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2018.5.2 嘘か誠か
 最近政治の世界に大きな動きがみられる。それは国内問題では周知の「モリカケ」は政治家の関与があるかどうかということで、長い時間をかけて国会を騒がせている。一般審議は野党の審議ボイコットなどで遅れに遅れている。
 この問題、野党は与党の政治家の関与はあると信じ切っており、与党はそれはないと譲ることがない。どちらが真実なのだろう。野党が正しければ、与党が嘘をついたことになり。与党の言い分が正しければ、野党が嘘の情報で躍らせたことになる。
 大体こういう膠着状態は水かけ論に終始し、真実は闇の中に葬られることになるのが相場である。今まで私が研究している禅の思想でも何が真理なのかということでいろいろな事象を解明していくのであるが、そこにある視点では、「無我の立場で世界を見ると、客観性や対象性という概念は存在しない。第二者も第三者も存在しない、あるのは第一人称の主体のみである」とある。
 そうであるならば、真実(本当のこと)は当事者一人しか知り得ぬことで、その人が嘘をつくか本当だと言うかで結論は出てしまう。ところが現実の世界はグレーゾーンも多く、それを忖度などと言っているが、微妙な機微ということもある訳だ。
 これを前置きとして、今回韓国と北朝鮮の会談は「南北統一と平和な共存」という共同声明で幕を閉じたが、この北朝鮮の豹変ぶりこそ、歴史的な嘘か誠かの典型例になるだろう。日本人の大半は「眉唾もの」として受け止めているようだが、今後の展開次第で道が開ける場合もあれば、北のフェイクであったということに収まることだって十分ある。
 日本の政治家も「ちまちま」した議論は止めにして、天下国家を論じて、侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論を展開してもらいたいものだ。

2018.5.6  ヒゲ(髭)
 成人の印としてのヒゲ。5月5日は元々は端午の節句と言われ、武者人形などを飾るのを見ても、男の子の節句であった。私の記憶でも父親が床の間に 鍾馗様 の掛け軸を飾って祝ったものだ。 鍾馗様 と言えば顔を覆うヒゲが特徴である。ヒゲは男のシンボルとして昔から武士の間では、当たり前のように顔に蓄えていた。歴史館などに残る武将の絵には必ずヒゲがある。
 国の慣習によってもひげを蓄えるのが大人の象徴とされる国が多い。特に定められていなくても、これもまた野球の話になるがMLBの選手にはヒゲを生やしている選手は多く見られる。
 ヒゲは手入れが大変だから嫌う人が多い。私もその一人だが、毎日風呂で髭を剃る。そうしないと直ぐに無精ひげというやつが生えてくる。
 よく日本のサッカーの選手には顎髭を生やしている選手を見かけるが、これがどうも無精ひげに見えるから、若い日本人にヒゲは似合わないのかもしれない。
 鍾馗様は別扱いとして、ヒゲは大別して3つに分けられるようだ。それは顔の位置によって見分けられる。
 先ず顎髭であるが、これは顎にはえるもので最もスタンダードなもので、生えやすいく、手入れもし易い。
 次は頬髯で、もみあげ部分から頬にかけてを覆う感じで生えている髭で、綺麗に生えそろうのに時間がかかるが、何となく男らしい野性味がある。私の記憶ではプレスリーの頬髯が印象的だった。
 最後は口髭で、お札でも有名な夏目漱石の口髭は口全体を覆うほどの立派なヒゲで、今どきこんな立派なヒゲは街中では見かけない。
 口髭はさらにいろいろな生え方があり、チャップリンのようにちょっと生やしているのをちょび髭と呼ぶ。大きな八の字のように両端が跳ね上がっているのをカイゼル髭と呼び、名前の由来はドイツ皇帝から来ており、たしか明治天皇の肖像画を見るとこれに近い。矢張り日本の皇帝だけのことはある。そこで昭和天皇はと言うと、マッカーサー元帥との記念撮影では口髭を蓄えているのが見える。大正天皇の肖像画もカイゼル髭に近い。
 今生天皇のお顔にはヒゲを見ない。昭和の混乱期に育ち、皇室の民主化に心を砕かれた、その心情の表れが、ヒゲのない陛下なのだと思うと、身近さを感じさせるとともに、その心意気に好感を感じる。
 私も手入れの大変なヒゲにこだわるより、スッピンの顔で年老いていく積りである。

2018.5.10 本当に当たり前のことなのか
 毎日三食黙っていても供されることは当たり前のことのように見えるが、このひとつをとっても、よく考えるとその過程は結構大変なことなんだということが分かる。
 自分では何もしないから、上げ膳据え膳(自分は何もせず、すべて人にやってもらうことのたとえ)の典型例と言うご気楽な生活を過ごしている。何もしないから、実践がないから家事は何もできないということになる。腰痛を患ってからは、重いものを運ぶのも女房の仕事になってしまった。人がこんな話を聞いたら「結構な身分だね」と言うに違いない。
 他の家庭の旦那衆は結構色々家事をしているという話を聞く。どうやら定年後にカミさんから躾(しつけ)られたというのが実態のようだが、何れにしても、何らかの役割を果たしていることは確かである。
 だから世間様に対しては正直言って肩身が狭い。「お前カミさんに三行半突き付けられたらどうするんだよ。生きていけないよ。そんなことじゃ」と同級生等はずけずけと厳しいことをいう。返す言葉もなく「そうなんだよ」と小さな声で返すしかない。それが「肩身が狭い」ということである。
 一事が万事このように煮え切らない私で、自分でも反省しているのだが、裏返してみれば、完全に支配されていることになる。よく言われるように「女房に頭が上らない」を地で行っている。こうした現状はタイトルにあるように「本当に当たり前のことなのか」と自分自身に問いかけてみると、この歳になってこうした「当たり前」にはいささか不安を覚える。
 昔は「亭主元気で留守が良い」の口で、毎日仕事ではなく、麻雀の付き合いで夜遅く帰ってきたものだ。それが定年後も、五体が自由に動く間はアルバイトで働いたり、このホームページの取材で家を空けることが多かった。ここ2年ほどは以前から書いているように、体調が今一で毎日家に籠っていることの方が多い。
 それでここまで書いてきたように「男の居場所」がグラついてきている訳である。「サー」どうしたものやら、「この当たり前」がいつまで続くのやら・・・。

2018.5.14 目印(その1)しおり
 本を読んでいて中断するとき何らかの目印を残すことがある。その方法は色々ある。しおり(栞)を挟んだり、そこのページを折ったり、 これは私の好みだがブックダーツを差し込んだりする。これはアメリカ製で伊東屋で購入した。このブックダーツは、その名の通り矢じりの形をしたマーキングクリップで、薄く軽い金属製の平べったい矢じりの形をしたもので、挟み込むような形状をしており、 ページを傷つけず、見た目もすっきりしている。薄くて小さいので本や参考書などのページに挟んでも邪魔にならず、さらに紙を傷める事もない。金属製なので何回でも再利用できる。大概の場合は一冊に使ったらそのままにしておく。レトロな丸い缶に50個入っているので使い出があるので1冊に一個でもよい。読書好きの人には一度使うことをお薦めする。
 しおりはページのマーキングに使うので、本の形状によっても違ってくる。A4判の大き目な雑誌などには、革製の厚みがあり丈の長いしおりが使いよかった。これは知人の外国土産で3本ほど貰ったものなのだが、いつの間にか何かの雑誌に挟んだまま行方不明になってしまった。今ではちょっとおしゃれな文具店には置いてあるグッズである。
 単行本や辞書にはスピンと言って細紐が綴じこまれているのを見たことがあると思う。辞書などは2本あるのも見かける。これも一種のしおりと言えよう。
 変わったものでは、世田谷のぼろ市で見つけて購入した金属製のクリップである。これには表面に花柄や観光地のシンボルを浮かして鋳造し色付けしたものである。ずっしりと重く文庫本を参照してメモを取るときに、見開きの片側に重しとして挟むと、手を放しても開いた状態で読めることができる面白グッズである。
 しおりは手製でも簡単にできる。半端になったボール紙やセルロイド板などにちょっと手を加えて作れば、十分に役立つものができる。
 また喫茶店などで本を読んでいて、手元にしおりがない時、コーヒーをかき混ぜる木製のマドラーなどがあれば、これもその代用に使うことができる。
 このようにしおりといっても、高価なものやタダのものまで何でもありである。私のように中途半端な読み方で、完読していない本が多く、休眠状態になっている者にとっては、「しおり」は欠かせない必需品なのである。

2018.5.17 目印その2道標(みちしるべ)
 若いころはよく登山に出掛けた。山の中で迷わずにコースを辿るには、所々にある道標が唯一の頼りになる。私のように極端な方向音痴にとっては、そのように道案内してくれるものの存在は欠かせない。これは初めて訪れる公園を散策するときや、くるまを運転してドライブに出かけるような時にも道標は無くてはならないものだ。最近はGPSが普及してスマホのアプリの地図情報などがその代わりを果たしているが、それは次回の「地図」で紹介することにする。
 道案内になるのは必ずしも道標だけではない。都会を歩くときの目印は大きな建造物、MM21のランドマークタワーや東京の東京タワー、そして日本一の高層建築物である東京スカイツリー(634メートル)は人の目を引くランドマークになる。こうした大きな目印は歩くうえで、方向や距離などを推測させてくれるので、目的地に確実に到達できるのには大きな助けになる。
 ごちゃごちゃとした路地の中にある家を訪ねるのは、初めて行くときは苦労する。大まかな道案内では役に立たない。そういった時に役立つのが、電信柱に貼られている住居表示である。所番地さえあらかじめ頭にあれば、行き先を訪ね当てるのに役立つであろう。それでも見つからない時は近所を歩いている人に聞くしかない。また、街の公園やコンビニなども行く先の目安になる。
 分かりやすい目印を頼りに目的地に近づいたら、一番いいのは、それが家庭訪問や企業訪問などであれば、携帯電話を使って直接道案内してもらうに越したものはない。
 今回はランドマークを中心にして、目印について言及してきたが、目印と言うものは目安と言った言葉に似ていて、おおよその見当を付けさせてくれるものである。そのことだけを頭に置いて、うまく使いこなすことが、その目印を活かすコツのようなものである。
 
2018.5.20  目印その3地図
 公立の公園などを訪れると、入口には必ずといっていいほどに園内の絵地図の立て看板を見かける。これも目印のひとつといってもいいだろう。この手の地図は街のそこかしこにも立ててある。
 地図と言うのは見方があり、まず自分の現在地と方角(東西南北)をよく把握していないと、逆効果になり、私などは年中反対方向に歩き始めてしまう。知らない地に立つと右も左も分からないという欠陥を持っているからだ。
 自分に言い聞かせて「こっちの方に行けば行きつく」としたとしても、結果は同じであるから、救いようがない。
 初めての場所に行くとき(取材などで)は、地図を持参する。それも結構詳しいもので、横浜と川崎だけの地図が載っているが、繁華街は5,000分の1に始まり、7,000分の1から20,000分の1までの地図であるから、これを頼りに歩けば間違うことはないと思うだろうが、何回も間違えている。最も老眼が進んであまりよく読み取れないという事情もある。
 そこで目印からは少しそれるが、スマホの地図アプリを使うと割に便利である。起点と終点を決めれば、道案内をしてくれる。指先で拡大して見ることもできるし、グーグルアースなどと言うアプリは、実際の航空写真まで載っていて建物の格好まで識別できる。
 そんな武器を使えばもう道を間違えることは無いだろうと、普通は思うだろうが、方向感覚が欠如している私には、それでも失敗するから「何をかいわんや」である。
 そこで、どうしたら道に迷わずに目的地に行きつけるか、ネットで達人のアドバイスを見つけた。それによると大きく次の3つのポイントさえ押さえておけば、間違わないそうである。
①自分の向かうべき方向と地図の方向を合わせる
②目的地の方角にある目印を作る
③曲がるべきポイントの目印を作る
この3つができれば、ほぼ道には迷はない。一番大切な事は自分は目的地に辿りるけると思う事。
 このポイントも今まで書いてきたおさらいのようなもので、五十歩百歩といった「歩き方のコツ」である。結局究極の方向音痴には、つける薬はないのかも知れない。
 
2018.5.23 老眼対応策
 視力も年と共に衰えることを免れることはできない。そこで対応策として、老眼鏡をかけることになる。それも2年に1度のように頻繁に変えるようになる。決して安いものではないから、段々と特価というのに誘われて、安物に変わっていく。それでも3万円ぐらいはするからそう簡単に買い替えすることも叶わない。
 そこで何とか小さい字を見るにはどうすればよいかと考えた。大き目のルーペやヘッドルーペといってサンバイザーのような形のしたものなどいろいろ試してみた。最近通販で盛んに宣伝している左右の度数を替えられるメガネなども試した。結論をいうとどれもこれも使いにくい。手をふさぐものは書き物をする時には使えないし、度数を変えるやつは取り扱い買いが面倒なうえ、視野範囲が狭すぎてまだ改良の余地がある。
 そこで、今こうして書きものと、読み物を同時に行うのに使っているのが、メガネの上に拡大鏡をかけるメガネ型拡大鏡というもの。このメガネルーペと称するメガネ、これは5年ほどどこかの電気量販店で購入したと記憶している。
 その案内書(最新バージョン版の)を引き写すと「メガネ型拡大鏡。大きなレンズと横フレームが長い設計のハズキルーペ。メガネとの二重掛けもしやすく便利。週刊誌2ページ大をはっきり拡大。通常のルーペより拡大される範囲が広く、歪みなく、ハッキリ大きく見えます。長時間使用も疲れにくく、ブルーライトもカットします。視野が広く、あらゆるシーンでお使いいただけます」と何やら宣伝の片棒を担ぐようになっていまったが、宣伝通りでこのルーペだけでもよく見える。流石に手元の文字は老眼鏡の上に二重掛けしないとよく見えない。
 という話で、今そのような状態でこのコラムを綴っているところである。下にかけている老眼鏡(遠近両用メガネ)は、今ではそれ以外にあまり使い道はない。
 老眼が進んでいくと、このように何かにつけて不便である。それでも何とか工夫して毎日を凌いでいる。こんなところでも、知恵を絞らなければやっていけない。これからもそんな生活がずっと続くのに違いない。

2018.5.26 笑い (1)
 「人の人生に笑いあり、涙あり」と言うが、笑いという字はいかにも人が笑っているイメージが浮かんでくるから不思議だ。このHPでも紹介している字源では、この字は象形文字分類され「巫女が手をあげ髪を振り乱して舞う姿による」((イメージ字源)とある。狂喜乱舞する巫女の姿はちょっと恐ろし気な感じがしないでもないが。
『笑う門には福来る』という喩にもあるが、生活の中で笑いは欠くことのできない要素で、人に大きな潤いを与えてくれる。
 健康の上でも大きな効果をもたらすことが解明されている。笑いに対する研究をしている学者も多く見かける。そうした人たちが唱える「笑いの効果」や「笑いを生み出す方法」などについてピックアップしてみた。
 「アッハッハ」と大きな声で笑うと、心も身体も軽くなりスッキリとした爽快な気分になるのは、だれしも経験したことがあるだろう。
 こうした笑いを健康法として採り入れているのが「笑いヨガ」という体操法で「ホッホ、ハハハ」という一定の笑い声のリズムにのって手拍子をしながら身体を大きく動かすことで、笑いを積極的に行うヨガになっているというものである。イメージで示したような象形文字は、そんな状態を絵にしたものである。この「笑い」には精神的なストレスを解消したり脳の機能を活性化したりする効果が実証されているので、日頃から積極的に笑うことが元気に生活するための秘訣である。
 この笑いの健康効果を医学的に実証して注目されているのが「すばるクリニック院長の伊丹仁朗先生の提唱する""笑い"の健康効果とその仕組み」である。
 この先生の説は「"笑い"がNK細胞を活性化して 体の免疫力をアップする!」という見出しで、「人間の体内にはNK(natural killer)細胞が50億個もあり、その働きが活発だとがんや感染症にかかりにくくなると言うもので、人が笑うと、免疫のコントロール機能をつかさどっている間脳に興奮が伝わり、情報伝達物質の神経ペプチドが活発に生産されることになる。"笑い"が発端となって作られた"善玉"の神経ペプチドは、血液やリンパ液を通じて体中に流れ出し、NK細胞の表面に付着し、NK細胞を活性化する。その結果、がん細胞やウイルスなどの病気のもとを次々と攻撃するので免疫力が高まるということになる」というものである。
 次回は引き続き、笑いの健康効果について検証する。

2018.5.29 笑い(2)
 これは50有余年前とずいぶん昔の話になるが、桜木町の駅頭で上半身裸で「笑いは健康の元」といったような幟を立てて「アッハッハッハ、アッハッハッハ」大声て笑って人目を集めていた老人がいた。噂ではこのような姿で全国行脚しているということで、強く印象に残っている。
 その姿を思い起すと、笑いは確かに健康に良いようである。不思議なことに若い頃はよく笑ったが歳と共に段々と大声で笑わなくなり。この頃では大声で笑うとか「腹を抱えて笑う」ことなど無くなってしまった。それと関連するかのように身体からエネルギーが抜けていくようで、病気などしたり、足腰も弱くなってきた。
 "笑い"のプラス効果はいろいろあって、前回紹介したような身体の免疫力が高まるだけでなく、ほかにも体にさまざまな良い効果をもたらすことがわかっている。そこで、前回に引き続きその効果を紹介する。
 笑いの効果として、血行促進や記憶力アップにつながると言う説がある。それはどういうことかというと、「思いきり笑ったときの呼吸は、深呼吸や腹式呼吸と同じような状態になる。体内に酸素がたくさん取り込まれるため、血のめぐりがよくなって新陳代謝も活発になる」とか「"笑い"によって脳波のなかでもアルファ波が増えて脳がリラックスするほか、意志や理性をつかさどる大脳新皮質に流れる血液量が増加するため、脳の働きが活発になり、記憶力がアップする」との説がある。
 他にも効果があるので続けると「幸福感と鎮痛作用がある」これは、「笑うと脳内ホルモンであるエンドルフィンが分泌される。この物質は幸福感をもたらすほか、"ランナーズハイ"の要因ともいわれ、モルヒネの数倍の鎮静作用で痛みを軽減する」という説もある。
 何よりも笑いの効果は、自分自身がポジティブに"笑える毎日"を生み出すことで、日ごろから自分でおもしろい話を考えて周囲の人に話し、一緒に楽しむことが、その秘訣だという。次回は「笑いに関する言葉」をテーマにする。