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戸塚宿を歩く

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大山道道標に始まる戸塚宿概要
 今回の戸塚宿のレポートは、道筋がよく分からず3日ほど現地に行き、情報を集めたが、全体の道案内が無く、場所も離れ離れに点在しており、取材には苦労させられた。
 そのため何ヶ所かは足を伸ばすことができず、不十分な史跡巡りとなってしまったことを、最初にお詫びしておく。
 旧東海道戸塚宿の起点は、不動坂の交差点から始まる。トップ画像で示した道順に従って案内していく。この起点までは、JR戸塚駅東口バスセンターから保土ケ谷方面行きのバスに乗り、10分ほどの場所に不動坂バス停がある。
 最初に訪れたのが、バス停近くの「大山道道標」である(写真1)。説明によれば、伊勢原の大山は当時信仰の山として、多くの参詣者を集めたことで知られている。旧東海道から大山への入口が柏尾の大山道道標で、道標は四基あり、最初の道標は寛文10年(1670年)に建立された。最も新しい四基目は明治5年の建立である(写真2)
 その反対側道路を挟んで、県の名木100選に選ばれた「益田家モチの木」が、堂々とした姿で聳え立っている(写真3)
 ここで簡単に戸塚宿の概要を見ておこう。「神奈川の宿場を歩く(神奈川東海道ウォーキングガイドの会)」によれば、江戸から五番目の宿場戸塚宿は、日本橋から41.2キロの距離にある。見付から見付までの宿内の家並みは長さ約2.2キロ、江戸方より矢部町、吉田町、戸塚町の三町で構成されていた。その規模は江戸後期で人口2,906人、家数613戸と記されている。

妙秀寺から子の八幡社まで 
 話しを戻し、道路を駅の方に戻っていくと、右側にファミレスがあり、入口の側に江戸方見付跡の石碑が立っている(写真4)。その反対側に渡ると直ぐ妙秀寺入り口とある 。狭い道を2-300メートルほど奥に入ると、高い石垣と石塀で守られた寺の前門に着く(写真5)。高い石段を登ると立派な本殿が目に入る。
 この辺りの寺は、由緒あるせいもあってかどこも綺麗に保たれている。墓地が大きいところから見て、古くからの檀家が多いのだろう(写真6)
 旧道に戻りしばらく歩くと、マップ(トップ画像)には出ていないが、戸塚不動尊と書かれた標示板があり、宝蔵院という槍で有名な寺を思わせる名称だが、天文16年(1547年)中興とあり、寛永9年(1632年)にご本尊が安置されたも記されている(写真7)
 戸塚駅方面に戻る途中に、柏尾川を渡る吉田大橋がある。そのたもとに戸塚一里塚跡のパネルがある筈であったが、反対側のお稲荷様(写真8)に気を取られ、見落としてしまった。
 柏尾川沿いの桜並木が満開で、多くの人たちが花見を楽しんでいた(写真9)。戸塚駅東口に戻り、旧東海道から外れ、柏尾川沿いに藤沢方面に300メートルほど歩き、左側の脇道を入りしばらく行くと、子の八幡社がある(写真10)。創立年代は不詳であるが、元は子神社と言われ、古来村の鎮守であった。現在の社殿は大正6年に造営されたものである。社殿も大きく立派であるが、それに加えて、庭には道祖神や庚申塚なども6基ぐらい集められている(写真11)。神社の格式は高そうだ。現在は神職も常駐している


戸塚駅西口方面から本陣跡へ
  戸塚駅西口にある旧東海道1号線に戻し、駅から少し離れた場所にある清源院長林寺を訪ねた(写真12)。徳川家康の愛妾「お万の方」縁の寺として名高い。お万の方は現在の泉区の出身で。家康没後、尼となってその菩提を弔うためこの寺を創建したということである。境内には芭蕉の句「世の人の 見つけぬ花や 軒のくり」の句碑がある。
 更に国道を原宿方向に少し行くと、道路脇に内田本陣跡の標示板が立っている(写真13)。これは二つあった本陣の一つで、建坪211坪、間口18間、奥行き14間の堂々としたもの、畳数は152畳もあったということだ。
 戸塚宿のもう一つの本陣は沢辺本陣であるが、残念ながら道標を見落とし紹介できなかった。記録によれば、内田本陣よりやや大きく271坪あったということだ。

富塚八幡宮と上方見付
 更に原宿方面に足を進めると、戸塚町交差点の直ぐ近くに、富塚八幡宮がある。「富塚」は戸塚の地名の起こりになったという。戸塚の総鎮守で、祭神は応神天皇と富属彦命(とつぎひこのみこと)の二柱である(写真14)。神社の裏手に回ると社殿の凝った造りの彫刻が見られる(写真15)
 緩やかにカーブする道を登っていくと、昔の宿外れにある上方見附跡に行き着く(写真16)。ここには広重の有名な浮世絵が標示板に写されているが、褪色して当時の光景が浮かんでこないのが残念であった (写真17)

大阪台の急な登りと松並木跡
 さらに坂道を登っていくと、大阪台という信号機のある場所に到達する (写真18) 。ここに大阪の地名が付いているのは、かつてここは二つの坂から成り立ち、一番坂登り110メートル、二番坂54メートル余と書かれており、昔は切り通しのある急坂であったことから大阪の名が付いたということである。 今は改修され比較的緩やかな坂になっているが、今でも大汗をかいてしまうほどの坂である (写真19)
 坂を上りきると、国道1号のバイパス(横浜新道)と合流する。ここには、大阪松並木と記された標示版がある (写真20) 。松の木は2,3本残っているが、並木ではなく、他の街路樹に混じって目立たない (写真21)

お軽・寛平戸塚山中道行の場
 道をそのまま旧道沿いに進むと「お軽寛平戸塚山中道行の場」とある碑が立つ一角がある。「歌舞伎仮名手本忠臣蔵」のお軽・寛平の「戸塚道行の場」に因んで造られた碑だそうだ(写真22)
 ここまで来ると相当の距離を歩いたことになり、足が言う事を聞かなくなった。この先の「浅間神社」、「影取池跡」は残念ではあるが距離が離れており、取材を断念した。冒頭にお断わりしたように、心残りの戸塚宿のレポートとなってしまった。
 これをもって、神奈川の東海道にある4つの宿場探訪は終ることにする。


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