saji

2016.7.3 手直し改造(mono)
 今回は以前2013.11.19と22「バッグ」と2014.6.16「ひと工夫」を頭の置いて、話を広げてみた。
 これから暑さが日増しに強くなるので、外歩きはどうしても汗をかくようになる。そこで、出かける時の装具だが、「バッグ」のところでも記したように、秋口から初夏までは、ポーチのような小物入れに、財布や定期入れ(診察券や会員証などが入る)、メガネ入れ、メモ帳など、何時でも直ぐに出し入れできるようなものを入れる。傘やペットボトル、冷房除けカーデガンなどの大き目なものは小さめなリュックサックに入れて背負う。このような2つの装備が標準スタイルであった。
 ところが暑くなると、リュックサックは背中に汗がたまる。ベタベタして不快なものだ。そこで荷物を一つに纏めることにして、ポーチより大きめの多機能・多収納バッグ(3ウェイ)を通販で購入した。
 これでまたバッグの数は増えたが、こればかりは収集癖のようなもので止められない。今でも多機能バッグは色々持っているのだが、どれも「帯に短し襷に長し」で、上に記したような振り分け荷物の機能を満たすには不十分である。
 かくして新しく購入したのだが、カタログ通りにはいかないもので、リュック機能などは3点支点のアイデアはいいのだが、バランスが全く取れず使い物にならない。その上両脇のポケットは小さすぎて、傘もペットボトルも入れられない。このままでは使えない。そこで改造することにした。
 私の場合小物の出し入れが楽になるように、外についているフロントポケットを重視している。ポーチに入れていた殆どの小物は収納できた。ところが脇ポケットが小さ過ぎる。その一つにはどうにかメガネをねじ込むことができたが、反対側は鉛筆入れにしかならない。これは不要なので、そこに平らなフックを取り付け、そこにウェストポーチを取り付けてみた。少しブラブラ動くが結構大きいので、収納力は改善された。
 残るは傘やペットボトルなどの長尺物の収納だ。そこで考え付いたのが魔法瓶を買った時付いてきたボトルケースである。これをバッグの底に縫い付けてみたところ、折り畳み傘を入れるのにピッタリだった。
 多少不格好になり、重くもなったが、これで必要な携行グッズは収まるところに収まった。これで夏の取材も一つのバッグだけで足りることになり、工夫すればそれなりの結果は出るものだと改めて感じた。 

2016.7.7 賑わいいろいろ
 7月は行事がテンコ盛りの月だ。海開き( 本県では7月9日(土)が多い)、山開き、夏休み(公立学校7月21日)と多くの人が外に繰り出し、野外での活動を楽しむ。当然人も車も混雑することになる。
 今回は、人が込み合う様子を言葉でどう表現するか、いろいろと拾い出してみた。ここでも日本語の妙を味わうことができた。
 類語大辞典の助けも得ながら表現してみることにした。
 人が多く集まることを「込む、混雑」という分類から拾い出していくことにしよう。
 プールの混雑状況を「芋を洗うようだ」などと言うが、これは「里芋を木桶に入れて棒でかき混ぜ洗う様子。転じて多数の人が込み合う、ごった返すこと」と説明されている。私のような年代では実際に芋を洗う現場を見ていて、状況を想像できるが、当の渦中にある今の子らは、何のことか理解できないと思う。洗濯だってタライではなく洗濯機の時代だから、見たことのない比喩は通じないと思う。そうした表現は随所に見ることができるが、将来、物語などの本を沢山読めば分かるようになる筈だ。
 7月中旬になるとあちこちの町で祭りが始まる。祭りの花は神輿である。多くの若い衆が神輿を担ぎ「エッサエッサ」という掛け声で「押し合いへし合い」町を練り歩く。それを見る人が多く続き、道は「大混雑」になる。英語ではcrushなどと「ぶっ壊れる」という表現を使う。岸和田だんじり祭などはその典型かも知れない(祭礼は9月)。
 平塚の七夕は明日8日から10日まで行われる。ここにも多くの人が「押し寄せる」。湘南電車は「押すな押すな」の「鮨詰(すしずめ)」状態という大混雑になる。この時ばかりは街も人で「溢れ」かえり一年で最大の書き入れ時になる。各地の花火大会も「足の踏み場もない雑踏」となり、警備が必要になるくらいのイベントの一つだ。
 高校野球の夏の地区予選も始まり、各球場は「大入り」になる。暑い盛りほど外に出かける機会が増えるのは不思議といえば不思議だ。冷房のきいた家でのんびり過ごすのが一番と思うが、体の虫が騒ぐのも事実だ。

2016.7.10 熱波の道を行く
 昼間の最高温度が35度を超える本格的夏が到来した。
 まだ10日の時点では梅雨明け宣言は聞こえてこないが、太陽の熱は容赦がない。
 夏休みに入る頃には、またまた記録を塗り替える猛暑の予感がする年になりそうだ。
 いつも歩く舗装された道は直射日光で焼けるように熱くなってきた。足元から這い上がる熱気は尋常ではなく、体を蒸すように包み込む。風があれば我慢も効くが、日陰を求めて建物の影を選んで、蛇行する。汗をカキカキ広い県道にあるバス停に出る。ここは更に熱の反射が大きく、遠くに見える車がユラユラと立ち昇る陽炎の中で揺れている。楓の街路樹の陰に身を移し、バスの到着を待つ。
 バスは都会のオアシスの一つ。冷房が効いて汗が引いていくのを感じる。完全冷房になったのはいつの頃からか。冷房ではなくエアコンというのが正解か。思えば贅沢な話ではある。
 地下鉄のある場所で乗り換える。市営地下鉄も快適だ。乗り物が快適なので、あの暑さがウソのようだ。それを忘れてその日の散策コースを歩き出す。またまた暑さが待ち受けている。気温と共に体温も急上昇するのか、汗が首筋を伝い落ちる。
 こういう日は計画的に森林浴できる道を選ぶ。木陰の中で風に吹かれながらゆったり歩くとができれば至上の喜びだ。
 これから毎日の散策は暑さとの戦いになる。水分補給を怠らず、熱中症対策を万全にして、熱波の道に踏み出すことにしよう。

2016.7.14 模様も色とりどり
 夏の青空に浮かぶ雲。様々な形を描いてその姿を変える。真っ直ぐな白い一本の線は飛行機雲か。
 時々刻々と明るさを変え、色彩も茜色で行く雲を染める。千変万化の模様を織り成す空の顔。
 自然が描き出す模様もあれば、人が生み出す光と影の模様もある。
 暗い夜空に大輪の花を咲かせる花火は真夏の風物詩。束の間咲いて消えていく夜に咲く華。
 彩りも鮮やかに闇を染め、描く文様は花柄模様、モザイク模様、水玉模様と数多ある。
 光と影が対となって画く影絵は子どもの遊び。壁に映った手の影が模様を形造る。
 イヌ、ネコ、キツネそして鳩となって、鳴いてみたり、羽ばたいたりして楽しんだ思い出。
 「あざやか色の春はかげろう
  まぶしい夏の光は強し
  秋風の後雪が追いかけ
  季節はめぐりあなたを変える
  アア・・・」
 これは井上陽水画く「心模様」の一シーン。
 とここまでは、詩的表現で「模様」について綴ってみた。これから模様という言葉はどのように使われているか探って見ることにする。
 模様という言葉は上述の文章を例にとると2通りの使い方で言い表わされていることが分かる。空に浮かぶ雲などは様子や有様を表す使い方だ。もう一つは、花柄模様、水玉模様のように、工芸品を飾る図案や色使いなどを表わすときに使われる。
 これらの使い方は二つの言葉の組み合わせで明確なイメージが浮かんでくる。水玉模様のように模様の上に水玉が付く形が殆どだ。逆の場合は少なく、調べてみても「模様替え」とか「模様眺め」ぐらいしか浮かんでこない。
 私にとって模様とは「paint(ペイント)」の素材に変わる。今日もまた一つ他人(ひと)の家の玄関前の敷石に描かれた模様が借景されてページに追加されることになる。

2016.7.17 鉛筆(シャーペン)
 日頃消費されていくモノは沢山ある。一括で消耗品というが、今回はその中のひとつ鉛筆・シャープペンシル(以下シャーペン)をテーマに取り上げてみた。
 書くことが生業(なりわい)のようなものだから筆記具は手放せない。
 かつては鉛筆が主役だったが、今その座はシャーペンに取って代わられた。それは鉛筆は減ってくると削らなければならない。そのためには鉛筆削りや小刀などの余分な道具が必要になる。その手間を省いたのがシャーペンで、ノックして芯を出せば、無くなるまで使える。無論替え芯は必要だ。それでも芯は数本ペン軸の中に収納できるから、壊れない限り手間いらずだ。その上消しゴムもついていてメモを取る時などに役立つ脇役だ。
 使う時のポイントは大きくは2つ挙げられる。その一つは芯の硬さでHBとか2Hとかの記号で表示される。私は比較的柔らか目の2Bを好む。もう一つの点は、太さとか長さと言った形状で、これは大きく好みが別れる。持ち歩きには細くて短いスリムなのがいいが、書き難い。軸が太めの方がホールド感があって、安定した字が書ける。と言ったように一長一短がある。ただし、太軸のものは3色ペンとか4色ペンといって、シャーペンとボールペンまたはマーカーなどが組み込まれている多機能型が多い。実際使うのはシャーペンか黒のボールペンだから、この二つの機能さえあれば十分である。と言っても、これは私の好みでしかないが。
 日常使うものだから、ペン立てには色々な種類の筆記具が林立しているが、結局は好みに合ったものだけ使うということで、邪魔な存在のものが殆んどだ。たまに使ってみたりすると、ボールペンなどは大抵インクが固まっていて、使い物にならないというのがオチである。ボールペンについて後日考察してみたい。

2016.7.20 富山の薬売り
 つい懐古趣味が出て古い話になるが、今回は富山の薬売りを取り上げてみた。
 子どもの頃、柳行李を背負って富山の薬屋さんが年に1、2度家を訪れ、玄関先で腹薬や軟膏などを入れ替える姿を覚えている。子どもにとっては、おまけの紙風船が貰えるのが楽しみだった。
 世帯を持ってしばらくして、富山の薬屋の婿さんに入った知人が訪れ、また富山の薬を置くことになった。柳行李は黒い大きなショルダーバッグに変わっていた。この付き合いは以来四半世紀あまり、彼が引退するまで続いた。ネットで調べると、その後2004年頃にこの会社は倒産したそうだ。
 置き薬の内容だが、一番使ったのは万能の塗り薬「ゴールドセーフ」だった。他にも下痢止めの「ピタリ丸」、風邪薬の「強力風滅(フーメツ)」、痛み止めの「スグナロン」や精力の付くドリンク剤、絆創膏などがあったと覚えている。ちなみに薬屋さんごとに製品名は違うので、今は手に入らない。
 さて、この富山のユニークな発想の配備薬はどのようにして生まれ、全国に広まったのだろう。
『始まりは江戸時代17世紀ごろだと言われる。富山藩二代目藩主前田正甫(まさとし)は生来病弱で、幼いころから医薬に関心が強い人であったという。正甫は当時岡山藩のお抱え医、万代浄閑(ばんだいじょうかん)から「反魂丹」の処方を伝授され、この薬が非常に功を奏したことから、藩の事業として、各地に行商させることにしたのが始まり』と言われている。取引の方法として年一、二回常備した薬を取り替え精算する「先用後利」の方法が採られた。
 これが功を奏し全国に広まって行った。薬商が家庭訪問して取引をするということは、同時に各地にニュースをもたらす情報の介在人ともなり、現在のマーケティングの走りともなった。
 この経営手法は 脈々と続く商売の原理原則として引き継がれている。

2016.7.23 再利用のすすめ
 このホームページを開設してからおよそ3年が経過する。その間に色々な分野に興味がわき「のぞむ:watch、しるす:write、うつす:image、えがく:paint」といった四つの構造ができ上がった。
 そもそも後期高齢者の年(2013年)から始めた挑戦だったから、新しい発想という点では衰退期に差し掛かっていただけに苦労した。創作に関しては初心者であることは年齢には関係なく、一から学習し直す必要があった。学ぶということは真似るということに始まるということが、よく言われるように私も例外ではなかった。
 文章作成に於いては「引用」、描くに於いては「塗り絵」といったような、他人の作品の力を借りることが多く、それは今でも続いている。著作権の問題があるので、そこのところはしっかり押さえて利用させてもらった。
 今回のテーマ「再利用」とは、著作権の切れたような作品を上手く利用するというのも方法の一つである。音楽や背景画には著作権フリーのものも多くあり、これらは結構使わせてもらっている。これも再利用かもしれない。
 それでは作品に全くオリジナルなものはないかというと、そうでもなく「しるす」はエッセイなど書き物であるので、これは殆どがオリジナルである。今書いているコラムも創作物である。
 書き物の再利用は難しいが、その他の分野ではかつて取材した写真や動画は、全部を紹介しているわけではないので、再編集してテーマを変えてリニューアルできる。最近発表した「ザ夏や横浜の寺社シリーズ」はその手のものである。
 人の体は年々衰えるものだ。体力の低下や足腰が重くなると、取材活動にも大きく影響してくる。それを補うのは、今までため込んできた資産(写真や動画、取材メモ)の再活用である。
 確かに鮮度は落ちるが、別の視点で編集しているので、内容的には別物である。このように長く続けるには、新しさだけでなく資源の再利用という手法を使わないと手詰まりになるのは明らかだ。
 再利用の問題点は、作品が新たな興味を喚起しなければ、効果があったという判定はできない。
 今回はホームページ作成上の資源の再利用について述べてきたが、普遍的問題としての再利用の知恵については機会を見て纏めてみることにする。

2016.7.26 蝉の声
 我が家の周囲にはサクラ類やケヤキ、マツ類などの木立ちが多く、朝から蝉の声で賑やかだ。蝉が鳴きだすと梅雨が明けるというが、いまだに関東地方には明けたというニュースは流れてこない。蝉のように自然に生きる生き物の方が、気候の変化を正しく感じ取る能力が人より優れているのではなかろうか。
 蝉の声は、数種類の鳴き声が重なって何重奏にもなる。耳を凝らして聞き分けると、それぞれの蝉が独特の鳴き方をしている。子どもの頃から慣れ親しんだ蝉はおよそ6種類。
 これを鳴き声で分類すると、一番小さくて多く見かけるのがニイニイゼミで「チー」「ジー」を繰り返して鳴く。この蝉は梅雨の訪れを告げる蝉としても知られている。
 次に多いのがアブラゼミで、「ジリジリ・・・」と鳴く。名前の由来はその鳴き声が油を熱したときに出る「ジリジリ」という音に似ている事からアブラゼミと名前がついたと言う。蝉の命は短くベランダの片隅などで、その一生を終え転がっている姿を見かけるのは、なぜかアブラゼミが多い。
 一番声が大きいのはミンミンゼミで「ミーンミンミンミンミー・・・」と名前通りの鳴き声。芭蕉の句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」にあるのは、この蝉かは分からないが、しみ込むように響き渡る。
 立派な体をして王者の風格があるのがクマゼミ で「シャシャシャ・・・」「センセンセン・・・」という声は、これぞ夏の音という大きな鳴き声が特徴だ。あまり見つからないが体長6〜6.5センチほどもあり、日本で一番大きな種類の蝉だという。
 特徴のある涼やかな鳴き方をする2種の蝉。
 ツクツクボウシ は「ジー・・・ツクツクツク・・・ボーシ、ツクツクボーシ」と鳴くことから、ツクツクボウシの名前が付いた。
 夕方になると、ヒグラシが「カナカナカナカナ・・・」と、夕暮れ時に聞こえる哀愁を帯びた鳴き声は、夏の終わりをを感じさせる鳴き声だ。子どもの頃はカナカナという名前で呼んでいた。
 ネットで調べると蝉が鳴く時間帯というのがあるという。
「鳴き声や鳴く時間帯は種類によって異なるため、種類を判別するうえで有効な手がかりとなる。たとえば日本産セミ類ではクマゼミとミンミンゼミは午前中、アブラゼミとツクツクボウシは午後、ヒグラシは朝夕、ニイニイゼミは早朝から夕暮れまで、などと鳴く時間が大別される。ニイニイゼミは街灯などが明るいと夜でも鳴くことがある。夏に多いとはいえ真昼の暑い時間帯に鳴く蝉は少なく、比較的涼しい朝夕の方が多くの種類の鳴き声が聞かれる」

2016.7.30  「お金」と「幸せ」を秤にかける
 人には欲しい物が一杯ある。物欲がある限りその飢えが満たされることはない。
 ここに面白い調査結果がある。リタイヤした団塊の世代(65歳以上)を対象に「残りの人生に望むものは何か」と問うたところ、「お金」が6割強、「幸せ」は3割強という結果が出たそうだ。
 「金」という現実に見えるものと「幸せ」という心の問題を秤(はかり)にかけることには、多くの異論があることだろう。
 この結果を数字だけから推測すると、対象となった団塊の世代は、ひたすら働き続けるエコノミックアニマルとさえ呼ばれた、仕事一筋の半生を過ごしてきた世代だ。「お金」が人を豊かにする。それが家族の「幸せ」に繋がる。「幸せは金で買える」という論理が成り立つ。
 一方少数派となる「幸せ」の選択について考えると、測る尺度を変えないと、「金があれば老後は楽しく、安心して暮らせる」という論理を超える答えを見つけ出せない。
 人は老いれば必ず体が衰え、人の介護を受ける時が来る。金があれば最高の医療を受け、整備された介護施設への入居も可能だ。それでその人に「今幸せですか」と問えば、おそらく「否」という答えが帰ってくることだろう。もし、そうだとすると、それは人間は「物」ではないからだと思う。
 ここには常に欲しい「物」のために人生を費やしてきた結果、金で買えない「心」にしかないものがあるのに気が付かなくなってしまったのではと、私には思える。
 竹内まりやの「幸せのものさし」という歌の最終フレーズに「幸せの基準はかるものさし自分の心の中にあるの?足りないもの数えるくらいなら 足りてるもの数えてごらんよ!」という記述がある。
 幸せを測る物差しは個人個人の心の中にあり、外からは見えないもの。
 私にとっての幸せは何だろう。その答えが「足りてるものを数えてみる」ことから引き出せるなら、「金」より「幸せ」という答えが現実味を帯びるのだが・・・。