2016.8.2 図書館は脳のサプリメント
家の近くに図書館がある。調べ物には持って来いの施設だ。文章作成の参考になる資料調べが目的で行くことが多い。
資料にも色々あるが、散策の資料には地史やテーマにあった文献、辞典、事典類が多い。館内滞在時間が短いので、貸出しも利用できる。蔵書数は少ない方なので、詳しく知りたい時は、野毛にある中央図書館まで足を運ぶ。貸出期間は14日あるから充分だ。そこで気に入ったものは古書で購入することもある。
他にも時の話題を知りたいときは、新聞が一番手っ取り早い。私の場合はコラムを真っ先に見る。新聞5紙のコラムはどれも一面にある。それだけ新聞社が力を入れている証である。
新聞社別にコラム名を示すと、日経は「春秋」、朝日は「天声人語」、読売は「編集手帳」、毎日は「余録」、産経新聞は「産経抄」(書架配列順)などである。
なぜ真っ先にコラムを読むのかというと、私自身週2回コラム「日常細事」を書いているからで、文章の書き方には始終苦労しているからだ。新聞が文章作成上で参考になるのは、どの新聞社も凄腕の編集委員が筆を執っており、文章として一流であり冴えた腕を発揮しているからだ。大体700字ぐらいにコンパクトに纏められている。新聞社であるので時事ネタのコラムなので、テーマは私の目指すものとは全く違う。
手法として単なる事件の報道だけでなく、幅広い視点でこうした事件を観て、引用や伝聞をうまく取り込んで、テーマが浮かび上がるように印象付けている。
こうした手法は博学でなければできないので、私などには猫に小判かも知れないが、 各段落の組み方などはを勉強させてもらっている。
このように図書館は情報不足を補うエネルギー源となり、脳にとってチョビチョビ効いてくるサプリメントのような働きをしてくれる。嬉しいことに無料なので使い続けるのに経費がかからない。必要なのは通うという根気と体力次第といったところだ。
2016.8.6 時の節目
今年の夏は、いつもより賑やかな感じがする。テレビに釘付けにされる時間が多かった。これは特に政治面の話題で参院選が終わり、与党とそれに賛同する党で、3分の2の議席を確保したがことが注目される。
また、その次に行われた選挙は都知事選で、崖から飛び降りる覚悟で出馬した小池百合子氏が圧勝した。どこにでも判官びいきがいるものだと感じた。そして、トリを務めたのが第3次阿部再改造内閣の発足だ。以上で政治面での大きな節目が固まった。これからの動向に注目することにしよう。
このようにどのよう世界にも節目がある。文章で言えば段落のようなものだ。この時期はスポーツの世界も大きな節目となるオリンピック・パラリンピックがブラジルのリオで5日に開催された。1ヶ月を超える期間中に日本選手はどのような活躍をしてくれるだろうか。金メダル20個などという報道もある(JOC目標14個)。それより安全に問題がある地域なので、選手も応援に行った人たちも、無事に帰国できることを祈りたい。
夏の高校野球も、第98回全国高等学校野球選手権大会が明日8月7日(日)から21日(日)までの15日間、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で開催される。49代表校の中で横浜・履正社・秀岳館の3強が軸になるという見方もあり。筆頭にわが横浜高校が挙げられているので、いやが上にも期待が高まる。ぜひ横浜に優勝旗を運んでもらいたい。勝ち続けている限り、私の楽しみも続くからという勝手な理由からだが。
このように一年という時間軸の中で、盛り上がりのある節目は必ず来るものだ。こうした変化を感じ取りつつ、毎日を生活することが、生きるエネルギーになるのだろう。スポーツに参加している者は、更に強く生きていることを実感することになるだろう。私もプロ野球観戦と合わせて、これらのスポーツの祭典を楽しみながらこの夏を過ごしたい。
2016.8.9 往復五千歩への拘り
今回は実に個人的な関心がテーマで「散歩を数値に換算」して分析してみた。
夏真っ盛りだから当然外は猛暑であり、散歩といえど命懸けといった按配となる。
以前一日一万歩と広言したのを覚えている。一年も経たない内に趣旨替えと言うのも格好悪いが、この暑さと自分の歳に鑑みて、歩く歩数の目安を五千歩と半分にした。
即ち朝夕二回で一万歩だった目標を、朝か夕方のどちらか一回にしたことで、歩く歩数も半分になったという単純な話しだ。
だいたい散歩のコースは決まっていて、東神奈川駅方面か大口駅方面のどちらかになる。いずれも往復すれば約五千歩になる。
費やす時間は約2時間で、途中カフェなどで1時間ほど休憩しないと身がもたない。実はこの休憩は構想を練るには欠かせない時間になるのだが。
この数値はスマホの万歩計で測る。駅までの距離は約1.7キロ、所要時間30分、歩数2300歩、消費カロリー70キロカロリーなどと表示される。これを目安にして歩くので、昼食の150キロカロリーが往復で消化できることになる。
なぜこの数値に拘るかというと、持病の糖尿病対策の効果を目で確かめるためである。この計測には専用の測定器を使う。糖尿病の正常数値は血糖値130が境目だ。間食せず毎日の散歩を欠かさなければ正常値を維持できる。このルールを破れば、血糖値は一気に200位まで上昇する。
糖尿病は生活習慣病であるので、一定のルールを守らないと数値上は悪化してしまう。他にもコレステロールなどの数値も注意すべきだろうが、何故か他の数値に関しては無関心に近い。それに、あれやこれや身体の数値全部に気を配っていたら、精神的に参ってしまうに違いない。
身体のあちこちが痛いのも辛いが、食べたいものが食べられないのも辛いものだ。それでも数値が悪くならないよう我慢してしまう。
数値管理とは、まるで成績が落ちないように、苦労して勉強するのようなものだ。
2016.8.13 オリンピックで時差ボケ
今回のオリンピックは地球の裏側で行われているので、観戦するのは夜中になってしまう。
始まってから一週間も経つと身体が少し変だ。昼間眠くてぼんやりしてくる時間が必ずやってくる。これが時差ボケのような感覚というのだろうか。いつもなら寝ている時間帯に無理して起きているのだから、こうなるのは当たり前ともいえるのだが。
宿泊して麻雀する時でさえ、昨今は徹夜を控えているのに、半睡状態で夜中の2時3時まで起き続けるのは土台無理なことなのだ。大体決勝が3時頃というのが良くない。メダルがかかっているので、無理してでも眼を開けていなければならない。
そのツケは昼間にやってくる。昼間の時間帯はオリンピックの番組もあるが、夏の甲子園を視る時間だ。大体4試合やるのだが、その半分は寝ているのか、よく覚えていない。横高の試合以外はどうでもいいので、それでもいいが。
休日はプロ野球も昼間にやる。こうなると24時間スポーツ漬け状態になる。幸いなことに私は隠居の身だから、眠くなれば昼寝すれば良い。働いてる人も中には夜中にオリンピックを観戦している人もいるだろう。これは昼間の仕事に響くに違いない。特に事務職は逃げ場がないから相当辛いことだろう。想像するに仕事をしている人は、ニュースぐらいでしか視聴していないと思う。もっとも今はお盆休みの最中だから、休暇中の人は例外だが。
観戦している側はともかく、実際に競技に参加している選手たちは凄いと思う。時差ボケを乗り越えてベストのパフォーマンスを見せてくれる。テニスの錦織圭選手などのように、世界を転戦しているプロのプレイヤーは、どのようにして行く土地土地の時間帯に身体を同調させるのだろうか。時計のように簡単に現地時間に切り替えるというわけにはいくまい。これは想像の域を出ないが、そうした環境で戦うプレーヤーは、独特の体内時計を持っていて、どこでもいつでも自在に睡眠を取る特異技を身に着けているのだろう。
結果が全てという世界で頑張る全てのアスリートたちに、勝敗に関係ない賞賛の言葉を贈りたい。
2016.8.16 高齢者の男女差
行きつけのカフェで見かける光景。昼間は老人客が多い。観察すると面白い状況が見て取れる。
男性客と女性客とでは際立った違いが見られる。男性は一人客が多く、女性は複数客が多い。男性はゆっくり時間をかけて新聞を読み、読書などで時間を過ごす。孤独さが滲み出る。それに対し女性は賑やかだ。常連が多くおしゃべりに余念がない。話題が尽きるということは無いらしい。多少みなさん耳が遠くなっているらしく、声が大きい。いやでも話し声が耳に届く。大体家庭生活の話題が多く、人間関係や買い物情報など幅広い。多分こうして毎日情報交換しているのだろう。
男性の滞在時間は約一時間。これに対し女性は、私が良く見かけるご婦人(と言うか婆ちゃん)は約六時間。多分他のグループでも二時間以上だろう。完全に元は取れる。飲み物のお代わりは100円だから、割安で軽食もあるから昼食をはさんで、延々と話が続く。
ある意味で地域のコミュニティーセンターのようなものだ。男性の場合は休憩だが、女性は会話を楽しんでいるから、確かに脳の活性化につながる。こうして元気のエネルギーを補給しているのだろう。
かくして男はますます孤独になり、元気が失せていく。これに対し女の強さは、この光景からも見て取れるように、おしゃべりでストレスを解消し、ぼけ防止も合わせて実行する。元気の源泉を的確にとらえ、本能的に実践できるところにあるようだ。
近くの大口駅から出るバスも乗客の八割近くが女性で、敬老パスを使い繁華街へと繰り出し活動範囲を広げる。
こうした観察から、一見男性社会のように見える日本も、高齢者社会においては、既に女性によって実効支配されていると・・私は見ている。
2016.8.20 電池3(mono)
携帯電話を使用中に電池(バッテリー)切れを起こした経験はよくあることだ。私たちの周囲にあるモノの中には電気を使って動く機器が沢山存在する。これらの器機は電気を絶たれたら使いものにならない。
この電気を供給するのが電池であり、器機の形状や性格によって各種の電池が用意されている。
今回は身近な存在の電池を取り上げてみた。電池の種類等は「電池工業会:電池の樹」を参考にさせていただいた。
日本中を襲った未曾有の災害「 東日本大震災」が起きた時に、店から単2電池が一斉に消えたことを覚えている人は多いだろう。防災グッズの中に昔ながらの円筒形の懐中電灯が含まれている。これには通常単2型という電池が使われている。それが買い占めされ、あのような状況を生み出した。オイルショックの時のトイレットペーパー買い占め騒動と同じ社会現象である。
普段気にもされない単2電池が一躍社会のフットライトを浴びるのも皮肉な話だ。この単2電池は「電池の樹」によれば、化学電池という幹から出る枝のマンガンもしくはアルカリ電池に属する。形は円筒形で大きさは、日本の基準では単1から単5まである。実は単1や単5があるとは知らなかった。コンビニ等では単3や単4のアルカリ電池が圧倒的に多い。それだけニーズがあるということで、実際LEDライトや小型テープレコーダー、携帯ラジオなどに使われている。
携帯電話やスマホなどは充電式の蓄電池を内蔵している。これは二次電池という幹から出るリチウム二次電池やニッケル水素電池という枝に属するもので板状のものが多い(電池1-2で掲載)。
2016.8.23 比べる(1)
人は何かにつけて比べるものだ。大きいとか小さいとか、広いとか狭いとか比較することである。
比べる(較べる)とはどういうことかというと、AとBを比べるというように対象となるものがある。例えば「値段、数、重さ、高さ、大きさ、腕前、能力、速さ、距離、性格、美しさ、音、性質、温度、気候、形、外見、特徴、優劣、色、味、栄養分、におい、時間、安全性、サービス、効率、生産高、成績、筆跡、表現、環境」などが上げられる(研究社:日本語表現活用辞典から)。
個々の項目で例示することは紙数(文字数)に限りがあるので、今回は大きさの使い分けについて取り上げてみた。
大きさを最初に選んだのは、なぜ形の大小に関わらず「大福」と呼ぶのかという疑問に発している。そこで名前の由来を探っていくと「食べると腹がふくれるので、「はら ぶと餅」とも呼ばれた。のちに「腹太餅」を「大腹餅」に書換えられたが、大腹なら大福の方が縁起がよいということで「大福餅」となった」という説明に出会った。
他にも「大」だけを使う表現がある。オリンピックも本日(22日)閉会式を迎えたが、テレビでは連日「大一番(おおいちばん)」という言葉が飛び交った。これなどは大事な一番の「大」を強調する意味合いが強い。どうやら大という文字は「比べる」ケースがあまり多くないようだ。上記比較用語一覧の中では「大きさ、音」ぐらいで、車などの大きさを表すのには、比較語の大中小が使われる。中でも「中」の使い方は曖昧で、音の場合などは、高音、中音、低音などとして分けている。大声と小声はあるが、中声はない。中は標準ということで敢えて「中」とは言わないのかもしれないが、これは注目に値する表現法だ。
今回のテーマは「窮余の一策」とでも言える「比べる(比較)」に的を絞ったが、「話題が浮かばない時には小出しに使えるな」などとレパートリーが増へたことを勝手に喜んでいる。今回は第1回目なのでまだまだ続く。
2016.8.27 比べる(2)
「柱の傷は おととしの 5月5日の 背くらべ」この歌は、作詞海原厚、作曲中山晋平も「背くらべ」の出だしの一節。最後の一節は「遠いお山も背くらべ・・・一はやっぱり富士の山」と比べる対象が人から山に移っている。
この比較はいづれも高低で比べている。比べ方も色々で、自分の歳とともに成長する姿を比べるものや、世界では低い山でも、日本では一番といった、元の基準でいかようにも比べることができる。今回のオリンピックで、日本は活躍して多くのメダルを獲得したが、世界では6位。アメリカの121個に比べ41個と約3分の1。上には上があるものだ。
上には上という言葉で思い出すのが、福沢諭吉の「学問のすすめ」の一節「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という有名な言葉だ。これは人間はすべて平等で身分に上下はないということだが、現実は必ずしもそうはならないようだ。
はるか昔の平安時代の教訓書『実語教』にも「山高きが故に貴(たっと)からず、・・・」という名言が残されており、人は高い位に登れば登るほど徳を積まなければならないと戒めている。
このように人を比べるのは難しいことで、キーワードで示した「腕前」や「能力」は上下で比べ、「性質」は良し悪し、「外見」は美醜、「成績」は数字で判定したり、優良可(甲乙)といった比べ方で表現される。これらの判断基準は物差しとして分かる気もするが、何かにつけ物議を醸す元となる比較ではある。いたずらに比べると、とんでもない愚を犯すことになる。自戒すべし。
2016.8.30 よくもきた
突如「ギャー」という凄まじい悲鳴。「何事か!」とパンツ一丁で風呂場から飛び出し「どうした」と言うと「アッツ、ウッツ、カカッ、ク・・蜘蛛ッ」と硬直した姿勢で「出たっ」と答える。家にはカミさんの嫌いな小動物が時々姿を見せる。尋常ではないので、指差す方を見たが姿は既に消えていた。特大の蜘蛛(クモ)だという。普段からゴキブリやヤモリが出てきても騒ぐ。目敏くて直ぐに嫌いな生物を感知してしまう能力を備えており、余談だが探しものの名人だ。
駆除は私の仕事だ。家事協力はその程度くらいしか無い。それにしても今回の騒ぎ方は常ならぬ様子だったので、この辺がカミさんのアキレス腱のようだ。
この夜はクモは再び姿を現すことはなかった。次の夜。再び「ギャーッ」という悲鳴。あのクモがカミさんが普段寝ている和室の壁にへばりついているという。早速駆けつけ警護に出向くと、なるほどデカイ手の平ほどもある足長のアメグモが飴色の姿を見せている。カミさんは「殺せ」と命ずる。 私が『クモはゴキブリやダニの幼虫を食べてくれる益虫だから殺すのはよくない。昔から「よくもきた」といって、これを殺すか、逃がすか二説あるが、逃がすことにしよう」と説得した。たまたまこの時期義母(ハハ)が亡くなり、葬儀を控えている時だったので、「おばーちゃんは霊力の強い人だったから、これも何かの知らせだろう。無碍な扱いはしないで放してやろう。これからは静かに驚こう」と言うことで落着した(「しるす」のコラムでその「ババ様」の話題を掲載中)。
それでも怖いものは怖いらしく、その晩は明け方まで眠れなかったと、翌朝こぼしていた。実は私としては、あの悲鳴がご近所に聞こえて、私がDV夫だと誤解されるのを畏れた。
三日目の夜またまた「キャッ」という押し殺した声。見に行くとベランダ近くの引き戸の側に件(くだん)のクモの長い足がのぞいている。素早いので捕まえることはできない。一計を案じ、べランダの引き戸を少し開けて逃げ道を作り、蚊が入るので、蚊取り線香を戸の下に置き、一晩様子を見ることにした。その後クモは姿を見せていない。
これが騒動の顛末である。私しはゴキブリ、クモより女房が怖い。