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2014.10.3 秋の夜長はどう過ごす
 一日一日太陽の沈むのが早くなってきた。やがてプロ野球もクライマックスシリーズを経て日本シリーズで幕を閉じる。3月のオープン戦からベイスターズの戦いをスカパーと契約してで観戦してきた。ベイスターズがレギュラーシーズン4位以下が決まっており、関心も薄れてきた。毎年のことだが10月いっぱいでこの契約も解除する。
 そうなると、この秋の夜長をどう過ごそうかということになる。今まで3時間余りを野球観戦で費やしていたのだから、その分を上手く過ごす手立てを考えねばならない。
 「小人閑居して不善をなす」(礼記:大学)という格言がある。英語でも「Idleness is the mother of all evil(怠惰は諸悪の母である)」と洋の東西を問わず、暇を持て余すと碌なことは無いということだ。
 そこで、インターネット上で秋の夜長をどう過ごすか調べると、
・スーパー銭湯に行き、ゆっくり入浴を楽しむ
・読書やDVDを楽しむ
・窓を開けて虫の鳴き声を楽しみつつ早く寝る
などいろいろな楽しみ方はあるようだ。
 自分ならどうするだろう。多分積読(つんどく)で読み残した書籍の山を切り崩すとか、国語辞典から落語事典にいたる分厚い事典類を拾い読みして、知識の切れ端を漁ってみようかなどと考えたりもする。しかし、今まで果たせなかったことが簡単にできるとは到底思えない。
 どれもこれも名案だと思うが、何かが欠けている。その欠けた部分を探す旅に出るのも一つの過ごし方だ。

2014.10.7 台風一過余談
 今季最大規模と言われた台風18号が東日本を直撃した。NHKは未明から台風の動きを報道し続けた。ニュースも省いて流し続け、午後の国会中継報道が始まるまで続いた。私の記憶ではここまで徹底して報道し続けた番組編成はあの3.11以来だろう。背景には御嶽山の災害を教訓にした決断があったと推測するが、規模の割に大きな被害にならず、巨大台風をやり過ごすことができたのも、こうしたリアルタイムの情報が、いかに人々に安心と防災意識の高揚に役立つかということに気が付いた。
 公共放送の本来的使命は、時々刻々変わる脅威を正確に伝え続けることなのかなとも思った。何事もなく収束に向かうようにベストを尽くす事は、高く評価できる。
 台風の 過ぎても残る 猛暑かな 風楽
 台風一過と言えば、爽やかな秋空の訪れを想像するが、実際は猛烈な暑さがぶり返してきた。朝と比べ10度近くも温度が上がった。自然の力には人の力など遠く及ばない。これも異常気象(これには人災的要素もあるが)の続く中、何事もなく無事な日常に戻ったことを喜ぶべきだろう。 
 ここで「よかったよかった」手放しで喜んでもいられないだろう。次の台風19号が既に南の海上に発生している。いま日本の大地は大量の雨がもたらした水分を大量に含んでいる。あたかも膨れ上がった風船のような状態あると言えよう。そこに例え小さい台風だとしても、同じコースを辿れば、蜂の一刺しのように大きな風船がはじけ飛ぶことだろう。大災害は潜在的に存在する。「今そこにある危機」への対応を怠ってはなるまい。

2014.10.11 読む
  先に 取り上げた 「秋の夜長の過ごし方」でも少し触れたが、今回は「読む」ということを中心に考えてみたい。
 独断ではあるが「読む」という内容には、大別して2つあると思う。ひとつは現在時点の動向を中心とした情報を提供する新聞や雑誌である。この媒体には他にもテレビやインターネット等の視聴覚に訴えるものもあり、動的である。これに対しもうひとつは古いメディアに属するもので、書籍や辞典(事典)など積み上げられた知識や情報のから生まれたもので、静的である。
 私が秋の夜長を過ごす友となるのは、静的メディア、つまり古い情報の集積である古書や辞典(事典)類であり、これらは一気に読み下すことできる代物ではない。日本三大随筆や禅の思想本等に挑戦しているのだが、第一に現代語ではないので、古語辞典や歴史事典、専門用語事典などを脇に重ねて参考にしなければ意味を理解できない。
 第二にそうそう根気は続くものでもなく、あまりストーリー性もないので、大概途中で眠気を催す。そこが夜長を過ごすところのミソの部分で、分厚い辞書を枕に一休み。これが良き睡眠の導入にもつながる。次に再度読もうとすると、うっかり栞(しおり)やスピン(しおり紐)を忘れてしまうと、大幅に戻って読むことになる。それでも気がつかない。まるではじめて読むページのようで新鮮だ。裏返せば、中身が理解されていないということにもなるのだが。
 一冊の古典を読むので、今年の秋は終わってしまうことだろう。

2014.10.14  書く
 「国語に関する世論調査」の結果が新聞で報じられていた。
 それによれば、読書習慣について尋ねたところ興味深い結果が出ていた。
 「電子書籍と紙の本を読まない割合は年齢が上がるほどに増え、70歳以上では5割近い」としている。
 「読む」ですらこの有り様だから、「書く」にいたっては、殆どないと推察できる。書くことが生き甲斐の私にとっては寂しい現状だと思う。 昨今の70歳以上の老人の興味はどこに向けられているのだろう。外を歩けば運動(体を使う)している老人は珍しくない。ということは頭を使って物を読んだり、書いたりする行動は面倒くさいのだろうか。
 老化を防止するには、体を動かすだけでなく、頭(脳)を使うという運動も必要なはずだ。
 せめて年一回年賀状だけでも消息を知らせるのに力を振り絞ってもらいたいのだが、「私はもう年だから遠慮する」と断ってくる人も、年々増えている。私には、自ら孤独への道を突き進んでいるように見える。
 私の同年代の人も、昔まだ20代の頃は文通などしているうちに結婚への道を歩んだ人も珍しくなかった。
 相手のあることなので、訳もなく手紙を送るのははばかれるのも解らないでもない。私も不義理を重ねている友人に、たまには「文(フミ)」を認めねばと思うのだが、相手に返事を催促するようで中々踏み切れないでいる。
 そんな風にして段々筆不精になっていくのだろう。「書く」ことは難しいことではないが、「書き送る」ということは結構難しいものなのだ。

2014.10.17 雑学 秋の七草
 台風も去り、久し振りの秋晴れで紅葉狩りなどしたい気分だ。ところが出かけても、どうも紅葉は見頃ではないとの報道がある。モミジで有名な京都の紅葉は12月頃になるという。
 それでは秋を代表する草に目を転じると、秋の七草の存在がある。春の七草は七草粥と食を伴うので、人によく知られている。一方、秋の七草をそらんじて唱えることできる人は多くない。万葉の歌人山上憶良が「萩の花 尾花 葛花 瞿(なでしこ)の花 女郎花(おみなえし)また藤袴 朝顔(桔梗が一般的)の花」と詠んだことから、日本の秋を代表する草花として親しまれてきたという。
 余り目立たず地味に花を咲かせるせいか、菊の花のような印象を与えないのも、覚えられない一因だろう。
 そこで、次のような頭文字を並べる語呂合わせにすると簡単に覚えられるという(ホームページnanapiから)。
 お・す・き・な・ふ・く・は(アンダーラインの付いた文字をクリックするとイラストが表示されます)と覚えるのが早道なのだそうだ。
お=女郎花(おみなえし)
す=薄(すすき別名尾花)
き=桔梗(ききょう)
な=撫子(なでしこ)
ふ=藤袴(ふじばかま)
く=葛(くず)
は=萩(はぎ)

 他の覚え方として、春の七草のように韻を踏んで短歌にしたものを繰り返し口ずさむと、自然に口から出るようになるという。個人的にはこちらの方が好きだ。
 ハギ・キキョウ/クズ・フジバカマ/オミナエシ/オバナ・ナデシコ/秋の七草。
 じっくりと秋の七草など鑑賞しては如何。

2014.10.20 親の嘘はお見通し
 Macで一休みしていたところ、隣の席に母子連れが座った。子どもは、一見年長さんの年頃と見た。母親が何やら諭している。「どうするの、行くの行かないの。行かないのならお母さん電話で断らなきゃいけないから、早く決めて」。くだんの子ども「明日は必ず行く」などと、どうも歯切れが悪い。何やら稽古ごとに通っている様子だ。子どもは気の向かない習い事らしい。言を左右に明確な意志を示さない。
 業を煮やした母親は、「それじゃ、これから断りの電話してくる」と席を立って、外に出て行った。1分もしないうちに戻ってきた。ちと早すぎると思った。多分子どもを一人にすることの危険が優先した行動だろう。
 母親「電話してきたわよ」。子ども「嘘、電話してる声聞こえなかったよ」。子どもも早過ぎると察知したのだろう。母親「−−−」どうやら図星のようだ。思わず隣で笑いを噛み殺した。母親の小芝居、子どもにはお目通しのようだから、この手はもう通じないだろう。
 どうもこの母子、いつものことらしい。毎日こんな事を繰り返しているに違いない。
 食べるものを食べ、飲むものを飲み、何事もなかったように去っていった。
 子どもは母親の一挙手一投足を注意深く見守っており、瞬時に「本当」と「嘘」を見抜いてしまう。
 侮りがたし「年長さん」。

2014.10.26 描く(デジタルイラスト)
 今回は「読む」、「書く」の流れで「描く」ことについて、少し掘り下げて説明する。
 描くと言っても私の場合、ホームページの味付けに使うのが目的で、トップページで紹介している10日毎に書き変える人と生物の2種類のイラストと、気が向いたら差し替える、galleryで紹介している樹木象徴画のイラストがある。
 前者はコピーのぬり絵で、後者はオリジナルという違いがある。トップページ画像についてはエッセイ「根気かこだわりか」でかなり詳しく紹介した。今回の「描く」はオリジナル画像の作成に至った経緯とそのスタイルについて簡単に説明する。
 一つには絵を描くという作業が結構楽しいということ。まるで子どもじみているが、塗り絵から少しはみ出そうという欲が出てきたことが上げられる。もう一つには、ホームページでできる表現方法の可能性の追求(少し大げさか)にある。
 前にエッセイで書いた時は、それで精一杯と思っていたのだが、結局はgalleryを新設してしまった。
 これもエッセイで書いたが、このオリジナル画像の作成も我流で中途半端な出来であることは承知している。絵の世界で言うところの、具象画と抽象画の中間にあるものを勝手に象徴画と位置づけ、特定の樹木の特徴を大げさに強調して描いている。書体で喩えるなら行書に当たる。具象は楷書、抽象は草書、その中間にあるのが行書だからというわけだ。どっち付かずの中途半端なところが自分には相応しい。

2014.10.30 うす味
 最近家の料理が総じて薄くなった感じがする。塩、砂糖、味噌、醤油全てが薄目に調理されているようだ。
 元々天ぷらやトンカツなど揚げ物が好きで、どちらかというと汁物も含めて濃い系の味に馴染んでいた。
 生活習慣病と宣告され、食生活の舵は大きく切られた。結果、野菜が中心になり精進料理がメインディッシュとして、食卓を占める割合が高くなった。禅寺に端を発する精進料理だから、味付けは薄くなるのは当たり前のこと。
 我が家の典座(てんぞと読む:禅寺の言わばシェフ)も当初は戸惑い、献立作りには苦労したと察するところがある。
 味付けが変わったことで、味気に物足りなさを感じで食事に臨んでいたが、馴れてくると、この一味足りなさが妙に口当たりが良いことに気がついた。先ずあっさりしているので、食べ飽きることなく完食できる。日本を代表する懐石料理などは、微妙な味加減は、調理人が匠の技の見せ場と言えよう。素の味を活かしつつ、多彩な食材の美を楽しませる技は和食の極みである。
 薄味になれたら、濃い味に戻るのは難しいだろう。食後に負担感が残らないのも良い。
 野球ではないが、剛速球派かコントロール派かというと、長続きするのはコントロール派が圧倒的だ。食の世界も同様にコントロール派が3つ星以上を維持できる。包丁さばきと味付けの技が命の世界なのだろう。
 そこまで大げさに強調するまでもなく、食を楽しみは上等なステーキにではなく、一碗の汁物に見ることができる。