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保土ヶ谷宿を歩く(3)

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脇本陣から外川神社
 本陣の直ぐ隣に脇本陣(写25)がある。標示板には保土ヶ谷宿の宿泊、休憩施設について分かりやすく説明されている。それによれば、脇本陣は3軒で明治3年まで続いていたということである。金子屋は昔の姿を残しており、(写26)格子の目立つ2階建ての屋敷は、私の子供の頃はもっと壮大で、風格があったと記憶している。
 この脇本陣は、保土ヶ谷宿で最も往時を偲ばせる建造物と言えよう。(写27)今井川沿いに歩いて200メートルほどの所に標示板があり、それには一里塚跡と記されている。(写28)一里塚とは街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたものらしい。次に、上方見附跡についても説明しており、京都(上方)側の出入口となる上方見付は、外川神社(写29)の前にあったとされている。見付は土盛りした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」と呼ばれていたそうだ。 外川神社は綺麗に改装され見栄えが良くなっていた。ここで子供の頃奉納相撲があり、まわしを付け土俵に上がったが、あっという間に土俵の外に押し出されたのを覚えている。改めて見回したところ、今のスペースでは土俵を設けることは難しそうだ。ここには別の標示板があり「東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚」について記載されている。(写30)ここに示されているような松並木は、記憶では戦後には既に姿を消していた。保土ヶ谷宿全般に見ても街道筋の松並木は存在していない。
 ここで、また思い出話になるが、今井川の沿いに外川神社の裏山は、かつては緑豊かで、原三渓翁の親戚筋と言われた原田別荘なるものが、一山全部を所有しており、その小山の中腹には人が六角堂と呼ぶ宝物殿?があり、その存在が謎めいていて、子供の頃には一度は探検してみたいと夢にまで見たものである。今は急傾斜地に僅かに灌木を残すのみの緑があるだけで、全山マンション群に覆われている、城塞のような山になってしまい、神秘性のかけらも見ることはできない。(写31)

元町から権太坂を登る
 外川神社を過ぎ、100メートルぐらい先に進むと、国道が分岐する。右側が旧東海道である。道幅が狭く、両側は人家が連なっている。元町でこの分岐は終わるのだが、特段昔を偲ばせるような建造物はないが、唯一途中に樹源寺という日蓮宗のお寺で、本尊は薬師如来である。寛永年間に再建され、現在に至っている。(写32)元町に到着すると、ここが宿場の終着点となる。ここから権太坂の登りにかかる。昔の話ではあるが、権太坂は夜間は物騒で、追い剥ぎなどが跋扈し、旅人の通行は途絶えたという言い伝えがある。登り口には旅人の無事を祈る石碑が立っている。(写33)箱根駅伝で有名な権太坂は新道であり、ここから400メートルほど先に登り口がある。旧東海道は道幅も狭く、軽自動車がやっとすれ違うことができるほどに狭い。権太坂の名前の由来は、諸説あるが、ウィキペディアによれば、「きつい坂を登り切った旅人が、休憩した際に近くにいた老人に坂の名前は何と言うか尋ねたところ、件の老人は耳が遠く、自分の名前を聞かれたと勘違いし、「権太」と答えたそうだ。以来「権太坂」がこの坂の名前となった」という。


権太坂頂上から境木地蔵
 確かに急勾配が続く道筋である。途中に小さな祠があり、その脇に権太坂改修記念碑が建てられている。(写34)坂を登り切ると眺望が開け、足下には横浜新道があり、車の騒音が直に伝わってくる。遥か先にはランドマークタワーがはっきりと見える。(写35)
 この辺り一帯は開発が進んでおり、私が小学生の頃遊びに行った時は、茅葺き屋根の農家がぽつりぽつりとあったと記憶しているが、今は戸建て住宅が道の両脇に隙間なく建っているのには、いささか驚かされた。「昔はこの辺りは追い剥ぎの巣だった」などと言っても何の話かと信じる人はいるまい。
 頂上と言っても、海抜80メートル位の高さであるが、一気に登ったせいかもっと高いという感じがした。終点を示す立派な石碑が建っており、その脇には道案内の標示板も整備されていた。(写真36)
 横浜市の史跡巡りの案内は、近年力を入れ始めたようで、どれも新しい。中には写真入りのものもあり、手が込んでおり、金もかけている物が増えてきている。
 頂上を少し歩くと、現在の国道1号と合流する。(写37)ここに「歴史の道」の標示板があり、近くの史跡を案内している。(写38)新道を少し戻ると、投込塚の碑があるという。残念ながら今回は訪れなかったが、ここには往還に倒れた人々の枯骨を1961年に宅地開発の際に発掘され、ここに供養塔を建立したと記載されている。
 道を境木地蔵に向けて進めると、一軒の旧家の屋敷門が目を引く。この辺一帯の地主でもある若林本家の屋敷である。宿場の名残を見るような立派な建物である。(写39)
 その並びに境木地蔵の階段が目を引く。(写40)境木の名は、この辺りが武蔵と相模の国境だったのに由来すると言われている。この階段を登ると、上にはお地蔵さまが鎮座ましている。(写41)
 
焼餅坂から品濃一里塚
 ここから反対側にある狭い道を下っていくと、焼餅坂という珍しい名の標示板がある。(写42)それによると、この辺りは一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり、坂の傍らで焼餅を売っていたところから、その名が残っている。今は往時を偲ばせるものは、全く残っていない。
 さらに道を下っていくと「品濃一里塚公園入口」に行き着く。(写43)ここが保土ヶ谷宿最後の史跡となる。ここは両側の塚が当時の形で残っており、往時を偲ぶことが出来る貴重な場所だ。(写44)多分御神木と呼ばれたであろう「タブの木」の巨木が、敷地内の中央に聳えている。外からは見えないが、公園の中で見ると、何となく周りを圧倒する迫力がある。見落としがちな場所にあるが、保土ヶ谷宿最後のビューポイントであるので、ぜひ訪れてほしい場所だ。これより先は戸塚宿に入る。(保土ヶ谷宿完)


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 この続きは「戸塚宿を歩く」(予定)
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