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2016.4.1 春宵一刻値千金

 桜も満開。ようやく春らしい風を感じる。ピリピリと肌を刺す空気も、いつしか柔らかく肌に優しく触れるものに変わった。
 花の開花を待っていたかのように、様々なスポーツがシーズンを迎えた。私も視聴しているスカパーを今年もプロ野球セットに変えた。ベイスターズの試合は欠かさず見ることを楽しみにしている。
 土日の試合はまだデーゲームが多い。春とはいえドーム以外の球場はナイターは寒い。陽の光を浴びて伸び伸びとプレーする選手たちは、新鮮な喜びを感じていることだろう。
 平日は一部を除いて大体ナイターになる。29日にホームでの試合があるハマスタは、巨人戦ということもあり、満員の盛況であった。ファンの熱狂ぶりで、スタンドは寒さなど吹っ飛んでいる。夕方6時はまだ明るい。7時頃にかけて宵闇が迫る。薄暮の中にランドマークタワーなども夕焼けを背景に遠望され、演出効果も満点だ。
 こうした春の宵を値千金という。これは中国の詩人蘇軾(そしょく)の七言絶句「春夜」の始まりの一句「春宵一刻値千金」からきている。「春の宵は趣き深し、そのひとときの時間は千金にも値する」という意味である。
 続く句は「花に清香有り、月に陰有り」とあり、「毎年巡りくるこの一刻は、最も生き生きとした自然の営みを楽しむことができる」と表現している。
 日本を代表する俳人与謝蕪村も「ちるはさくら落つるは花のゆうべ哉」と詠み、古人も「ひさかたの光のどけき春の日に、しづ心なく花の散るらむ(古今和歌集)」と詠むなど、春は俳人が好んで歌を詠んだ季節である。
 人は昔から春を一番の季節と感じてきたあかしであろう。私も春は新生の喜びを味わっている。
 そこで拙句をひとつ「水ぬるみ月影宿す春の宵(風楽)」

2016.4.4 ついウトウト
 陽気が良くなってきたので、晴れの日は外でウォーキング。雨の日で家に閉じこもる日はパソコンに向かう。4月からは完全な隠居生活に入ったので、時間に拘束されることはない。
 思い切り好きなようなことをして過ごせるはずなのだが、陽気が良くなったせいで、気持ちまで緩んで、直ぐに眠気を催す。相変わらず夜の眠りが浅いので、昼間はいつも眠い。仕事をしている頃、午後の会議となると必ず眠気に耐えるのに困ったことを思い出す。今は遠慮なくゴロリと横になって居眠りできるのは至福な一刻かもしれない。
 眠気が襲うと発想も出てこないから、筆も進まない。そういう時はごろ寝に限る。またこの時期明け方尿意を催し、小用を済まし、寝床に戻ると、やっと深い眠りに入る。そうすると朝寝床から出るのがもったいない。もう少し寝ようというのが、朝食で起こされることになる。この中途半端な寝起きが昼間のついウトウトにつながっていく。
 これは春に限るのだそうだが「春眠暁を覚えず」という漢詩がある。正しくは中国の詩人孟浩然の五言絶句「春暁(しゅんぎょう)」の第一の句である。全文を紹介すると「春眠不覚暁(春眠暁を覚えず)虚虚聞啼鳥(処処に啼鳥を聞く)夜来風雨声(夜来風雨の声)花落知多少(花落つること知んぬ多少ぞ)」となる。その現代訳は「春の夜の眠りの心地よさに、夜が明けたことにも気が付かない。(目を覚ますと)あちこちから鳥の鳴き声が聞こえてくる。昨夜は風や雨の音がしていたが、花はどれぐらい散ってしまっただろうか」となる。
 この漢詩にあるように、このところの天候は夜には雨が降り、夜が明けても雨混じりの曇りの日が続いている。家でまどろんでいるうちに、花は散ってしまうのではないかと懸念している。

2016.4.8 ITで変わる生活
 ITとは情報技術(Information Technology)のことで、21世紀は情報革命が急速に進むITの時代と言える。
 一言で情報といっても幅広い分野に広がっているので、自分の身近なところで、その変化を観察してみた。
 ラジオ、テレビ、電話などはどの家にあってもおかしくない情報機器である。先ずラジオだが、今はAM放送、FM放送そして僅かだが短波放送がある。何れも全盛期は終わり、私などは散歩の時たまにイヤホンでニュースや音楽を聴く程度で、活用機会は極めて少ない。それも以前のように単体のレシーバーではなく、インターネットラジオとして聴くスタイルに変わっている。
 次にテレビだが、この業界も今試練の時を迎えている。若者を中心にテレビ離れが進んでいる。これもインターネットを中心に置くネット社会の拡大が進んでいるからだ。こうした現象は 提供される情報の中身(番組またはコンテンツ)に影響を及ぼしている。視聴者に迎合するかのように、バラエティやクイズのような参加型のものが増え、専門性の強い番組や野球やサッカーなどのスポーツ番組は、BSやCSといった幅広い周波数帯を持つ多チャンネルのメディアに席を奪われている。
 テレビ本体の技術も短期間のうちに大きく進んでおり、高精細薄型大画面化した4K(従来の2倍の精細度)が家電量販店の売場の中心に置かれるようになった。これはパソコンとの連結とオンデマンド(好きな時に好きなコンテンツを視聴できる仕組み)のニーズに応えられるのを前提にしているようだ。
 電話にしても戦後裕福な家の象徴的存在だったダイヤル式黒電話は、回顧的なテレビドラマの1シーンぐらいでしか見られない。今は子どもから大人まで一人一台である。電話には有線型と無線型と大別できるが、家庭電話はIP電話が主流となり、多機能化している。ひとつの回線で電話、Faxは無論、インターネットやテレビも視聴できるようになった。
 無線型は携帯電話である。これも一時代前の携帯電話はガラケーなどと揶揄され、今やスマートフォン全盛期である。これはネット社会への入り口としての機能がてんこ盛りだ。
 以上駆け足で述べたように、情報技術が齎した生活の変化は大きく、これからも何が生み出されるのか見当もつかない、ビックリ箱のような存在になっている。

2016.4.12 いろは(仮名文字)
 文字を覚え始めることを、「いろは」から始めると言う。実際に小学校に上がって最初に習うのが書き方で、これは「アイウエオ、あいうえお」から始まり「ン、ん」で終わる50音の表記である。
 この「音」であるが、文字は辞書などにも記されているように、音と訓に別れている。合わせて音訓などと言う。例えば「音」を辞書で引くと、音読みで「オン、イン」とあり、訓読みで「おと、ね」と表記されている。
 この音の連なりである話し言葉が、文字に変わることで文章が生まれる。これはどこの国も同様で、その国の文化としての独自の言語が存在する。
 難しいことは抜きにして、日本人はどのようにして仮名(カナ・かな)文字を学んだのか。一説によると10世紀の後半に「いろは歌」が作られたと伝えられているが、作者は不詳である。
 ここにいろは歌の原文を示すと「色は匂へど 散りぬるを、我が世誰ぞ 常ならむ、有為の奥山 今日越えて、浅き夢見じ 酔ひもせず」となる。古い言葉遣いなので、パソコンの辞書変換機能では出てこない文字もあった。
 この歌の解釈は別にして、この歌は仮名47文字で構成されており、清音濁音の区別を表わさないなど、厳密の意味では当時のすべての音韻を伝えたものではないとされている。しかしながら、覚えやすさを求めて、歌としての意味を待たせたことが素晴らしい古人の発想だと思う。
 一方「アイウエオ」という母音に始まる50音は、主に仏典の翻訳(古代インドのサンスクリット語(梵語)の解明)するなどの学問的な活動を行う寺院の僧侶たちの間にその原型が生まれた(「いろは歌」とほぼ同じ時期) 。したがって、これは日本語の仮名整理のために作られたものではなく、文章的にはまったく意味を持たない一種の字母表なのである。
 これが今小学校で最初に国語で学ぶ50音図「アカサタナハマヤラワ」の順列となったのは江戸時代に入ってからだと言われている。それにしてもアルファベットは26文字の倍もある文字を1年で覚えてしまうのだから、日本人の知能は大したものである。
 改めて仮名文字を苦労して作り出した先人たちに賞賛の言葉を贈る。

2016.4.15 四つの仮名
 使い方が難しく、特にローマ字入力するとき間違えるのが「じ・ぢ」ローマ字変換で(ji&zi・di)と「ず・づ」(zu・du)の四つの仮名である。
 今回はカナつづきということで、混乱しやすい「四つ仮名」を取り上げてみた。
 私に使い分けに関する知識がないので、図書館で借りた「日本語の歴史(浅田哲也:東京書籍)」を参考にさせてもらった。
 仮名遣いは万葉仮名に始まるといわれているが、千年後の現在はどのように変化したか逆読みで探ってみた。
 現在定められている「仮名遣い」は、昭和61年内閣告示第1号で定められた「現代かなづかい」が最新のものである。
 昭和21年吉田内閣の時に戦後教育の改革ということで、告示が出て61年の改訂までは「現代かなづかい」の基本であった。
 この中でも他の仮名と異なり「四つ仮名」は取扱いに苦労している。なぜなら、平安時代にはタ行の濁音は「ダ、ディ、ドゥ、デ、ド」と発音されており、一文字で表現されない仮名が存在した。これを現代かなづかいではすべてを一文字にしたため、大混乱が生じた。
 そのあらましは歴史的仮名遣いを表音式仮名遣いに改めるというもので、告示によれば「四つ仮名」のうち「じ(zi)、ず(zu)」を仮名遣いに用いることが原則となり「ぢ(di)、づ(du)」は一部の例外を除いて使用することはできない」というものだった。その例外がどう言うものかというと、これが曲者で「次のような「ぢ、づ」の例外は、次の二項目とする。
(1)同音の連呼によって生じた「ぢ」「づ」はその仮名遣いを認める。ちぢむ(縮む)、つづみ(鼓)、つづら(葛籠)、つづく(続く)つづる(綴る)などである。
(2)二語の連合によって生じた「ぢ」「づ」はその仮名遣いを認める。「二語の連合」とは、二つの単語が結びついて複合語を作るとき、二番目の単語の最初の仮名が「ち、つ」で連獨を起こした場合に「ぢ、づ」の表記を例外として認めるというものである。
 その一例を示すと「はなぢ、そこぢから、いれぢえ、ちかぢか、つれづれ等39語が上げられている。
 四つ仮名混乱の原因はこの例外の多さにある。この本では「例外の多い原則というものは、やはり原則として欠陥である」と断じている。
 こうした状態が続く限り、この「四つ仮名」の使い分けには苦労することだろう。私はそういう時は無理に漢字書きにしてしまおうと考えている。

2016.4.19 昔ばなし
 私が子どもの頃は、おじいちゃんやおばあちゃんが寝物語にお伽話や昔ばなしを聞かせてくれる時代だった。桃太郎の鬼退治や、浦島太郎と竜宮城、花咲かじいさんなどの話である。
 残念ながら私はその機会には恵まれなかった。何故なら戦時中だったからで、ゆっくり寝ることもできない危険の中で暮らしていた。
 戦時中田舎に戦火を逃れて疎開した話についてはエッセイでも記した。そこで昔ばなしめいた経験をした。
 疎開先の家の近くに大きな森があった。日本でも有数の杉の大木が林立する昼なお暗いといった森であった。この森には言い伝えがあり、夜決して入ってはいけない。狸や狐が化けて出て、森から出られなくなるからだという。狸や狐が、人を騙すのは本当だと当時の村人は信じていた節はある。実際の話は、富士の青木ヶ原樹海に入って方向を見失い、堂々巡りをして戻ることができず、行方しれずとなった人が数多くいるという話に似ており、こういう現象は、深い森や広い雪原、濃い霧の中で起こる堂々巡り(英語でリングワンダリング)のことを言うらしい。
 狸や狐のせいにされ、退治され鍋などで人に食べられてしまう。人のほうが余程罪深い話ではある。
 昔ばなしに戻して、昔ばなしの主人公は大体いい人で、その近くには必ず悪い人や動物が登場する。動物はほとんど擬人化されている。そうした構成の中で勧善懲悪の物語が展開する。
 こうした昔ばなしは、ガンダム世代の今の子らには、今ひとつピンとこないかもしれない。むしろこうした昔ばなしを好むのは我々老人世代かも知れない。
 私が好むのは、話の結末が決してハッピーエンドになるとは限らず、浦島太郎はお爺さんになってしまうし、いいお爺さんが長者になっても、それはいつの間にか消えて地名や池の名前でしか残らない。最後は無常観が漂うようで、栄枯盛衰は人の世の常というリアリティがよい。

2016.4.22 日本はニッポンか二ホンか
 日本の国名の読み方は、ニッポンか二ホンか、それともどちらも正しいのか、今回はそこのところを解明してみたい。
 どうやら「ニッポン チャチャチャ」と言った応援の言葉があるくらいだから、ニッポンが正しいようにも思えるが、どうしたものか。
 外国語では日本をどう発音しているのかいくつか調べてみた。
 英語 ジャパン(japan)
 中国 リーベン(日本)
 韓国 イルポン(일본)
 フランス ジャポン(japan)
 ドイツ ヤーパン(japan)
 スペイン ハポン(japan)
このように後の二文字が半濁音(中国は濁音)が多いようだ。その辺を考慮すると、ニッポンが正式な発音のように思えてくる。
 ところが肝心の自分の国では明確でないのが実情だ。その辺の事情を探ってみると、これも文献頼りになるが、聖徳太子が随に派遣した小野妹子に託した国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す恙無き(つつがなき)や」という文面であり、当時の随の皇帝煬帝(ようだい)は烈火の如く怒ったという。この話はあまりにも有名だが、聖徳太子してやったりという痛快な話ではある。
 この国書にある「日の出ずる国」が原点なのではないかと思うのだが、歴史学者の見解はどうなのか更に調べてみた。
 すると、日本の国名は明治22(1889)年に制定された「大日本帝国憲法」では「大日本帝国(ダイニッポンテイコク)」が国号として定められた」とある。その結果、日本の読み方は「ニッポン」と正式に決まったことになる。
 ところで日本は先の大戦で負け、帝国ではなくなってしまった。戦後新しい憲法が昭和21年に交付された。ここには「国号は日本国」となったが、日本の読みに関しては「ニッポン」とも「二ホン」ともどちらかひとつには定めなかった。
 それが現在にまで及んでいるので、調べによれば「ニホン」の方が比較的に多く使われるようになったという事だ。
 そのようなわけで、私もその時の成り行き任せで「ニッポン」とか「ニホン」とか使い分けるようになっている。

2016.4.26 英数入力書き違え(前編)
 私のコラムはひとつ事に拘る傾向が強い。これは連想でテーマが浮かぶということが多いせいかも知れない。ということで、今回も文字に関する話となる。
 このコラムを読む方は、パソコンを使っていることだろうから、大方経験したであろう事柄だ。
 「パソコンはソフト無ければただの箱」と言った川柳めいた言葉に代表するように、ソフトウェアまたはアプリケーション(以下アプリ)が入っていることが、パソコンの絶対必要条件になる。
 誰のパソコンにも何種類かのアプリが入っているはずだ。パソコンにアプリを入れることをインストールという。アプリには著作権があるので、インストールする時、認証(使用許諾契約)が必要である。これは有料であるか無料であるかに関係ない。
 特に有料の場合、インストール時にほとんど例外なく、認証コードを入力しなければならない。
 この作業が結構厄介だという話が、今回のテーマとなる。
 認証コードは通常シリアルナンバーとかプロダクトキーなどと呼ばれるもので、大体英数文字の組合せ16桁から20桁をランダムに並べた記号みたいなものである。それぞれ固有なコードであり、ソラで覚えるのはほぼ不可能だ。 そこでどこかに記録しておかなければならないことになる。特にダウンロードのアプリはメールで送られてくるので、自分でどこかに記録せざるを得ない。
 ここで苦労するのが、このシリアルナンバーには間違いやすい英数字が結構組み込まれていて、手入力するとあって、誤入力が多く、中々すんなりとは認証されない。
 どんな英数文字が間違いやすいかについては、長くなるので後編で説明する。

2016.4.29 英数入力書き違え (後編)
 やっとここで本論に入る。こうした間違いが起きるケースと解消法について少し考えてみた。
 先ず、間違いやすい英数の組み合わせを上げると「bと6」「iと1」「oと0」「qと9」「sと5」「zと2」などを上げることができる。また、英文字同士の組み合わせでは「gとy」「iとl」「uとv」 などが思いつく。更に大文字と小文字の区分なども厳密にしなければいけない。
 それではこうした起こりやすいミスにどう対処したらよいか。
 一般的に見間違いを生じないように、書き方に工夫するものを上げると、oと0の場合数字の0に/を通す。zと2の場合はzの真ん中に、チョン(ヽ)と点を打つなどして区別する。
 英文字同士の間違いが多いuとvの場合はvの頭にーを入れる分かりやすくなる。wにも同じように文字の上にーを引くことがある。
 では、残った間違いやすい書き違えを防ぐのにはどうしたら良いだろうか。ここでは私のアイデアを紹介する。一手間増えるが、英語の小文字の下にはアンダーラインを大文字場合は2重のアンダーラインを引いてみてはどうだろうか。数字には何も入らないので区別できる。例えばbと6の場合 b にアンダーラインを入れるという風にする。
 今までこのような工夫はしてこなかったので、入力ミスを連発し、やっとこのように書き分けることで間違いを無くそうと考えた次第だ。
 「言うは安し、行うは難し」と諺にもあるように、どこまでできるかは疑問だが。