集に見るわが人生(303)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「す」を、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「雀の涙」ほんのわずかな量のたとえ。雀っていう小さい鳥が泣いたとき、その涙がどれくらいの量か想像できるだろうか。すごくちっちゃいはずだ。だから、それを借りて「雀の涙」という。
(由来)雀という鳥が小さいことに由来する。雀という名前は「スズ」と「メ」に分けられ、「スズ」は小さいことを表す「ササ」が転じた言葉とされている。「メ」は鳥を表す接尾語。
(例文)毎日の生活の中で、雀の涙ほどのちっぽけな幸せを一つ一つ、大事にしていきている。
雀の涙ほどの金品でも行為の証として受け取る。

 

 「雀百まで踊り忘れず」幼いころに身についた悪い習慣は、一生直らない。
「雀百まで踊り忘れず」は悪い習慣のみに対して使い、良い習慣に対しては使わない。
(由来)由来は、「上方(かみがた)いろはかるた」にある。
「いろはかるた」とはことわざが札に書かれている古典的なかるただが、使われていることわざは、地域によって異なる。
「す」の札に「雀百まで踊り忘れず」が書かれているのが、関西の「上方いろはかるた」である。
なお、もともと「雀百まで踊り忘れ "ぬ" 」ということわざは存在していたが、「上方いろはかるた」の表記がきっかけで、「雀百まで踊り忘れず」のほうが広く使われるようになった。
(類義語)・頭禿げても浮気はやまず・病は治るが癖は治らぬ
(例文)雀百まで踊り忘れずというが、小さいときに身につけたことは、大きくなってからも忘れないものだ。
誰にでも癖はある。気にしていればでないが、とっさに出るものだ。

 

 「捨てる神あれば拾う神あり」つらいことがあっても落ち込むな"ということ。世の中にはたくさんの人がいて、見捨てられたり、愛想を尽かされたりすることもあるけれど、助けてくれたり、親切にしてくれる人もいるということを表現している。
(由来)日本には古代から、八百万(やおよろず)の神がいるという考え方があり、神様は数えきれないほどたくさんいると言われてきた。その考え方から、もし自分のことを見放す神様がいたとしても、見捨てずに助けてくれる神様もいるというのが、ことわざとなった。
(例文)就職試験で1社落ちたくらいで落ち込む必要はないよ。捨てる神あれば拾う神もあるから。
HP「paintえがく 八百万の神」参照  次回に続く。

 

2024.9.22 諺集に見るわが人生(304)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「さ行」の「す」を、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

 「砂を噛むよう(すなをかむよう)」面白みのない毎日、つまらない人生という感じで、「砂をかむよう」は物事のむなしさ、つまらなさを表している。
文化庁の調査によると「無味乾燥でつまらない様子(32.1%)」、「悔しくてたまらない様子(56.9%) 」と本来の意味でなく「悔しくてたまらない様子」と半数以上が本来の意味でない意味で使っている。
(語源)砂を噛んでいるように味がないの意から。
(例文)食欲が感じられないため、せっかくの好物も、砂を噛むような思いで食べた。

 

 「脛に傷持つ(すねにきずもつ)]自分が過去に犯した過ちや悪事など、隠しておきたい秘密や恥ずかしいことがあるという意味から。
もともとは「脛に疵持てば笹原走らぬ」からきていることわざである。笹の葉が触れて痛いので、脛に傷のある者はゆっくり歩けずに走るだろうという意味から、後ろ暗い人間が落ち着いて堂々とした世渡りができないことのたとえ。また、後ろ暗い人間は笹の葉が風に動くようなちょっとしたことにもおびえて走るものだという意味もある。
(由来)他人からは目の届かない向こう脛に傷があるの意味から。
(例文)彼は脛に傷持つ身なので、なるべく人前には出ないようにしている。

 

 「全ての道はローマに通ず」多くのものが中心に向かうことから"目的が同じならば出発点や手段が違っていても同じ場所に辿り着く"、そして"ひとつの真理はあらゆることに適用できる"ことをたとえたこと。
(補説)全盛期のローマ帝国は非常に大きく、ローマを中心としてヨーロッパや小アジア、北アフリカまでの道が整備されていた。多くの道が中心であるローマに集中するこの様子を、道を"手段"、中心地のローマを"真理"にたとえたのが「全ての道はローマに通ず」と言われている。 
(例文)全ての道はローマに通ずとばかりに、首都への一極集中化が進んでいる。
次回に続く。