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2018.12.4 道具の移り変わりⅧ
 音に関して私のオーディオラックの中心を占めたのはテープデッキである。このモノは私が成人してから普及し、最終的に手にしたのは最後のデッキともいえるパイオニア製のコンパクトでフル機能を備えた、私としては最も高価なモノの一つといえるものだった。多分40歳ころに購入し35年間にわたり故障もなく動き続けたが、生産も終了し時代の変化には抗しきれず、場所をとるのでオーディオのコンポーネント丸ごと5年ほど前にすべて処分してしまった。私としては思い出の詰まるもので断腸の思いで決意したのを覚えている。
 何のために購入したのかは音楽を録音するためだった。購入当時FMラジオで深夜に放送されていた城達也がナレーションを入れていた「ジェットストリーム(1967~1994)」を収録するのがメインであった。深夜にヘッドフォンで聴きながらレコードタイマーをかけ眠りに落ちた。今でも思い出すあの甘い声「遠い地平線が消えて、 ふかぶかとした夜の闇に心を休める時、はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は、 たゆみない宇宙の営みを告げています。満天の星をいただく、はてしない光の海を ゆたかに流れゆく風に心を開けば、きらめく星座の物語も聞こえてくる、 夜の静寂の、なんと饒舌なことでしょうか。光と影の境に消えていったはるかな地平線も 瞼に浮かんでまいります。日本航空があなたにお送りする音楽の定期便 ジェットストリーム皆様の夜間飛行のお供をするパイロットは私、城達也です」
 この収録テープは今は再生できないが10本ほど棚の上で眠っている。テープデッキは比較的短命なモノであったと言えるだろう。今でも古い映画で電話を録音するようなシーンで見かけることはある。
 それを引き継いだのがカセットデッキとビデオデッキである。オープンリールが小型のカセットとなり、音と映像が収録できるようにしたのがビデオデッキで、これは一時VHS (victor ) vs ベータ(sony)という争いがあったが、結局VHSに凱歌が上がり今もどうにか生き残っている。それでも今は衰退期でCDやDVDにその座を奪われている。
 科学技術は分進秒歩とも言われる荒波に常に揉まれている。12月1日からは4K放送も始まった。人は常に上を目指す。その内これもまた電機メーカーの販売合戦により、庶民のもとへと広まっていくことだろう。(次号はカメラとビデオ)
 
2018.12.8 道具の移り変わりⅨ
 今の時代カメラは誰でも持っているモノの一つである。私が最初に手にしたカメラは35ミリサイズのフィルム式コンパクトカメラでCANON DEMI(1960年代後半)といって、ストラップが付いており、片手で持ち運べるくらい小さかった。それでいてよく写るので長い間重宝した。フィルムは 銀塩フィルムといって現像して印画紙に焼き付けるもので、白黒( モノクロ)画像であった。
 その後仕事で編集業務を専門とすることになり、取材に使うカメラはNikonの一眼レフ(ニコマートEL 1972年)に変えた。これは初の電子式シャッターを搭載したもので使い良かった。ちょうどカラーフィルムも全盛時代を迎えていたこととも相まって私のネガアルバムに残るフィルムは殆どこれで撮ったものである。
 このカメラはデジタルカメラの出現でその役割を終えた。それから代を重ね、現在手元にあるのはデジタルカメラで大き目なFuji FainpixとミニサイズのPanasonic Lumixの2台をTPOで使っている。両者とも動画が撮れるので便利な使い回しができる。画像はSDカードに保存されるので、パソコンに繋いで簡単に画像を再現することができる。私のホームページの写真や動画すべてこのモノで収録したものだ。
 当時カメラと並んで普及したのがビデオカメラである。最初に入手したのはVHSテープで録画するもので、大きくて肩に担いで撮るという重いものだった。おまけに撮影後の画像はセットになっているテープデッキでみるので、両方合わせると10キロを超えており、とても骨がおれる作業で値段の割に使われず、sonyから8ミリのハンディーカムが出るとお蔵入りになり、そのうちいつの間にか家の中から消えてしまった。ハンディーカムはそれから旅行の友として随分と活躍した。今でもテープの再生用に中古のモノを買って保存してある。その後継機は一眼レフと間違えるようなミニカセットのビデオテープに収録するもので、これも今は役目を終り、休眠している。今は書いたようにカメラと動画撮影ができる2機種が現役で、もう買い替えはないと自分では思っている。
 こうして思い返してみると私のようにモノの無い時代を経験したものは、どうやらMONOマニアに落ち入りやすいようだ。(次号から「平成を生きて」)

2018.12.12  平成を生きて第1章
 来年には平成が終わり、新しい年号の時が2019年5月1日から始まる。そこで私が過ごしたこの30年間を回顧して、平成という時代がどんなものだったか年表などに照らし合わせて検証することにする。今回はその第一章である。
 1989年1月8日今上天皇(きんじょうてんのう)が即位し平成の時代が始まる(これは昭和天皇の崩御による皇室の継承を意味する)。これは来年5月に今生天皇が皇位を 徳仁親王(なるひとしんのう)第一皇子称号浩宮(ひろのみや)に生前譲位するのとは大きく異なるが、このことは最終章で明らかにすることにしよう。
 平成が始まった時日本はバブル期の頂点にいた(Wikipediaによれば「1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間に、日本で起こった資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった社会現象とされる)。その当時私は50歳になったばかりで、社会人として最も充実した人生を送っていた時である。公務員は職務を自由に選択することなど許されない身分であったが、これからの7年間が自分に許されたベストな環境にあった。
 その頃私はあるプロジェクトに参加していた。金利が3%~5%で回るというバブル期ならではの現象が起きており、自治体はこぞって財団を設立して業務を外部に委託することが一つの流行であった。私はその財団設立に深く関わっていた。これは関係機関との間で多くの折衝が必要で自治体と民間機関との関係づくりが大きな柱であって、出資を伴うものであるだけに機微な問題にも目を離せない緊張状態が続いていた。
 世の中はまだ順風満帆の追い風で第3セクターと呼ばれる一つの運営形態の組織が誕生することになる。私の仕事は中小企業の情報化支援が最大の目的とされていた。世の仲で自分の立ち位置を知るには的確な情報を得ることが大切だという風潮もあり、そのことがこうした機関を生み出すことに民間企業(中小中堅企業の協議会)が集い、意見交換するというコンセンサスがほぼ出来上がっていた。この組織の運営は拠出金の運用(金利で人件費をねん出する)で成り立っていた。
 まずまずの門出は迎えることはできたが、ここにもやがてバブルが弾けることによる栄枯盛衰の短い歴史が待ち受けている。このことについては次号に譲る。

2018.12.16  平成を生きて第Ⅱ章
 情報化の推進と言っても、県内・市内の経済情報の提供や動向を調査するといったシンクタンク機能と紙で情報提供するといった図書館機能がメインであって、余業として情報関連企業や団体に会議室を貸すといった便宜供与が主な事業であった。世の中は景気のいい時代であったからこそ成り立つものであり、県と市が行う融資とか公的支援を仲立ちする機能があったわけでもなかったことから、設立時昭和61年(1986年)は中途半端な存在であった。それでもここに横浜市とは普段不仲な神奈川県が関わったのには、裏に国が進める中小企業情報センター事業の受け皿としての位置づけがあったからである。
 この頃新聞・雑誌などの紙で情報を提供する形態がパソコンを端末とするコンピューターによる提供に変わるというアナログからデジタルへの転換期に差しかかっていたいた。
 そこに現れたのがパソコン通信でNECのPC=VANが先鞭をつけ、それに追随するように富士通のNiftyServeが事業を開始した。電子メールと掲示板が主なメニューで、それでも郵便に変わり文字を電信で送ることができることから、若者を中心に瞬くうちに全国に広まり、後にインターネットが広まったことで2003年3月でその使命は終わることになる。1986年という年は先に言ったようにバブル期の初めに当たり、日本全体がイケイケムードに包まれていた。
 中曽根政権時代であるが政権は4年の長期にわたるもので、これを維持するため、途中解散し、衆参両院同時選挙を強行し与党自民党は圧勝した。後に中曽根は「正月からやろうと考えていた。定数是正の周知期間があるから解散は無理だと思わせた。死んだふりをした」と表現したことから「死んだふり解散」という解散名が定着した。
 ネットワークビジネスの拡大とそれが世界に翼を伸ばそうとする矢先に、かの「リクルート事件」が起きる。「1988年(昭和63年)6月18日に発覚した日本の贈収賄事件である。
 この事件は「贈賄側のリクルート社関係者と、収賄側の政治家や官僚らが逮捕され、政界・官界・マスコミを揺るがす、大スキャンダルとなった。当時、第二次世界大戦後の日本においての最大の企業犯罪であり、また贈収賄事件とされた」
 当時リクルート会長の江副浩正は日本の情報産業の旗手(カリスマ)として、その名を轟かしていたため多くの関連の業界人・政治家を巻き込んだため、これらの人材は排除された。この後遺症として日本の情報ネットワーク技術は世界に後れをとることになり、それを今に引きずっていると私は考える。(次章パソコン通信からインターネットへ)

2018.12.20  平成を生きて第Ⅲ章
 パソコン通信が全盛のころ(1988年)から第2次バブル崩壊までの歴史的出来事には次のようなものを上げることができる。
1989-04消費税(3%)が開始する。
1989-11ベルリンの壁崩壊 - 市民がベルリンの壁を破壊する。
1989-12マルタ会談 - アメリカとソ連の首脳会談で冷戦の終了を宣言。
1990-03総量規制 - 不動産融資に関する規制。バブル崩壊の原因の一つ
1991年、総量規制や消費税などでバブルが崩壊して失われた10年(失われた20年)となる。
政府による金融ビッグバン、IT関連企業の台頭によるITバブル、ライブドア・ショックが発生する。
 この歴史から日本の低成長を招いたのはオイルショックと消費税増税が引き金になっていることが分かる。このことは現在(2018年)の日本が同様の時期に差しかかっていることが気になるところである。
 それは平成が終わる節目の話であって、再び1980年代後半に時計のネジを戻して当時を振り返ることにする。
 当時私は前章で書いた第3セクターの財団で働いていたが、パソコン通信が盛んになると、施策の一環として県と大手民間企業が出資する新しい株式会社設立の動きがあり、私も前の経験もありこのプロジェクトに参加した。
 この会社の目玉は自前のサーバーを持ち、画像の出るパソコン通信事業(日本で民間最初 。一般にビデオテックスと呼ばれる通信システム)を展開するという思い切った構想であった。
 この頃フランスでは二つの大胆な政策を推し進めていた。
 まず第一に、テレテルの簡易端末ミニテル(Minitel1)を無料で貸し出したこと。日本でキャプテンサービス(NTT)が始まったころ、メーカー各社から発売された端末は20万円もしていた。これに比べれば、たとえ簡易端末とはいっても、無料で貸し出したことがいかに大胆なことかが分かる。 第二が電子電話帳の推進でフランスでは、ミニテルを利用した番号検索サービスを開始して回線契約者が電話帳とミニテル端末のどちらかを選択するようにすることによって、電話帳の印刷コストを節約したのである。
 現在、テレテルの利用者はフランス国内だけで700万世帯(電話加入者は誰でも利用可能が特徴)と言われている。
 この日本版を目指したのが我々が進めるプロジェクトであった。(次章に続く)

2018.12.23 平成を生きて第Ⅳ章
 前回の話の続きになるが、フランスのミニテルが国家的事業であったのに比べ、私が属したプロジェクトは対象が一自治体に限定されたところに実は大きな格差があった。モデルのコンセプトに日本人の国民性に上手く合わせて興味をそそる何かが欠けていたのではないかと後で思い知ることになる。ただその時は私個人としては未来を切り開くという夢みたいな感じで仕事に没頭していた。
 男(当時の男社会)にとって、真に仕事に情熱を捧げられるということは、これに越した自己満足は無い。創意工夫をこらすということは日本人に流れる遺伝子のようなもので、子どもに玩具(おもちゃ)を与えるようなことと似ており、その一時は楽しく、夢中にさせる動機付けになるものだ。
 少しその夢の中身に触れてみると、ミニテルは国民に端末を配布し電話回線の利用を促し、国民の情報化に先んじたという実績がある。私たちがプロジェクトの中で思い描いたのは、当時衝撃のデビューを飾っていた東芝の初代ダイナブックのような小型のノートパソコンを端末として、そこに画像付きパソコン通信(ビデオテックス)を行うという構想であった。
 それに加えプロバイダーとして通信回線、サーバーや維持管理体制はかなりの規模で万全であった。初期投資として金もかけていた。
 先に示したように、科学技術の進歩は休むことなく前進するもので、未来が見えそうでの見えにくいという一面がある。これは教訓にも似た後悔であるが、その見えない未来を見据えて先んじて起業しなければ結末は見えているということである。競馬の馬券ように結果が読めないもので、一か八かの賭けにでるというリスクを負うことに対する覚悟に欠けていたのかもしれない。私の後悔とは足元だけを見つめ、あたかも「木を見て森を見ず」の喩にあるような結果を見通せなかったったことである。
 これから述べるように景気が良ければ何事も良い方向に進むだろうとバブル期にありがちな見通しの上に立って仕事をしていたのかもしれない。
 すなわち、情報化という旗印は国も推奨するモデルであり、支援を受けることができた。そうした御旗のもと「日本初の画像入りパソコン通信」が広く世の中に広まると過信していた。この着眼点自体は今のIT社会がインターネットに大きく依存している点から見て間違ってはいない。ではなぜ結果として事業は成功しなかったのだろうか。
(以下次章に続く)

2018.12.27  平成を生きて第Ⅴ章
 私は多くの教訓を得た平成という不安定な時代を生きた人間として、自分の仕事を回顧してこのコラムを綴っている。「人生七転び八起き」というが、その諺を地で行った経験に基づく話である。また時代という波に翻弄され、多くの企業がその波に呑込まれていったという話である
 話の続きとして、その経緯をもう少し明確にすることにしよう。
 時代の波に乗って晴れやかに舞台に登場したこの事業(第3セクターの株式会社)、それが大成することなくとん挫した原因を探ることにする。
 今にして分かったことは、遠因はその手法にあった。通信技術が向上し、ノートパソコンは必ず普及するという考えのもとに、端末(ミニパソコン)なしでも、そこにモデムと通信アプリをパッケージにして、入会者に無料で渡しても、年会費で採算は取れるという計算をしていた。採算ラインは会員数1万人であった。新しい形の事業展開に必要な人材育成事業も並行して行っていた。
 ところが思いのほかパソコンの普及は拡大しておらず、従来のパソコン通信から乗り換える入会者も多くなかった。新しくネットワークの社会に入ろうという新規入会者頼みになってしまったが、彼らはまだワープロで仕事する状況で、パソコンありきの発想に課題があった。端末込みという投資は許されなかったというのが、フランスとの違いであり、この計画が軌道に乗らなかった原因の一つといえるだろう。
 IT事業は「一寸先は闇」の世界である。常に脱皮を繰り返し時代に対応しなければ生き残れないし、そこに優れた経営センスと、資金力を維持する能力が必要なことは言うまでもない。私が最も生き甲斐を感じていたこの仕事は、出資者からの出向者で経営陣は構成されていた。出資大手企業からの出向者の殆どは、このポストを左遷と考え、かつてのキャリアから外れたことですっかり仕事に対する意欲を失っていた。呉越同舟の会社にとって、よほど有能でカリスマ的人材が陣頭指揮に当たらない限り、業績を上げることは不可能に近い。
 私の属した第三セクターの財団と株式会社は、二つともバブル崩壊やインターネットの登場という大波にもまれ、それに対応しきれず、この事業を支援してくれた国すら撤退する始末で、再建の手立てもないまま、なし崩しに消えていったのである。次章以降は平成時代の後半を記述する。
 年次組み換えのため28日から来年1月3日まで休刊といたします。本年中ご愛顧頂きましたことに感謝申し上げます。