2014.12.1 師走狂騒曲
いよいよ今年も終わりの月(12月:師走)に入った。普段でも忙しい年の瀬、
今年はよく分からない突然の衆院選が行われるので(2日公示)、先生方も仕切り直しで慌ただしく動き始めている。将に師走と言うことだ。明日からは街中選挙カーが走り回り、さぞかし賑やかになることだろう。
私も隠居という身分ではあるが、何かザワザワして落ち着かない。「今年の締めくくりを確りやり遂げたい」などと勢い込んでいるのかも知れない。
年の瀬が慌ただしいのは誰でも同じだと思う。これは長年身についた体内時計のなせる業なのかも知れない。
そこで、自分の身に振り替えて12月のカレンダーを眺めてみることにする。確かに日程が詰まっている。普段の月の倍ぐらい予定が書き込まれている。
著名人のスケジュールは分刻みだが、悲しいかな私のは週刻みだ。それでも忙しいことに変わりはない。あえて紹介すると、殆どがホームページの更新と、それに伴う取材に費やされる。12月は特に来年に向けてのリニューアル作業というプログラムの書き換えが厄介で、本音を言えば頭を悩ましている。
今年は他にも経験したくもない身体的に問題を抱えた年だったので、暮れに体調を崩さぬよう医者巡りをして、薬を確保しておかなければならない。
年末はその年の総仕上げと言うことは先に記したが、忘年会や暮れのあいさつ回りなども、儀礼的なところもあるが欠かせない年中行事だ。
他にも年賀状の準備もその中に入る(11月28日付コラム「来年の年賀状」に記載)。かくして暇人の部類に入る私でもそこそこ忙しくてアタフタしている年の瀬なのだ。
2014.12.5 風習(中締め)
風習というのは、言い換えると「ならわし」とか「しきたり」のことで、地域ごとに異なる場合が多い。自分の経験に照らして顧みると、そのうちの一つに忘年会のお開きなどで使う中締めのしきたりがある。
これには、一本締め、三本締め、関東の一本締めなどが思い浮かぶ。
この中締めは、時と場所で変わるなど曖昧なので、「Yahooの知恵袋」の知恵を借りて紐解いていくことにしよう。
上に三種類示したが、それぞれ手の打ち方が違う。
一本締めと関東の一本締めとは全く違うので、混同するとちぐはぐになってしまう。
正式の一本締めとは、次のようなものだ。「チョンチョンチョン チョンチョンチョン チョンチョンチョン チョン」と10回手を叩くのだという。次は関東の一本締めとはどうかというと「ヨ~ チョン」と1回で締める。10回叩くのと1回では大きな違いがある。
それでは三本締めとはどう違うかというと、そもそも発祥は舞台公演などで終演の際、出演者が勢揃いして観客にお礼の挨拶をすることに発している。この時、出演者は観客に向かい、左右、中央の三方に礼をする。それに習い、一本締めを三回繰り返す。都合10回✕3回=30回手を打つ。こんなに手を打った経験はないが。私は三本締めというのはずっと正式な一本締めと勘違いしていたということになる。
ところで、3×3=9は九=苦に通ずるので縁起が悪い。そこで最後に一つ「シャン」と加えて、九に一つ点を入れれば「丸」という字になる。これですべて丸く収まるという仕組み。確かに言われてみれば、納得できる話だ。
2014.12.8 風習(神社参詣)
前回に引き続き風習のひとつ神社参拝についても調べを広げて見た。
毎年恒例のようにお詣りするのだが、正しい手順が身につかず、前の人の例に習うという参拝の仕方をしている人が、結構いるのではないだろうか。
参拝は形から入り形で終わる、謂わば儀式のようなものだ。従って自ずからルールのようなものが存在する。
その流れを示すと次のようになる。
第一段階:神社を訪れたら、先ず参道の両端を通るのが習わしになっている。これは参道の真ん中は神様が通るところとされているからだ。
第二段階:手水(ちょうず)と呼ばれる石造りの用水桶のある場所に行き、柄杓(ひしゃく)を取って手を洗い、口をすすぐ。これは下界の穢れを落とすための儀式である。次のような手順で行う。
(1)右手に柄杓を持って水をすくい。まず左手にかける
(2)左手に持ち替え、右手にかける
(3)再び右手に持ち替え、左手の手のひらに水を掬うように注ぎ、口をすすぐ
(4)柄杓の中に残った水は、柄を下にするようにして立てて柄を洗う。そして、元に戻す
以上が一連の所作である。
第三段階:神社本殿前の拝殿に進み、軽くお辞儀をして、お賽銭を入れて(投げるのではなく置くように)、鈴を鳴らす。
最終段階:2回深く礼をし、2回柏手を打ち、1回深くお辞儀をする。最後に神官に軽く会釈して退出する。
こうした一連の流れの中で、気持ちが清々しくなるのは確かだ。その上一年の無病息災と家内安全を授かるなら、大変なご利益(ごりやく)を得ることになる。まずはお詣りすることが必須条件だが。
2014.12.12 間悪し
間が悪いという状況は、偶然の生み出すものだが、ツキにも見放された話になる。仲間との約束で出かけた時の例をあげてみる。
間の悪さは交通機関の利用時に多く遭遇する。私の場合、バスや地下鉄など市内を走る乗り物をよく利用する。敬老パスの恩恵を十分受けている一人だ。
これらの交通機関は、時刻表に従って走っている。しかし、間が悪いとどうなるかというと、バス停に着く直前にバスの走り去ることがある。次のバスが定刻には着かないで10分ほど寒空の下待たされる。そういう時は大抵2台連なってやって来る(前の車が遅れ、後ろの車は定刻通り)。この時、先にバス停についた車に乗ると、大概込み合っている。下手をすると終点まで立ちっ放しという憂き目に遭うことになる。こういうバスに限り各バス停に止まる。待たされた人が乗って来るので、ますます混み合う。後ろの車は、前の車が客を乗せてしまうので、ガラガラのままで、後ろに付いてくる。目的地が同じなら決して追い越さない。これはルールのようだ。始終止まるので、必ず信号に引っかかる。そんなこんなで、いつもなら15分で着くはずが20分ぐらいかかってしまう。
さらに間の悪さは続く。次に地下鉄に乗り換えたのだが、これも行った後で次の電車待ち。更にJRに乗り換え、鎌倉方面のホームに着いたが、これも発車した後。次の電車までは30分待ち。風にさらされ寒いホームで待つのは辛い。それでやっとのことで目的地に着き、約束の場所に行く。そこで待ちわびていた仲間に変な弁解をさせられることになる。これらは全て時間の巡り会わせが悪かったこと、すなわち、間が悪かったことに起因している。一言でいえば「ツイテナカッタ」に尽きる。
2014.12.15 間に合わせ
前回に続いて「間」に関する話題で「間に合わせ」について、自分にとってどういうものなのか語るとしよう。
一般的に 「間に合わせ」とは、仮のものであって当座を済ませること(一時しのぎ)と解釈されている。どちらかと言うと、マイナスイメージがある。例えば、夕飯をお茶漬けで済ますなどを上げることができる。
確かに空腹時にインスタント食品で間に合わせにお腹を満たすことはある。保存料や農薬に厳しい基準に照らして料理する人には、敵(かたき)のような存在であるかもしれない。
「間に合わせ」で食べる駅弁や電子レンジでチンして食する冷凍食品などでも、結構いける物も多い。私が食に対して無関心なのか、味音痴なのかは問わないこととして、最近の一時しのぎの食物はマイナスイメージとは程遠い。
このことは同様に、着るものにも当てはまる。秋口は気温の変化が激しい。そんな時に散歩に出て、寒くて付近のワークショップで安物のトレーナーを買って、その場で着て 「間に合わせ」たことがある。お陰でカゼも引かずに無事切り抜けることができた。これで役目は果たしたわけだが、その後も何回も洗濯を繰り返し着続けている。少し伸びた感じはするが、十分実用に耐えている。
このように 「間に合わせ」イコール「安物」でその場しのぎと考えがちだが、効用はあるもので、期待を裏切られたとしても、「ま、いいか」で済ますことができるのもプラス要素だ。かくして私の周囲には 、「間に合わせ」のモノが結構存在を主張している。
今回のコラムは 「間に合わせ」だと聞こえてくるような気もする。気のせいだろうか。
2014.12.18 柚子湯と南瓜
12月の歳時記は何と言っても冬至。冬至は(12月22日)、日本の季節で太陽の位置が最も低くなる日で、日照時間は夏至に比べ東京で4時間40分も短くなるというから、寒いのは当然のことなのだ。
冬至には柚子(ユズ)湯に入り、南瓜(カボチャ)を食する風習があるが、これはどこからきているのだろうか。
ネットで調べたことを纏めると、面白い言い伝えがある。柚子湯は元は語呂合わせだ。柚子は融通がきく、冬至は湯治にかけて合わせ技の風習なのだそうだ。実効性も伴っている。柚子湯は血行を促進して冷え性に効く。その他、体を温めるので風邪予防にもなるし、リラクゼーション効果もあるなど、風習として根付いたようだ。
次に南瓜を食べるという風習は、神道の陰陽五行説に準じているようで、南瓜の中身は黄色で、それが魔除けの色で邪気を払うと言われている。なぜカボチャを南の瓜と書くかについては、陰(北)から陽(南)に向かうことを意味しているという。
南瓜の効用は、ビタミンCやカロチンが豊富で、風邪や中風予防に効くということと、長期保存が効くところから、冬の栄養源としての役割を果たしている。
私はご近所の庭に実った柚子を頂き、風呂に入れて柚子湯とし体で味わっているが、南瓜に関しては、普段でも食するので、冬至に必ず食べるということはない。
このような風習は、福を招き、体にも良いというのなら、先人の知恵に学ぶに越したことはない。
2014.12.22 プレゼント
もうすぐクリスマス、子どもたちにとって待ち望んでいたサンタクロースからの贈り物が届く日が近づいた。
子どもとはいえ、小学生にもなれば、携帯を持ち、ネット社会にハマり込んでいる時代。サンタクロースが、実は身近な人であることは先刻承知している。それでも嬉しそうな声で「ワーイ、サンタさんから贈り物が届いたよ。これ欲しかったんだ」などと演じて見せたりする。
それは置いといて、クリスマスプレントとご馳走は嬉しいものだ。大人になっても、これは変わらない。クリスチャンでもないのにいとも簡単にこういう風習を取り入れることができるのは、日本人の適応性の良さというか、祭り好き(何でも酒の飲める機会に変えてしまう)の国民性によるものか。どんな神様だろうと拘らずに、都合よく受け入れるのが特性になっている。
話を転じて、お年玉というプレゼントは、東洋に多い風習のようだ。お年玉は目上の者が、目下の者に贈るのが通例で、子が親に送るのは「お年賀」と表記するのが一般的だ。
私の世代は戦中戦後育ちで、世は「耐乏生活」を強いられており、その日その日をどう食い繋いでいくかが精一杯で、クリスマスはもとよりお年玉もないというのが当たり前といった生活の中で暮らしていた。
現在の子どもたちはゲーム世代。誰でもニンテンドウのゲーム機必携の世界の中で育っているので、プレゼントは新しいゲーム機とソフトということになるのだろう。
昔と違って「飽食の時代」だから、金があれば大概のモノは手に入る。とは言っても家庭によって所得格差も広がっている。そうなると、当然のことだが、プレゼントにも大きく反映され、プレゼントが「幸」、「不幸」の判断を子どもに与えかねない。そうなるぐらいなら昔のように誰も同じという状況のほうがマシということになる。
色々な思惑を飲み込んで、年は暮れ、新たな年を迎える。
2014.12.25 鍋がいい
冬の食事で欠かせないのが鍋料理。家族で食卓の中央のコンロに置かれた鍋を囲んで、汗をかきながら賑やかに楽しみながら食事する。一家団欒の光景が目に浮かぶようだ。
高齢化が進み独居老人や年寄り二人だけの世帯も増えているので、こうした家族が揃った食事風景は減ってきていることは確かで、大家族時代の昔が懐かしい。
一人鍋という無いわけではない。旅館などでは会席のテーブルによく出てくる(紙鍋などという)。料理の一部なので、具は多くない。それでも鍋は鍋、一人でも味わうことはできる。
鍋料理の定義では(ウィキペディア)、「複数人で鍋を囲み、卓上コンロやホットプレートなどで調理しながら、個々人の椀や取り皿あるいはポン酢やタレなどを入れた小鉢(呑水という)に取り分けて食べるのが一般的である。特に冬に好まれる」とある。
さて、鍋料理は非常に多くの種類があり、郷土料理も含めると数千種類を優に超えるそうだ。そこで、一般的鍋料理で殆どの人が口したものを、勝手に選んで上げてみる。
寄せ鍋、湯豆腐、水炊き、ちゃんこ鍋、すき焼き、モツ鍋、ちり鍋、おでん、牡蠣鍋そして闇鍋などである。
家庭で供される鍋料理は、お好みもあるが、郷土の味を楽しむ以外は、上記のようなスタンダードな鍋の何れかであろう。
鍋料理は締めがある。鍋にはいろいろな具材を煮込んでいるためにだしの効いたスープが残る。これを使わない手はない。そこで締めにうどんを入れたり、お餅を入れたり、残りご飯を入れて雑炊にして仕上げとする。火の消えた鍋の底には何も残っていないという、無駄なく満腹するのが鍋料理だ。
2014.12.29 私のゆく年くる年
この1年は私にとってどんな年だったか振り返ってみる。このコラムに掲載した細事は111編を数えることができた。その内容を見返しながら、1年を締めくくり、来年を展望してみる。
コラムの開始は1月21日になっている。これには少しばかり訳がある。急性の病気で1月4日に入院し、2週間病院で過ごしていたからだ。生まれて初めて体にメスを入れ、どうやら生還できたが、災厄の年の始まりだった。
元気でいられることの大切さを痛感した記事からスタートしているのも、その後に残されたツケを予感させていた。人間いつ何時災厄に見舞われるか分かったものではない。高齢者は常にそれに備えねばならぬという教訓を得た。そうしたことで、生活習慣病など体に関する記事は多かった。
散歩を再開して、やっと季節の変わり目を肌で感じ取り、風物詩風の記事も多く書けるようになったことは、順調に体が回復してきている証と受け止めて良いだろう。
自分の身辺雑事をタネにしているこのコラムも、実体験を伴う題材が尽きかけていることもみて取れる。衣食住、モノ、嗜好などの話題から、昔を懐かしむような話が増えてきている。これも年齢のなせる業なのだろうか。
その中で大きく変わった点は絵を取り入れるようになったことで、この作業はとても楽しい。根気がいるが、得られる満足感も大きい。
こうして振り返ると、今年1年はひとつの転機を私にもたらした。これからは多様な生き方の選択が必要だと実感している。
今年の記事はこれが最後。来年にはページのイメージを一変させて、気分一新するつもりだ。30日と大晦日はリニューアルの試験をするので、アクセスできなくなることもあるのでお許し頂きたい。
私の拙いホームページを今年1年間、閲覧して頂き感謝いたします。閲覧してる方々におかれては風邪など召さぬようにして、元気な正月をお迎えください。
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