今までに掲載した人物百相から写楽の歌舞伎絵を解説付きで再編集して紹介する。第五回目(1,2回は2016年に紹介)は41枚目から39枚目までについて解説する。
初代中山富三郎
1760-1819 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。宝暦10年生まれ。はじめ初代中山文七の,のち4代松本幸四郎の門下となる。大坂で活躍,安永9年江戸へいき寛政2年立(たて)女方となる。傾城(けいせい)と世話女房役を得意とした。文政2年9月10日死去。60歳。前名は中山松兵衛。俳名は錦車。屋号は近江(おうみ)屋。あだ名はぐにゃ富。
初代山科四郎十郎
日の丸に鶴が描かれたおめでたそうな扇子を持ったこちらの男性は、不破伴左衛門に殺される不憫な役です。ちなみに不破の恋敵、名護屋山三のお父さん。演者である山科四郎十郎は芸達者でいろんな役がこなせる役者だったらしい。
三代目大谷鬼次
寛政6年(1794年)5月河原崎座で上演された演目「恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)」の中で三世大谷鬼次が演じた「奴江戸兵衛」は写楽第Ⅰ期の代表作としt有名だが、三代目大谷鬼次についての記述は見当たらない。
三代目佐野川市松
三代目佐野川市松は、女形として出発したが、顔つきやら仕草に女らしさが感じられないとの評判があったという。そのため、後年になって若衆方に転じてしまった。
六代目市川團十郎
安永7年 (1778)、五代目市川團十郎の子として生れるが、妾腹だったためいったん門弟の二代目市川升蔵に引き取られ、そこから父のいとこにあたる芝居茶屋の和泉屋勘十郎の養子に入れられ、さらに天明2年(1782) に改めて父の養子として迎えられた。翌年、市川徳蔵を名乗って初舞台。同じ年に四代目市川海老蔵を襲名する。
三代目大谷鬼次
略歴 二代目の門人、1759–96。大谷永助 → 二代目大谷春次 → 三代目大谷鬼次 → 二代目中村仲蔵
三代目佐野川市松の不破伴左衛門女房関の戸
写楽は謎の多い浮世絵師。その人物は誰なのか、色々な説が語られているが、確証あるのは東洲斎写楽という人物によって残された作品たちがある、というだけ。
その謎めいた写楽の作品に似つかわしい、謎だらけの作品がある。
「不破判左衛門女房関の戸」。
写楽の作品の中で、存在したことが分かっていて、現存していない唯一の作品。
六代目市川團十郎の不破万作
不破 万作(ふわ ばんさく、「伴作」とも記す 天正6年(1578年) - 文禄4年(1595年))は、安土桃山時代の豊臣秀次の小姓。尾張国の生まれ。文禄4年(1595年)7月、秀次の切腹前に殉死したと伝えられている。享年17。武将としては功績のない不破万作の名が後世に伝わっているのは、彼が絶世の美少年として知られ「天下三美少年」、あるいは「戦国三大美少年」の1人としてその名を残しているからである。
三世坂東彦三郎の帯屋長右衛門
寛政六年七月、河原崎座上演二番目狂言の「桂川月思出」のお半長右衛門道行の場を描いた作品。写楽は第二期作品中、大判全身二人立の作を七枚描いているが、これはそのうちの一図になる。長右衛門のキリッと引き締まった表情が際立つ作品。
2017.11.3 別冊太陽『写楽』より