現在「懐古趣味」は江戸の職人の姿を当時の浮世絵師の手で描かれたものを彩色しなおすととともに、それぞれの職業を出典の「江戸職人聚(三谷一馬:中公文庫)」から選びだして解説しながら紹介している。
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鬘師(かつらし)
鬘の製作は鬘師と床山師の分業になっています。鬘師はまず薄い銅板で出来た台金を役者の頭に合わせ、役者の意向を聞いて「刳り型」や「鬢の高低」の形を決めます。刳り型は髪の生え際の形のことで、役の性格を表すのに大切なものとされています。これに羽二重を貼りつけ、髪毛を針で通して植え、床山に回します。床山は役の髪形に結い上げます。望を大別すると台金によって分類され、立役には「鬢物」「甲羅物」「袋物」「油付」があり、女形には「羽二重」「蓑(みの)」があります。また時代物、世話物とそれぞれ専用のものがあって、その数は数百種にのぼるそうです。
出典の解説文には次のように記されています。
「近世座頭の女形に附きし髦師は寄親といひて其芝居に付き居る事にて惣鬘師の世話役也、
俗に板人と云、立役の座頭に附居る鬘師迄も皆其者の支配故寄親と云ふ、されば座頭の女形其芝居毎に鬘師替る也、と戯場新話に云へり、月耕氏の図解に、上なる者は羽二重に毛を植うる様にて是は女形のハへギワに用ふ、 但し植様は左手に針八本を持ち右手に毛凡三十本程を握り、左手の針へさして植ゆ、又右中頃の図は糸にて毛をあみ附けたる趣きの由、
下なるは銅板にて頭形を造る処を写したるものにて之を製るには金鋏、木槌、金鎚、鑢(やすり)を用ふと委くは図につきて見るべし」
絵の中程にいる人物は床山師です。髷にまげ棒をさし、片襷(かたたすき)、前掛け姿で髷の髪を結っています。 (出典・風俗本『風俗画報』42号明治25年 尾形月耕)
髪結師
「髪結床
江戸にての始は、大高札場六ヶ所の側の床なり。御入国の砌(みぎり)、町並もまばらなりしかば御高札の番所にねがひて、御免をかうぶる。所謂六ヶ所は、日本橋、常盤橋、筋違橋、浅草橋、麹町、芝牛町等なり。」 (『本朝世事談綺』)
万治二年 (一六五九 )になると髪結に鑑札を渡し、親方は一年金二両、弟子は一年金一両を札銭として徴収することにしましたが、実際には行われなかったようです。そのかわりに橋火消を命ぜられました。さらに享保二十年 (一七三五 )橋火消のかわりに出火のときは町奉行所に駅けつけて、消火に尽力するのが髪結の公務となりました。
『江戸文化』の「床屋と町内の廻り髪結」(有山麓園)には、次のように記されています。
「武家の髪を結うのは、其屋敷によって元結のかけ方が違った。一番多いのが十三巻、これはたが元結と称えた特に太く結んだのである。夫から九巻、七巻、五巻、三巻でこの三巻が町人の髪の結い方であった。武家方の髪結銭は先方の家格で特に心付けであるは別として一般の規定としては変らなかった。 <略 >
床屋の店の造り方といっては浮世床などいうてむかしの戯作本や絵草紙にもあって人の知る所であるが、多くは二階家で店の入口には二間四枚くらいの腰障子が箝って居て、其の障子には種々の画が描いてあった。店の入口は多く土間になって這入ると、台付の流しの上に小さな盥(たらい)二個位並べてあり、此盥でお客は月代や髯などを湿したのである。正面突当りには主に板の間で、その中央の処に台箱というのが据えてあり、此台箱に剃刀、櫛、油、元結など一切の用具を乗せて置く。板の間にはしりしと云うて小さな板で布団代りのものがあり、夫をお客の代るたびに裏返しては用いたものだった。
お客の毛受というて扇面状の板の裏に桟がついて居り、その桟のところを持つて剃落す毛を受けて居るのだが、今時考えたなら、随分不器用な、然も暢気然たる態度と言いたくなるだろう。
剃刀は照降町のなご屋のを一番ヨイと言われて居った。
櫛は池の端の十三屋のを多く用いた。
油は日本橋両替町 (現今三越の横手三井銀行前の辺にある南側 )下村の鬢付油の二種を遣ったものだ、その名はたしか松金香といったと覚える。
白元結は男が用い、黒元結は女が用いるものとなって居った。勿論その頃女髪結 (一旦天保度の改革にやかましかったが再び行われて居り )は何処にもあった。
弟子の年期は、先ず十年としてあった。弟子を親方が仕込むに取かかりは、焙烙へ頭髪の形状を描き、夫を剃らせてソレが仕上ると向脛を剃らせる。焙烙の方は頸や額際の剃付を覚えさせる為で、向脛の方は痛いか痛くないかを自ら感じさせて、剃刀の遣い方を覚えさせる為だという。又髪を結う稽古には徳利のロへ糧を結びつけて、膝へ挟み、夫で髪を結うことを覚えさせる。」
天保改革によって四年(1833)頃から新床といって裏店の髪結床を開業するものは、十五文、十六文の安価で営業しました。
毛受けは前文の扇面状のものと、絵のように矩形のものとがありました。髪結がはいているのは軽杉(かるさん)で、髪結にはよく見かけるものです。後ろの壁に張ってあるのは芝居の辻びらで、髪結の左側に台箱が見えます。
(出典•黄表紙「網大慈悲換玉』天明二年 北尾重政画)
廻髪結師
又毎日髪結者ハー月金二朱バカリ也
又江戸場所廻りニハ『アゴツキ』卜称へ廻り場ノ内ノ巨賈豪戸ニテ年中食ヲ与フ家アリ毎日朝卜午時ト夕部卜三時此家二往キ食ス也然ドモ其家髪結ノ雇銭八例ノ如ク与ㇾ之也」絵の廻り髪結は右手に台箱、左手に毛受けを持っています。この廻り髪結は町内に一人だけと定められていました。髭棒を髭にさしているのは、男の髪結にはよく見かけるものです。髭棒は髭をなでつけたりするときに使います。その日の仕事がすむと道具は町内の床屋に預けておき、仕事が早くすめば、床屋の方を手伝いました。髪結の着ている浴衣は芝翫縞で、三世歌右衛門が創案したといわれます。
(出典・合巻『宇治拾遺煎委』天保五年 歌川泉晁画 )
女髪結師
「江戸ハ惣テ婦女略襲ニハ前垂ヲ掛テ他出ス故二髪結目立ズ又女髪結ハ皆専ラ鹿服也 天保府命ノ時厳禁アリ当時自梳ス四五年ニシテ漸ク弛ミ再三府命アレドモ悉ク止ズ嘉永六年又命アリ此時皆能命ヲ守り止ム初命ノ時ハ府命ヲ守ラズ雇銭ヲ取テ密梳スル者皆獄二下ス其後モ往々獄ニ下ス者モ有ㇾ之銭ヲ出シ結セタル女ハ未ダ咎メヲ受シヲ聞カズ
女梳銭モ初三十二文近来稍四十八文トナル六十四文トナリ慶応ノ今二至リテハ大略ー梳ー百文ヲ与フコトトナリタリ」 (『守貞謾稿』)
絵は女髪結が仕事に出かけるところで、右手に持っているのは櫛などの道具を入れた箱です。髪は丸髭に横櫛、毛筋立てを簪にさし、縞の着物に黒衿、帯は表裏の異なる俗にいう鯨帯で、後ろの結び形は密夫(まおとこ)結び、更紗模様の前掛けをかけています。
(出典•錦絵『東海道五十三次之内•石薬師ノ図』年代不明 歌川国貞画)
烏帽子師
立烏 帽子は烏帽子本来のもので、材料は黒紗を強く張って立て、下に縁(へり)といって漆を塗り光らせてあります。正面を少し凹ませたところを雛頭(ひなさき)、眉、ひたい等といいます (上図参照 )。絵の烏帽子師が漆を塗っているのが立烏帽子です。立烏帽子は五位以上の者が用い、民間では黒絹製の柔かなものをかぶりました。当時の公郷、民間ともに、寝る時にもこれをかぶり、特に人と接する時には決して冠り物を取りませんでした。
風折烏帽子は立烏帽子の上部が左か右に折れた形のものです。絵の烏帽子掛けにかけてある右のものがそれで、これは六位以下の者がかぶり、武家は直垂(ひたたれ)、大紋(だいもん)、布衣(ほい)に用いました。また平礼(へいらい)と呼ぶ紙製で雑色(ぞうしき)のかぶつたものもありました。これは上が丸く、下に縁がなく柳さび (全面の横しわ )をつけてあります。 .
侍烏 帽子は折烏帽子の一 種です。鎌倉時代には烏棒子は紙製となり、その上に黒漆を掛けて幾度も折り曲げ、髻(もとどり)の方を高くしました。この高くしたところを「まねき」と称しました。侍烏帽子のかぶり方は、髻に白紐かこよりを二筋くくりつけて鳥帽子をかぶり、紐を外へ出して結び、烏帽子が落ちないようにしました。室町時代はこの折り方が数多く出来て京極折り、小笠原折り普があり、中でも観世折りが有名です 。桃山時代頃から簡単な形になり、まねきは三角形で前進します。江戸城の殿中では素襖(すおう)に侍烏帽子をかぶる規定になっていました。
次に兜の下にかぶる萎(もみ)烏帽子があります。これには梨子打烏帽子 (綾紗製で鉢巻を後ろに結ぶ )、引立烏帽子 (紙製で先が尖り、鉢巻を前で結ぶ )の二種があり、絵の烏帽子師の左に置いてあるのが引立烏帽子です。(出典•図彙本『頭書増補 訓蒙図衆大成』寛政元年下河辺拾水子画 )
燈心職
出典の解説文には次のようにあります。
「いま日本紀を按ずるに孝徳天皇白雉二年十二月海味(かいじ)経の宮に於二千七百余燈を燃し二千百余の僧を 請じ安宅土側等の経を読ましめ天武天皇白鳳年中和州河原寺に於て燃燈供養ありしを記せり又紀元千四百十七年代天宝字に橘諸兄の手ニなれる万葉集中に油火を詠ずる歌二首を載せたり < 略 »
以上を以て推すときは會朝前後に至りては燈油を用ひたること疑ふべからず、然れども当時の油は菓実より製したるものにて且つ捧具の発明あらざりしがため其製法容易ならざりしものか公事の儀式仏前の用に供するの外燃燈せざるが如し然るに紀元千五百十九年 (八五九 )代清和天皇の初に城州大山崎に於て捧具の発明ありし以来荏胡麻製油の業さかんに起り諸国又其製法に習ひ以て今日あるに至れり、さて此頃までは未だ燈心草の 白穣(しん)を燈心にせざると見えて貞観儀式大嘗儀云、燈炷布八尺、大嘗祭式燈心布に作る是也、主殿寮式燈炷料布一尺五寸云々と倭名抄箋注に見ゆれば布を割て燈心として後世に云ふ燈心は用ひざるが如し
燈心草は、武州を最上とし江州是に次き又備後備中より出す <略>」
絵の奥の娘は燈心を揃えて束ねています。手前の女は燈心草から心を抜いています。前方の上から下がっている燈心草は長さを示しているもので、七尺ぐらいのものもあるそうです。
(出典風俗本「風俗画報」六十二号 明治二十六年尾 形月耕 画 )
袋物師
袋物師は布や革で袋形のすべての入れ物を作る人のことです。袋物屋は種々の袋物を販売する店をいいます。
江戸時代の袋物類には、皮純、段段、早道、雑袋、燧(ひうち)袋、太刀袋、鏡袋、巾着、撫り袋、鼻紙災、紙挟み、外入れ、外入れ燕(つばくろ)口、筥迫、煙草入れなどがあります。
次にその主なものについて触れておきます。
皮籠は、江戸時代に柳営の泊り番の武上が夜具を運ぶのに使用しました。竹を薄く削いで網代に組んだ上に紙を張り、黒渋、漆塗りで、上に朱漆で記号が記してあります。
段袋は京阪の婦女が野外に遊ぶときに持ったもので、紺、縮緬または小切れを縫い合わせたものを表に、裏には麻布をつけ、口周りには別布をつけてこれに組紐を通してあります。食物、紙、煙草、数珠を入れ、大きさは四、五寸か七、八寸です。江戸ではあまり使用しませんでした。
燧(ひうち)袋は古くは武士が陣中、狩猟のとき腰刀とともにさげたものです。『守貞破福』には次のように記されています。
今世ノ勝及胴乱等八燧嚢ヲ変製スル物也古 / 燧袋ハ貴人卜雖ドモ布或イハ滑皮等ニテ造ㇾ之諸締ハ薬子ムクレンジニ孔ヲ穿チテ用ㇾ之其粗ヲ知ルベシ今ノ褒物ニハ舶来ノ革及錦純子ラシャ金銀珠玉トモ二用ザル物ナシ <略 >若図ノ如ク布及革ヲ円形二裁チ周リニカヾリ糸ヲ付ケ組緒ヲ通シ引シメテ袋トナス物多シ
今製ノ燿嚢馬皮朱漆二図ノ如ク製シ底ノ外二燧鉄ヲ造り付タル物多シ根付八殻アケト名ケ牙角或ハ金属ニテ造レ之煙草半灰ノ時是二アケ再吸二備フ也此具旅中用ナレハ歩行ノ間二用ㇾ之コト多キ故也 」
煙草入れについてですが、煙草が伝来した当初は、刻み煙草を奉書紙などに包んで懐に入れて持ち歩きました。最初の煙草入れは、油紙製です。
「袂落シ煙草入 革類織物羅紗紙製トモ二有ㇾ之士民トモ上輩ノ人専ラ持ㇾ之上下ヲ着スル時ハ何人ニテモ必持ㇾ之同半月形 同前此如キ金具ヲ対鋲卜云銀頭或ハ米麦等ノ形二造ルモアリ <略 >
ーツ提煙草入煙草入ノミ二緒根付ヲ付テ帯二下ゲ煙管ハ前ノ袂落ノ条ニ図スル所卜同物ヲ用フ革以下何ニテモ製ㇾ之胴乱者煙草入二モ又八銭入レ二モ或八薬入レ等二モ用ㇾ之也革及ビ織物羅紗綿綸等皆製ㇾ之
腰差煙草人 筒ヲ帯ニ挟ム故ニ腰差或ハツツザシトモ云革紙羅シャ織紋並用ㇾ之煙草入トキセル筒卜同製ヲ専トシ或ハ異物ヲモ用フ
提ゲ煙草 維紗革類油製紙織紋錦純子ノ用稀也
同鎖紐 維紗モ用フレドモ革ヲ専トシ紙及ビ織物ヲ用ヒズ鎖銀製ヲ専トス蓋鎖二三種アリ鎖紐ヲ用フルハ相撲取ヲ専トシ其他意頭等俳優ナドモ用レ之コトアリ
火用心ノ畑草入 単白紙二荏油ヲヒキタル桐油紙也火用心卜墨書ス是最下ノ煙草入トス困尺旅中等ニ用フ <略 >
女用煙草入ハ惣テ三都トモニ男用ヨリ小形ヲ用ヒ多クハ袂落ヲ用フ畑管筒八長筒ヲ専ラトス京坂ノ婦女八中継ギセルヲ専用スル故ニ或ハ男用ヨリ短キ筒ヲ用フ紙革ハ用ルコト稀二テ錦純子ノ類ヲ専トス <略 >卯紙獲 常二略シテ三都トモ二紙入トモ云 三ツ折也表裡無レ定卜 ^ドモ専ラ表羅紗次二天 ®絨或八革類其他種々織紋モ稀二用フ裡純子錦ノ類也」(『守貞護稿』)
絵は袋物師が裁庖丁で布を裁っているところです。店先に並べてあるのは煙草入れ、財布、紙入れ、煙管の竹筒等で、袋物のすべてが置かれています。上から下がっている布は更紗のようです。
(出典・合巻『宝船桂帆柱』文政10年 歌川広重)
印伝革師
印伝(財布)は鹿皮を用います。印伝には三つの染色法があります。
そのー「窯革」は「いぶし皮」または「本いぶし」とも呼ばれています。鹿皮を木枠に張り、熱した鏝(こて)でのばすと同時に表面の毛を焼き取ります。次に「手すき」といって軽石で幾度もこすり、表皮を滑らかにします。その上に型紙の糊置きをして、大鼓と呼ばれる大きな桶に皮をはりつけます。大鼓には心棒が通っていて自由に移動回転するようになっています。大鼓の下の土釜に藁をくベ、大鼓を緩急自在に回しながら燻します。燻色がついたところで糊をかいて落とします。これが印伝燻柄付法です。
その二「染料で染める方法」染め方は、一般の染色と変わりません。型の糊置きをしてその上に染色し、水洗いします。
その三は「漆で染める方法」で、これを普通に印伝と呼んでいます。適当に裁断した皮を台の上にひろげ、漆を伊勢白子の小紙型の上から箆(へら)ですり込みます。漆には卵白と砥粉が混ぜてあります。すり込んだ皮は室に入れて漆を乾燥させます。
(出典•職人本「今様職人尽百人一首』正徳-元文 近藤清春画 )
蠟燭飾
初期の蠟燭は松脂蝋燭といわれるもので、室町時代の中期以後、笹の葉に松脂をつつんだだけのものでした。また蜀黍(とうきび)を芯にして上に松脂を塗りつけたものもありました。 蠟燭には日本で作られた和蠟燭と、西洋で作られた西洋蠟燭とがあります。和蠟燭の芯は捻った和紙に蘭草の髄(数本 )を巻きつけたもので、これを芯巻きといいます。西洋蠟燭は糸芯です・和蠟は漆櫨(はぜ)のような漆科植物の実から製した木蠟です 。
木蠟を取るには十月の漆、檀の落葉の頃にその実を取り、臼で挽いて箕で粉と種とを 篩い分け、大釜の上へ筵を敷いて挽いた粉を散らして蒸します。それを麻の袋に入れて再び蒸し、メ木に入れて搾り、鍋に入れて熱して溶けたとき冷水に投じ、揉んで平たい器に入れて日光に晒します。この木蠟に油を入れて熱して溶かし、どろどろの液状になった熱い蠟を手でつかんでは芯に塗りかけ、乾かしてはまた塗り、これを数回繰り返します。すべて塗って作ることを掛けるといい、これを巻掛けまたは生掛けと呼びます。むずかしいのは鍋からつかみ取った蠟の冷め加減だそうで、熱すぎると流れて固まらないし、冷めすぎれば伸びないし、それに大気の温度との関係もあります。一番作りやすい季節は五月頃だそうです。大きさを決めるのも手加減一つで、形が出来ると銀をかけ上下を切って仕上げ、さらに肌を竹の皮で磨き上げます。
蠟燭の大小は量によって、幾匁掛けといいます。たとえば三百目蠟燭、百目蠟燭と呼ばれる大形のものから、懐紙蠟燭、懐中蠟燭などの小形のものまであり、また絵蠟燭、塗り蠟燭のように外面に彩色を施し、菊、牡丹、撫子などの草花を顔料で絵付けしたものもあります。絵蠟燭は江戸時代会津の名産として知られ、主として雛祭、仏事に用いられました。
薩摩蠟燭は蠟の絞り糟に魚油を加えたもので、長さが一尺ほどあり、たいへん臭いのですが明るく、十挺で百文と価も安いので、文政十年頃から大道商人が使い始めました。
絵は蠟燭師が芯に蠟を塗っているところです。右下の黒い鍋は蠟と油を練り合わせてから温めているところで、左の枠に立てかけてあるのは塗り上がった蠟です。
(出典・風俗本『風俗画報』四十五号 明治二十五年尾形月耕画)
鬢付油師
鬢付油は日本髪の結髪につける油の一種です。
『製油録』には次のようにあります。
「白しぼり油の事
往古は木の実の油にて 鬢附をねり、貝に入て売しよし。それも都会の事にて、諸国にては鬢葛といへるものをとりて、水に浸し置ば其水ねばりたるものとなる。多く是を付て紙のこよりにて髪をゆひ、田舎にては藁をもて結たるよし、伝承りぬ。其時は檀実と云ものなく、漆の実より搾たる蠟を用し也。宝暦の頃より檀実を採、漆実同様の生蠟とする事を覚しより、種子油の白絞を日に晒し、植蠟の晒たるに交へ、今のごとき鬢付とする事とはなりぬ。明和・安永の頃、菜種子油の早晒を泉州堺に於て仕始しより、浪華にうつり、今は世間一統早晒の油而已を用ふる事となりけり。又当世髪にぬる梅花油も、此晒あぶらに匂ひをつけたるものなり。この晒し油梅花油ともに大坂製を極上品とする事なれば、諸国にて大坂製を用ひ給へかし。」
鬢付油は円筒状の固形で、これを髪につけておくれ毛などを止めました。
絵は、生蠟と種子油を混ぜて練っているところです。
鬢つきに御国の恋のおもはれて (童の的 )
(出典・職人本『戰人歌合之中』文化四年 丹羽桃渓画)
樽ころ
『守貞護稿』には、
「江戸新川堀辺酒問屋多シ其下男二樽コロト号シテ酒樽ノ出入ヲナス者ハ必ラズ鍋島毛ーヲ三尺帯二挟ミテ前垂トス江戸樽酒賈モ問屋二非ル者ハ渋染前並等ヲ用ヒ唯問屋タルコロミ用ㇾ之問屋二非ルモ樽数多出入ノ時八用レ之モアリ」
とあり、鍋島毛氈(もうせん)の前垂れについても次のように記しています。
「酒賈用 是酒賈用ノ前垂ニハ鍋島毛氈卜号クル肥ノ鍋島ニテ製ス所ノ太キ木綿糸ヲ以テ図ノ如キ種々ノ華文ヲ織タル地白紋
紺表二赤等ヲ交へ表ノ方ニハ毛ノ如ク四五分ヅ、綿糸出テ然モ螺ホツノ如ク縮メリ」
樽ころのほかに、大阪では仲仕、江戸では軽子と呼ばれるものがいました。
軽子は正しくは軽籠で、もともとは縄を蜘蛛の巣のよう編んだ卷のことです。そこから人に雇われて軽籠で荷を運ぶ人夫を軽子と呼ぶようになりました。また深川詞では、酒、肴を台にのせて客席に運ぶ茶屋の仲居や、三味線箱持ち (現在の箱屋 )を軽子といっていました。文政以後は、仲居を軽子と呼んだようです。
(出典•絵本『絵本庭訓往来』文政十一年 葛飾北斎画 )
纏持 『風俗画報」臨時増刊第百七十九号「江戸の花」に、町火消のことが記されています。
「町火消
〇いろは組四十八組並本所深川組
町火消とは所謂いろは組の事にして。一番より十番まで四十八組と別に本所深川十六組とを総称す。其初め享保の比日用座と云ふ一種の日傭受負業ありて此所より人足を出し。又町々には火消頭ありて其人足を指揮し以て消防の事に従はしむ (一丁毎に人足十五人づつとなり )是れ町火消の濫觴なり。其後日用座雇を廃し消防頭直接に人足を取締ることとなりてより。消防頭は人足を子の如く愛しみ人足は又消防頭を親の如く尊重し。茲に始めて親分子分の関係を生ずると同時に難苦を俱にし死生を共にするの情義をも生ずるに至れり。是を以て其組合中の者は常に己が組合の纏を穢さヾらんことを心掛相互に励むより遂に各組合の競争となり愈々其団体の基礎を固めていろは組と云へる消防組織を見る事とはなれり時に享保四年四月也。 (泰平年表には享保十三年三月とあり )尤も護園雑話によれば萩生総右衛門 ( 徂徠 )幕府の隠密御用を命ぜられし時。江戸府内火災取締の事を下問になりしかば徂徠は町火消創設の案を立て幕府に答申しけるに。幕府直ちに之を採納し始めて町火消なるものを組織する事となり又此組合をいろは別に為せしは時の大岡忠相の考案に出でたるものなりと云へり。此説恐らくは信ならん。即ち其組合番号は左の如し。但し角組の持場所及其配置は図面に示しあるを以て宜しく就て看るべし。
一番組五組いよはに万
二番組七組ろせもめす百千
三番組七組てあさきゆみ本
四番組江戸なまり四、し音同くひに紛らはしけれは四番組を立ず又「ひ」組もなし
五番組九組くやまけふこえしゑ
六番組六組なむうゐのお
七番組是も欠く何のためなるか
八番組四組ほわかた
九番組四組れそつね
十番組六組とちりぬるを
(いろは四十八文字のうち「ん」のかわりに「本」を入れ、また縁起をきらって「へ」「ひ」「ら」のかわりに「百」「千」「万」とした。さらに元文二年には、縁起をかついで「四番」と「七番」をやめ、所轄の組を「五番」と「六番」に配置した。)
外に本所深川は十六組と定めーの組二の組と順を立て南北に別つ今其組合内に於ける人員組織の順序を云はんに。下人足より総頭取に至るまで都合六階級あり人足とは未だ火消の数に加はることを得ざる者にて土手組と称し。其上に平人(ひらびと)あり是純然たる火消にて所謂鳶口を持つ者なり。其上に梯子持あり此社界にては単に梯子と呼ぶ。梯子持の上に纏持あり是亦単に纏といふ其上に頭あり是れ組頭なり。又其上に頭取あり即ち総取締の事なりとす。而して頭は町抱なれば定員あり故に頭に登るべき資格を備へて尚ほ町内に空役なき時は世話番上にては世話役といふとなる。世話番は頭と同格にて敢て甲乙なし。頭取は世襲にて代々勤むる組もあり又一代立身にて勤むる組もありて一定せずヘ頭取には一老二老お職の別ありお職は威望高く其名江戸中に響くものなれば顔役という。去れど彼の俠客博徒の親分とは異なり役場(火事場を称して役場といふ)iを持つが故に身分も亦同日の論にあらず。往年「よ組」の平永町の八五郎、「つ組」の丑五郎、 二本援の伝兵衛等は八十歳の高齢に達するまでお職を勤め上下に対して一諾千金の価ひありしとぞ。尤も町火消頭取はー番組「い組」の伊兵衛を第一の顔役とす。頭取世話番の役場服は昼は皮羽織組合の印あり陣笠夜は目印挑灯なり。」
前文の「消防頭直接に人足を・・・」とあるのは町抱えの鳶人足のことです。鳶人足は雇人その一種で普段は土木工事の手伝いをしていて、火事のときは鳶口を手にして消防に従事しました。各町ではこれをだんだん雇うようになったので、消防夫を一般に鳶の者または鳶と呼ぶようになりました。
「反古籠』はこの鳶の者について、次のように記しています。
「予が幼年の比まで鳶の者はかたと云髪の風なり。夫より居ざりびんに竹箒本多といふ風はじまる。其ころの鳶の者の風俗は、白猿、錦江などが吉右衛門、伝吉の拵(こしらえ)の如くなり ( <略 >鳶の者の股引、昔は紺木綿の角町裁のぼたん懸け、夫より後は雑股引の、きっと足なりにきまりしを拵へ、目くら縞といふ織もの紺を用ゆ。近ごろは三寸だかみ六だかみなどとて、括袴の如き股引はやる」
絵はは組の纏持ちで、盲縞の腹掛け股引、刺し子半纏を双肌脱ぎにしています。
(出典•錦絵『江戸の花子供遊び・は組の纏』江戸末期歌川芳虎画 )
元結師
文献を幾つか見てまいります。
「紙捻(こより)又髪捻と 書く
中華(もろこし)に云所の鬙(もとゆい)なり。紙をひねりて、髪の元を結により元結といふ。近世までは、自分々々に紙を縷(より)て、おのれが髪を結ひたる也。又若衆、女の長く用るは、平元結とて紙一寸ばかりにたちて、巻そへし也。日本紀云、天武天皇詔日。自今以後。男女釆(た)結ㇾ髪。
攫元結(こきもとゆい) 寛文のころより起る。紙捻(こより)をながく縷(より)て、水にひたし、車にて縷をかけて、水を摎(しごく)ゆへにしごき元結なり。又文七元結といふ有。是は紙の名なり。至て白く艶ある紙なれば、此紙にて製するを上品とす。」(「本朝世事談綺」) 「この節 (文化四年頃 )世人とたとへに、
この度の洪水とかけてナント、当世の女中のあたまとトク、心は水引がなうて切れが多いと云ふ。
寛永の頃までは、婦女はふるき麻縄にて結び、黒き絹ぎれにてまき、いついつまでもあらひ用ひしに、その後紙にて結びはじまり、越前の国より粉紙にて元結紙といふものを作りいだしてより、いろいろの元結を仕出し、糸巻のとんぼう、金銀の水引、尺長五色の染紙、近年は五しきの染鹿子縮緬のわげくくり、貧福ともにこれを用ゆ。大平の余沢あふぎても猶あまりあらん。(暁鐘成著『噺の苗』)
「今世モ縉紳(*しんしん:礼装のとき、笏(こつ)を紳(大帯)に挿むもの)家ハコキ元結ニテ髷ヲ結ビ其上ニ紫ノハツ打緒ヲカクル武家ハ将軍以下不ㇾ用ㇾ之今ノ摎元結ニ製ハ信州飯田辺ニテ漉出スサラシ紙卜云ヲ幅五分バカリニ栽テ武家へ者ノ内職ニ縷ㇾ之也
平鬠(もとゆい)ハ寛永後ニ始マル由独言ニ云摎鬠ハ寛文ニ起コル世事談ニアリ而シテ万治以来ノ図専ラ平鬠宝暦ノ図ハ摎元結也其間何ノ世ニ廃ㇾ之歟我衣ニ元禄前ヨリ元結引アレドモ買人稀ナリ卜云ハコキ警也既二有ㇾ之テ未専用セズ平鬠ヲ専用セセシ也宝暦ニ至リテハ平廃テ摎鬠ヲ以テ専用トスル也又今世ノ京坂ニ云丈長ハ昔ノ平豊似タレドモ輩ヲ以テ髪ヲ結ヒ而後二擢卷ノ表二丈長ヲ掛テ飾トスルノミ丈長ヲ以テ結髪スルニ非ズ享保元文頃ノ元結八平鬠ヲ以テ結髪スル歟ハ今ノ如ク平鬠ハ飾ニテコキ元結ニテ結髪歟図面ニテハ難ㇾ弁也又昔ノ平鬠必ズ空ニ反レリ号ㇾ之テハネ元結ト云針銅ヲ納テ上ニ反スト云リ又々金銀ノ平鬠延宝頃専用スト風俗考ニ云リ今モ金銀丈長アリ同意也
又嘉永四五年ノ比江戸芸者島田髷ヲ黒元結ニテ結タル而已ニテ更ニ縮緬其他トモニ掛物ヲ不ㇾ用コト流布セリ市中処女モ稀ニ学レ之者アリ(『守貞謾稿』)
文七元結を『本朝世事談綺』には紙の名とありますが、 ー設には文七という人物が創始したともいわれ、また大坂の男伊達五人男の一人、雁金文七の裂元結の名ともいわれています。
数珠師
数珠は仏の御名を唱えるときその数をかぞえる道具で、別名念珠とも呼ばれています。数珠の玉数は一般には百八個、除夜の鐘も百ハツで、百ハツは煩悩の数です。数珠は数をかぞえるだけでなく、一粒一粒に仏が宿っており、爪繰ることで煩悩を摺伏するのだともいわれています。
数珠には上品、最勝、中品、下品の四種があります。上品は千八十珠、最勝は百八珠、中品は五十四珠、下品は二十七珠で、数によって功徳の差があるとされています。その種類による大小長短は、宗門の派によって異なっていました。
昔の数珠の材料は、梅、桜、櫻、かや、くすのきなどの木地物が多く、ほかに水晶、めの、つなども使われ、まれにはせんだん、沈水の香木でも作られました。穴をあけた玉はトクサで 、さらにイボタの粉末の入っている袋に入れてこすり合わせて最後の艶出しをします。数珠作りは、玉よりもむしろそれを連ねる糸の張り具合と房編み、玉の配色がむずかしいとされています。
組紐は主に正絹を使い、染色は茶、紫、古代紫、赤、黄、緑があります。在家の信者が数珠を持つようになったのは明治時代からです。ですから他の職人に比べると戰人の数も少なく、商う家も少なかったようです。文政二年刊の『江戸買物独案内』には、浅草雷門前に三軒、弘化三年刊の『大坂商工銘家集』には、北御堂御成門前のー軒だけです。絵の数珠師が持っているのは舞錐で、玉に穴をあけているところです。
(出典•職人本『略画職人尽』文政九年 岳亭定岡画 )
仕事師
三田村鳶魚著『江戸ツ子」には次のように記されています。
「江戸の末になりましても、仕事師と称せられる鳶の者は、一日三百か三百五十位のもので、賃銀がごく安い。その他に早出とか居残りとかいうので、増(まし)銭がある位のものである。彼等は年中半纏•股引•草鞋という出立ちでありましたが、もう江戸の末頃になりますと、火事のほかには草鞋は穿かずに麻裏草履を穿いている。これがまたなかなか荷厄介なもので、やつぱりキャン(侠:活発な男性)なやつが多くなった。そうしてこれには町抱・店抱・半抱•本抱などとい、つきまりがありまして、各町々の消防隊に属しているほかに、出入りと称して方々の商家に係合いがあり、その方からも手当てを受けています。 <略 >
また町々の若い者と称して、普請があるとか、店開きがあるとか、婚礼があるとかいうところへ祝儀を貰いに行く。お祭りの集め銭をする。そういう時に機嫌よく出さないと、必ずあとで仇をする。火事の時ばかりに限らない。お祭りの時に群集に紛れて店先へ雪崩れ込むとか、神輿を振り込むとかいうことをやる。彼等は自分の住んでいるところを定式の持場としているから、地形(じぎょう)でも溝浚(どぶさら)いでも、鳶の者に出来る仕事は、決してよその者にさせない。もしよその者にさせれば必ず苦情を持ち込んでくる。しかもきまりきった賃銀では、はかばかしく仕事をしない。つまりその町にそこの火消人足が養われているような形になってしまう。」
絵は貸座敷 (料理屋 )の門口二門松を縦ているところで、今でも見られる光景です。印半纏を二枚重ねて着て、手首のところに刺青が見えます。
(出典•合巻『青砥稿花紅彩画』文久二年 二世歌川国貞画 )
空引機師
出典の右図に
「錦織卦
西陣の町小路にはいにしへよりもろゝの呉服織出す事際限なし金欄錦唐織のるいなど新もやうを織んと思ふ時ハ其地紋を紙に図し竪横に糸の如く筋を引花にハ糸数何ほどゝ定め其織物の機組を白き糸にて十分の一雛形を栫るなり是を求めて手本とし糸配してさまざまある品を織出す也名づけて高機といふ。」
とあり、絵の左には次の文が書かれています。
「天鸞絨をるてい
天鸞絨は針金を入れて織也紋天鸞絨ハ其針金の浮沈にてもやう顕るゝなり。
「絵の右のように、高機の上部に鳥居様の装置のあるのを空引機、または紋引機ともいい、紋様を織るためにこの機が生まれました。『日本染織辞典』には、次のように解説されています。
「空引機 紋織用の製織機であって、ジャカード機の使用以前に用いられたものである。高機の上部に鳥居様のものを装置し、大通糸を吊り下げ、竜頭、首糸、宇麻糸、岩糸、岩竹を吊るす。大通糸には緯綜(よこべ)を直交し引上げる通糸と引き上げない通糸とを文様に応じて区別する。絵緯一越に緯綜一本を機の上方で整備し、織手は高機で通糸の前方にある綜統によって地組織を織り、一人が上方の鳥居の前で緯綜によって分けた大通糸をまとめて引き上げる作業をする。これを紋引と呼んでいる。紋引と織手の二人の共同によって文様を順次織り上げてゆくものである。」
天鵝絨については『本朝世事談綺』に、次のように述べられています。
「正保、慶安 (1644〜52 )のころ、京師にて織はじむ。そのむかしは、是を織事をしらず。一とせ渡しける中に、針鉄の残りたるを見て、織事を得たり。鍼線(はりがね)を横に通し、織込充て後、剃刀やうのものにて上糸を切り、織入れたる鍼線をとる也。しかる時は切たる糸、鳥の毛のごとくになり、その光沢、天鶴の翼に似たるゆへに名とす。」また『守貞護稿』にはこうあります。
「昔ハ来舶ノミヲ用フ故二民間ハ不ㇾ用シナラン今ハ履緒ニサへ専ラ用ㇾ之
又天鵝絨ニ無地モ縞モ織ル又糸ヲ切テ線鉄ヲ去ラズ抜去リテ糸ノ輪ーーナリタルヲ京坂ニワナビロウドト云東武二テワナ天卜云
又輪天ニ紋ヲ切リタルヲ紋天鵝絨ト云地輪ニテ紋切糸ナり
武家の女乗物ニ天鵝絨巻卜云アリ縹天鵝絨ノ地輪天二唐草ヲ切糸ニシタルヲ惣躰ニ張ル也
男子用武家ニハ傘笠帒乗物簾ノヘリ等ニ用フノミ士民ハ鼻紙袋二用ㇾ之コレハ紺黒等ヲ用フ傘嚢等ハ黒ノ毛天鵝絨也其他ハ男子用稀也女用ニハ三都合羽エリ京坂嚢服ノ襟三都トモ下駄雪踏ノ緒ニ用フ
又帯ニハ毛モ輪モ用フ 金钄 唐織 世事談日皇国金瀾ハ京師西陣野本某始テ織ㇾ之唐織八同所俵屋某始ㇾ之云々トアリテ年号ナシト 雖ドモ天鵝絨ヲ始メシト遠カラヌ時ナルベシ所詮今ノ如ク西陣二織殿群居スルハ昇平以後ノコトナルベシ」古くは唐織を衣裳として着ていましたが、後世になると衣裳よりも帯として使われたようです。
(出典・名所図会『都名所図会』天明六年竹原信繁画 )
紺屋
「こんや」とも「こうや」ともいいます。
藍染めに用いられる藍草は、蓼(たで)科の 蓼藍といわれる植物で、江戸時代には阿波 (徳島県 )藍が全国の生産のほとんどを占めていました。
藍染めをするには藍を建てるといって、藍の染液を作ることからはじめます。藍は他の植物と違って水に不溶解性なので、まず藍草を自然発酵させて薬というものを作ります。これを臼で ひいたものが玉藍です。
紺屋には絵のように藍甕を埋めこんであり、四ツの藍甕が、火壺 (出典には火壺が描いてないので著者が描き加えた)を中心に四ツ目に並んで一組になっています。夏季以外には火壺が使われ、鋸屑(おがくず)、籾殻(すりぬか)、綿実殻などを入れ、火つきの荒縄を投げ込んで点火しました。火壺を点火することによって四個の藍甕が同時に加熱され、藍が発酵する仕組みで、火壺の蓋の開閉にょって熱の温度を調節しました。藍建てするには、薬を泥状にして四組の甕に同量入れ、更に石灰、麩 (麩のかわりにうどん粉、酒、水飴、粥等 )、木灰、冷水を混ぜてよく撹拌し、一昼夜置いて火壺で加熱すると徐々に発酵がはじまります。それから幾日かが経っと藍甕の液の表面が紫金色を呈し、最初の仕込んだときと違って液が透明になり、撹拌すると緑色の泡が紫をふくんだ青色に変わります。こうなると藍染めが出来る状態になります。発酵がはじまってから途中で入れる石灰を中石といい、発酵を止めるために入れる石灰を止石と呼んでいます。
仕込んでから藍が建つまでの日数は、職人の仕方とその時の状況によって違いがありますが、大体十日ぐらいはかかります。以上の技法を「自然出し」または「地獄出し」といい、別の仕方に「誘い出し」があります。
「誘い出し」は、前に発酵した藍液 (または種液 )を薬と一緒に仕込むもので、自然出しより短期間に染められる反面、古い種液を使うので雑菌によって腐敗を招く恐れがあります。 C紺屋のように毎日多量に藍を便つ所では、誘い出しを用いています。
藍は生きもので、一度使うと疲れて調子がかわります。そこで藍染めの終わったあとは長い棒で必ず藍甕の中をよく撹拌しておきます。そうすると藍はブツ、ブツと音をたて、熟練した藍染職はその音を聞いただけで藍の状態がわかるといいます。
(出典・実用本『民家日用広益秘事大全』嘉永四年 筆者不明 )
型付け
文様の大きさで、大紋、中形小紋と分け、中位の図柄が中形で、浴衣に多用された為、浴衣の代名詞のようになりました。
中形を染めるには絵のように長い板 (樅(もみ)、長さ十七尺、幅ー尺二寸、厚さ六、七分の一枚板 )に引き糊をし (糊を引くのは板の上に張る白木綿を固定するため )、丸く巻いた白木綿を尺ほどの角棒で伸ばしながらぴんと張ります。布を張り終わると次が型付けです。
絵は二人の職人が型付けの最中で、一人は篭をくわえて型紙を移動しようとするところ、他の一人は篭で型の上から糊をすり込んでいるところです。型送りのむずかしい所は型を送るときの柄合わせの型継ぎにあります。これが心持ちでも狂えば柄が重なったり、継ぎ目に空間が出来たりします。型付けは「一糊二腕」というように糊の加減がむずかしく、原料の «米に水を加え、ゆでて生糊にし、更に、米糠、石灰を混じて裏から型置きするときわかりやすいように、赤い顔料を入れます。格米、米糠、石灰の分量は型の種類と天候によって違います。この糊を防染糊 (緋糊)といいます。
白木綿の片面の型付けが終わると、乾燥を待ってひっくり返し、今度は型紙を裏返しにして布裏に型付けをします。このとき表裏の柄がずれないよう注意が必要です。両面の型付けが終わると乾燥後に下染め 「豆(ご)汁入れ」をします。大豆をすりつぶして作った汁を型付けした布に刷毛で引き、藍がよく染まるための下準備をするものです。豆汁が乾いた後、布を屏風たたみにして布の両耳に伸子を通し、たたみます。伸子を持って淡い藍甕から濃い藍甕へと三回漬染します。甕から引き出して空気に当てると藍が酸化し、藍色に発色します。これを「風を切る」といっています。 (『日本の染織⑻中形』より )風を切った生地は小川で水洗して糊を落とし、広い干し場で乾燥させて出来上がりです。
(出典・絵巻物 職人尽絵詞』文化三年 鍬形重斎画 )
幕染屋
「幕染職は障壁の用に供する諸幕を染めた。家々の徽章(もんどころ)を附し。又は種々の模様を顕すを営業とする工人をいふ。 <略 >
幕の地質は一葉ならず。絹、純子(どんす)、縮緬にて作るあり。麻布、木綿にて製するあり。麻布製のものは。多くは白地にて其の徵章を黒色にするを例とす。或は黒地にて白章にせしもあり。縮緬等にて作りし者は。大抵紫色に染め徽章のみを白く出すを常とす。幕府執政の時代には、幕奉行あり。各藩にも各其の職ありて常に之を準備し置けば。随て其製造の注文も多くありしこと、知らる。 «略 >
今に至りて盛りに行はるゝは。浄瑠璃さらひの後幕、踊さらひの引幕、寄席高座の後幕井に水引、天幕。及び大歌舞伎の引幕とす。月耕子の図する所は。昔時の風にて。幕地を柿色に染め。魚がし又は川通りといふが如き。
江戸風の勇しき文字を黒にて摺り込める態なり。文字は黒豆をつなぎて。予め其の位置を画し。夫より刷毛にて摺り込むを例とす。現今劇場(しばい)の引幕は。互に意匠を凝らし。各々流行を競ひ。面白くして人の目を惹けるもの少からず。意匠は大抵素岳、梅素、薫等にて。アテコミ師即ち摺こみ師は『さら文』に限れるよしなり」「風俗画報」
筆者の生家は高松市で幕染職を生業にしていました。また美術学校時代、従兄が東京で更繁の家号で幕染職をしていた関係で、時には絵のように円刷毛を持って、摺込みを手伝ったことがあります。そのときは、黒豆をつないであたりをつけるようなことはしませんでした。生家、養ともに、新聞紙か、映画のポスタ—を印刀で切った型紙を使っていました。当時は幕染職とはいわず、幕屋とか、旗も売っていたので旗屋といっていた記憶があります。幕屋は家号に更文、更繁のように「更」の字を必ずつけていました。
(出典・風俗本『風俗画報』二百四十号 明治三十四年尾形月耕画 )
ビードロ(硝子)師
我が国では、硝子(ガラス)は古くは瑠璃(ルリ)、破璃(ハリ)、富岐玉(フキダマ)と呼ばれ、ポルトガル語のビードロ、オランダ語のギヤマン、江戸中期になって硝子といわれるようになりました。硝子の文字は中国からきたものです。
文化年間の清閑主人著『鴨村 «記抄』に次のように記されています。
「江戸にて硝子を吹き始めたるは、長島屋源之丞といへる者、初めて江戸に至り、吹出したる由、其子孫今に浅草に住して、長島屋半兵衛といふ由。其頃尾張の赤津にて、硝子壺を焼きて出せりと也。夫れ故、今以て赤津にては硝子壺の事を、源之丞壺と唱へる也。半兵衛なる者七十歳余の老人也。源之丞の孫なる由。是れを以て見れば、宝永、正徳の頃にも始りたるやらん。文化六年、予上へ申上げて、ショメールといへる細工事を書きたる書を御買上げになし、阿蘭陀通辞馬場佐十郎 <真由 >を申立て、西洋の硝子吹方を和解して、西洋硝子製法書物三冊出来して、初めての阿蘭陀の水晶硝子を吹出し、品々献上もなしたり。其時に硝子吹千右衛門といふ者、予が手に附きて、細工物などなしたり。源之丞の話は千右衛門語れり。」
硝子は熱しているときに作るので時間の制約があります。だいたい二分間ぐらいのうちに吹いて作らないと、割れたりして失敗するそうです。硝子の種を窯から管(梵天という)につけて出すのがむずかしいそうです。これを玉取りといいます。昔から玉取り三年、素地(形づくり )八年といわれております。 (出典・絵本『北斎漫画』文化十一年 葛飾北斎画 )
漆掻師
出典の『教草』には次のように記されています。
「漆樹ハ雄本雌本にして其雄本ハ実を結ぶ事なし其樹年を経るものは高さ六七間に至る此業を盛になす国にて八四五年より七八年の間に漆を取り其後ハ伐木す故に大樹なし又蠟を製する地にてハ漆は取る事少し会津米沢にて八蠟を多く取る故に棋大の樹多し <略 >漆液をとる事ハ地の肥瘠(よしあし)と樹の善悪とにより成長よきものハ四五年にして周り六寸余に至る多分ハ六七年にして取ることなり其法掻鎌 (一図 )といふ器械にて横に傷け其器の裏にあるー尖にて前の傷の中真へ亦細く一筋入て傷口より流れ出る液を銕の箆 (ニ図 )にて播き取り腰に帯たる筒へ溜るなり其傷の付方ハー株の樹へ一筋其次の樹へ一筋と順次に傷つけて漆を取り其日より四日目に先の傷痕の上へ亦傷つける事前の如とし如此四日目毎に傷つけて遂に全木へ図の如く傷け終り後根本卜より伐倒すなり漆を取る器械を下に図す又漆を取り溜る筒ハ竹にて製し亦浮爛羅勒(ほうのき)と胡桃樹(くるみ)の皮にても製す
漆を取る候ハ半夏生に初め十月に終る初終の漆ハ上品ならず夏の土用より秋分迄の間に取るものを上品とす <略 >」向ふ日に腮まて霞むうるしかき「俳諧鐫(のみ)」
塗師
塗師と書いて「ぬし」と読みます。また漆を塗ることを髹襟漆(きゅうしつ)といいます。著者は香川の工芸学校の卒業ですが、その時の科を髹襟科といい、そこで漆を五年間教わりました。六十年近い昔の話です。
漆は木地に塗ります。木地は、轆轤(ろくろ)師、曲物師、指物師などと呼ばれる木地師が作ります。江戸時代の漆器といいますと、すぐ思い浮かぶのは味噌汁椀であり重箱で、つまり庶民の日常生活で使う食器が多かったようです。
焼物類が漆塗の椀や皿に代わって使われるようになったのは、江戸も中期以降ではないかと思われます。その証拠に焼継屋という行商がいて、焼物のこわれたのを継ぎ直して廻ったほど焼物は貴重だったようです。ですから焼物が庶民の手に届かぬものであった当時は、漆器が食器のほとんどでした。そこから漆の技術が発達し、日本の各地でそれぞれ特色のある塗り方が生まれました。
江戸時代に、各地の特産となった漆芸を次にあげてみます。
春慶塗 木地の美しさを生かすために、透明度の高い上塗り専門の春慶漆を塗り放して仕上げたものです。
根来塗 鎌倉時代、紀伊国の根来寺で作られたのでこう呼ばれています。最初は仏具、膳、椀、家具などの自家用のものを製作したようですが、その中では根来椀が知られています。
輪島塗 能登国鳳至郡輪島、現在の石川県輪島市で製するもので、起源は古く平安時代にさかのぼります。根来寺と同様、最初は総持寺の膳、椀、飯櫃、須弥壇、接待用具などを作っていましたが、のちに一般庶民のものも塗るようになりました。輪島塗の特徴は塗りが堅牢そのものなことです。
そのほかにも、津軽塗、若狭塗、会津塗、象谷塗、秀衡塗、籃胎(らんたい)漆器、村上堆朱(すいしゅ)、鎌倉彫等が全国各地で生産されました。
絵は塗師と弟子が漉し紙で漆を漉しているところです。漆を漉すのは漆の塵を取るためです。漆を塗るときには、埃、塵が塗り物につくのを極端にきらいます。夏でも仕事場は閉め切りで、塗り立てのときなどは仕事場に水を打ち、褌一本で塗ったといいます。船を沖に漕ぎ出し、船上で塗ったという話も伝わっています。ただ漆は塩気と油をきらうといわれますので、頭から信じられませんが面白い話です。
鉢の漆が白く描かれているので、おそらく生漆か透き漆でしょう。鉢の前の曲げ物は漆の入れ物で、曲げ物の左横の膳は宗和膳に似ています。塗師の後ろの戸棚は風呂といって、塗った漆器をここに入れて乾かします。漆はある程度の湿気がないと乾かないので、風呂の内へ水をまいておきます。
(出典・図彙本『頭書増補訓蒙図彙大成』寛政元年 下河辺拾水子画 )
白粉師(おしろいし)
「持統天皇六年に始て鉛粉(おしろい)を作とあり。しかれども精ならざりし也。慶長、元和のころ泉州堺銭屋宗安と云もの、大明の人に習ひ、はじめて造る。又小西白粉は、堺の薬種屋小西清兵衛小西摂津守父也」(『本朝世事談綺』)
「又白粉ニ二種アリ和名抄二モ粉卜白粉卜並べ挙タリ本草和名二粉錫和名巴布尓(ほふに)トアリ今云京オシロヒト呼テ婦人ノ顔二ヌルモノ也然バ粉ハ水銀粉二テ今八ラヤトモ伊勢オシロヒトモ呼モノ是也ム々守貞日粉錫今ノ京オシロヒト呼卜云物今世丁子香等種々ノ名アリ蓋白粉八大坂ニテ製ㇾ之其家ヲ白粉ノ俺元卜云銭屋長左衛門塩屋八右衛門奈良屋丸屋等五六戸也其所レ製ヲ大坂及ビ京江戸二モ買得テ再製シテ婦女二売ル故二京白粉卜 ^モ皆大坂製也蓋大坂水性良ナラズ故二此原製二ヨロシク京師八再精製二良欺水性精ナレバ也紅製及ビ染物等京ヲ好トス清水故ナリ
又京坂ニテ生白粉キオシロヒト云江戸ニテタウノツチ唐土也或ハ『ハッチリ』卜号ケ頸ニヌル物ハ顔オシロヒトハ別製也首筋ハ顔ヨリコクヌル故也コクヌリテ衣襟ニ移ラザル也顔白粉ハ濃ニ塗カタク又襟ニウツリ易シ水ニ浸セバ音ス故ニハツチリノ名アリエリオシロヒトモ云也江人頸ヲエリト云故頸粉卜云コト也此生白粉ハ前ニ云汞粉欺」 (『守貞護稿』)零初期には儒米、粟の粉を白粉に使っていたようです。
そのほかにも白土、紫茉莉 (白粉花の実 )、胡粉 (貝殻粉 )、天瓜粉 (黄烏瓜の根の粉 )、軽粉 (水銀より製す )、鉛白 (鉛より製す )があります。
文武天皇 (六九七〜七〇七 )の頃、伊勢の丹生からは水銀を産し、近くの射和(いざわ)でこれを軽粉にし、松坂で白粉にして売り出しました。これが伊勢白粉です。江戸時代になるとこれを御所白粉と称したようです。やがて伊勢白粉は、梅毒、虱取りの薬として用いられ、化粧用に使われることは少なくなりました。
慶長の頃、堺で安価な鉛白粉が作られました。その影響を受けて髪型や化粧にも変化が起こり、白粉の使用量も急速に増えました。
化粧法も、顔から頸、胸、股と広い範囲に塗られるようになり、役者、遊女、御殿女中、芸者等に利用されました。
化粧には地方と職業によって厚化粧、うす化粧の好みの違いがありました。江戸はうす化粧、京坂は厚化粧でした。御殿女中、吉原遊女は厚化粧でしたが、深川芸者などはうす化粧を粋として誇りにしていました 。
(出典・職人本「職人尽発句合』寛政九年 梨本祐為画)
蒔絵師
『教草』には次のようにあります。「蒔絵と八金粉をもて様々の模様を画たるものの名なり、 <略 >蒔絵に用ゆる漆の各種ハいつれも雑分なきやう清浄に吉野紙にて幾回も濾して用ゆ <略 >地蒔ハ粉金にあらき物細かき物あり品物により下を絵漆にてぬり梨子粉を竹の管に入れて思の儘にふるなり総て金粉を蒔掛るにハ粉のあらきこまかき次第により此竹管の紺目の大小を用ゆるなりこの外に金平目銀平目といふ最上の地蒔ありこれ平目金銀一枚つ、筆の先き又ハ金具籠のさきをもて津液にて付け地漆の上にならべ付るものなり」
絵具師
『万金産業袋』には次のようにあります。
「絵具涙 此条下には大和ゑのぐの品井に調方の大概を記ㇾ之
〇岩紺青(こんじょう)・岩纁(ごん)青此二品は金山の金石に付たる所のさびといふ。皆緑青(いわりょくしょう)石緑・岩白緑銀山のさびと云。以上二品とも一物にて岩紺青、いわ緑青とも。壱ばん弐ばん三番とてあり。
壱番といふは色こくあらし。何にてもさいしく場の広きにもちゆ。弐番は佳すこし浅く紐なり。三番は具いかにも細末にて、色ートしほ浅くて美し。製法の時に乳鉢・乳木にてするうち、三段四段にもわくる。皆水を入れて淘(やり)たて々する。上澄の水をしたみ、淪(い)させてこれを纁青(ぐんじょう)•白緑とする。薄にかわにてつかふ。
〇奈良緑青銅緑・なら白緑 以上は作り物なり。惣して一切の銅(あかがね)商売、薬鑵ちろりの切くず等をあつめ、緑礬(ろうは)を水に洒(そそ)ぎて浸し、土中に埋てねさせ、青さびのつくを期とし、臼にてはたき磨(すりうす)にて挽き、いく度も水飛して、水飛のよき時、板にートたまりづつ落し日に干す。かくはいへと誠ゑのく屋の秘する事なれば、白地(あからさま)にはしれがたかるへし。
〇胡粉 牡蠣がらなり。碓(からうす)にて浸せし水ともによくはたき、あらまし砕たる時、水にゆり立々するにしたがひ、砂、貝がらの皮のあらきは底にのこる。それを取てすて、その水の上の濁をゐさせて、それを磨にて水びきにひき、又ゐさせて上水をしたみ、かはかして日にほす。如ㇾ此する事いくたびもしてふるひにかけ、そのうへを水飛す。上と次との差別も製の段々、麦の此水飛によれり。
〇光明朱 製法の事、その座あれは略ㇾ之
〇丹 長吉といふを上とし、菊丹といふを次とす。製法はまづ泉州堺にて焼。其外大坂等にてもやく事なり。焼やうは口伝なり。性は鉛にて此焼やうて雲泥のたがひある事、同し鉛なれともおしろいに製すれば甚しろく、右丹に焼とき至て赤し。是のみにもかきらず。
『風俗画報』百五十号には、紅の製法が記してあります。
「刷紅馬喰町三丁目 山田金蔵
製法 紅花を水に浸すこと一夜。翌日麻布嚢に入れ。搾器にて圧し黄汁を。去りたる後。紅花を桶に入れ。灰汁を注ぎ、足にて踏み。再ひ麻布嚢に入れて圧搾し。汁を別器に移し。梅酢少許を和匀し。其澄清するを待て。水を去り。嚢底の箱に光絹布を敷き。紅澱を其上に移し。水を去りて。水気の尽きさるに乗し。別器に移し去り。陶器の猪口に刷塗して之を乾す」
絵は猪口、皿などに紅を塗っているところです。猪口とか蛤の貝殻などに塗つたものを、うつし紅、皿紅、猪口紅といいました。携帯に便利なように厚い板とか漆の板に塗ったものを板紅と呼びます。
口紅を唇に塗るときは、薬指に唾をつけて塗りました。
:紅を目の横につけるのを目弾、爪につけるのを爪紅といいます。
(出典•職人本『職人歌合之中』文化四年 丹羽桃渓画 )
烏帽子師
立烏帽子は烏帽子本来のもので、材料は黒紗を的く張って立て、下に縁といって漆を塗り光らせてあります。正面を少し凹ませたところを雛頭、眉、ひたい等といいます (上図参照)。絵の烏帽子師が漆を塗っているのが立烏帽子です。立烏帽子は五位以上の者が用い、民間では黒絹製の柔かなものをかぶりました。当時の公卿、民間ともに、寝る時にもこれをかぶり、特に人と接する時には決して冠り物を取りませんでした。
風折烏帽子は立烏柑いの上部がたか右に折れた形のものです。絵の烏帽子掛けにかけてある右のものがそれで、これは六位以下の者がかぶり、武家は直垂(ひたたれ)、大紋(だいもん)、布衣(ほい)に用いました。また平礼(へいらい)と呼ぶ紙製で雑色(ぞうしき)のかぶったものもありました。これは上が丸く、下に縁がなく柳さび (全面の横しわ )をつけてあります。
侍烏帽子は折烏帽子の一種です。鎌倉時代には烏帽子は紙製となり、その上に黒漆を掛けて幾度も折り曲げ、髻(もとどり)の方を高くしました。この高くしたところを「まねき」と称しました。侍烏帽子のかぶり方は、替に白紐かこよりを二筋くくりつけて烏帽子をかぶり、紐を外へ出して結び、烏帽子が落ちないようにしました。室町時代はこの折り方が数多く出来て京極折り、小笠原折りなどがあり、中でも観世折りが有名です。桃山時代頃から簡単な形になり、まねきは三角形で前進します。江戸城の殿中では素襖(すおう)に侍烏帽子をかぶる規定になっていました。
次に兜の下にかぶる萎(もみ)烏帽子があります。これには梨子打烏帽子 (綾紗製で鉢巻を後ろに結ぶ )、引立烏帽子 (紙製で先が尖り、鉢巻を前で結ぶ )の二種があり、絵の烏帽子師の左に置いてあるのが引立烏帽子です。
(出典•図彙(ずい)本『頭書増補訓蒙図彙大成』寛政元年 下河辺拾水子画)
縫箔師(ほうはくし)
「縫箔屋の松
縫箔屋の障子および暖簾に、三階松をつけたるがところ々にあり。彼職の古老語て日、縫箔のはじまりは、吉備大臣入唐の刻、ぬひものする事を学ひ、帰朝の後、松葉を針としてきぬに縫物して見せ給ひしに起れり。故に松をもって縫箔の目じるしとはする也といへり。此説の是非は暫くいはず。按に、ふるくは若松をつけたるが、いつか三階松となりしなるべし」 (『足薪翁記』 )
川越の喜多院蔵の『職人若』の縫箔師の暖簾は、白地に墨絵で三階松が描かれています。
我が国の刺繡は、すでに飛鳥、奈良時代の繡幡、繡仏にみられ、平安時代になると日本的なものへと変化し、服装の世界にも用いられるようになりました。鎌倉、室町の両時代は刺繡からみると沈滞の時期ですが、次の桃山時代は豪華な時代の影響を受けて華麗な刺繡と摺箔がほどこされ、絢爛目をみはるばかりの小袖、打掛、能装束の作品が生まれました。 この当時の衣服は刺繡が主役で、染色では絞りがあるくらいで、友禅染が現れるまでには約九十年ぐらいを経なければなりません。江戸時代の奢侈禁止令で刺繡と鹿の子染が禁じられ、友禅染が流行を来たしますと、刺繍は友神染の補助役として使われるようになります。
京剌繡には、鎖繡、まつり繡、繡切り、相良(さがら)渡繡、割繡、刺し繡、割付文様繡、霧押え繡、駒使い繡、組紐繡、菅繡、肉入れ繡、竹屋町繡、芥子繡の基本繡がありました。
(出典・ 雛形本『新板当風御ひいなかた』天和四年 菱川師宣画 )
友禅染師
友禅染は京都の知恩院門前に住む扇絵師宮崎友禅の創始したものといわれています。
「爰(ここ)に友禅と号する絵法師有けらし一流を扇にかき出せしかば貴賤の男女喜悦の眉を、うるはしく丹花の唇をほころばせりこれに依て僕人(やつがれ)のこのめる心をくみて女郎小袖のもやうをつくりて或呉服所にあたへぬそれを亦もて興ずるよし聞て書林の某(なにがし)世にひろめん」 (『女用訓蒙図彙』 )
これによれば当時の友禅は、扇絵師として社会的な地位を得ていたようで、それが衣裳へと方向を転換していったようにみえます。
貞享五年には、弟子の友尽斎清親が「友禅ひいなかた』を刊し、その中に友禅染の技法を次のように記しています。
「ー、友禅流ハこのミ々の模様下絵をつけてのりをき或ハく々しにかけて染分る但くゝしたるきわになおしをかけずして絵を書く也
ー、此模様を下絵につけて染分縫薄鹿子をいれて上に彩色絵をも書也
ー、絵の具水にいりておちす何絹にかきても和也
ー、紅絹のうへにはえのぐしみてか、さるを今新に絵具を以て書也」
絵の男は挿友禅をしているところですが、土間でしているのが不可解です。手前の干し竹には、水元 (糊や余分の染料を洗い流す )した布が乾かしてあります。女は水元をしているところで、後ろの甕は色甕のようです。
(出典•絵本『士農工商』享保頃 西川祐信画 )
線香師
「江戸にて八本所にあり所々にもあるべし抹香をどろ <に煉て答の中へ入れ一方に重石をかくれ八菖の底より線香三四十本つ、垂るを童の手に抱えこむやうにしてするに乾板へ請てとる童八オぐらゐより十三四オ迄を遣ふ手しなやかならねば手際よく出来ぞとなり」 (『俳諧職人尽』 )
また元治二年、江州堅田の人錦織五兵衛は『東武日記』に次のように記しています。「麹町薬店ニテ線香ヲ尋ルニ江戸表之線宴クー芙坂より下ルト云う江戸二而八線香製ス事ナシト云々。可考。」
これでみますと、江戸では線香を薬屋で売っていたようです。
江戸時代、線香の榮造は泉州堺が盛んでした。現在ではタブの木皮を原料にしていますが、昔は松の甘皮で作り、それに香木の粉末を混ぜて作りました。その香料は植物性のものに沈香、白檀、丁字、竜脳、動物性は鹿香、海狸、霊猫、接着剤には糊、フノリ、燃焼を助けるために松煙の煤、青、茶の染色を加えて色づけします。
線香は仏事だけではなく、時線香と呼ばれるものがあり、芸者に客からロがかかると座敷つとめの時間を禄香を立てて計りました。この時線香は特別製で、線描筆の軸の太さと長さがありました。
絵は右の男が絞車(ろくろ)を廻すと左の線香の原料に圧力がかかり、索麺状に圧し出されます。左の男が竹箆(へら)で切り取っています。これを盆切りと呼び、出たものの中で不揃いなものは除き、板に行儀よく並べ、一定の寸法に切ります。これを 胴切りと呼びます。乾燥に五日間、積み上げて歪みを直すのに五日間、最後に束ねますが、これを板上げといいます。
(出典・肉筆絵本『長崎古貪覧名勝図会』年代不明 筆者不明 )
陶工師
〇素焼窯ハ図するごとく粧室の如き物にて器物を内に積ミかさね火門一方にありて薪を用ゆ度量を候(うかが)ひ火を消し其まゝ能くさます
〇打圏書画再入窯 右素焼のよく冷めたるを取出し一度水に洗ひ毛綿裂(きれ)にて巾き磨なり茶椀鉢などの内外上下の圏輪の筋を画くにハ又車に上せ筆を其所にあてゝくるまをめぐらせり然して書画を施し其上へ銹漿(くすり)を二度過てよく乾し本窯へ納れて焼けバ火を出て後画自顕る取出し又水に洗ふを全備とすすべて土を取るよりはしめて終成までハたヾ一枚の小皿なりといへとも其工力を過ること七十二度にして其微細節目尚其数云尽すべからず
〇素焼の窯八家の内にあり本窯八斜阜(ななめなる)山岡の上に造りて必平地にハなし皆一窯宛一級(ひとつあがり)高くし内の広さ凡三十坪是を六ツも連接して悉く其接目に火気の通ずる窓を開く然れども火ハ窯ごとに焚也内にハ器物をのする臺あり即土にて制しーツ宛のせて寸隙なくー方を細長く明置それへ薪を入る、此火門八寸に高二尺計余にして焚こと凡昼夜三四日にして一窯に薪凡二万本を費やす尤焚様に手練ありて上人下人の雇賃を論ず追々投込にたヾ木の重さならぬやうにするをよしとす又戸口の脇に手鞠程の穴有是を時々蓋をとりて度量を候ひ其成契を見れバ火を消し其まゝよく冷して取出すに一窯の物凡百俵に及べり
蒲鉾屋
『本朝世事談綺』にはこうあります。
「魚肉を磨りて細き竹に塗り、これをやく。そのかたち蒲の穂に似たるゆゑに名付く。今竹輪と云ふなり。近世は小板に貼すといへども、むかしの、名を呼ぶなり -
京坂一板四十八文六十四文百文也 江戸ハ百文百四十八文二百文二百四十八文ヲ常トス蓋二百文以上多クハ櫛形ノ未ㇾ焼物也
又図ノ如キハ大坂及ビ摂ノ尼ヶ崎兵庫泉ノ堺等ニテ製ㇾ之京都ニ漕シ売ル者櫛形ニ似テ短ク粗製塩ヲ多クシ必ラズ焼タリ是遠境ヨリ遣レ之モノ故二焼ザレバ腐レ易キ故也
又三都トモ別ニ其工ニ命ジテ精製スル者アリ或ハ庖丁ヲ雇テ製ㇾ之等ハ必ラズ精製也江戸精製ノモノハ櫛形ヲ専トスル也近年コレヲ蒸ズシテ焼ヲ良トスル也然ドモ必ラズトセズ」
(出典・絵本『北斎漫画』嘉永二年葛飾北斎画 )
徳利印付師
「こゝに図する所のものは東京にては俗に貧乏徳利と通称するものにして多くは小売酒屋にて用ふるものなり其大小は凡二合入、三合入、五合入、一升入、二升入、三升入等まてにこれを瀬戸物屋より買入れば適宜の桶に水を充分に入其中へ徳利を入て息を力ーぱいに吹込て水漏の有無を調べたる上にて得意先へ酒を靄ぎたるときに間違はぬ為に其酒屋の屋賛は商標を先の尖りし鉄槌或は古鬻(こせん:古い硬貨)にて彫付るものにて手馴ぬ者のなすときは刃先は、辷(すべ)りて思ふやうには出来得ぬもの又強くすれは徳利に破損を生ずされど老練の者がなせばなかゝ手際なるものにて随て其彫上も速かなるものなり又仕出料理屋或は遊廓の台屋の皿小鉢の裏にはみな屋号等を彫付あるものにて此皿に彫ときには水上に浮してなせば損ぜぬよしを聞きたるかいまだ実験せざれば其信偽は保し難し
この陶器に印の彫付をなすは酒屋料理屋のみならず徳川幕府御賄所にて用ふるもの其己前は知らざれども十二代将軍家慶公の御簾中樂宮様の御陶器の裏には笹の彫物あり又十三代将軍家定公の御簾中の御陶器には折鶴の彫物あり予は両様ともこれを所持せり」
出典の文です。貧乏徳利は、ほとんど尾張美濃で作られました。
(出典•風俗本『風俗画報』百十六号明治二十九年尾形月耕画 )
醤油師
「醬油は葛飾郡野田海上銚子等より出すこと夥し小麦を炒り大豆に和して艶をつくり塩を和して大桶にいれて熟せしとき布の袋に包ミてメ器に入て搾り樽に詰めて諸国に出す就中(なかんずく)野田の萬印ハ上品にして八升六合入を一樽と定む」と出典の文にあり、『守貞饅稿』には、次のように記されています。
「醬油 昔八無ㇾ之足利氏ノ庖丁大草家ノ書等ニ醬油卜云コト無ㇾ之垂味噌ヲ用ヒタリ垂味噌ハ今世田舎二テ用フタマリノコト也溜也味噌溜ノ上略也味噌ノ上ヲ凹ニシ笊ヲ納レ置キ溜ル所ヲ汲取ル故ニ名トス <略 >
豆油(たまり)卜訓ゼリ今モ尾三遠濃等ノ国ハ溜ヲ専用シ醬油ヲ用ヒズ」
奈良朝にはすでに豆、麦、塩から醬(ひしお)が使われていたことが文献に記されており、この醬が醬油の母体であろうといわれています。
味噌師
『守貞護稿』には、このように記されています。
「味醬 今俗味噌ノ字ヲ用フ八非也味醬八三代実録二見へ又延喜式神名帳斎宮寮ノ条二味醬一斗二升云々
和名抄ニ高麗醬ハ美蘇云々俗用味醬ニ字味宜ㇾ作ㇾ末何則通俗文ニ有㈡末楡莢醤㈠搗末者契義也
今世京阪の市民毎冬自制する者多し其法大豆一斗米麹 塩 升早春より食之盛夏後の食料ニハ塩 升を多くす租に搗製シ桶ニ蓄え食毎ニ擂鉢(すりばち)ニテ摺テ汁トス
江戸ハ赤味噌田舎味噌ヲ買食シ自製スル者無ㇾ之
金山寺味噌三都トモ有ㇾ之 ▽金山禅寺(中国浙江省の径山寺より伝来)ヨリ造リ始ムト云意ニテ名トス虚実詳ナラズ大豆ニ麦麹ヲ合セ砂糖或蜜ヲ和シテ甘クス茄子紫蘇生薑(しょうが)等ヲ交へタリ <略 >
対味噌近年大阪淡路町八百源一奈二重墨うん割樂にて製 ,脳裏江戸蓋もそうして―二戸伝倍の点あり常の米尊味噌ニ鯛肉ヲ磨交へ製シタル物也 <略 >
銕火火味噌ハ江戸平日用ノ味噌ニ牛房生姜蕃椒スルメ等ヲ加へ胡麻油ヲ以テ煎りツメタル也ナメモノ屋ニテ売 ,'之」また、次のような味噌もありました。
「浪華にて味噌の中へ、蕃椒何くれとなく辛きを摺り混へたるを天竺味 |«といふ。からすぎれば天竺へ至るの謎なり。その滑稽殆ど絶倒す」 (『燕石雑誌』 )絵は味噌師が杵で味噌の材料を損いているところで、後ろにみえるのは麹を入れた箱です 。
(出典・職人本『職人尽発句合』寛政九年 梨本祐為画 )
刀拵師(かたなこしらえし)
刀拵師は刀の刀装具を整えて太刀、打刀(うちがたな)の拵を作りました。刀剣には戦闘のための実用のもの、朝廷などでの儀仗用のもの、神仏などに奉納するものの三種類がありました。
打刀の刀装は、鞘は殆ど塗り鞘で、鞘の表に下緒を通す栗形と返角(かえりつの)がつき、柄は鮫張りの上に組糸か或いは藍 革巻です。鞘には表に笄(こうがい)、裏に小柄をつけたので、鞘にはこれらを入れる櫃孔があけてあります。しかし打刀には、ものによっては返角や目貫、小柄、茎のないものもあります。
長い打刀と脇差を一組にして腰にさすようになったのも室町末期からのことです。江戸時代になるとこれが制式となり、大小と称するようになります。大小は家柄、身分、場所によってそれぞれの規定がありました。 例えば裃(かみしも)で登城するときは黒色蠟(う)塗りの鞘に、白鮫柄、黒の絹糸を菱巻きにして頭は水牛の角をつけ、その上に糸を掛巻きにしました。また大刀の鐺(こじり)は一文字で、脇差は丸鑽、目貫は家紋か金の竜か獅子で、脇差には小柄、笄、目貫の三所物 (小柄、笄、目貫の同じ意匠を同一作者に作らせて揃い物にしたもの )を使用し、金具は後藤家の手になるものに限られていました。
普段の差料にはその人の家格、財力、好みによって種々なものが生まれました。平常差としては江戸全期を通じて用いられた肥後拵えがあります。肥後は肥後熊本藩主細川三斎忠興(ただあき)の好みによって作られたもので、歌仙拵(三十六人を斬ったところからこの名がある )、信長拵 (因州の刀工信長作の刀身を使用していたのでこの名がある )などがあります。その他に逐摩拵庄内拵などが知られています。幕末にはズボン姿に差した突兵拵 (身形鐺 )といって、鐺の先が刀身の先のようにとがったものがありました。
(出典・合巻 「宝船桂帆柱」文政十年 歌川広重画 )