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2018.2.2 広告媒体の使い分け(2)

 今回は先ず4マス広告がどういう企業に向いているか、またそのメリット、デメリットについて検証する。(幻冬舎メディアコンサルティングのHPを参考に作成した)
テレビCM
 テレビCMはテレビを見ている人を対象にして、短時間という制約はあるが、多くの人に情報を届けられるため、新商品のキャンペーンなどに向いている。一つの番組内で繰り返し流すことで記憶に残していくこともできるため、メッセージの伝達やブランドイメージ広告としても活用されるというメリットがある。
 一方、制作準備期間が必要であることや、録画視聴により飛ばされてしまう、効果測定が難しいなどのデメリットもある。費用対効果を考慮に入れると資金力のある大企業向けと言えよう。時間帯や番組編成によって視聴率は変わるだろうが、大体1本(15秒)で制作費は別にして40万円が相場である。
新聞
 10年ほど前から購読者数は落ちているが、今でも団塊の世代と呼ばれる70代などシニア層を中心に高い効果が期待できる。全国紙から県紙、ブロック紙まで、様々な種類が存在し、エリアをしぼった活用も可能なところから、数あるメディアの中でも最も高い信頼が寄せられる広告媒体としてのメリットがあるが、露出が1日限りで終わってしまうデメリットな面もある。
 四大紙と言われる新聞の発行部数と1ページの掲載料を比べると
読売新聞全国版(995万部)47,910,000円、朝日新聞全国版(710万部)39,855,000円、毎日新聞全国版(345万部)25,920,000円、日本経済新聞全国版(301万部)20,400,000円
 新聞広告の中核をなすのは小口広告で、これを雑報(小枠)と呼び、次のようなものがある。
①突き出し 記事下広告の左右から上の記事スペースに突き出して掲載されるので、サイズは小さくても注目を得る
②記事中 紙面の1段の中に、十数行の幅で掲載される
③記事バサミ 紙面の1段の中に、数行の幅で掲載される
④記事下 各紙面の記事の下に掲載される広告で、全5段、5段1/2、2段1/2など様々なサイズが用意されている。
(次回ラジオCM、雑誌に続く)

2018.2.6 広告媒体の使い分け(3)
ラジオCM
 最近はサッパリラジオを聞かなくなったが、2年ほど前までは早朝の仕事をしていて、週に二回ほどは朝6時から8時までの合間に、日本放送"高嶋ひでたけ"がパーソナリティーの「あさラジ」を好んで聞いていた。軽くて洒脱な語り口が好きで飽きなかった。途中随所にCMが入るのだが、それも耳を通して脳に直接訴えかけるので、思ったより記憶に残ったような覚えがある。
 CM会社の言うところによれば「休日ドライブ中の運転手や車通勤中の会社員など、時間帯や番組テーマによって視聴者の仕事など打異なるので、狙いが絞りやすいメディアである」ということである。
 また、「テレビなどとは違い制作に手間がかからず、低コストで制作ができるのがメリットだが、音声のみであるため視覚に訴えかけられず、イメージが湧かずに流されてしまいやすいというデメリットがある」ともいわれている。ちなみ料金は20秒×1本、制作費別でTOKYO FM100,000円、TBSラジオ65,000円、ニッポン放送65,000円、ラジオNIKKEI20,000円となっている。
雑誌
 雑誌はファッションや趣味など、決まったテーマでつくられているため、読者の年齢層や興味・関心に合わせて掲示できるので、広告効果をしやすい。もっとも購買層を絞れる広告と言われてる。
 しかし、発行部数や売上高はリーチ(購読者層)は他の媒体と比べ圧倒的に低いため、ターゲットの興味関心とずれると掲載ができない、あるいは読み飛ばされてしまうリスクがある。ちなみにこれもカラー1ページの料金を示すと、
anan2,000,000円、オレンジページ2,500,000円、日経WOMAN1,400,000円、週刊東洋経済900,000円、 月刊宣伝会議750,000円、週刊新潮2,200,000円、週刊文春 2,400,000円と出版社間でかなりの開きが見られる。
 2017年2月23日に電通が発表した調査によると、総広告費は前年比1.9%増の6兆2880億円で、5年連続で前年を上回る結果となっている。

2018.2.10 「空っぽ」にして始める
 HPをキャンバスに見立てて、自由気ままにエッセイ風の文章を書いたり、絵を描く作業が今の私の仕事である。出費ばかり多く収入はゼロだが、これが私の終生続きつづける生き甲斐になる仕事と心得ている。
 今年で5年目に入り、そろそろガス欠を起こしていると見る向きもあるだろうが、テーマに従って書き続ける「描く」は原画は北斎であったり、写楽であったりと豊富で絵の素材には困ることは無さそうだ。危険信号が出ているのは、コラムを柱とした「書く」仕事である。中には引用で埋めることも多くなって、オリジナルな発想が浮かびにくくなっている。
 要約『現成公案』を書き始めて気がついた。それは、一度頭の中を「すべて空っぽ」にする必要があるということである。。これはパソコン用語で言うところのリセットして発想の転換を図ることである。この試みは過去にも書いたことがあるが、できそうでできない難関となっている。
 さてどうしたものか、取りあえず「頭を空っぽ」にして瞑想してみた。すると何か肩の荷を下ろしたような軽い気持ちに切り替わった。「空っぽ」の状態だから、当たり前の話だが、何も浮んでこない。
 客観的に自己を見直す。その過程をこうして書き綴ると、ここで一つの作品が出来上がる。このことは書くという仕事に一つの方向性のようなものを示してくれた。
 これまでは無理に引きずって書くということもしばしばあった。特に引用の多いテーマはそれに引きずりまわされるため、自分のペースでコラムに仕上げるのは難しい。コラムは小論文ではないので、短い字数制限の中で話を纏めなければならないものだと思い至った。
 これからはその都度リセットした頭の中で「何となくフット浮んでくる」そんなテーマを釣り上げて書こうと決めた。


2018.2.14 恥をかくということ
 人は誰でも恥をかいた覚えはあるだろう。私も結婚式のスピーチを頼まれて、上ってしまいしどろもどろになり、頭の中が真っ白になって、何を言っているのかわからなくなってしまったことがある。以来人前でのスピーチは苦手になってしまい、普通に話せるようになったのは物書きを始めて、話を短くまとめることができるようになってからである。
 相手の人柄や仕事のことを考えて、それを短文にまとめるような気持ちになれば、即席で5分ぐらいの話はできるもので、今は気軽に話せ人前でも戸惑うことはない。
 要は自信があるか、ないかに尽きる。自信がないと不安になる。不安になれば本来の自分を見失い舞い上がってしまうのだ。聴く人見る人の立場で考えて、それを短文にまとめるような気持ちになれば、簡単なスピーチに戸惑うことはない。
 恥をかくということは教訓を与えてくれる。例えば、私は中学生の頃地理の発表で「屋久島」を「やきゅうじま」とよんで嘲笑を買ったことがある。以来人前で恥をかいた読み方は間違っても読み違えないように記憶に強く刻まれることになる。恥をかくということは、それをモチベーションとして一歩前進することにつながる。それがトラウマになると逆に人前で話が出来なくなる。
 年を取って記憶力が落ちることによって、知らずに恥をかいていることだってある。本人が気が付かないだけである。こういうことの繰り返しが、人を「恥知らず」にしてしまう。恥知らずになればもう恥をかくことはないから、能天気に毎日を過ごすことができる。年寄りの処世術とでもいうものだろうか。

2018.2.17 待ち望まれる球春
 今韓国の平昌で冬季オリンピックが開催されているが、私には今一つ盛り上がりに欠ける。それは私が冬のスポーツに縁遠いせいかもしれない。それでも何と言いてもオリンピック、後半に入り日本勢のメダルラッシュが続くと、現金な物でついテレビに目が行ってしまう。これを書いている時点では女子カーリングが好調で三戦全勝で予選トップに立っている。韓国戦は力の入る熱戦でどちらも死力を尽くす攻防となり、決着が付いたのは午後11時ごろだった。北の大和なでしこに日本人の底力を見た。天晴れである。
 それでも、私にとってスポーツと言えば野球である。これは全く個人的趣向によるもので、唯一長い期間野球やソフトボールをしてきたことによる。
 あと1週間2月24日からいよいよプロ野球オープン戦が始まる。私のスポーツ熱はこの時点で灯ることになる。前にも書いたが、私は大の横浜ベイスターズファンである。楽しみなのは今年はリーグ優勝も狙える体制が出来ていることである。ふたを開けて見なければ何とも言えない話なのだが、いい結果が出そうな予感はしている。
 昨年の試合はプレ-オフまで全試合を観戦することができた。今年は諸事情を勘案してホームゲームだけの観戦になるかもしれないが、一所懸命応援するつもりだ。
 3月末には高校野球春の選抜も始まり、神奈川から慶応と東海大相模の2校が参加する。この試合も短い期間だが目が離せない。
 我が家の女子たちは熱烈な横浜FCファンで、これも3月から別の部屋で賑やか応援が繰り広げられる。
 今年はエルニーニョ現象とかで4月の雪も予想される。本格的春の訪れが遅くなるかもしれない。スタンドで応援する向きは、余計なお世話だが防寒漢対策おさおさ怠りなきよう心得て欲しい。


2018.2.20 春の木枯らし
 七十二候のひとつ。立春の節の第三番目の候で二月十四日~十八日。暖かさで氷が割れ、氷下で泳いでいた魚が氷の上にあがることを「魚氷にあがる」という。春の訪れを告げる言葉だが、現実はその言葉に反して、魚も凍るほどの寒さが続いている。
 外を歩いていると、気温は10度と表示されていても、北風が猛烈に身体を襲い、素肌を曝している顔や手は痛いような冷たさで、体感温度は氷点下以下に感じる。恥ずかしい話、水っぱなが止まらず、鼻の下をツーと筋を引くように流れ落ちる。こういうのを北国では「しばれる」寒さと言うのだろうか。
 良く天気予報で「西高東低で日本海側では雪、関東地方も晴れのち曇り、気温は10度を超えないでしょう」などというニュースを耳にする。この気象配置はまだ冬型が優勢であることを示している。今年に限っては例年の倍の20日ぐらいはこんな状態が続きそうである。
 散歩に出ても、足元から冷たさが昇ってくるようで「身が凍る」と凍るのは魚だけではない。近所の家の庭先の梅の木も蕾を少し開き始めたばかりだ。例年より遅れている。
 普段の春なら「春一番」の便りがそろそろ聞かれるころなのだが、その便りも滞っている。春一番というのは、調べてみると「立春から春分の間で、日本海で低気圧が発達し、始めて南寄りの強風(秒速8m以上)が吹き気温が上昇すること」とあり、春一番が吹いたと報じられる目安となっているそうである。また、「西日本の漁師さんたちはこの風は海難を起こすことになると警戒している」とも記されている。
 それでも寒さで出不精になっている私には、そんな「春一番」をできるだけ早く届けてほしい。

2018.2.24 サイズ考2(ペーパー)
 はがきと封筒のサイズ考を2015.8.30に、このコラムで書いた。今回は日常使っているペーパーサイズについて考えてみた。
 書いた文章やダウンロードしたPDFをプリントアウトすのには、A4判のペーパーが一般的である( 210mm×297mm)。私は手紙を書くときはB5判 (182×257mm)の便せんを使う。これは封筒に入れる時三つ折りで収納できるからである。A4では4つ折りになり好みではない。
 また、手紙を出す時よく写真を同封する。写真ははがきサイズでA6判( 105×148mm)である。これはクリアポケットという透明な収納素材に入れて同封する。
 コンビニ等のコピー機ではA3判( 297×420mm)以下の規格(B判含む)までコピーすることができる。このサイズはポスターなどに多く見られる。
 小さなショルダーバッグに入れて持ち歩くのに便利なメモ帳も何種類かあるが、A版とかB判というような規格ではないもっと小さい108×68mmなどが多い。
 外でスケッチしている人を見かけるが、スケッチブックのサイズはA3からB6( 108×68)までと幅広い。
 身近にある紙の類としてティッシュペーパーがあるが、これは広げると200mm×230mmでこれも規格外である。
 筆に関連して和紙があるが、俗に半紙と呼ばれるものが、和紙の寸法の事実上の標準規格であり、現在では横25cm程度、縦35cm程度に裁断されている。もともとは大判の杉原紙(全紙)を半分に切って用いた事から、この名があると言う。
 こうして見てくると私たちの身の回りには、いろいろな形をした紙があり、その用途に応じてバラで使われたり、綴じた手帳のような形となって日常使わていることに気付く。
 AI技術の進展で直接紙に書く(描く)習慣が薄れてはいるが、まだ私には馴染みのある存在である。

2018.2.28 測る
 日常生活の中で私たちは知らず知らずのうちに物事を比較しがちである。その目安となることが「測る」という行為である。
「柱の傷は・・」という童謡にあるように、小さいころ自分の背が伸びる記録を柱に刻み込む、これが測るを知る第一歩であろう。
 測るの定義は「 様々な対象の量を、決められた一定の基準と 比較し、数値と符号で表すことを指す」とある。小学校に上がると学期末に通信簿という成績表が手渡される。これも測るの目安となる。上がったり下がったり、誰それより上だとか下だとかというように比較の基になることもある。
 実際に測量とは別に物の本質や、能力、価値判断も「測る」に属する。例えば、店頭で品定めをして買う品物を決める。これなどは典型的な価格や品質の比較に基づくから「測る」行為である。
 縦、横、高さ、幅、容積などを測ることを測量というが、これは建築設計には欠かせない。
 昔は航海に六分儀は欠かせない道具であった(今も使われている)。これは天体や物標の高度、水平方向の角度を測るための道具で,天体の高度測定、自身の位置の割り出しなどに利用される。それにより船を正しい方向に導くことができる。今は衛星を使ったGPSが主流になっている。今では自動車のNAVIにも使われて、今いる自分の位置と目標地点への誘導を可能にしている。これなども測量の一つである。
 測ることを生業としている仕事もある。先に示した設計士や航海士のほか、鑑定士などもその部類に入る。鑑定士とは お宝探偵団のように、モノの真贋を見分けることを生業にしている人や、不動産を評価する不動産鑑定士などの職業をいう。ここでは価値を判定するのに識別眼や土地の値段をその場所の価値で判断する経験と実績がその人の評価となる。
 このように「測る」ということは「比べる」ということと対になっていることが多い。人はそれぞれ自分の物差しを持っていて、それで物事を推し量る基準としている。