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2014.9.1 秋桜(コスモス)
 9月を代表する花は菊である。今回紹介するのは、トップページの生物百様で紹介しているコスモス。キク科の一種で、アキザクラ(秋桜)とも呼ばれている。
 秋桜で浮かんでくるイメージは、私の場合は花ではなく、山口百恵さんが唄って大ヒットした「秋桜」という曲だ。作詞・作曲はさだまさし氏である。
 「うす紅の秋桜が秋の日の 何気ない陽溜りに揺れている この頃涙もろくなった母が 庭先で咳をする 縁側で・・・」この詩がいいのか、歌い手がいいのか、いつ聴いても胸にジンと来るものがある。
 赤のコスモスの花言葉は「愛情」「調和」。作詞者はこのことを念頭に置いてこの花を歌のテーマに据えたのだろう。私が回想するのは、日溜りの中、縁側で繕いものをする母の面影だ。庭には花は少なく、柿の木やツゲなどの樹木が多かったと記憶している。その母は百歳を超えて天寿を全うしたが、自分には親孝行した覚えはなく、苦労ばかりかけたという悔いが残っている。
 「親孝行したいときには親はなし」ということわざは、殆どの息子が亡くなった母親に感じている念を代弁しているのではないだろうか。親子の関係は、通常代償なしの理屈抜きの愛情で結ばれていると私は思う。従って、甘えもあって中々親離れできない。
 この歌を聴くたびに母を思い出すのは、そんな「殻」から抜け出せないでいるせいだろう。秋の彼岸も間近い。今度墓参りするときには、墓前に秋桜の花を供えることにしよう。

2014.9.4 テーマ組み替え
 日常細事のテーマは些細な事柄に絞っている。その趣旨に変わりはないが、多少制約される状況になったため、見直すことにした。制約と言っても個人的事情。身体が原因で、糖尿病による食事制限と腰痛による歩行支障が制約理由として上げられる。食事制限は生活習慣の改善が目的で野菜中心に変わった。好きだった揚げ物は今や天敵扱い。甘いものも口にする機会は極端に減った。食べ物の嗜好が、取り上げるテーマの大きな部分だっただけに、これは大打撃。
次の制約条件は腰痛だが、今の段階では遠出するのは難しい。足が重くて長時間の歩行は辛い。このことは取材に大きな支障となる。実体験を通して四季の変化の中で、感じ取った事柄を書き綴るのが基本ルールだから、ここと決めた場所に行かないことには、話にならないという訳だ。
 そのような事情から、最近はmonoをテーマにしたものが多くなる傾向にある。これとて限界はある。
 そこで読むものから見るものに少し舵をとってみた。トップページのイラストやgalleryの樹木象徴画がそれである。取りかかってみると、これが結構面白い(自分自身にとってだが)。あまり技巧に囚われず、イメージだけを明確に伝えようと絵を描き始めると、創造性や観察力を総動員することになり、脳が活性化するように思えてくる。どうやら新たな道筋が見えてきたようだ。

2014.9.7 模様替わり
 暑さが行ったり来たりしているが、ザッと一雨来た後、涼しさが増し、明け方にはめっきり冷え込む時もちょくちょくある。寒くて目が覚め、慌てて上掛け布団を引きずり出して、夏掛けの上に重ねる。ついでに小用を足し、寝床にもぐり込みもう一寝入りする。こうして季節の変わり目を肌で感じるようになる。
 そろそろ夏物は用済みになり、半袖から長袖の出番にと舞台が変わる。街ゆく人もスーツ姿が目立つようになる。日課である散歩に出かける時チョッキなどを羽織る機会も増えてきた。衣替えまでとは言わないが、少しづつ厚手な衣類に変わっていく時節に差し掛かった。とは言っても、異常気象の年であるので、いきなり30度を超える日もあるので、ハンガーには半袖と長袖が同居している。
 着衣だけでなく、家の中も模様替わりしつつある。扇風機がそろそろ役目を終え、加湿器の出番も近い。エアコンも殆ど休眠状態に入った。ガスストーブの出番はまだ先だ。当面は足下が冷えるのを抑える小型の電気式ファンヒーターがテーブルの下に用意され、直ぐにでも使えるようにしてある。
 この時期家の中は、自然のままで過ごせる 一番快適な状態だが、これはほんの短い期間だと考えて間違いないだろう。
 秋と言えば「食欲の秋」に代表されるように、食卓が賑やかになるものだが、今年に限っては少々事情が違う。糖尿病で厳しい食事管理下にあるので、直ぐに秋の味覚に舌鼓を打つということにはなりそうもない。この秋は我が家の管理栄養士も頭を悩ますことになりそうだ。
 模様替わりの主役は、何と言っても自然の変化だ。秋の色は黄から赤に移り行く様を露わにし、道行く人の目を存分に楽しませてくれる。

2014.9.10 アベコベ
 鏡に自分の顔を映すと左右が反対になる。右目でウィンクすると、鏡に映った私は、左目で応える。よく自分の顔は写真の顔より鏡の方が良く写っていると感じる人がいると思う。人の顔は左右対称ではない。慣れ親しんだ自分の顔は、いわば虚像なのだ。実像は鏡の中の自分を反対に映してくれるものがあれば、そちらの方だ。試しにビデオカメラの液晶画面をひっくり返して自分を写して見たが、矢張り鏡と同じだった。
 なぜこんな話をするかと言うと、鏡を見ながら髪や眉の手入れをする時、違和感があるからだ。例えば耳の周りの髪を手入れしたいと、ハサミを近付けるのだが、奥行き感が調整できず耳を切ってしまうことが、しばしばあった。特に眉毛の白髪を抜こうと毛抜きで毛を掴もうとするのだが、うまく行かない。大事な黒毛を抜いてしまうこともあり、悔しい思いをする。試してみるとお分かりいただけると思うのだが、結構難しい。
 それでは、先に述べた実像を映す鏡があったらどうだろう。床屋さんになったような感じで髭を剃ったり、調髪できるのだろうか。経験がないので何とも言えないが、慣れればそっちのほうがうまく行くかもしれない。
 カメラと液晶ディスプレイをセットにした実像鏡を誰か作ってくれないだろうか。原理的にはそれほど難しいとは思えないが、あったとしても全然不思議なことではない。

2014..9.14  運とツキ
 運とかツキといったものを強く意識することがある。両者の違いを辞書で調べてみると、運とは自分の力では左右できない、自然が自己に対して及ぼす作用とあり、ツキは運がつくこととある(日本語大辞典:講談社)。
 自分の身に置き換えて見てみると、「麻雀」が説明しやすい。若い頃は、仕事が終わると毎日のように麻雀にうつつを抜かしていた。酒場ではなく麻雀屋に通っていたわけで、生活の中に組み入れられていた。麻雀の勝ち負けは、多少は技術もあるだろうが、不正でもしない限り、運がツキを引き寄せると言っていいだろう。常に勝ち続ける麻雀など無い。如何に流れの中でツキを手放さないかにかかってくる。
 ツキを持続させるのは場を読むという能力が不可欠で、読み誤ると即座にツキは他の誰かに行ってしまう。通常4人で行うゲームだから、勝運は4分の1はあるということだが、経験では半荘(半チャンと読む:東南風戦)19連敗したことを覚えている。完全に運にもツキにも見放された好例である。私は、ルールを変え僥倖性を高くして競うインフレ麻雀は好きではないが、それによって運とツキが勝敗を左右するのでギャンブル性は高くなっている。
 麻雀をやらない人が多くなっているので、若い人向きの話題ではないとは思うが、他の例もいっぱいあると思うが、経験から麻雀を例にとって「運とツキ」について考えてみた。

2014.9.17 勘とヒラメキ 
 運とツキに続いて、今回は勘とヒラメキについて考えてみる。
 ネットのgoo辞書によれば、勘とは 「物事の意味や良し悪しを直感的に感じ取り、判断する能力」とある。そして、ヒラメキとは「素晴らしい考えなどが瞬間的に思い浮かぶこと」とある。
 よく「勘がはたらく」とか、「勘が鈍い人だな」などという言葉を耳にする。日常生活では、勘に頼って行動することはよくあることだ。例えば地図を頼りに知らない土地に行き、目的地への道筋を右か左か選択するのに迷い、勘でどちらかを選ぶことになってしまった場合、これは勘だよりということになる。
 勘に従って行動すると、私の場合前にも書いたが、全くの方向音痴だから、先ず間違った方向に向かってしまう。GPSを使って道案内してもらっても間違えるほどだから、勘で選べば読み違いは当たり前である。大体近所の人に尋ねることになる。目的地の直前まで近づいても迷うのだから始末に悪い。
 話を先に進めてヒラメキであるが、こちらは勘とは少々趣が異なる。定義では「瞬間的に浮かぶ」などと言っているが、それは結果の話で、実際は私が思うに、例えば次のテーマは何にしようかと悩んで、気持ちを集中して絞り出すようにした結果、突然フッと浮かんでくることがある。これがヒラメキだとすると、いつも頭の中に課題として残しておかないと、出てこないものなのではなかろうか。

2014.9.21 自由形人生遊泳術
 毎日を好きなように過ごすことは、それほど難しいことではない。それでも、まったく条件が無いという訳でもない。自由自在とまでは言わないが、動き回れることができる身体を維持することが条件となる。今のところどうにか動けるので、時間の制約なしに行きたいところに赴き、相手の都合次第ではあるが友人・知人と会うこともできる。
 時間に拘束されないので、出かけたい時に出かけ、急ぐこともなく行きたい場所に行くこともできる。こうした日常生活は無理がないので、精神的にストレスなく過ごすことができる。この小文の構想をまとめているのは、散歩コースの商店街の長椅子に腰かけての作業だ。足休めのついでに思いついたことをメモしている。何ともご喜楽な話である。頭の中を整理するのに特別な場所は必要ない。
 17日のコラムで書いたヒラメキなども、私の場合webwriterなどと気取っているが、職業作家のように時間という限られた制約の中で作品を仕上げるという煩わしさがあったら、とてもじゃないが浮かんでこないことだろう。
 「急ぎの仕事は忙しいヤツに頼め」などというビジネスの格言は、忙しい人ほど時間活用に長けているということだと思うが、仕事でない隠居仕事は時間をかける方が楽しみが長続きする。
 如何に時間を楽しく過ごすかは、時間に捉われることなく、如何に時間の中を遊泳するかにかかっている。
 実際は時間が足りないと嘆くビジネスマンよりも時間が有り余るご隠居の方が、残された時間は少ないと思うのだが。

2014.9.24 秋好日
 お彼岸の中日に当たる秋分の日、久し振りに実家の墓参りに行ってきた。バスと地下鉄そしてバスを乗り継ぐこと一時間、市の公園墓地に辿り着いた。4年前までは車で来ていたが、運転しなくなったので、今回は初めて交通機関のお世話(敬老パス)になった。
 天気が良く、絶好の行楽日だったので多くの人の姿とお線香の煙があちこちに立ち昇っていた。墓所に着くと、早速藪蚊の大きい集団が待ち構えていた。これは想定していたので、腰に電気蚊取りをぶら下げて行ったのだが、それでも露出した腕を刺されてしまった。デング熱の危機があるので、少し不安になった。墓前には先行者が既に来た跡があり供花もしてあったので、水だけ墓石にかけ、急いでお線香をあげて早々に引き揚げた。
 以前のコラムで秋桜を供花したいと書いたが、それは果たせなかった。それでも、長年の宿題を済ませたようで胸のつかえが下りたような気がした。
 帰り道墓地の坂を下っていくと、若い子連れ世代がハイキングに来たかのような感じで、気軽に墓参りしている姿を多く見かけた。このように世代に受け継がれていく姿を見ることができるのは嬉しいことだ。そんな中こんな風景に出合った。そのような若い家族連れの賑やかな声が聞こえる。坂の上から見下ろすと、どうやら墓の前にある栗の木の実を採っている様子だ。父親が崖の中ほどで長い枯れ木の枝(先が二股)で器用に実を落としている。下では母親と二人の小学生ぐらいの子どもがキャッキャッと騒ぎながら、実を拾い大きな袋に入れている。
 市営の墓地の植栽に栗の木はあまり見かけないが、この墓の施主が、ずっと昔に植えたものかもしれない。お寺の庫裏と栗と掛けた洒落だと思うが、見事に育って収穫できるまでになっている。あの家族はこの日を待ち望んで訪れているのかも知れない。とった大量の栗はどうするのだろう。ご近所に「うちのお墓で採れた栗です」とでも言って配るのだろうか、勝手な想像をしてみた。
 秋好日ほほえましい光景に出合った。

2014.9.27 しまった!
 このタイトルは9月10日付読売新聞「編集手帳」のテーマを拝借した。この中で、高齢で記憶力や注意力の散漫が原因でドジを踏む悔しさについて語っており、結びに「それを取り戻すチャンスは必ずやってくる」と締めくくっている。
 私の場合は「しまった」は概ね他愛のない後悔で後戻りできない種類に属する。
 例えば、こんな例がある。私は寝付きが悪く、眠剤のお世話にならないと眠りに入れない。体のほうが条件付けられているようで、言ってみれば依存症となっているようだ。
 先日宿泊旅行をした。泊りの時は持病の薬は必ず持っていく。だったはずだが、眠剤を入れ忘れてしまった。このことは大変な影響を体に及ぼすことになる。頭の周辺がザワザワし、孫悟空の頭の冠のような締め付けが始まる。これは今まで何回も経験したことだ。通常はそうなる前に薬を飲む。そうすれば症状は収まり、眠りが訪れる。
 ところが薬がないから手の打ちようがない。いくら羊の数を数えても眠れるどころか、眠気すら覚えない。眠れないから頻尿になる。トイレに行くのが体が浮遊しているみたいで危うささえ感じる始末だ。一晩中悶々として過ごすことになってしまった。朝が来て寝床は出たものの、体調は最悪。気のせいもあると思うが、一旦眠れないと思うと薬なしでは済まされない。まるでこれではアルコールやニコチンはたまたけ危険ドラッグなどの禁断症状と同じではないか。
 不思議なことに、昼寝する時には眠気に勝てないのに何故だろう。頭の中で昼寝と夜の就寝は別物と勝手に振り分けているのだろうか。気持ち次第なのどろうか、私にとっては厄介なウィークポイントだ。

2014.9.30 どっこいしょ
 ひとつ気合を入れないと動作に移れないことが多くなった。誰しも経験があると思うが、思わず口から「どっこいしょ」などという言葉を発しながら、電車やバスの椅子に腰を下ろした覚えがあると思う。年齢的には中年以降の人に多いのではなかろうか。これは体の関節が固くなってきているせいで、一種の油切れ現象を起こしているからだ。このように動作を起こすときに気合を発するのは無意識ではあるが、少し恥ずかしい。「お年ですね!」などと言われるのは、あまり気分のいいものではない。
 ところで、この「どっこいしょ亅という言葉の由来をインターネット(フジヤマNAVI)で調べると、二説あって、ひとつは富士登山にその語源があるらしい。「六根清浄お山は晴天亅これをカナで読むと「ロッコンショウジョウ亅となり、この掛け声とともにお山に登るのだそうだが、何しろ3000メートル級の日本一高い山だから息も絶え絶えになるのだそうだ(私は登ったこと無いバカの口だが)。それで口がもつれて「どこいしょ亅となったという説。もう一つは、これもインターネットの中で見つけたもので、「民俗学者の柳田国男氏によると、何処へが語源亅だとする説もある。こっちの方は「どこへ亅が「どっこい亅になり、さらに「どっこいしょ亅へと変化していったという説。
 何れにせよ、何をやるにつけていちいち気合を入れないと始動しないというのも情けない話だ。 ヤレヤレ。