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2013.10.1漢字の妙
 文章を作成するときに、仮名と漢字のバランスというのは結構重要な要素だと思う。ひらがなだけやカタカナだけで作文したら、読む人は全く意味を解釈できないことだろう。漢字には同音異義語などたくさんある。パソコンの変換ミスの元凶とも言える存在だ。
 しかし、漢字の効力そのものにとっては、そんなものはまさに細事である。日本の漢字仮名混じり文(中国や台湾の漢字とは別という意味で)は、日本独自の発展を遂げている。日本語以外に特に精通しているわけではないが、独特な味わいがあることは確かだ。森の木に例えるのは的外れかもしれないが、葉も茂れば、花も咲き、実も生る。平易ではなく、複雑な変身をする。具体的には、偏(へん)と旁(つくり)の組み合わせで、形や意味を読み取ることができる。
 「絆」という漢字だが、東日本大震災後俄かに脚光を浴びることになった漢字だ。音読みででは「はん」訓読みでは「きずな」である。糸偏に半という旁を充てる。この漢字は何を意味しているか少し考察してみる。
 「漢字源」という辞典によれば、(意味)は、ほだし、きずなという漢字は、馬の足にからめてしばるひも。また、人を束縛する義理・人情などのたとえとある。「絆創膏」(バンドエイドとは素材が違う)などという単語もある。
 どうもこの説明では、糸からの連想はできるが、半が何を意味しているか説明していない。他の辞典を引いてもこの程度の説明だ。私には今一つ合点が行かぬ。インターネットや文献等を探っていくうちに、やっと納得のいく説明に行き当たった。急いでメモしたので、出典は不明だが、それによれば、「半が意味するところは、半分の糸同士を結ぶと、一本の糸になる。半分では弱いが一本になれば強くなる。それでも、糸はいつかはほぐれてしまうものだ」と意味深長な説明がなされていた。結婚の結、縁組の縁、集まりの組みなど、糸偏は結婚式のスピーチに困った時には、都合の悪い部分は省略して使うと。結構受ける話が出来上がる。
 このように漢字を分解してその成り立ちなどを調べるのも一興だ。

2013.10.5口癖
 無くて七癖、有って四十八癖と言われるぐらいに人にはいろいろな癖がある。
 そこで今回は言葉の癖を取り上げる。本人は気付かないが、他人からは「この人の癖だね」と言われるような言葉の中で特に頻度が多く出る言葉である。
 お笑い番組で、買い物をする一定時間内に出演者の癖と言えるキーワードが何回発せられるかということで減点して楽しむという趣向である。不思議なもので、例えば「ホンマカイナまたはホント!」などは結構多くの人の口癖と言える言葉であることが分かる。
 かつて総理経験者の福田赳夫氏の「ア~ウ~」、大平正芳しの「ハ~フ~」は有名だが、何故福田氏が「ア行」で大平氏が「ハ行」なのかは分からない。大体が言葉の出だしによく使われる「エ~とかマ~」の類と考えてよさそうだ。現総理大臣の安倍晋三氏は言葉の中間に「・・・の中に於いて」と言うのが口癖だ。
 癖とは自分では気付かないで言っているのが通常で、意識的に入れているのならそれはそれで大した役者だ。先ほどの「エ~」で始まる癖は代表的なものだが、訓練すれば出なくなるはずだ。アナウンサーはまず冒頭に「エ~」とは言わない。解説者には結構この癖のある人は多いが。
 あまり無理して矯正しようとすると思考に乱れが出て台無しになる。私は自分では気付かないが矢張り癖はあると思う。私の場合は、声の調子が変わる。自信がないときは小声で、乗ってくると早口になる。話すリズムや強弱は癖とは言わないかも知れないが。マ!何れにせよ誰にでもある癖。耳障りな時もあるが、それがその人を特徴づけるものであるとしたら、これはセールスポイントにもなりうる。実に、癖とは不思議な習性だ。

2013.10.8 メガネ(mono)  
 私にとって、毎日の生活に欠かせないメガネ。今回はメガネを取り上げる。
 先ず、メガネはいつごろ日本に到来したかから始める。
 眼鏡が日本に伝わったのは、室町時代後奈良天皇の御代(1526-57)とされ、聖フランシスコザビエルが大津義隆に提示した贈物の台帳に明記されているところから約500年前になる。
 かの俳人蕪村も「合わぬ眼鏡のおろか也けり」(1779)と歌っている。矢張りどの時代でも合わぬメガネは使えないということが分かる。
 最近は遠近両用メガネが当たり前のように普及しているが、日本ではそれほど古い話ではない。1967年にHOYAが日本で初めて境目のない遠近両用メガネを発売している。
 さて、私とメガネとの付き合いについて話を戻す。老眼が始まったのは、比較的早く40代の初めである。それまでは両眼とも視力1.5を自慢していた。ところが、急に新聞の字が二重に見えるようになった。そこで職場の近くのメガネ屋で検眼してもらったところ、遠視で乱視で、一部近眼という訳の分からない結果が出た。それは大変だということで、流行の先端を行く、先に紹介したHOYAのメガネを新調した。いい値段であったが、新聞も読めるし遠くもよく見えた。階段の下りは少し歪んで歩きにくいので、普段はかけなかったが、運転する時などはメーターを見るために必ず使用した。
 これで一安心と誰でも思うはずだ。ところがそうはいかない。年とともに老眼は進み、視力も衰えていくという現実があった。2年に1回は作り直しという事態となってしまった。その上遠近両用だけでは足りず、中近、老眼専用と使い分けるという煩雑なかけ替えが必要となり、家中にメガネが配備されることになってしまった。当然外出用に遠近と携帯型老眼鏡も準備した。
 ついいつもの置き場所と違う場所に置くと「メガネ、メガネはどこ」と探すという時間の無駄も生じるようになった。正直眼のメンテナンスにこれほど手がかかるとは思わなかった。あちこちのメガネチェーンが繁盛するのも分かる気がする。いつまでも高価なメガネを買うほどの財力もないし、つい宣伝に釣られ、万能と言われる全視界メガネも購入し、使用しているが、決して万能ではない。半額セールのメガネは、安物限定の在庫払いでまず値段も信用できず、とうぜん満足できる代物ではない。DAISOが遠近両用を出せばこの程度のメガネは発売できるだろう。と言う有様で「安物買いの銭失い」に懲りない私なのだ。IPS細胞が眼の根本的改善に使われるまで待つのはほぼ絶望的と嘆いている。


2013.10.11 衣替え
 10月1日は冬の衣替えというのに、今になっても連日日中は30度を超える真夏日が当たり前。湿度は60%を下ることはない。
 まだまだ残暑が続いている。湿度が常に50%以下でなければ秋が来たとは言えない。ウォーキングしていても、じっとりと汗が下着を濡らして気持ち悪い。持病の腰痛にも悪影響が出て、足が重くまるで鎧を着て歩くようで、日課の8000歩のウォーキングが最近は6000歩位に落ちている。
 衣替えの習慣は平安朝時代にさかのぼる。年2回6月は夏衣装に、10月に冬衣装に着替えるというしきたり(宮廷行事)に始まると伝えられている。
 風習に則り、私も10月に入り一応衣替えをし、上着を長袖に変えた。ところがこの暑さである。また、半袖に逆戻りしてしまった。そこで一句
   衣替え済ませてみたが秋は来ず (風楽)
 この調子でいくと、秋を楽しむ時は来ないのではないか。11月7日は立冬、それまであと一か月を切っている。行楽の秋、紅葉の秋、古来より日本人が愛して来た秋の到来は、待ちぼうけのまま、そのまま冬に突入する気配すらある。いっそのこと旧暦に切り替え11月を衣替えの日にした方がよさそうだ。

2013.10.14秋深し
 「秋を愛する人は心深き人」という歌詞がある。
 心が強いとか、弱いとか、心に関する表現は多様である。では、心が深いとはどういう人のことを言っているのだろうか。
 どうも、そんな言葉じりを捉えるのが、私の癖と言うか。習性みたいになってきた。日常細事を書き始めてから、細かいことにも注意を傾けないと、3日に1回、予定では700回のコラムは、いくら細事とはいえ書き切れない。700回の目安は次の東京オリンピックをゴール地点と想定してのことだが。
 「心が深い人」とは、表現としてはありそうだが、「あの人は熱いね」とは言うが、「あのひとは深いね」とはあまり聞かない。
 そこで早速インターネットで検索を掛けてみた。大体がこの歌の歌詞がヒットし、期待したような答えは得られなかった。一部心理学用語で「深層心理」に関して、心が深いところで傷つくトラウマと言うような、見当違いな答えが返ってくる始末だ。
 手詰まりとなり、「深い」を日本語大辞典で調べると「表面から底までが遠いところ」とある。(英語でdeep)
 そこで、思いついたのが、思慮の深い人のことを言っているのだと想定してみた。すると、「考えの浅い人」の反対語として「考えの深い人」という答えを引き出すことができた。
 心が熱いとか冷たいとかという表現は、温度を測るようで分かり易いが、浅い深いは,深度を測るので分かり難い。どうやら目安がついたので、改めて「心深き人」について考えると、「物想う秋」に結びつけると「深度」で測る心の状態を言っているようだ。
 秋という季節は、風情のある表現を生み出してくれるものだ。詩人や作家が好む季節であることが分かるような気がする。

2013.10.17野分(のわけ、のわき)
 秋に強く吹く風を「野分」という。16日には台風26号が日本を直撃、この10年で最大の台風と言われ、多くの被害をもたらした。中でも、大島は死者行方不明者49名に達する大災害となった。1時間100ミリを超える雨が3時間以上も続き、24時間で800ミリという記録的大雨をもたらし、土石流が発生し、大きな災害を引き起こした。
 横浜も16日の夜は一晩中ビュービューと時にはゴーと地鳴りのような音を伴って吹き荒れた。路肩に置かれていた自転車は軒並みドミノ倒しとなり、その強さを物語っていた。今回の台風は、早くから警戒警報が出て、その強さは予想は付いていた。
 昔の人は台風を前以て観測することができなかったから、秋の突風と感じ「のわけ、のわき」と呼んでいたそうだ。長年天声人語を執筆した荒垣秀雄氏は野分について「立秋は八月初旬の暑い盛りだが、九月の声を聴くとすぐ二百十日、二百二十日と厄日が続く。今は台風と言うが、昔は文学的表現で野分といった。秋草の野を吹き分ける野分は荒々しい破壊的なものだが、なぜか昔から日本人は、この大風を恐れながらも好んで俳句の題材とし、台風一過の自然の暴威にそこはかとなき詩情を感じた」と記述している。
 孫請けの感の強い文面となったが、流石にエッセイの達人の自然に対する観察は細かい。
 今もニュースは大島の災害復旧活動に全力を尽くす地元消防団員、東京都消防局のレスキュー隊員そして自衛隊員の活動を多くの時間を割いて伝えている。行方不明者が一人でも多く救助されることを祈るばかりだ。ここ横浜では、台風一過の秋晴れとはならなかったが、僅かの間大きな虹を見て少し救われた気がした。
   野分去り 雲の合間に 虹暖簾(のれん)  風楽

2013.10.20蔵書整理
 
誰の家でも本や雑誌はあるはずだ。問題は日々貯まっていくそれらの処分の仕方だ。毎日読む新聞や週刊誌などは定期的に回ってくる古紙回収に出すので、整理がつく。
 次に、本や特集の組まれた雑誌の類の整理方法だ。これらの種類の本は読みたいから買うので、そう簡単には処分できない。几帳面な人なら読み終われば直ぐに古書店に持っていくか、図書館に寄贈することだろう。
 私はその整理に、踏ん切りがつかないところがあり、蔵書が場所を占有することになり、それが悩みの種になる。勿論娯楽本や文庫本などは読み終われば図書館に寄贈する。(物によるが・・)特に手放せないのが、ハードカバー物はどうしても読みたくて、かつ図書館では対処できないものを選ぶので、そう簡単には手放せない。辞書辞典類は使わない時が多いが、置く場所を多く占有する。また、物書きを始めてから文書作成にかかわる本や、歳時記・随筆類の本は増えこそすれ、減ることはない。
 次に場所占有率の高い本はマニュアルやパソコンソフトの解説本である。ソフトが使われなくなったり、電子機器が壊れたり、無用になれば捨てる事ができるが、現在使っているものは捨てられない。特にホームページ作成に関わる本が圧倒的に多いいが、バージョンが色々あり、捨てきれないものが数十冊も書棚に並んでいる。
 何やかやで、我が家は本に占拠される状態になっている。狭い我が家であるために、本が部屋のあちこちに置かれ、窓から入る光を遮っている。 
 これ以上本の部屋への浸食は、わがカミさんは快く思うはずはない。 あの手この手を尽くして言い訳して言い逃れてはいるものの、最早限界に達している。これ以上本に場所を充てるゆとりなどない。
 断腸の思いで処分することにした。どの本を処分するかその判断基準が問題だ。これだけは手放せない本と、まだ読みかけで積読(つんどく)中の本はとりあえず除外する。所蔵本のうちパソコン関連の書籍は最小限にとどめ、それ以外は処分すれば結構スペースが生まれる。それを手始めとして蔵書整理に取り掛かるとしよう。どこかで「いつ始めるのよ!今よね!」 というカミさんの声が聞こえるようだ。(取りあえず100冊ほど処分したが、見回したところそれほど減ったとも見えない)

2013-10-23上戸(じょうご)と下戸(げこ)第一話
 下戸とは、全く酒を飲めない人のことを言う。具体的には「僅かばかりの酒でも飲むと直ぐに酔ってしまう人や、少量の酒で悪酔いして気分が悪くなるなど、飲酒に対して耐性がない様子」と定義付けられている。
 私の場合、体の中のアルコールを分解するアセトアルデヒド分解酵素がないに等しい部類に入る。(日本人の5%)欧米人にはほとんど見られないそうだ。日本人の45%が酒に弱いと統計に出ている。
 一方、55%が強い部類に入る、中でも上戸と呼ばれるひとは「酒好きな人で、大酒飲みの人を言う」と定義付けられる。
 それ故私の場合訓練すれば飲めるようになれる訳ではなく、却って体を痛めてしまう、生まれつきの体質なのである。
 酒が飲めないというのは、自分を省みてマイナス要素の方が多いと感じている。
 先ず、この国にあっては、「酒が飲めるぞ」と一時流行った歌にあるように、何があっても酒という風習がある。男の一番のコミュニケーション手段として上げて間違いない。ところが、私のような下戸は宴会の席では、最初のうちは合わせているが、周囲のアルコード濃度が上がるに従って、居心地が悪くなってくるものだ。対話に本音で合わすことが出来ないからだ。(第2話につづく)

 2013-10-26上戸と下戸第二話
 どんな社会でも表と裏、建前と本音というものが存在する。勤務が終われば先ず一杯と席が設けられる。酒が入ればポロリと本音が出る。濃密なコミュニケーションはこんな状況で取れるものらしい。(想像だが)
 そうした人間関係は職場でも引き継がれていく。俗な言い方でいえば、親分子分または派閥の形成といった形で表に出る。今は無くなったかも知れないが、待合政治といったものが存在したのは、裏の情報のやりとりのできる場所が在ったからである。(この情報については別稿「note:エッセイ」で取り上げたい)
 「酒なくて何の己の桜かな」という俳句が落語の中にある。これは「 花見に酒はつきもので、酒を飲まずに花見をしてもつまらない」という意味である。酒は良くも悪くも人生を豊かにする作用があるようだ。私は下戸だから「花より団子」の口である。古来より酒にまつわる名句、名言は山ほどある。しかし、下戸は相手にされない。残念だが「下戸は金持ちになれない」という諺が、私には身につまされる。倹約して、真面目に生きても金は残らない。けだし名言である。
 今回は下戸の僻み(ひがみ)と聞き流して(読み飛ばして)欲しい。


 2013.10.29知の作業場
 考えをまとめる時、人にはそれぞれふさわしい場所がある。
 風呂の浴槽の中(言葉が浮かんでくる)、眠れない寝床の中(言葉が夢に表れる)、空いている電車の中(言葉がコトン、コトンとリズムに合わせて踊り出る)、トイレの中(言葉を文字通りひねり出す)等々、色々な場所が頭に浮かぶ。人によってはそんな場所にメモ帳など用意しているという話も聞く。
 私の場合は、散歩中が一番考えが浮かんだり、まとまったりする。ウォーキングは、最短でも一時間は歩くから、何か考えない方がおかしい。以前は歩くときはイヤホンで音楽を聴いたり、トーク番組に耳を傾けていたのだが、コラムを書くようになってからは、そうすると気持ちが集中できないので止めた。考えやヒントが浮かんだらメモが必要なので、公園のベンチに座ったり、近くに手頃な喫茶店でもあればそこに飛び込んで、常時携帯している電子ノートに書きつけるようにしている。
 そうして書き出したメモは家に帰って、パソコンに向かい文章としてまとめ上げる。それがコラム作成のための一連の作業だ。いきなりパソコンに向かい「さー書くぞ」と構えると、却って何も浮かんでこない。
 先に記したが、考えをまとめるという「知の作業」に決まった環境は必要ない。風呂場であったり、寝床であったり、電車の中であったり、トイレであったりと、何れも書く作業には不向きな場所である。散歩もしかり、何でそんな場所でアイデアが出たり、考えがまとまるのだろう。
 かえりみるに、それらに共通している点は、肩の力が抜けている状態にあるという所だ。ある目的があり、そのためのデータもある時には、リラックスした状態に自分を置くことが、文章を作成する上で大切だという結論が導き出された。