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2016.3.1 春の歌
 「窓あけて窓いっぱいの春(山頭火)」この句は昭和13年3月に詠まれと記されている。丁度私が生まれた年だからもう78年も昔になる。それなのに全然古臭さを感じさせない。時代も人も大きく変わっているのに、色褪せない。窓という言葉を2つも使っているせいか、時代を超えた生活感が伝わってくる。
 春を詠んだ歌は数えきれないほどある。今回は幾つか春に因んだ俳句を紹介していくことにしよう。
 春と言えば花。梅に始まり桃、桜と野山を染めていく。畑には菜の花が花開く。見渡す限り一面黄色のじゅうたんが広がり、黄色一色の世界を堪能できる。歳時記を飾る春の風物詩といえよう。
 久保田万太郎はこの光景を「菜の花の黄のひろごるにまかせきり」とズバリ表現している。
 古くは蕪村が菜の花の句を数多く詠んでいるが、中でも「菜の花や月は東に日は西に」が有名で「一面の菜の花畑の上に、東からは春の月が昇り始め、西には夕日が沈もうとしている」まるでゴッホの絵を見るように、鮮やかに描き切っている。
 菜の花は春雨前線が停滞する頃に咲き誇るので、菜種梅雨という言葉が生まれるほど、この時期を代表する花であることが分かる。
 赤やピンクの花は派手だが、野草の黄色い花は可憐で、健気だ。どこでも見られるタンポポは、 花は日が照ると開き、日が沈むと閉じるのだそうだ。地味なので夜は存在を感じさせないのは、そのせいかも知れない。日当たりのいい所で、花の周りをフワフワと舞う黄色い蝶々は絵になる。「 たんぽぽや折ゝさます蝶の夢(千代女)」はそんな光景か。
 最後に私も一句「春の陽を浴びて寝転ぶ花の中(風楽)」のお粗末。

2016.3.5 息抜きの音楽
 生活する中で音楽は、私たちに癒しをもたらしてくれる。人によって好みとする音楽の種類(ジャンル)は異なるが、嫌いな人はいないだろう。一言で音楽と言っても、音の種類は楽器にもよるがそれぞれ独特の世界を築いている。 
 それがジャンルとして分類されている。敢えて大別すると、古典と現代に分けられる。言い換えるとクラシックとモダンである。これらは西洋を中心とする洋楽と日本から古くから伝わる伝統音楽とに分けられるだろう。
 何気なく聴いている音楽には、実は何百種類もの音の違いがあるに違いない。
 それぞれを細かく説明するのは難しいので、ごく個人的に絞り込んで、好みの音楽とはどんなものか考えてみた。
 先ず音源であるが、ピアノ、バイオリン、ギター、サキソフォンとそれに伴奏されるドラムやベースなど多くの楽器がある。それらの構成の規模により、ソロからオーケストラへと広がっていく。音楽の好みといえば、圧倒的に洋楽が多い。たまに日本の民謡や唱歌など古くから愛されてきたものにも耳を傾ける。
 青春時代には自分もギターをいじっており、中でもフォークソングに傾倒していた。それからセゴビヤなどクラッシックギターに惹かれ、南米のフォロクローレへと興味が広がっていった。自分の不器用さもあってギターは一向に上達できず、いつか弾くことはなくなった。
 中年以降は聴く音楽の種類が変わり、イージーリスニングという、喫茶店のBGMとして流れているようなジャンルを好むようになった(2014.6.11 癒しの音楽)。散歩の時、仕事しながらでも、何となく耳に優しい響きを持つ音楽を始終聴いている。こうした音楽は無くても生活に差しさわりはないのだが、私にとっては「無用の用」であって、生活の潤滑油の働きをしている。聞くとはなしに聴いていると、リラックスできるのがイージーリスニングやヒーリングと言われる音楽である。文字通り音を楽しんでいることになる。
 こうして今も音楽を流しながらキーボードに向かっている。

2016.3.8 ガマの油売り
「さあさ、お立ち会い。御用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで。・・・では、何を家業にいたすかと言えば、手前持ち出したるは、これにある蟇蟬噪(ひきせんそう)四六のガマの油だ。四六、五六は何処で分かる。前足の指が四本で後足の指が六本、これを名付けて四六のガマ。・・・ガマの油の効能は、出痔、イボ痔、はしり痔、その他、腫れ物一切に効く。いつもはひと貝で百文だが、今日は出張っての披露目のため、小貝を添え、ふた貝で百文だ」これは、落語に出てくる「ガマの油売り」の切り張りの口上である。
 さて、お立ち会い。今回はサプリメントの売り口上だよ。最近はおじいちゃん、おばあちゃんが増えたせいか、昼間することもないので、テレビをよくご覧になる。そこで今や花盛りがサプリメントのCM。若返りや、足腰に効能のある製品のオンパレードだ。実例をご覧いただきたい。
「どこよりも高品質、高配合、吸収性のよさ、適正価格の方針のもと、お客様の健康を第一に考え、優れた品質の"健康なサプリ"のみを開発しています。一人ひとりがずっと笑顔でいられるように、一粒ひとつぶに独自のこだわりがつまった"健康なサプリ"で、あなたのいきいきとした毎日を支えていきます」これは某DXX社のテレビCMのテキスト版である。これを有名タレントを使うなどして「口上」を述べさせている。冒頭のガマ(蝦蟇)の油売をソフトに、さらに誇大宣伝にならないよう、細かい気配りもうかがえる。それでも実質は同じ体質であることに変わりはない。
 他社のCMも同工異曲で似たりよったりだ。こうして、テレビ通販は、年間1兆円を超える巨大市場と化している。
 人の健康志向の波をうまく捉え、人を取り込んでいく。これらの宣伝に踊らされて、買い続けると月の支払いは10万円を超えてしまうだろう。それでも効能を信じて飲み続ける人は、それで安心を買っていると思えばそれはそれで良い。
 私が糖尿病で入院した時、病院の管理栄養士に、このサプリメントの効果について尋ねたところ「毒にも薬にもならない」と素っ気ない返事が返ってきた。実は、その時某サプリメントを飲んでいたのだが、翌月からの定期購入を解約した。実際、医者の処方した薬を超える健康食品など無いのかもしれない。薬より効くサプリメントが出てくれば、処方箋薬局は廃業を迫られることになる。
 さて、皆の衆,、かようにして口上に乗せられて買い続けるかの否かは、賢明な読者の判断にお任せしよう。

2016.3.12 名残り惜し
 少し前のコラムで「身の回りの整理」に取り掛かると宣言したので、その顛末について記すことにした。
 処分したのは、第一弾がオーディオ機器や電動工具、パソコンなど電気製品が中心で、ほかにカバンや時計、ギターなどであった。点数40点余り。さすがに部屋にかなりのスペースが生まれた。第二弾が古書である。これは業者との認識のずれで、限定されており段ボール1箱分であった。これについては第三弾として、バーコードのつかない相当古いものと図録など限定出版のものを処分したいと考えている。
 さて、その結果生まれた空間は予期せぬ空間、即ち心に生まれた空間までも作り出してしまった。
 30年近くに亘り、目の前を遮っていたオーディオラックに収められていた機器が、突然姿を消したことの衝撃は大きく、大きな喪失感となった。
 長年慣れ親しんだコンポーネントであるだけに、思入れも、思い出もあったモノばかりだ。そこに鎮座しているだけで存在感があっただけに残像が残ってしまう。これが愛着というものなのか。
 愛着を生む訳は、模様替えでなく、消えたことにある。30年前には毎日手慣れた操作で楽しんでいたオーディオだけに、簡単に思い切るのは難しいところがある。用済みになったのだからお払い箱にするのは、一見合理的なように見えるが、思い入れという心のことまで考えると、人との別れのように、その存在が擬人化してしまうものだ。
 こうなると、これからも続く処分については、思い出を立ち切るというようなもの、例えば書簡類、会報など直接人との結びつきを担ったものも多いため、きっと迷うと思う。
 少しオーバーな表現になるが、名残りのイメージが強いものほど処分が難しいということになる。
 そうは言っても、ある意味過去との決別を覚悟したのだから、ここは避けて通れない、自分に課せられた最後の一働きと考えねばなるまい。

2016.3.15 財布のひも
 家計の財源であるお金を管理する、言い換えると財布のひもを握っているのは、夫婦の場合どちらだろう。知人に聞いたところ世帯主である男の方である場合が結構多い。夫婦共働きの場合は別勘定だろうが、収入源を持っているのが夫だけの場合、家計を仕切るのは主人ということになるらしい。
 実はこのような実態はついぞ知らなかった。私は所帯を持った時から、財布のひもは女房に任せたまま今に至っている。昔から経理など不得意だし、何よりもそういうことで気を遣うのが嫌だった。
 財布のひもを握るということは、即ち家の実権を握るということにもなる。口座等の名義は世帯主の名だが、これは名ばかりで実質管理しているのはかみさんだから、私は昔からあてがい扶持であった。それが一般的だと疑いもしなかった。家のことは全て女房任せ「亭主元気で留守がいい」の口だった。
 ところが、今年度一杯で社会とのつながりと小遣い稼ぎの仕事から身を引くことにした。自ら選んだ道である。カッコよく言えば、元気なうちに、引き際を綺麗にということになるが、私の収入の道は,
唯一年金だけになる。これは財布のひもを握る女房(SEO:経営最高責任者)に執行権を渡してあるので、これからの自分の活動費をいかに捻出するか思案のしどころになる。
 今までは何の干渉もないまま、好きなような生き方(活動)をしてきたが、これからはどうもそうは行かない予感がする。僅かなヘソクリなど、今の生活を続けると、直ぐに底をつくのは目に見えている。
 人生リセットするのは自業自得ということで勝手なのだが、その後のこととなると、あてがい扶持を増やしてもらう必要がある。
 これからそのことで、我が家のSEOと労使交渉しなければならないと思うと、何とも気が重い。

2016.3.19 蓋雑考
 我が国では食器に蓋が付いているのは普通であるが、欧米などの食膳をみると、皿は多いがむき出しであることが多い。どうも、これだけ食器に蓋が付いているのは、日本の食文化の特色の一つであるようだ。
 鍋・釜・丼・茶碗に至るまで、ことごとく蓋が付いている。今回は蓋について探ってみた。
 自分が見た感じで蓋について観察すると、蓋は調理に使うものと、食膳に供されるものとに大別できると思う。
 調理の段階で見る蓋には、鍋物を煮る時使う、蓋に小さな空気抜きのある土鍋の蓋が思い浮かぶ。芋などを煮る時、煮崩れしないための落とし蓋もよく見掛ける。他にも饅頭を蒸す時使う竹の笊のような蓋もある。
 食膳では蓋つきの料理が多く出るが、料理屋に多い会席料理と茶席などで出る懐石料理などでは蓋の使い方が違うようだ。それぞれマナーがあるようだが、詳しいことは知らない。ただ、蓋を活用すのが会席料理で蓋を鑑賞するのが懐石料理だと聞いている。
 蓋の効用も色々ある筈だ。先ずは料理が冷めるのを防いだり、虫など余計なものが入り込まないようにするというのは大体見当が付く。器自体を見栄え良くすることで料理を引き立てる効果があるとも考えられる。
 最後に飯の炊き方について「始めちょろちょろ中ぱっぱ赤子泣くとも蓋取るな( はじめのうちは火を弱くし、中ごろは火を強め、途中で蓋を取ってはいけない。飯のじょうずな炊き方をいったもの) 」と古くから言い伝えられている。
 このように蓋の文化は生活に密着しているため、調べ始めると、非常に奥が深いものがあり、これ以上は私の手に負えない。この辺で蓋を閉じることにしたい。

2016.3.22 桜前線
 いよいよ桜の季節。桜が満開すれば、春爛漫という季節となる。
 まだ九州で開花宣言が出たばかりで、関東地方は今頃宣言が出ることだろう。今年は例年より1週間ほど早い開花である。開花後に花冷えの日が1週間ほど続くので、花見の時期は長くなると、テレビで気象予報士が話していた。
 桜と言えば花見であるが、神奈川区で家の近くの桜の名所は、一番近いのが孝道山の桜。次に近いのが、神奈川公園(中央卸売市場入口)。そして、幸ヶ谷公園の桜ということになる。今までも何回か紹介した花見の名所だ。桜の木はソメイヨシノである。
 調べによると、ソメイヨシノは幕末頃に作りだされたもので、オオシマザクラとエドヒガンとの雑種だという。それまでは桜と言えばヤマザクラのことだったそうだ。現在では固有種・交配種を含め600種以上の品種が確認されているそうだ。
 そこで神奈川県内の桜の名所について調べたところ、次に紹介するような名所(抜粋)があることが分かった。機会があったら出かけるのも一興。
・ 長興山のしだれ桜
 長興山紹太寺は小田原城主を務めた稲葉氏の菩提寺。火災で当時の建物は焼失してしまったが桜だけ残っている。箱根登山鉄道「入生田駅」から徒歩で約20分。途中から坂道になり、後半はかなりの急勾配でたどり着くのはなかなか大変。
・県立三ツ池公園の桜
 2~3月上旬に咲く寒桜を皮切りに横浜緋桜など、78品種約1600本の桜が植えられており、鑑賞期間が長いことも魅力。
・根岸森林公園の桜
 県下最大級の芝生広場となっており、その中心にある「桜山」は、約350本の巨大な桜をひとところに集めた春を感じられるスポットになっている。ソメイヨシノのほか、枝垂れ桜や八重桜、山桜が咲き誇る。
・三渓園の桜
 園内の正門付近にある大池周辺や旧燈明寺本堂周辺では、ソメイヨシノ、山桜、大島桜、枝垂れ桜など約300本の桜が楽しめる。夜は、旧燈明寺三重塔など、古建築のライトアップに照らし出された美しい夜桜を観賞することもできる。
・衣笠山公園の桜
 公園入口まで続く「サクラ道」では、早咲きの河津桜が2月下旬頃に満開を迎え、その後3月下旬〜4月上旬にかけて、約2000本の桜の下「衣笠さくら祭り」が開催される。

2016.3.25 噛み合わせ
 噛み合わせとは、歯を噛み締めた時上下の歯が触れる状態を言うが、これが結構デリーケトな作用を体全体に及ぼすことになる。
 私は若い頃(と言っても50歳は過ぎていたが)、職場の昼休みを利用して近くの歯医者で虫歯の治療をした。これが大変下手な技術(大学の研修生)だったため、ひどい目にあった。治療が終わってから歯の噛み合わせが悪くなり、いつもガチガチと不整合な状態が続いた。
 その煩わしさを紛らわすために、よくチューインガムを噛んでいた。
 すぐに矯正すればいいものを、そのまま長い間その不快さに耐えてきた。そのことは身体にも影響が出たようで、顎の形が変わったのか、顔の左右が不均衡になり、鏡に映る顔と写真の顔とでは、別人のようになった風に自分では感じたものだ。
 まさか、それが噛み合わせが原因とは露知らず長年放置したままで過ごしてきた。
 影響はそれだけではなく、きっと消化器などの内臓疾患や頭痛、腰痛などの原因になってなっていたかも知れない。
 定年後に近くの歯医者に虫歯の治療に行った。その時にこの状態について相談した。調整をしてもらったが、特にその歯が虫歯にかかったわけではないので、作り変えた訳ではなく、削って高さ調整をしてもらった。それでも違和感が残った。
 最近、元凶の歯の上の歯が虫歯になり、その治療に際し厳密に調整してもらったところ、噛み合わせが矯正され、少し違和感が残ってはいるものの、不快感はなくなり、チューインガムなしでも気にならなくなったのが嬉しかった。また、人相も変わったようで、左右が均等になったような気もする。
 なんで早く手を打たなかったかと思う。後悔先に立たずというやつである。
 ここで、噛み合わせの悪さが身体にどのような悪影響を及ぼすかについて調べてみた。
 歯の噛み合わせが悪いことによって起こる症状を咬合関連症と呼ぶのだそうだ。いろいろな身体の部位に影響が出るという。例えば、腰痛を初め頭痛や肩こり耳鳴り、眩暈(めまい)、手のしびれなど全身のさまざまな不調は、実は噛み合わせが原因である場合が少なくないという。
 たかが虫歯などと侮ってはいけないと悟った。歯医者の忠告に従い、定期的に診てもらうことにするとしよう。

2016.3.29 自然の感触
 自然に直接触れるという感じは良いものだ。
 近くの森の公園を巡る散歩道は、入り口から小高い丘の頂きに通じる狹い土の凸凹道だ。雨の日は上から水が流れ落ち、ぬかるむため歩けないが、晴れていれば、土と木の根っこがむき出しになり、この時期は枯れ葉で埋まっている。自然のままの手の入っていない自然の感触が足元から伝わってくる。しっとりとして、柔らかく弾力がある。枯れ葉の中を歩くと、カサカサという音がして、更にクッションが増す。今頃はまだ白いビニールシートで囲われた花畑を横目で見て頂につく。100メートルほどの滑らかな上り道である。
 公園となっている頂上は小さなお盆を伏せたような広場になっており、多くの木が植えられている。すぐ隣に幼稚園があり、いつも子どもたちの遊び場になっているので、土はしっかりと踏み固められている。ここでも一面枯れ葉の敷き詰められた絨毯の上を歩くような感触で心地好い。
 普段舗装されたアスファルトの道路ばかり歩いているので、自然のままの土の道を歩くと、感覚が新鮮で、昔子どもの頃走り回った道路(戦後すぐはどこも舗装された道など近くにはなかった)を思い出す。
 近くにこのように自然がむき出しになった場所があるということは、数少ない貴重な資産とも言える存在である。全長僅か200メートル余りの短い行程ではあるが、ちょっとした森林浴も味わうことができる、私にとって穴場の散歩道である。
 もちろん自動車も自転車も乗り入れ禁止であるから、前後左右なんの心配もなく、素朴な自然を楽しむことができる。