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2016.9.3 もう秋です
 これを書いているのは、二百十日(立春から数えて)に当たる9月1日で最も天候の荒れる時期。つい最近も台風10号が岩手県・北海道を直撃し大きな被害が出たばかりだ。昨日(8月31日)には熊本でまた大きな余震があった。次々にやってくるだ天災。今日は各地で防災訓練が行われている。毎年繰り返す災害への備え、それでも被害を免れるのは難しい。収穫期を迎える農家にとっては厄日である。
 そうした季節だが秋が好きな人は多い。私もその一人で、今からマップを広げてどこに行こうかと夢を広げている。
 今はまだ暑さが残るが、朝晩はめっきり涼しくなった。空の青が濃さを増し、風も心地よい。道を歩けばトンボが飛び交い、ススキも新しい穂先を尖らせている。
 お天気博士の倉嶋厚氏はそのエッセイの中で「日本の秋は、暑さの中でそこはかとなく感じる「小さな秋」と、秋の長雨と「野分け(台風)」のころ、そして長雨がが明けた後の「天高く馬肥ゆる秋」の三つに分けられる」と語っている。
 変わりやすい天候が秋の特徴。日本の四季は一年365日を四等分した90日に分けることができる筈なのだが、実感するのは10月頃だ。実際には秋の始まりは立秋(8月8日)から立冬(11月7日)までで90日ある。8月8日は現実には夏真っ盛りである。一般的な季節感としては、秋は9月からで、終わりも早く二十四節気「霜降(そうこう)」の10月23日頃までである。単純に計算して僅か60日と90日の3分の2にも満たない。
 短いが故に季節が凝縮しており、一刻一刻と変化する自然の変化に目を奪われる。俳人も好んでこの季節の歌を詠む。歳時記の秋を実感するためにも、体を整えてマップで計画したルートを踏破したいものだ。

2016.9.6 使い捨て文化(前編)
 今回はモノを中心に、日本の使い捨て文化について考えてみた。
 私は文房具に興味があり、拘りのモノの一つだ。中でも筆記具は仕事に欠かせないグッズだ。このコラムでも筆ペン(2013.9.11)や鉛筆(2016.7.17)を取り上げてきた。
 そこで筆記具第三弾目はボールペンに焦点を合わせて、テーマである「使い捨て文化」を念頭に置き話を進めることにした。
 ボールペンは用途によって使い分けられる。メモ程度に使うならインクが切れたり、固まったりしたら捨ててしまう、書ければよいという使い捨てでもよい。しかし、手紙を書いたり、年金などの申告書など比較的に慎重を期する文書を書くときには、私は手に馴染んだモノを用いる。
 インクが切れた時はリフィールといってボールペンの替え芯(通常専用)を取り替える。芯はゴミになるが本体は何年でも保つ。リフィール1本で使い捨てボールペンが何本も買えるほどだから、一見無駄遣いしているように思える。
その上古いものほど補充がききにくい。
 確かに、そこまでして古いボールペンに固執するのはどうしたものかという意見はあるだろう。私にとって筆記具はいわば商売道具の一つであり、拘りがある。ペンの走り具合が文章の出来映えに影響する。
 値段には関係のないところで、道具として使い込んだ愛着が生まれるものだ。これは大工さんや板前さんの道具への拘りに通じるものがある。
 モノを大事にするという感覚は手軽に入手でき、用が済めば捨てるという今の社会では希薄になりつつある。
 ボールペンを例に「使い捨て文化」について見てきたが、ここで社会現象としての、こうした文化の変容に疑問が湧いてくる。(後編につづく)

2016.9.9 使い捨て文化(後編)
 話が少し広くなって、日常細事ではなく社会時評になってしまうが、ご容赦願いたい。
 モノに関する考え方が、使い続けるから買い替える(廃棄する)傾向になりつつある。
 モノを大事にするという時代に育った私から見れば、徒に消費を助長するような商法が目立つ。
 特に私のようにIT関連商品に囲まれた生活をしていると、そうした商法に振り回されていると感じること屡々だ。
 例を上げるとパソコンなどの高価な機種ですら、イヤホンジャックひとつ壊れても、マザーボード(本体基盤)を交換しなければならない造りになっている。業者も買い替えを薦める。機種を買い換えれば、ソフ卜も入れ替えなければならない。最近はダウンロード製品が多いから、これも買い替えねばならないことになる。ここで多くの無駄が発生する。余計に金がかかるし、モノの無駄と時間の無駄が出るわけだ。
 私が経験した最もひどいのがスマホや無線LANルーターの契約で、2年か3年契約で、合理的契約延長(機器を変えない)という考え方が無い。十分使える機器を捨て、新規の機種に変更させられる。この考え方が罷り通っていることが使い捨て文化の元凶となる。
 こうした底流が、人がモノを大事に使い続けなくなった風潮に拍車をかけている。使えるものは大事に使い続け、モノを愛用するという、言いかえればモノに対しても愛情を持つ心を忘れないでほしい。
 使い捨て文化の果てに見えるのは、結果としてそれが人に対してまで及ぶことだ、
 最近ではとくに幼児や身体的弱者にやさしく接することを忘れ、暴力や殺傷するという事件が、ニュースで多く報道される。私は 古くからの良き慣習である、日本人の和の精神やおもてなしという、心の潤いが失われていくことを憂慮する。

2016.9.12 「考える」に尽きるところなし
 「一日一日を大切に生きるだけです」という言葉をよく聞く。
 何を大切にするのかは漠然としている。人夫々の考えで決めなさいということなのだろう。
 私にとって大切なことは、毎日「考え続ける」ことだ。これも抽象的で何なのか漠として、人には分かり難いと思う。
 再三コラムなどで書いてきたことだが、私の隠居生活の生き甲斐は「ホームページのポケット(のぞむ、しるす、うつす、えがく)」の中身を絶やさないような仕事を続けるところにある。
 色々な形態の表現法が詰まったポケットなので、中の素材を食材に例えるなら、調理して食膳に供するようにすること、それが「毎日考え続ける」ことに繋がっている。これは私の脳トレであり、長寿法ともいえるものなのだ。ホームページの更新に取り組むことができなくなったら、それが私の終焉と言ってもいいだろう。
 何時か終わりが来るのは始めた時から決まっているが、それを決めるのは私ではない。私は「考え続ける」という生き方をライフワークとして選んだ。それはとりもなおさず、ポケットの中身を埋め続けることなのだ。
 何か悲壮な決意を表明しているように見えるだろうが、実は年がら年中考えているわけでは決してない。眠っている時間の方が多い昨今だ。座り続けると直ぐに眠たくなる。そして船を漕ぎ始める。どこにでもいる老人と同じだ。
 熟睡できないうえにエンドルフィン(脳で分泌される脳内麻薬のような物質)の出も悪い。それが居眠りに拍車をかける。トータルすれば半日は眠りの状態にあるかも知れない。若いころの倍は睡眠に取られているというのも勿体ない話ではある。
 もっともこの状況は作り出すのは、家にいる時の話で、外に出れば脳も刺激を受けるから眠くなることは無い。従って、考えたいときは外に出かける。これも以前書いたが、歩いている時に一休みするカフェやイートインのあるコンビニなどが、私の「考える場」ということになる。さて、それでは歩けなくなったらどうしたものやら。
 それはその時「考える」ことにしよう。

2016.9.16 行く手を阻む邪魔物
 道を歩いていると、結構邪魔な障害物があるものだ。一つ一つ上げていき、その現状とどうすればよいかについて考えてみる。
 狭い歩道をふさぐ電柱を例とすると、いつも散歩している県道の脇の歩道の中に設置されており、歩く妨げになる。信号の多い道路だから走行する車両も多く、車道に出て歩くのは危険だ。反対側の歩道は広いので、車のいない隙間をぬって渡ることにしている。
 当然の話だが、狭い路地にも電柱は立っており、邪魔だけでなく、張り巡らされた電線は空の景色を悪くし、美観を損ねている。新しい道路や街づくりでは、電柱は地下埋されているので、邪魔もなく、空が広々としている。古くからある町はずっとこのままなのだろう。
 次に街路樹の存在も邪魔物の一つとなる、古くからある高台の町は桜や欅、銀杏などの並木が残っている。車が多くなり、歩道の必要性が高まり、並木を残したままで作ったので、欅などの大木が歩道の中心に居座ることになる。歩行者には邪魔な存在で中には落雷などで枯れて根元から切り倒した後の、巨大な切り株が残っている。根が地中深く張っており撤去できないのだろう。
 歩いていて邪魔な物の次に上げるのは、手入れの行き届かない木の枝が、庭から道路に突き出て、人の顔の高さまで垂れ下がり、うっかりすると顔にぶつかることがある。こればかりは家主が、確り手入れしてほしいものだ。
 次なる障害物は歩道に乗り上げて駐車する不法車輌やコンビニ前に並ぶ自転車などだ。これらは人の迷惑顧みずの典型例で必ず出会う障害物だ。散歩とは障害物競走ではないと言っておきたい。他にも工事車輌や商店のはみ出したワゴンなど町中にある障害物はいくらでもある。狭い日本の道、歩く人の方で気をつけよう。

2016.9.20 花を愛する人たち
 秋の花は春の花より数も少なく地味な感じがすると、先のコラムでも書いた。ところが、散歩しながら目に映る人家の前の道端に置かれた鉢には結構色々な花が植えられている。おそらく園芸店などで購入した品種だろう。道端に生える山野草とは一味違う風情がある。庭があるわけではなく、家の玄関先に何鉢かの花が植えられている。長屋のように続く玄関先に置かれるのだから、少し言い過ぎかもしれないが、花に埋まった沿道と化す。これが「しもた屋風」の家が軒を連ねる下町の風物詩ともなっている。
 気に入るとカメラに収める。むろん花の名など分からないから、家に戻ってから図鑑で調べる。イラストの図鑑 「原色牧野植物大図鑑」などは、花の特徴や葉の様子がはっきりしていて分かりやすい。このホームページでも花や樹木のイラスト紹介しているので、描画の助っ人としても役立つイラスト図鑑だ。
 話が脱線したが、鉢植えの花を愛でる人はどのような心根を持っているのだろう。
 明治の大政治家にして、早稲田大学の創始者大隈重信は、大変な園芸家で「花を愛する人に悪人はいない」と常々語っていたという。秋は菊の季節。大隈邸の700~800種の菊は栽培するだけではなく、交配して新品種を作り出し、観菊会を催し外国大使や公使をはじめ多くの著名人が訪れたと伝えられている。
 こうした話からも町の園芸家はきっと善人ばかりなのだろう。立派な家に広い庭の邸宅に住んでいるわけではない。
 しもた屋住まいの心根の優しさが伝わってくるような気がする。
 軒先に並んだ鉢植えの花は、道行く人の心を癒やしてくれるに違いない。

2016.9.23 ベイスターズ礼讃
 9月19日我が応援するベイスターズが初めてクライマックスシリーズ(CS)出場を決めた。シリーズ3位は2005年から数えて11年振り、CSに関しては2007年のシリーズ始まってから初めてという快挙になる。
 今年も残すところ4試合(20日時点)。2位ジャイアンツを超すのは無理だろうが、CSまで試合を楽しめるのがファンにとっては一番嬉しい。全試合を観戦することになるだろうが、CSが10/8(土)から始まり、フルに戦って勝ち抜ければ9試合、さらに日本シリーズで7試合して日本一にでもなるようなビッグドラマが展開すれば、16試合追加してスポーツ観戦を楽しめることになる。そんな美味しい話はありっこないが、ベイスターズ初めてのCSを観戦できるようにしてくれた、選手と監督及びスタッフ、それに常に球場を満員にしたファンに拍手を贈りたい。
 長いシリーズ。ハラハラするゲームの連続で、新任のラミネス監督の采配に疑問を抱くこともあったが「終わり良ければ全て良し」としよう。敢えて注文することが許されるなら、好投している先発ピッチャーを途中で降ろすという、アメリカ流の投手交代は止めてもらいたいものだ。完投したのは山口の5試合、井納の2試合を含め僅かに9試合しか無い。このため、若手のピッチャーが結構目の前で星を落としたのは可哀想だった。
 と、苦言を呈したところで「勝ちゃいいんだろ」というファンの声も聞こえてくるようだ。
 何れにせよ、残る試合はエキサイティングに戦うことに期待したい。

2016.9.26  味が出る
 おでんやカレーライスは作った日よりも翌日の方が美味しい。これは寝かすことで、味の旨みが煮込むことで引き出さられるからだと思う。
 味が出るようになるには時間が必要なものがあるという一例だが、これに似たようなもので、人の芸も年月を費やし磨きをかけることで味が出る。
 芸事は大体このように経験が必要だが、味ということに関しては落語の世界では、落語家の晩年に一番の芸の味を感じさせる。
 落語の世界は、落語芸術協会によれば『落語家(東京)には、「真打ち」「二ツ目」「前座」「前座見習い」という階級がある』の段階を踏んで一人前の落語家になる。その間の修行は苦労の連続であることは容易に想像できる。
 もとより芸の世界であるので、真打ちといわれても名人と誰もが認める落語家は少ない。噺家は高座の座布団に座り、道具といえば扇子と手拭ぐらいのものだ。演者の技巧と聴き手の想像力で噺の世界が広がっていくという、非常に分かり易い芸の世界である。語り口、間の取り方、声の出し方で客は噺に引き込まれていく。
 私は古今亭志ん生が大好きだが、江戸っ子らしい語り口と、とぼけた発声法で何回聞いても笑いが湧いてくる。これは、まさに年輪を経た味である。先代の圓楽(五代目)も芸に味わいがあった。年齢に関係なく、早く円熟期を迎える名人も多い(30歳前に真打ち昇進)。それでも晩年の噺が完成度が高い。古今亭志ん朝のように「もう少し長生きしたらなあ」と惜しまれる落語家もいる。
 その芸は一代限りであるので、その味わいはその落語家だけにしか出せない。
 味わいを出すというのに、長い時間と技を常に磨き続けるということは、落語家に限ったものではない。
 私も物書きの真似事をしている。未熟であるが故にその先を見据えた時、成長のヒントを芸人の世界に多く見ることができる。

2016.9.30 貼る・剥す(セロテープ)
 日常生活において貼る・剥すという行為は当たり前になっている。
 そうした行為にテープ類は欠かせないアイテムといえよう。その代表格であるセロテープから話を始めることにする。
 どこの家にでもあるセロテープは、それだけ使い道が多いモノの一つだ。例えば、裂けやすい紙類の補強や小箱の蓋が開かないように仮止めするのに使う。
 書店や電気店のレジの脇にはカッターに収まったセロテープが常備されており、レジ袋のベロの部分やポリ袋の口が開かないよう貼り付ける。運ぶときに口が開いて中身が落ちるのを防ぐためである。用が済めば剥して捨てられる運命にあるモノだ。セロテープを貼りつける時片側の端を少し折り返してあると、べったり貼られるより剥しやすい。
 電気製品などを購入すると付属品が個別にビニール袋に入っていることが多い。この場合セロテープ止めはべったり貼られているので、剥すのに苦労する。爪を立てても引っかかりができず、最終的にはカッターなどで切り裂くようにしないと開封できない。
 セロテープは使い道が広く、便利だが粘着力が強いのが仇になる例はほかにもある。ノートや本の表紙の補修に使う時、テープを引き出す際に指紋が付いてしまい、それが貼った後に汚く残ること。真っ直ぐに貼れないで曲がったり、皺が入る場合に剥すことができないこと。無理に剥すと元の地を痛めたり、破いてしまうことなどだ。
 今回はセロテープに限定してその長所・短所などを上げてみた。テープにはもっといろんな種類があり、使い分けることが上手な使い方と言える。
 それらの話題については、次回以降の貼る・剥す第二弾に譲りたい。