2018.7.3 2018年夏
本格的夏の到来は意外と早くやって来たようだ。いつの間にか梅雨が明けたのは雨が少なったせいである。野球ファンとしてはベイスターズの試合が2回ほど流れただけで済んだのは、このお天気のせいだ。もっともひどい雨の中6回コールドで逃げ切った試合もあった。私にとっての楽しみは何と言っても混セのペナントレース。横浜がいい位置につけているので毎日目が離せない。
7月8日には高校野球夏の神奈川大会が始まる。今年は100回記念大会ということで、神奈川からは2校が出場できる。これは80回、90回に続くことで、8月5日全国からは史上最多56校が出場するということだ。
ちなみに今年の神奈川大会の地区割であるが、南神奈川大会が96校、北神奈川大会が98校となっている。詳細は神奈川大会のHPをご覧いただきたい。ぜひ第2の松坂の誕生を期待したい。
7月1日は海開き・山開きが行われ、これもまた本格的夏到来を告げる年中行事である。
本県は海に面しているので多くの海水浴場が店開きする。カラフルなビーチパラソルに彩られた砂浜に家族連れやカップルたちが殺到することだろう。
本県の山というと丹沢山系ぐらいしか思いつかないが、蛭ヶ岳 (1,673m)が最も高く2,000mには満たないが、地形が複雑なことと、東京都心部から行きやすい場所柄で、登山者の人気がある。富士登山は別格である。
私にとっては最早縁のない楽しみになってしまったが、若き頃はよく丹沢や大山そして箱根と山歩きをしたものである。なぜあんなに苦しい思いをして山に登るのかと言えば、陳腐な答え「そこに山があるからだ」としか言いようがない。山好きだったが、残念ながら富士登山の経験はない。「一度も登らない馬鹿、二度の登る馬鹿」の馬鹿の一人である。
私は横浜生まれの横浜育ちのハマッコだから、海には縁が深い。泳げない(カナヅチという)が海を眺めるのは好きである。最近海の水が綺麗になり、写真をとってもオーシャンブルーと紺碧の空が交わる光景は印象深いものがある。今年も足腰の具合と相談しながら、そんな光景をカメラに収めたいと考えている。
2018.7.6 戻り梅雨
窓の外を見ると小雨が降っている。外に出ると、ここの所毎日風も強い。7月初頭梅雨が明けて間もなく、不順な天候が続き、家の中もじめじめとして蒸し暑い。
こう言う現象を「戻り梅雨」と呼ぶそうだ。
気象庁の説明では、「梅雨が明けた後に再び梅雨のような天気になることをいう。平年なら7月下旬から8月上旬に起きる現象で、梅雨前線を押し上げて梅雨明けをもたらした小笠原高気圧が弱まり、梅雨前線が再び南下・活発化することである」ということである。
梅雨の後先には趣きある名称が付けられている。おもに5月下旬から梅雨本番前触れのように降り続く状態を「走り梅雨」という。別に「梅雨の走り」ともいう。そして、梅雨に入ることを入梅という。この時期梅の実が熟するところに由来している。
梅雨に入っても、今年の関東地方のように梅雨の最中に雨が少ないことを「空梅雨・早梅雨(ひでりつゆ)」と呼び、そのくせ降るときはザッ-とくるのは「男梅雨」、しとしと降るのが「女梅雨」などといわれてきた。最近は男女の位置が逆転している傾向があるので、こういう呼び方をしなくなったようである。梅雨の終りに雷鳴を伴う豪雨がくるのを「暴れ梅雨・送り梅雨」といい、梅雨明け宣言の目安となる。
このように雨の降る時期と状態を日本人はその豊かな感性で色々と名付けてきた。これも農耕民族である日本人の雨(天の恵み)に対する畏敬の念の表れと言えよう。
これから数日間続くであろう「戻り梅雨」は、常に水不足に悩む東京の水がめである利根川上流のダムに、恵みの雨をもたらすことになるだろう。現在の貯水量72%(平年は90%)を平年並みに戻してくれることが、東京都民の願いであろう。
気象庁はこうした「戻り梅雨」の最中にあっても気温が高く蒸し暑さが続くので、暑さ対策を欠かさぬよう呼び掛けている。
2018.7.10 七夕会
まったく個人的話題であるが、老年世代には共通する内容であると感じるところもあり、書き綴ってみた。
私の中学時代の同窓会の集いの話で、これは毎年七夕の日に食事会を持っている。元は先生を囲むクラス会が10年ほど前に始まった。先生が亡くなり、一度は解散を考えたが、一度芽生えた仲間意識を大切にしようということで、通知なしで任意に七夕の日に集まることとし、七夕会( 二星会合<織女と牽牛が合うこと>をもじっている)として、旧友たちの逢う瀬を引き継いだ。
その顔触れは物故者や家庭の事情や体の問題で出席できなくなった者を除いた殆どの常連10人余りである。
今回は全員が年度内に80歳を迎える傘寿の祝いを兼ねた集いとなった。男女4対7の比率だが、この歳になると余り男女の区別という意識がなくなる。どちらといえば女性優位の老齢化家族のそれに似た雰囲気を私は感じた。
統計的に見てもこのような比率で女性の方が多いのが一般的であろう。
更に男は普段コミュニケーションを取るということはない。私も当日まで誰とも男同士の連絡は取らなかった。
それに対し女性は普段頻繁に連絡を取り合っているという。女同士で会うことも少なくないという話であった。
年を取ってから大切なことは、人と交わること、社会的に孤独でないことである。その面において女性は圧倒的優位性を持っている。それが老齢女性の元気さに密接に結びついている。
言うまでもなく、誰でもこの歳にもなれば、身体のあちこちに傷みを抱えている。これは男女の区別はない。こうした持病とも言えるものと付き合っていくわけだが、その進行を少しでも遅らせることは可能なようだ。
今まで述べてきたように、集いの会話の中で身体のことに関する話題は多いが、女性はそれを笑い飛ばしてしまう術(すべ)を身に着けている。ストレスを解消する術を本能的に持っているようだ。
人は色々なストレスを抱えこんでいるものだが、それをどう解消するかが長生きの秘訣であり、その能力に女性は優れていることは一目瞭然である。
今回の集いは傘寿という人生の節目。ここをクリアーすれば人生100年も夢の話ではなくなる。
2018.7.13 古き善きものを訪ねて
このホームページ(HP)の狙いとする大きな目標は日本に古くから伝わる伝統文化を訪ねて、理解し、見直するところにある。
それはHP四つのポケットの中身を見て頂ければ、「あーそうか」と頷けると思う。watch(のぞむ)のポケットでは県内の名所旧跡を訪ね、レポートを書き、image(うつす)のポケットでその光景を写真や動画で紹介している。
write(しるす)では「日本昔話」や二十四節気などの旧暦の知恵を紹介している。
最後のpaint(えがく)では「北斎」の浮世絵の復刻版や重要文化財にもなっている仏像のイラストを紹介している。
そのほか人物百相では「歌麿」に始まり、現在は「写楽」の浮世絵を北斎画と同様復刻して表示している。
これらは言うまでもなく、伝承されて残っている我が国の文化遺産である。古い物から上げていくと「道元考」では鎌倉時代(12世紀初頭)に曹洞宗開祖の一人である道元禅師が記した「正法眼蔵」巻の一「現成公案」を通約している。難解であるが、現代人には何か訴えるものを持っており、研究素材として一生の課題を投げかけているものである。
次は江戸時代元禄期に栄えた浮世絵の世界を知ることで、原本は褪色しているので、想像で元の絵の刷り上がり状態をイメージして復刻したいわば「塗り絵」である。この塗り絵の技法は現物から学ぶ手法で、ここに「温故知新」の精神を表現したつもりである。
「時の風物詩」は基本は「今日は何の日」にあるが、3年も続けると年中行事は紹介し終わった感があり、今は暦として月齢と日出没時間(横浜市)と二十四節気に加え大安・友引をカレンダーで紹介している。
小説などでも大作と呼ばれるものや長編には歴史小説が多い。それはいかに歴史に学ぶことが多いという証でもある。わたしもまたそうした歴史の中に多くを学んでおり、そうしたものがポケットの中に資産として蓄えられている。
次回からは手前みそから離れ、「日本の伝統文化やしきたり(伝承)」について、細かく洗い直していくことにする。
2018.7.16 日本の祭り
私が日本の伝統文化の筆頭に挙げるのが祭りである。
これから夏休みになるとあちこちの町で祭りが行われる。昼間は御輿や山車を引き、夜は公園などで盆踊り大会が行われる。もっとも身近に伝承されてきた文化が祭りである。これはメジャーな祭りではない。「祭り」という言葉の起源は「祀る」であり、神前に捧げものをして、寿ぐ(ことほぐ)ところにあるから、神事の一つとして始まった。
日本には伝統のある祭りがあり、毎年多くの人が日本中から集まる。 そこで、ちょっと調べてみた。
2016年日本の祭り観客動員数ベスト10の中からベスト3を紹介することにしよう。
第1位は博多祇園山笠30万人。この祭りは、福岡県福岡市博多区で開催されるもので700年以上もの伝統があり、7/1~7/15にかけて行われる。その正式名は、櫛田神社祇園例大祭と言い、博多(日本)を代表する祭りである。その起源は諸説あるが、中でも、聖一国師が仁治二(1241)年、疫病除去のため施餓鬼棚に乗って祈祷水(甘露水)をまいたのが始まりという説が有力である。
第2位は青森ねぶた祭で27万6千人。ねぶた、とは青森県各地で行われる夏祭りの一種の名称で、農作業の妨げをする眠気を送り出す習俗「ねむりながし」の「眠り」が「ねぶた」に訛ったといわれている。青森におけるねぶたの記録では、享保年間の頃に油川町付近で弘前のねぷた祭を真似て灯籠を持ち歩き踊った記録が残っている。現在のように大型化したのは戦後に入ってからである。昭和55(1980)年に国の重要無形民俗文化財に指定されている。祭りの開催期間は毎年変わらず、8/2~8/7までの6日間夏に開催される。
第3位は「さっぽろ雪まつり」で26万9千人。この祭りは、大通り会場とすすきの会場では2018年度は2/5~2/12の8日間であった。雪まつりは、1950年に、地元の中・高校生が6つの雪像を大通公園に設置したことを きっかけに始まった。雪合戦、雪像展、カーニバル等を合わせて開催、5万人あまりの人出で予想以上の大人気だったという。以後、札幌の冬の行事として市民に定着していくことになった。祭りとしては極めて歴史が浅いが、農閑期に行われる祭りのニュータイプであろう。
ちなみに、日本三大祭と言われるのは祇園祭(京都市八坂神社)、天神祭(大阪市大阪天満宮)、神田祭(東京都神田明神)の三つとされており、2016年動員ランキングベスト10には入っていない。
2018.7.20 「市(いち)」
祭りに関連して出店などが出るが、このことを「市」が立つなど言う。この市とは人が集まる場所に立つ。人が商いをするということは昔からの習いであるが、今回はこの「市」について調べてみた。
「市」は市場とも呼ばれるもので、普段でも私たちが生活していく上で身近な存在である。マーケットなどとも言って、私に記憶では、商店街の中に細長く八百屋・魚屋・肉屋・日用品の店が細い道路を挟んで立ち並んでいた。アメ横のようにごちゃごちゃして、イキのいい呼び込みの声が響いていたものだ。その多くが今は姿を消している。
その歴史を探ってみると、「市」は大昔から存在している。まだ荘園(デジタル大辞泉によれば、奈良時代から戦国時代にかけて存在した中央貴族や寺社による私的大土地所有の形態。また、その私有地とある)が残っていた時代、地名に残る四日市と呼ばれるような地方市場が生まれ行商人が活動した。 定期市の立つ日(市日)としては「八の日」や「三斎市」(さんさいいち)が多い。市日が「八の日」であれば、8・18・28日に市が立つ。市を開く時間によって、朝市・夜見世・夜市・夕市などと呼ばれた。
もう少し深く調べてみると、三重県四日市市や旧滋賀県八日市市(現東近江市)、広島県廿日市市、旧千葉県八日市場市(現匝瑳市)などの名称に昔の名残をみることができる。
この時代は中央市場に問屋が集まる一方、小売市場では、振売り、野市、出売り、立売りなどが見られた。元々は生活必需品の物々交換であったが,商人の出現や貨幣の流通によって「市」も変化していった。
「市」は,人の多く集る交通の要地に立ち,その開催は初めは一定していなかったが,次第に定期的になった。日本では,古くは祭礼や歌垣のときに「市」が立ったらしい。
その名残が寺社の縁日に「市」が立つように現代まで引き継がれている。私がよく行ったのは年末年始に開かれる「世田谷のぼろ市」で、そこに足を運ぶとノスタルジーを感じる。そこでは売り手と買い手の息が合う取引がある。値段はやり方次第という面白さがあり、こうした売り買いのコミュニケーションが「市」に残る最大の魅力であろう。
2018.7.24 伝統工芸(技の伝承)
よく昔のモノは細工は手が込んでいて、丈夫で長持ちし、その上美しいという声を聞く。
昔家にあった家具や建具を見てもその技が生きていた。桐ダンスや洋服ダンス(私が生まれた時に既にあったもので、今我が家では一番古い家具である)は、一部破損しているが十分役立っている。
伝統的匠の技を見たければ三渓園に行くとよい。そこには匠の技がたっぷり鑑賞できる古い民家(合掌造り)や、庭園のどこからでも見える旧燈明寺三重塔【重要文化財】(1457年建築)などがあり、中に入ってゆっくり観察すると、全体が優れた技術や建築材の集合体に魅了されること請け合いである。
こうした匠の技は一朝一夕に生まれるわけでないことは言うまでもない。長い歴史の中で培われたもので、その技も伝承されることでいい仕事ができることになる。木造の建物・建具。舟を見ても、殆ど組み合わせの技(箱根の寄せ木細工はその最たるもの)で力を分散させ全体に行き届いたバランスを産んでいる。建具などは釘を使っていない。和船などには後で示す和釘というものを隠れた部分で使われているが,外見で見えることはない。
三渓園の屋根の下の仕組みを見ると、細長い角材がびっしりと幾重にも組み合わせられている。それを支える大木の切り株のように太い樫の大木であろうか実に精緻な彫り物が施され、飾りのようであっても十分に重い屋根を支える機能は発揮している。これは一種の遊び心かも知れないが、そこに雅な宮大工の腕の冴えを見る。
私のHPでも紹介している北斎の「神奈川沖浪裏」や「千絵ノ海(総州銚子)」の舟を見て頂きたい、ここに船大工の技を窺い知ることができる。
強風で荒波にもまれる中で漁をする舟は如何にもスマートな形をしており、木の葉のように波に翻弄されているのに安定しており、巧みに波に乗っている。これを見ると、船頭の腕もさることながら、命を託す舟に絶対的信頼を置いているからなせる業である。人の命を預かる船大工の匠の技と心意気をそこに見る。
今でも船大工の技は継承されているが、一つの和船を作り上げるには和釘が500~600本が必要で鉄製ではあるがŁ字のような形をしており、海の水にも錆びない特殊な釘だが、現在では、人材不足でその技術の伝承は難しいという。
こうした伝統工芸が今に残るのは、古くからの知恵の集積と、それを形に変える業師がいたことの証だと言えよう。
2018.7.28 打ち水
連日猛暑が続き、当分は散歩も自粛している。今日は南の海上に台風12号が発生しており、その影響か風が強く涼しい感じがする。それでも昼頃には太陽が顔を見せ、暑くなりそうだ。
夏を少しでも涼しく過ごす方法は、エアコンの効いた部屋にいればよいが、それでも夏仕様の体になっているので、何となく怠い。
近年の夏の暑さは、いろいろ情報があって、やれ地球温暖化、やれヒートランド現象と、今に日本の夏は、今年史上最高気温41.1度を記録した40度を超える暑さが当たり前になるのだそうだ。どこかの町ではプールの水がお湯(33度)になって遊泳禁止になってしまった。そんな話は初めて聞いた。何とかならないものだろうか。
私が幼い頃、我が家では廊下に葦簀(よしず:葦簀は、主に夏に用いられ、太陽光や、外部からの視線を遮りながら風を通す役割がある。住宅では、玄関先や、ベランダなどに用いられる「日本文化いろは事典」)を立て、庭には打ち水をした。
この打ち水は街のどこでも見られる夏の風物詩であった。少し調べてみると、「打ち水(うちみず)とは、道や庭先などに水をまくこと。また、その水のこと。打水とも。 打ち水には場を清める神道的な意味合いがあり、玄関先などへの打ち水は「来客への心遣い」の一つであり、打ち水の起源は江戸時代の茶道と言われている」とある。最近東京都も小池知事の発案で「東京都をはじめ全国の市町村が都市部のヒートアイランド対策として、一斉に打ち水を行うという計画を進めている」
この打ち水にはどんな効果があるのだろうか。これも専門家の言葉だが、「ヒートアイランドの原因のひとつは、都市の表面をアスファルト、コンクリート等が取り巻き、熱を蓄えてしまうことだ。このため、都市の気温が上がってしまう。打ち水のねらいは、まさにこのアスファルト、コンクリート等の表面に水をまくことで、直接、表面温度を下げることである。とうぜん、地面が冷えれば、その場所の気温は低くなる。さらに、気化熱は、水が接しているもの(つまり地面)から、たえず熱をうばって蒸発しようとするので、地面がたえず濡れている場所の方が、そうでない場所より涼しい」ということになる。
科学的根拠として「水は1g蒸発する事で約0.58kcalの熱を奪う。人は気温だけでなく地面からの輻射熱によっても暑さを感じるため、打ち水によって道路の熱を下げる事は体感温度を下げるのに効果的だと言われている」と言われるように、先人の知恵は根拠のない単なる儀式ではなく、実効性のあるものなのである。
2018.7.31 日本の神様・仏様
私のHPでも紹介している仏像画は、実は仏様だけでなく神様も描いている。私の頭の中では、神様・仏様を明確に分ける理由は無い。仏教と神道の違いはあるが、そもそも日本人は宗教に対して厳しい掟を嫌う。自分にとって都合のいい存在として神様や仏様がいる。
ここで難しい宗教論を唱える気もないし、そんな知識もない。でも日本では古くから神様と仏様が同居しているのは不思議に思う。
いつからこうなったのか興味がある。困った時(苦しい時)の神頼みという諺がある。誰でも知っている諺だが、これは「苦しい時の神頼みとは、日頃は神も仏も拝んだことがない信心のない者が、苦しい時や困った時や災難にあったりしたときにだけ、神仏に頼って助けを求めて祈ること」とことわざ辞典にある。
この場合の神様は「神様・仏様」のことである。キリスト教やイスラム教の信者がこんな話を聞いたら「unbelievable(信じられない)」とびっくりすることだろう。その原因は、古代日本社会においてはHP「字源」にも示しているように、生活していく上で神事や祭祀が最優先の事柄だったことは明白である。どの神様というのではなく土着の、俗に「八百万の神々」への信仰が長く続いていた。そこに中国経由で仏教が伝わり、「神仏混淆(神仏習合)」という考え方が生まれた。どちらも排斥し合うのではなく、日本人固有の柔軟な適応性のなせる技がそうさせたのである。
文献によれば、奈良時代仏教の「大日如来」は実は神道の「天照大御神」の化身であるとする「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」という説が「神仏混淆」の起源になっているのだそうだ。
そうなると「神様・仏様」と一緒に念ずることに何の支障もなく、神々が身近な存在となり、生活する上であらゆる所に神々が存在することになったわけである。
この日本的宗教観は、他の宗教に縛られる諸外国からは異端と見えるかも知れないが、これは先人の知恵による「柔軟な生き方」を、文化的遺産として今に伝えているのだと考えたい。