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2016.2.3 2月の栞(しおり)
 昨年の2月3日には、節分と恵方巻と題して、春の訪れに関して記述した。
 今年も春の来訪を待ちわびていたので、春めいた感じの2月の栞を編集してみた。
 本日は節分そして明日は立春と暦には記されている。春とはいえ実際には真冬の日が1月初旬から続いている。暖冬と言われた昨年末の異常気象が、やっと例年通りの冬に戻ったという感じがする。寒さは続くだろうが、日一日と陽が伸びて、あちこちから梅の便りも届くようになる。この便りとともに日本の農事は始まることを暦は教えている。
 2月8日を事始めとする地域は多く、この行事を農事が始まる節目の日とする慣習は今も残る。同時に、この日に針供養という行事を行う地方も多く、これは仏事で、お寺に折れた針や使い古した針を供養して、裁縫の上達を祈願する。毎年、東京の浅草寺では豆腐を沢山入れた容器を用意して、多くの参拝者がそこに針を刺し込んで供養する姿を見ることができる。
 こうした行事は、物を大切にするという日本の伝統的しきたりのようなもので、道具供養の一つである。
 2月の初めての午の日(うまのひ)を特別初午と呼び、今年は2月6日がその日に当たる。初午というのはお稲荷様の祭りで、名高いのが京都の伏見稲荷大社。ここには次のような言い伝えがある「昔、奢った(おごった)長者が餅を的にして弓を射たところ、餅が白鳥となり飛び立ち、山の峰に降り、稲が生まれたので、そこに神を祀った」この話の落ちは、イナリはイネ・ナリの意味で、それが農業の神様としての信仰を得るようになったいうところにある。
 きっと、わが町のあちこちにあるお稲荷様でも、6日は赤い幟や五色の幟が掲げられ、赤飯や油揚げを供えられる光景を見ることができるだろう。
 横浜ならではの行事としては、中華街が旧正月に当たる「春節」で賑わう。今年は始まってから30回目に当たり、2月8日~22日まで行われる。きっといつにも増して多くの観光客が集まり、横浜の一大風物詩として観光の目玉となるに違いない。
 2月は受験シーズンでもある。受験生を子に持つ親たちの気苦労も多い時期となるだろう。小学生のお受験、中学。高校と休む間もなく大学へと「育ての苦労は、親に付いて回る」ということを思い知らされる時期でもある。

2016.2.7 レンズ考2(カメラ)
 1月5日「レンズ(mono)」について書き始めて、今回は2度目。カメラのレンズについて、その光学技術の発展に伴ってどう使われてきたか振り返ってみる。
 カメラと言えば、学校の記念写真を思い出す。写真屋さんが三脚の上に四角い大きな箱のようなカメラを取り付け、平べったい四角い板状のものを差し込んで、頭から黒い布を被って、皆に「しばらく動かないで」と命ずる。生徒は固くなって目を見開いて、緊張の面持ちで写す瞬間を待つ。「ハイ撮ります」と合図があり、空気の入ったボールのようなものを押すとシャッターが降りて撮影は完了する。というほどに1枚の写真を撮るにも大騒ぎであったと覚えている。
 後で調べて色々わかったことを、カメラのメカニズムということで記してみる。
 カメラのレンズは人間の目で言うと水晶体に対比される。この二つの構造を理解するとカメラの原理が分かる。
 レンズ素材はガラスや有機ガラスなどの透明なプラスチック類が主に使われる。カメラのレンズは、レンズそのものだけでなく、ピント調整や光の量を調整する部分を合わせた、レンズシステム全体を指す。これは目の虹彩、水晶体、網膜といった一体化したシステムに似ている。
 カメラの場合、人の目の虹彩と水晶体の働きをさせるため、多い場合は20枚以上のレンズが組み合わされる。これは光のズレ(収差という)を取り除くためで、像をシャープにしたり、コントラストを適正にするために必要だからだ。
 カメラはピントを合わせる機能も不可欠だ。ピントとは物体のある部分に焦点を合わせることで、目の場合でも見たい箇所に焦点を合わせる。このピントをわせるために、カメラのレンズを移動させる。この方式には2種類あり、手動で回転させて動かすネジ式。溝を滑らせるカム式がある。交換式の一眼レフカメラはネジ式、一体型のデジカメはカム式(電動が多い)と考えると分かりやすい。
 レンズの明るさをF1.0とか焦点距離12ミリとか言うが、これは人の眼を基準に考えられている。人の眼のF値は1.0 。画角は水平120°(12ミリ超広角)と言われている。50ミリの標準レンズが、人間の眼で見た画角に最も近いとされている。一般的にはカメラの明るさはF1.4位からが普及している。
 今や衛星から人を認識できるぐらいに光学技術は進んでいる。光の取り入れ口となるレンズはこれからも改良が重ねられ、より多機能化への道を進むことだろう。

2016.2.11 レンズ考3(拡大鏡)
 最終回は拡大鏡に類するモノで締めくくる。
 メガネとは異なり、物を拡大して視るもので、種類も形も用途も違うところで多様に使われている。
 よく古い映画などで、暗い夜の街角でテーブルを広げ「占い」という行燈を置き、人の手相を見るのを商売とする光景を見ることがあった。私は経験はないが観てもらう人は、占師に掌を見せて、そこに表れた自分の運を観てもらうのだが、占師の小道具として登場するのが天眼鏡である。天眼鏡は 柄のついた大形の凸レンズである。虫眼鏡と言ってもいいのだが、これは子どもなどが理科で使う安価なもので、プラスチック製のレンズが多いようだ。
 私が読書の補助に使っている拡大鏡は、四角い大形レンズで把手に電池が入っており、豆電球が手元を照らすようになっている。更に100円玉ほどの埋め込みの高倍率レンズが付いており、小さなトゲが刺さったときなどに抜くのに威力を発揮する。
 同じようなものにルーペというのがあるが、これは拡大鏡のドイツ語訳だそうで、何となく高級感が漂う。軽い硬化プラスチック製のヘッドルーペというのがあって、これには2種類を使い分けている。 その一つはメガネの上にかけるメガネとでもいうか、メガネの倍率を2倍にしてくれる。視力が合わなくなった矯正が古いメガネの方が効果がある。直接かけてもテレビなどははっきり見えるし、遠くもボケずに見えるところがよい。
 もう一つは頭にかぶり使う時だけ目の前に引き下ろして使う。レンズの交換も何種類かある。私のは安物のせいか使い難い。レンズを固定するねじが直ぐに緩んでしまい、自由に上げ下げできないせいだろう。眼科医や歯医者はこれの高倍率高性能なのを使っているように見える。
 他にもフレネルレンズというのがあり、これはプラスチックの下敷きのようなスタイルの大きなもので、一面指紋のような細かい渦が彫り込んである。本の上に直接置いて見る。薄くて割れやすいのであまり使えない。
 ルーペと言えば、散歩の折りに草花を観察するのに名刺入れのような形をした、引き出し式の携帯ルーペを持ち歩いている。全部引き出すと豆電球が灯るようになっており、隠れた場所の草花もよく見ることができる。
 レンズについて色々と話してきたが、これもレンズ製品が生活から切り離せない存在になっているからである。

2016.2.14 物は考え様(その1)
 男の平均寿命は現在(2014年統計)80.5歳。毎年長寿国への道を突き進んでいる。女性はさらに高く、6歳以上長生きするから、日本中が高齢化していることがよく分かる。
 私のように80歳が目の前に近づくと、そろそろ人生の幕引きも近いなどと思い込むようになる。
 老い先については、これまで何回も書いてきているが、人は75歳を境目(後期高齢者に入る)に老後の生き方、または生き様が問われることになる。
 残りの人生(余命)をどう過ごすか決めるのは、その人の問題であり、解決法は色々あるのだろうが、そう簡単なことではなさそうだ。
 私の親しい友人がこんな文面をメールで送ってきた。要点をまとめると「ひと時ボーとしていると、今の生活が良いのか悪いのか、幸せなのか不幸なのか、よく分からなくなる。それぞれの環境の中で「生きる」を継続するしかないのかなと想像している」という内容になる。
 毎日の生活に問題意識をもって対している年寄りなら、こんな思いに捉われることはよくあることだろう。もう後がないという瀬戸際に追い詰められた時に、その人の地(偽らない姿)が出るものだ。
 ある人は「どうにかなるさ。どうなろうと運は天にあり」と呑気に言う。これを楽天的というか悲観的というかの判断は別れるところだ。友人が書いているように「それぞれの生活環境」にもよる。もし余命宣言を受けているような不治の病に侵されている人からこのような言葉が出るようなら、この人は精神的に相当タフで、自分について達観していると見ることができる。
 これが普段特段の病気がない人の発言なら、多分口先だけだろうと考えてしまう。
 人によって窮地に追い込まれた時にこそ、その人の本質を見ることができる。本当に自分の人生を達観している人は、考え方がポジティブで、死に直面しても動じない。こんな人は珍しい部類で、大概は沈み込んで、ネガティブな方向に向かってしまうものだ。
 これも物は考え様であって、どう受け止めるかは人それぞれで違うものだ。
 次回は「11.7喜寿になった」でも記したが、自分ならどうするのだろうか、考えてみることにする。

2016.2.17 物は考へ様(その2)
 私の現状はというと、身体のあちこちが傷んでいる。歳を考えれば当たり前のことかも知れないが、それでも考えはネガティブな方向に向いてしまう。どこがネガティブなのかというと、死ぬということに対する漠然とした恐怖とか不安感が根底に潜むからだ。
 それが気持ちをマイナス志向にしてしまう。小さい頃、弱虫とか気が小さいと言われたことで、自分は精神的には強くない方だと思うようになっているせいだろう。
 ここで「物は考え様」というテーマに立ち返るとしよう。上で述べてきたようなマイナス思考をポジティブ思考に変えるためには、転機となる行動を考え出さなければならない。
 自分を、ある意味リセットする訳だから、それなりの覚悟も必要だろう。具体的に何をすればいいのか考へてみた。邪念が起きないよう(弱気の虫が起きないよう)、忙しく行動するのが良さそうだ。
 例えば、積年の課題である身辺整理に着手する。言わばプロジェクトを実行に移すということだ。プロジェクトは時間を定めないとグズグズになってしまう。
 整理リストを作るのでさえ大仕事になる。それを品目別に処理してくれる下取り業者を当たり、できるだけ高値で請けてくれる業者を探し出す。これにも手がかかるだろう。このプロジェクトは今年4月中には済ませたい。これが完了するまで、痛いの痒いのは忘れてしまうと信じたい。
 このように、何かやるべき課題を具体的なプロジェクトにして、結果が出るまで、休まず行動する。一つのことに気持が集中するので、先の読めないという不安から一時的にでも解放されることだろう。
 そうした行動を持続させることができるようになる(日常化する)と、後ろ向きの気持ちも、前向きに方向修正できると信じたい。
 禅に「身心脱落、脱落身心(道元)」という言葉がある。これは「座禅の行き着くところは、悟りである。これ(悟り)は我が身を忘れ、心を忘れ、善を思わず、悪も思わず、一切を没却した、非無量の中にある」と解釈されている。
 私などのような俗人は「悟り」に達することは難しいが、何とかして、日々頭も身体も忙しく動かし続けて、時の流れを感じないようにしたいものだ。

2016.2.20 歯車
 歯車という言葉には2種類の使い分けができる。
 一つは機械的なもので、もう一つは人間の対人関係を表す言葉として使われる。
 このメカ的働きと人的関係を対比しながら考察してみる。
 歯車というと思いつくのが時計のそれである。時計の歯車のメカニズムは意外と単純でゼンマイのほどける力が歯車に伝わり針が動くという仕掛けになっている。腕時計の裏蓋を外すと中には歯車が一杯動いている。小さいものから大きいものまで、5つほどの歯車が互いに噛み合って、最終的に正確に時を刻む仕掛けになっている。
 この歯車が噛み合うことを、人の世界でも使っている。その意味は「うまくいく、スムーズにはこぶ、無駄がない、全体的に滑らかに秩序が保たれる、システムとしてうまく機能する、云々・・・」という風に、時計の歯車の動きにマッチした表現として使われる。
 誰でも運転した経験があるだろう。自転車も歯車(ギヤ)が動力源で、変速レバーがハンドルについていて、何段階かに歯車を切り替えてやり、スピードやこぐ力をコントロールするようになっている。チェーンがギヤによって歯車を切り替えることで、噛み合わせを変えて走ることを可能にしている。極めて単純なメカニズムであるので、噛み合わせが狂って、チェーンが外れてしまうことがよくある。
 このように歯車が噛み合わないことを、人に当てはめると、先ほど説明した噛み合うとは反対に「調子が合わない、バランスが崩れる、ボタンの掛け違い、云々・・・」という表現となる。
 このように歯車は単一では機能せず、いくつか集まってその相乗効果で機能するものである。人の世界も同様、従業員は会社の歯車の一つに過ぎない。他人とうまく噛み合ってこそ仕事が成り立つということになる。

2016.2.24 本音と建前
 「"天井が高い家にして本当によかったわね。"と言う妻の言葉に"そうだよな"と応える夫。内心は"嘘だ俺は今嘘をついている。本当は天井が低くて狭い所が好きなんだ。でも俺には最早家族がいる」
 これは某建築会社のCMでタイトルには「夫の本音」とある。身につまされる話ではある。
 このように日本人特有の生活習慣の中に「本音と建前」を使い分ける巧みな処世術がある。
 今回はこうした日本独特の慣行ということが、どういうことか考えてみた。
 「日本人がイイエというのを避けるのは、相手に少しでも不快な気持ちを味合わせまいとする優しい配慮の現れに他ならない(金田一春彦)」。冒頭のCMのように、日本人は本音を吐かず調子合わせを重んずる傾向があるようだ。
 自分自身もまた同様に、本音を隠した生活をしているように思える。イイエという否定的返事を口に出すのはソウダと合わせるより数倍も気を遣うことになるからだ。「ま、いいか」で納得してしまう訳だ。
 その辺の日本人の気質に対し、外国人は「ほとんど理解できない」と評している。
 日本人がなぜこのような特異な文化?を持つようになったのか探ってみると「村単位の狭いコミュニティーが確立されており、その中で対立してしまうと、家族が村八分にされかねない。そこで、周囲の状況をおもんばかって、本音では反対でも、建前を大切にして賛同するという振舞いに及んでしまう。それがいつしか慣習化してしまった」という説に出合った。
 単一民族の日本では、アメリカやヨーロッパのように多民族、多宗教の人種で成り立っている国とは文化の形成段階から違いがある。彼らは考え方や、生活の違いを容認するのが当たり前で、yesとnoの使い分けは個人の判断に委ねられる傾向が強い。
 某TV番組のアンケートでは「日本は世界4位。アジア1位嘘つきな国」とランク付けされているのにはいささか驚いた。心外であるが外国人からみた日本人の評価だから仕方ない。
 どうも建前と嘘が同義語扱いされているようで、日本人の「思いやり精神」も建前扱いされ、偽善に映るのかもしれない。
 多少のストレスを感じつつも、こうした日本独自の生活文化の中で暮らすのも必ずしも「嘘」ではないと思うのだが。

2016.2.27 得意・不得意
 人には得意・不得意なものがある。当然私にもある。
 自分なりに思うに、今こうして書いたり(描いたり)してホームページに掲載して楽しんでいるのだから、これは得意なことなのだろう。
 ところがその中に不得意な面もある。私の場合、書くことに関しては、散文はそこそこ書けるが、小説(フィクション)は書けないし、書いたことがない。どうやら想像力と長文を書く能力の持ち合わせがないのだろう。好きなお絵描きも同様、塗り絵は根気でこなすが、例えば年中観ているバラの花などをイメージだけで描こうとするとうまく再現できない。このように得意と不得意が混在する。世の中には写真のように視たものをそっくり再現して描けるという天才がいるそうだが、これは特異な才能のなせる技であって、ごく稀な人に限られる。それ故、絵を描くのが得意でも、思い描いたものがうまく再現できないからといって嘆く必要もない。才能は天が与えてくれるものだから「天賦の才」という。単にそういうものに恵まれなかったと考えればよい。
 そうなると、得意・不得意とは、自分の個人的気質による「好み」のようなものなのかも知れない。「好きこそ物の上手なれ」という諺がある。これは「 どんなことであっても、人は好きなものに対しては熱心に努力するので、上達が早いということ」という意味である。相反する諺に「 下手の横好き」といって「 下手なくせに、その物事が好きで熱心であること」という意味である。得意ということは自分の思い込みみたいな所もあるので、人目には「あれは下手の横好きさ」と陰口をたたかれる場合だってある。
 こうして考えると得意(上手)・不得意(下手)は表裏一体であって、今不得意なことでも「下手の横好き」の覚悟で挑んでみれば、意外と得意な分野に変えることができるかもしれない。
 不得意なことの多い私だが、今からでも「成せば成る」の気構えで臨めば、どうにか方が付くのだろうか。正直なところ自信はないが。