2016.11.3 「霜月」唄に乗せて
夕暮れ時に街を歩いていると、ああもう秋も終わり、冬が近づいたなと感じさせる。今年も秋は短いようだ。天候が一定せず、晴れの日は相変わらず続かない。
それでも薄手のウィンドブレーカーを着て出かける。陽も落ちかける帰り道は気も沈む。心の中で「黒い花びら静かに散った」という水原宏( 日本を代表する男性歌手だった。しかし寂しさのあまり毎日酒を大量に飲み続け43歳の若さで逝った)の渋い歌声が聞こえるようだ。
肌に感じる風も一段と冷たくなってきた。やがて立冬、そろそろ樹木の葉も赤く染まる。
冬の到来に備えて衣服は冬物にとって変わった。本格的衣替えといったところか。部屋の扇風機に替わってストーブの出番となった。
秋の日のつるべ落としとはよく言ったもので、オレンジ色の太陽が一時空を茜色に染めた後、急速に暮れなずむ。
「暮れなずむ町の光と影の中」今度は武田鉄矢の歌声が浮かぶ。
毎年この時期感じることだが、何か物悲しく感傷に浸る一刻がある。子どもの頃のトラウマか「叱られて叱られて口には出さねど目になみだ」とぼとぼと歩いた帰り道。そんな歌も聞こえてくる。
カラスがねぐらに帰るころ、カーカーと賑やかだ「からす なぜなくの からすはやまに かわいいななつの こがあるからよ かわいい かわいいと からすはなくの・・」野口雨情作詞 の七つの子はあまりに有名だ。
こんな歌声を胸の中で聴きながら歩くのも、変わりやすい季節の変わり目だからだろう。
自然との触れ合いには思惑はない。人の世界では触れ合うのはどんな場合でも難しい。また、こんなテレサテンの唄声が聞こえる「時の流れに身をまかせ、あなたの色に染められて」これが人の世の秋空といったところだろう。
心の揺らぎのままに、暮れなずむ中、あと半時もすれば、色付いた空も群青色に変わり、天気が良ければ、西の方からは白く冷たい月も姿を現すことだろう。
今回は晩秋から初冬にかけての自然の移りゆく様を、歌に乗せて画いてみた。
2016.11.7 作業机(mono)
毎日パソコンに向かうのが生活のほとんであるので、パソコンを載せる机 (卓、台 )と椅子や照明スタンドなどの周辺のモノも欠かせない。
今回は机について診てみた。使う場所によって載せる台が変わる。普段は和室で作業するので、二通りの設えが通常とられる。
その一つは座卓で、これは20年来使っているもので、一見飛騨高山風に見えるがデザインだけ似ている。それでも天板は一枚板で、足も折り畳み式で機能的には遜色ない。これまでの酷使に耐えているのは、私にとっては値打ちものだ。横90センチ縦45センチの、畳四分の一の大きさも使い勝手が良い。
ノートパソコンはかなり大きく、これを卓の中央に、右手にマウスを、左手にスタンドとノートを配置する。これがスタンダードな執務環境というやつだ。
大き目の座椅子にゆったり座りパソコンに向かうと「今日も一日頑張るぞ」という気になる。
何だかんだと言っても「相撲の仕切り」のように構えというものもその気にさせるものだ。前にも記したが、原稿は外で電子ノートにメモすることが多く、ここでの作業は推敲と浄書が主務となる。
気分や腰の具合で、もう一つの選択肢がある。椅子を使った作業で、折り畳みのアルミの足の高さが調節できるテーブルで、天板は合板にアクリル板を張ったキャンピングテーブルだ。椅子も対のキャンピング用のディレクタチェアで島忠のホームセンターで安く買い求めたものだ。これはテーブル面が狭いので、タブレットパソコン(ホームページの更新作業はいつもこれを使う)で作業するときに限られる。トイレに行くときなど速やかな行動をするときに楽なのが長所と言えよう。
他にも寝ながらパソコンを操作できる、足の短い角度調整できる折り畳み式の小型テーブルもある。これは直ぐ眠くなるので、あまり実用的ではない。
このようにどこでもパソコンが操作できるので、私はこの年になってもパソコンお宅なのかも知れない。
2016.11.10 練習と本番(前編)
私の最近の娯楽は、気分のリフレッシュを兼ねて集まる宿泊麻雀(マージャン )大会だ。2か月ごとに常宿に集まるが、50年近い付き合いなので気心は知れている。皆後期高齢者になっているので、一番の目的は無事に動けるかの確認ということになる。
とは言っても、ろくな会話もないままに直ぐに麻雀が始まり、翌日の昼まで食事と浅い睡眠を挟んで続けられる。麻雀漬けの24時間で、最近は疲れがなかなか抜けないのも事実だ(ここまでは以前にも記した記憶がある)。
この麻雀大会を楽しみに、普段家でもテレビでプロの麻雀の打ち方を見て、いい打ち方の研究を重ねている。他にもパソコンに入れた麻雀ゲーム「最強の・・」と称するソフトを使って腕を磨いている。今までに半荘(はんちゃん:東南戦)を150回ほどこなしているが、半分が1位である。これは現実では有り得ないことだ。最強ならぬ最弱で、これは本番では通用しないレベルだ。
練習とは数をこなすことに尽きる。普段本番で打つスピードの5倍ぐらいの速さでゲームをこなす。ここでは瞬時の判断が求められる。一種の脳トレになる。所詮麻雀は「ツキ」の勝負である。これほどプロとアマチュアの差のないゲームは珍しい部類に入る。短期決戦においてはしばしばプロがアマチュアに首位の座を譲るのを、テレビ観戦では見ている。
ここからが本題。本番で力を発揮することについて、野球選手を例に引いて見ることにしよう。(次回「後編」に続く)
2016.11.14 練習と本番(中編)
今年限りで引退を決めた広島カープの黒田投手は、最後の試合まで自分のベストプレイができた選手だ。
私はかつてのスラッガー、青バットで知られる最近亡くなった青田昇氏が残した「108の遺言」というエッセイ集を読んだ。
読んで感じたことは「言葉のひとつひとつが自由奔放で、それでいて人への気配りと節度を忘れていない。これは現役時代と変わらない。彼もまた本番でより以上の強さを発揮した」ということだ。
一方でブルペンピッチャーといって、練習では物凄いボールを投げる。ところが一度マウンドに立つと、緊張の余りガチガチに固まり、ボールが走らず(キレがないなどという)ボカスカ打たれたり、フォアボールを連発して1イニング持たずに引っ込む選手も多く見てきた。これなどは本番で自分の力を発揮できない例である。
そこで青田氏のエッセイからひとつ引用させてもらう。
『オレの一番のガチガチ体験は、甲子園で選手宣誓をしたときですよ。1952年、高校3年の夏に甲子園に出場したときに、オレはね、なんだか胸騒ぎがした。そうしたら大役が当たった。でもオレはそんなに大変なことだと思わなかった。
「われわれはスポーツマンシップにのっとり、学生らしく正々堂々と闘うことを誓います」
たったそれだけのことですから「大丈夫ですよ」と校長先生に言いました。ところが校長は甲子園近くの浜辺にオレを連れて行き、何度も大声で練習させるんです。特訓の意味が当日わかりました。いざ入場行進となったら頭が真っ白になり、しょんべんがちびりそう。そこから先は覚えていません。開会式が終わって仲間に「よかった」と言われて我に返ったくらいです。我を失いながらも校長先生の"1000本ノック"のおかげで口が動いたんですね』
練習が底力の発揮に欠かせないことを見事に表現している。
(紙数の関係で中編としました。後編に続く)
2016.11.18 練習と本番(後編)
そこで話を麻雀の打ち方もしくは臨み方に戻すと、練習で勝ちまくっても、本番ではからきし勝ちを取れないのは当たり前のことだ。前回麻雀はツキのゲームだと断じたが、実はこのゲームは非常にメンタルな要素が勝負に影響する。
本番に弱い人は、大体気が引いてビクついているからで、これでは勝ちには繋がらない。思い切りの良さを保ってこそいい勝負ができる。オリるということも大切で、運がいい人でも半分は諦める決断が求められる。これはAI麻雀でも同じで、AIたる所以は学習することで段々に強くなるようで、前編で書いたようにはいかなくなった。
練習は兎にかく数をこなすことで、その成果で自分の思い通りのアクションができるようになる。勝ち負けのあるゲームにしろスポーツにしろ、勝負をしなければ何も得られない。そのための厳しい練習だということになる。
例えばあがり症の人は人前で話すのが苦手なものだ。私も若いころは大変なあがり症で、本番でうろたえて恥をかいた思い出が沢山ある。
それは人の目を意識し過ぎて、頭が真っ白になり脈絡が無くなることで、こうした経験をした人は多いのではないだろうか。自信のない人は原稿を読めばよい。丸暗記したつもりでも、そんなものは簡単に消えてしまい、支離滅裂になってしまうのだ。前日から緊張して胃炎を起こす人も多いそうだ。
普段から自然に口から言葉が出るように備えていれば、それほど動じるほどのモノではないはずようなものだが、やはり百戦錬磨と言って、場数を踏まないと中々そうは本番に強くはならない。
野球選手の言葉「ベストを尽くせば自ずから結果は付いてくる」とは言うが、気持ちを鍛えること、言い換えれば「不動心」を養うのが肝要だ。
2016.11.21 チェンジ(change)
チェンジという言葉は現在のアメリカ大統領バラク・オバマ氏のキャッチフレーズだ。その後に「Yes.We can」と続く。やがて任期切れで8年間の大統領生活にピリオドを打つことになる。果たしてオバマは本当にchangeに成功したのだろうか。今度の選挙があのような泥仕合になったのを見ても疑問符が残る。
新しい大統領になるドナルド・トランプ氏は名前が示すようなギャンブラーだ。その破天荒さがある意味でのchangeをアメリカに齎すことは大いに有り得る。ポーカーのようにその表情は読み難いのが、外交面で日本にも少なからぬ影響を及ぼすのは必至だろう。
さて本筋の話に戻すと、「change」という言葉を英英辞典で引いて、それをgoogle翻訳で訳して見るというややこしい作業を経て、日本語で表現してみた。実に多様な訳し方があることが分かった。約35の表現方法が出てきた。全部は紹介しきれないので、その一部を引き出すことにした。
・「変更を受ける」最近私が更新した運転免許更新のような手続きのこと
・「本質的に異なる」個人個人の資質みたいに百人百様なこと
・「自分の本質を失う」ギャンブルに手を出しニッチモサッチモ(二進も三進も)行かなくなり犯罪に手を染めるなどのこと
・「変換を起こす」今小池都知事がやろうとしていること
・「模様替え」衣替えや、家の内装の塗り替えなどのこと
たった5つの表現法を示しただけで、紙数が尽きた。このように「change」とは人が生きていく過程で日常的に起きる変化を示す象徴的言葉であると言えよう。
2016.11.24 辛い選択
前回に引き続き政治ネタに始まり、少々生々しい話になる。
今年の流行語大賞にノミネートされている言葉に「都民ファースト」という小池都知事の造語が上げられている。流石に元ニュースキャスターらしく人心掌握術に長けている。
このファーストという単語は、何をもって第一にするか考えると、実はよく分からない。
政治の世界は先が見えないから、結果がすべてである。中身をさらけ出して(ガラス張りにの政治)も議論が百出するだけだ。十人十色人それぞれ意見が異なるものだ。
ファーストという言葉に拘るのは、何にも増して最優先するということは分かる。しかし、この言葉はかなり抽象的だ。抽象的で格好つけた言葉ほど、実践するのが難しい。ましてや結果となると、まるで闇夜を彷徨うように覚束ない。
以前の話題で「金と幸せとどちらが大切」といった、飛んでもない比較をしたが、この「都民ファースト」を実現するためには、先ず先立つのは「金」だ。人の生活には常に利害得失が付きまとう。
誰もが幸せになる社会を造るということは、昨今の世界状況を見るに極めて困難な障害が多すぎる。
ここまで書いて、今回の話はかなり政治に偏っており、私が本来このコラムで語る道筋から逸脱している。
そこで自分のことでこのテーマを検証することにしよう。
現在私はビジネスの世界を離れ20年余り、自適な生活を送っている。これは見方を変えると、かなり個人中心で、まるで世捨人の生活のようだ。
現役を離れた人でも世の中に貢献している人は沢山いる。そこいくと私などは、金もなく肉体も傷んで、とても人様の役には立てない。自虐的表現で言えば、役立たずということになる。
こんな状況だと周囲から疎まれる存在になることだろう。そうならないようにする第一主義は、なるべく邪魔にならないように、ヒッソリと隠棲する道を歩むことが「生き方ファースト」と言えそうだ。
2016.11.27 鍋の始まり
初雪があって、寒さが身に染みる季節に入った。 こういう時期は何と言っても「鍋が一番(2014.12.25紹介)」だ。以前紹介したコラムでは10種類ほどの鍋料理を示した。
その内の3種類の鍋料理がどう生まれたか、そのルーツを探ってみた(たべもの起源事典:東京堂出版から引用)
おでん
コンビニのカウンターの脇に大きな銅製の将棋盤のように区切って湯気を立てている(セブンイレブンの場合)。
元々は田楽の御所言葉、お田楽の略で、のち民間に広まる。江戸初期の元禄年間(1688~1704)にコンニャク田楽が現れる。幕末になり、薄味の醤油汁で煮込む煮込みおでんが江戸っ子の人気になる。煮込みおでんができると、本来の田楽は、味噌おでんと呼ばれるようになった。大正時代に現在の素材が出揃う。かまぼこ・はんぺん・竹輪。さつま揚げ・ちくわぶ・すじ・ゆで卵・イカ・ガンモドキ・生揚げ・焼き豆腐・コンニャク・昆布・ダイコン・ゴボウ・ニンジン・ヤツガシラ・サトイモ・シイタケ・銀杏・筍と出揃う。
しゃぶしゃぶ
大阪の名物料理。薄切りの牛肉を使う水炊き料理の一種。第二次世界大戦後の昭和20年代に、大阪で創作される。すき焼きと異なる食べ方として人気が出て、全国的に普及する。牛肉の薄切りや野菜を、昆布の出汁の中で、すすぐようにして火を通し、ポン酢・ゴマダレ・刻みネギ・紅葉卸しを付ける。
水炊き
福岡県博多の名物鶏料理。博多煮・博多水炊きともいう。水炊きの本来の意味は、調味しない湯で、煮た鍋物のこと。
湯豆腐・ちり鍋・しゃぶしゃぶも水炊きになるが、一般には博多の鶏の水炊きをいう。1911(明治44)年に、博多の新三浦の初代・本田治作が中国料理の発想から、鶏肉を塩水だけで煮る水炊きを創作したのに始まる。
2016.11.30 師走今昔
明日から12月。和名で「師走」。慌ただしい年の瀬がまた始まる。
どうやら今年の冬は暦通りに寒くなりそうだ。今回は年の瀬の今昔を思い返してみた。
今は寒くても、部屋の中は暖房が利いていて、着るものも厚手の長袖で過ごせる。敢えて言うなら、暖房が切れた明け方寝床から出るのがグズグズしてしまう程度で、ストーブのスイッチを入れれば、直ぐに温まる。
子ども時代の冬(今から70年前)はとても寒かったし、雪もよく降った。土の道路はいつも霜柱が立っていた。今の時代、寒さをそれほど感じないのは、電化によるだけでなく、時代の変化で生まれた地球温暖化の影響もあると思う。
さて、子どもの頃、部屋を暖めるのは火鉢ぐらいしかなかった。石油ストーブが普及したのはずっと後になる。燃料は炭である。備長炭などという高級なものではなかった。結構近在で炭を焼くところもあり、そうした所から入手したものだ。俵に入った炭が台所の裏に置いてあったのを覚えている。
子どもは風の子といっても、母親が手直しした綿入れを着込んで寒さを凌いだ。居間には瀬戸物の大きな火鉢が置いてあり、家族で暖を取った。たまにスルメを焙ったり、餅を焼くのが楽しみだった。何もない時代であったので、こうした光景は目に焼き付いている。その火鉢は後年、庭の片隅で水槽となり金魚が泳いでいた。
暮れの年中行事と言えば、家族揃っての大掃除である。障子の張り替え、煤払い、廊下や柱の拭き掃除。襖の張り替えまで家族共同して作業する。それが一段落し、晦日近くになると餅つきがある。親父がまだ元気なころには、近所に住む親戚の男手を集め、庭にどこかから借りてきた臼を置き賑やかに餅を搗く。蒸篭(セイロ)でもち米を蒸すのは女の仕事と役割分担が決まっていた。縁側に座ってこうした光景を見ていた時が、子ども時代で一番幸せだったのかも知れない。無論その後の熱いままの餅を餡子にまぶして食するのが一番であったが。
今はいつでもスーパーで切り餅を入手できる。何にでも感動を味わえた昔には、素朴な喜びがあったように思えてくる。