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2013.9.8 mono

 本日2020年のオリンピックの開催地が東京に決まった。報道はこの朗報に沸き立っている。日本の明日にとっても希望の灯をともす大きな力になると信じている。前回の東京オリンピック開催時私は20代のちょうど真ん中にいた。それから56年後私はこの目で東京オリンピックを見ることができるか微妙なところだ。このコラムもそこまで続けば、万歳三唱ものだ。新しい目標地点が見つかった気がする。
 さて、今日のコラムに話題を戻す。今でも読まれている方は多いと思うが、monoマガジンという男の欲しがる、または、流行のモノグッズをカラーグラビアで紹介している(月2回発行だった)雑誌がある。(1985.11発刊)男のモノに対する趣向を対象とした、幅広いジャンルのモノを取り上げて情報提供している。
 私も40代の頃この本を定期購読しており、今でもそこから気に入った特集を組んだ20冊ほどが本箱の奥に並んでいる。今見直してみても、男のモノに対する購買意欲を妙に刺激するグッズが並んでいる。鉛筆から車まで時代の流行の最先端をいく物ばかりだ。
 筆記具、手帳、時計、カバン、メガネ、カメラ、ラジオなど男が仕事に携える道具は、時代の変遷に関係なく必要だから、取材ネタは尽きないだろう。この本では他にファッション関係、電化製品、飲み物等等おびただしいmonoがあふれかえっている。男がいかにモノに拘っているかの証でもある。
 IT時代の到来で私個人が日ごろ使う道具が大きく変わった点は、パソコン(タブレット端末)、携帯電話、電子手帳などが追加されたことだ。私の場合、この歳でパソコンでなんでも処理するので、普通の同世代人とは少し異なり、この点は多少凝っている。
 自分自身に投資した電子機器類に対する額は小遣いの殆どだから、道楽に近い。今こうしてホームページを生きがいに毎日の生活を続けられるのだから、この歳になって投資に見合ったものをやっと見つけた。モノも頭も使いようで力を発揮すると言っていいだろう。
 身の回りグッズは細事にふさわしいテーマであり、このコラムでも度々取り上げる積もりだ。

 使っているmonoは自分が実際に使って気に入ったものだから、特定の商品名が出てしまうが、決して宣伝ではないことは明言しておく。


2013.9.11 筆ペン(mono)

  私は今筆ペンにはまっている。筆ペンと言ってもピンからキリまである。100均ショップで2本セット105円から、漆塗りの万年筆のような数万円もするまで100種類を超えるほど出回っている。私も数年前から筆ペンを使い始めた。
 最初はイラストを描くのに面相筆より使いやすく、色も豊富に揃っていたのが選択理由だった。そのうち手紙や年賀状はパソコンのソフトを使って書いていたものを、手書きにしようと思い立ち、筆ペンに切り替えた。色々な筆ペンを使ってみたが、たどり着いたのが今もっぱら使っているくれ竹「万年毛筆」という万年筆型でカートリッジ使用のモノだ。
 穂先の毛が本毛で、使い込んでいくうちにすっかり手になじみ、書き易くなっていく。万年筆のペン先が毛で出来ているだけで、他は変わりがない。従って、取り扱いが楽で軸の太さも手にフィットして、今では軸の塗装が剥げて地金が見えている。これがまた年季を感じさせ手放せなくなる。
 最大の利点は、微妙な指先の力加減で独特の癖のある、その日の気分しだいの文字が表現される。ワープロのように同じフォントとは違い、アナログそのものの仕上がりとなる。上手いとか下手とかいうのではなく、味が出るのだ。手紙をもらった人は、きっとその味を感じ取ってくれることだろう。
 この筆ペンのように、モノに愛着を覚えるようになれば、多少買ったときは高価でも、それが最高な選択だったと評価していいだろう。

 

2013.9.14  電子ノート(mono)

 文章を書くとき予めノートに下書きを作り、校正を加えた上で仕上げる。これが通常の手順だと思う。下書きが本稿になる時は全く姿を変えてしまうことも珍しいことではない。思うがままに勢いだけで書きなぐる下書きでは、文脈などあったものではない。校正を加えるとき重宝なのが電子ノートである。
 昨年暮れにシャープが「電子ノート」と名付けて発売したのがこれである。簡単にそのコンセプトについて開発者は次のように述べている。「紙のノートに代わるツールとして書き味にとことんこだわり、電子機器を操作してい る”という違和感を覚えない感触を意識し、日々使ってもらえる道具をイメージしたという。A6というサイズは、既存の文具用カバーなども使えるようにしたかったからだという。また、すらすら感のある書き心地を優先させ、複数のノートを記録・保存するというシンプルなスタイルになった」と。
 確かに使いはじめには、画面が暗く見にくいのが気になり、発売元に「広告にあるような明るい画面ではないじゃないかと」文句をつけたぐらいだ。しかし、長時間(約1か月)充電なしで使うには、バックライトをつけることは無理だろう。何事も慣れと工夫で障害は取り除ける。書く(描く)時は明るい場所を選ぶ、またはクリップ型のLEDランプを装着するなどすると、解決できると分かった。
 「日常細事」のように、思い立ったらすぐメモし、その流れで書きなぐっていく、そのような作文にはもってこいである。基本がアナログ発想でできているので、鉛筆で書き、消しゴムで消し書き直すという作業が無理なくできる。
 勿論電子機器のはしくれ、ページの削除、移動、ジャンル分け、日付管理、PCとの連携も簡単な操作でできる。これまで欠かさず使い続け、今では手放せない文具となっている。

 

2013.9.17 初秋夜半

 ようやく朝晩涼しい風を感じる季節になった。
 窓を開け放って風を取り入れ、眠りに就く、寝つきが悪いので暗闇の中で聞こえる色々な音に耳を傾ける。夜半は音だけの世界だ。私はこの夜が奏でる音を楽しみながら眠りに入るのが習慣化している。
 夏の盛りにはあれ程うるさかった蝉の声はなく、今は鈴虫やコオロギが、美しくリンリン、コロコロと弦楽器の演奏を聞かせてくれる。その中に仕舞い忘れた風鈴のチンチロリンという軽やかな音が混じる。夜のしじまの中で耳に入る音は、虫の声だけではない。遠くの方からはザワザワとした音が港の方角から聞こえてくる。眠らぬ街の発する生活の音だ。そして仕事か夜遊びかは分からぬが、疲れたような靴音がコツコツと道を通り過ぎていく。
 秋は風のシーズン。秋が発する音は、サーと掃くような音から、ヒューと切るような音まで時々刻々と変化する。秋の夜長はさながら自然の大音楽会だ。そんな、耳に届く色々な音を確かめている内に、次第に眠りは訪れる。

 秋の夜はしじまの中の演奏会
       プリマドンナは鈴虫の歌
                     風楽

 

2013.9.20 方向音痴
 私は立派な方向音痴である。図らずもインターネットで「方向音痴テスト」なるものを見つけ、実際の経験に照らして測ってみた。音痴の段階は5分類され5が一番ひどい状態とされている。
1.家族を車に乗せ毎年寒川神社詣をする。最初の年は曲がり角を間違え、相模川に行き当たりUターンして元の道に戻り、やり直してやっと神社に着くことができた。更に悪いことにこの道はそれから3回にわたり行くたびに道を間違えたのだから、その方向音痴ぶりは推して知るべしである。(評価5)
2.道順を間違えることも度々だ。毎年数回同じメンバーで一泊麻雀をするのだが、最初は駅を降りて反対方向に歩いてしまい、お店で聞いてやっと方向が逆と分かった。次の回はうまくたどり着いた。ところが、その次は小道を曲がり違え、目的地に到着できず、先行した友人に携帯電話で迎えに来てくれるよう要請した。度重なる間違いに友人たちは呆れていた。(評価5)
3.古本を求めて、かつては神田小川町の古書街をよく訪れた。地下鉄で行けば、小川町の駅で降りれば、そこが目的地だから間違わない。地下鉄の出口を間違えるくらいだ。ところがJR神田駅から行くとなると話が変わってくる。思い込みが激しいから、この道と決めて小道を選ぶと、とんでもないことになる。いつの間にか秋葉原に着いてしまい。電気街を見物して、そのまま目的は果たせず帰ってくることもある。(評価5)
4.ここまで述べたように、一度訪れた場所を再度訪れる時、余程しっかりした目印でもあれば別だが、大概の場合迷子になること請け合いだ。(評価5)
5.地下鉄の出口は方向音痴にとって難関である。出方によっては方向感覚を失い、左右も分からず、もとより東西南北などもってのほかだ。私の体の中にはコンパスは入っていない。東京駅の地下はまさに迷路、どこに出るか分かったものではない。(評価5)
 まだまだ評価判定は続くのだが、ことごとく評価5に落ち着く。
 結論を下すと、私はスペシャルクラスの方向音痴ということになる。もっとも本人はあまりそういうことは気にかけない。「道はローマに通じる」と今日もこれからも先の定まらない道を歩き続ける。


2013.9.25 ドリームジャンボ
 この6-7年間、私は1億円以上当たる宝くじに限定して連番10枚を買い続けている。
 そのきっかけとなったのは、最初に買った宝くじが偶然5万円の当たり籤だった。それは幸か不幸か定期買いの始まりとなった。その後何回か小当たりの3千円が当たったりして、結構元が取れると錯覚してしまった。きっと、大当たりに巡り合うと信じて買い続けた。ところがこの2ー3年さっぱり当たりに見放されてしまっている。結局収支は大赤字という始末だ。
 宝くじと言えばdreamという言葉に尽きるわけで、私はこのdreamに乗せられてしまったということだ。もし、1日にして億万長者になったとしたら、自分はどうするのか、豪邸を買う、高級車を買う、クルージングで外国旅行を楽しむ、旨いものを求めて旅をする、etc。誰もが空想する陳腐な夢の実現でしかないと思い至る。
 そんな自分の何処かで僥倖による不似合な大金を得ることが、きっと家庭を崩壊に導くと確信している。今私の手元にあるドリームジャンボは、5月に購入したもので、未だに結果は見ていない。結果は既に出ているわけで、インターネットで調べれば儚い夢と消え去るのは目に見えている。もし、万が一、思いがけなくという思いが結果の確認を渋らせている。多分今年の終わり頃までには結果を知ることになる筈だ。それまでは新しくドリームジャンボを買うことはない。そして、それ以降も。
 何故こんな中途半端な決心をしたかというと、宝くじが与えてくれる夢よりも、現実的な夢の実現への道が見つかったからである。どこに見つけたかは、「見果てぬ夢」(note:エッセイ)でも触れているように、このホームページが私の空想の城であり、旅であるからだ。「自己満足だよそれは」という声が聞こえるようだが、私にとっては、この歳になってやっと見つけた身の丈に合った夢の実現(ドリームジャンボ)なのだ。