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2018.8.4 子どもの遊び(1)
 善き時代シリーズ7回目は自分の子ども時代を振り返って、今の子どもたちと遊びがどのように変わったか見ていくことにする。
 私の幼少期の体験は戦中と戦後で二つに分かれる。戦中は田舎の疎開先で小学校に上がった。戦後直ぐに家に戻りそこでずっと育ったという背景がある。
 田舎と都会では子どもの遊びも種類も全く違う。田舎の遊びは実用性を兼ねていたように記憶している。家の近くに大きな川があり、ガキ大将の子供に連れられて川遊びをした。大きな子たちは手にヤス( ヤスはゴムが付いていて、これを伸ばしながら本体を握り、魚に向かって発射しする。基本的に水中で使用)を持ってガラスの箱のような水中眼鏡(箱メガネ)で水の中を探り、器用に魚を突いていた。それは多分夕餉に出されるのだが、決して独り占めしない、子ども全員に均等に分けてくれた。そういうこともあってか、小さい子たちは大きな子たちを尊敬の念を込めて懐いていたものだ。それが自然発生的な共同体の始まりなのだろう。
 子どもたちは都会から来た小さな子を差別することなく可愛がってくれた。村では悪太郎という評判の子であったが、親分気質十分で、大人はその本質を見抜けなかったのであろう。猿山のボスのような存在で、テリトリーを守り、峠向こうの子どもグループと対峙しても一歩も退かず、仲間を守ったことも印象に残っている。
 私の田舎は林業と農業の村であったから、山奥にある農業用の大きな溜池まで連れて行ってもらったこともあるが、そのボスは決して水に入らないよう「この池は人を吸い込んでしまうから入ってはいけない」ときつく言って、子どもたちのグループの安全を守り統率していた。
 戦後自分の家に戻ってから、風の便りで、そのボスが自転車で欄干の無い高い橋(欄干は鉄製だったので軍に供出されていた)から川に転落したという話は伝わったが、生死のほどは不明である。
 このように田舎でのこどもはこのガキ大将を中心に遊び、遊ばせてもらったという印象が強く残っている。次回は都会の「子どもの遊び」について記すことにする。

2018.8.7 子どもの遊び(2)
 今回の子どもの遊びは、家の中で遊ぶものと、外で遊ぶものとの2つに分けて思い返してみることにする。
 私は女姉妹に囲まれて育ったせいか、多くが女の子の遊びである。お手玉とか綾取りと言ったものである。これらも技が多くあって、手品師や曲芸の類に使われるものまである。もちろん、そんなすごい技などある筈もなく、その必要もなく結構遊べたものである。お手玉は姉たちの手作りものだった。複数のお手玉を、歌いながら空中に放り上げて遊んだ覚えがある。綾取りも結構奥が深くて、最後は確かブリッジ(橋)で終わる、二人で組んで遊ぶもので、姉に頼んで遊んでもらったことを思い出す。
 部屋の畳の上に広げて遊ぶのはトランプやかるた遊びである。トランプは7並べやババ抜き、神経すいじゃくなど遊び方は沢山あり、家の中の遊びの一番に上げてもいい遊びであった。かるた(歌留多)はいろはがるたと言って、テレビで中継される小倉百人一種は、高学年になってから少しやっただけで、かるたと言えば「いろはかるた」と決まっていた。「犬も歩けば棒に当たる」から始まり、「論より証拠」「花より団子」「憎まれっ子世にはばかる」と続き「京の夢大阪の夢」で終わる「江戸いろはかるた」と呼ばれるものが普通で、「上方かるた」とか「尾張かるた」などの郷土かるたというものは家にはなかった。正月などは特に「かるた」で遊んだ。大体カードの中身は全部空で覚えていたから、相当遊んでいたのだろう。
 同様に正月遊びに「すごろく(双六)」がある。説明するまでもないと思うが「サイコロを振って、出た目に従って升目にある駒を進めて上がりに近づける」ものだが、出目によっては戻ることもあり、スリリングだった。
 他に「おはじき」もよくやった。直径は1cm〜1.5cm程度。平べったいガラス玉で透明色のものや小さい模様の入ったものなど色々あり、それを指先ではじいて相手のおはじきに当てて、枠外にはじき出したら自分のものになるというギャンブルの走りを体験したもので、巾着みたいな小袋に入れてジャラジャラする音を聞いて戦果を味わったものだ。
 竹を使って作った「けん玉」や「折り紙」とか「おままごと」など数々あるが、部屋の中で遊んだ思い出はこのくらいにする。
 次回はいよいよ男の子の世界「外遊び」について記憶を辿って見ることにする。

2018.8.11 子どもの遊び(3)
 子どもは遊んで育つというが、遊びの中で社会性を身に着けていくものなのだ。特に外で遊ぶことが子どもを育む。子どもにとって外で遊ぶことは、学校を終わってから一日の大半を過ごす場所であり、今のように遊具の揃った公園などどこにもなく、遊ぶ場所は様々な形で存在した。舗装されていない小道。ちょっとした広場。小川の流れる清流。雑木と藪に囲まれた丘陵。それぞれに遊び方があった。
 三角ベースができるような踊り場のような空き地は、今も存在するが、車の駐車場に通じる道路に変わっており。昔の面影はない。そこで、ゴロベースをやったり、相撲を取ったり、下の大通りを周回する駆けっこなどをした。その広場の隣は孟宗竹の竹林で私有地の証の垣根が張り巡らされていて、ゴムボール(当時は貴重品)が入ってしまうと、拾いに行くのはちょっとした冒険だった。当然忍び込むわけで、いつ持ち主に見つかったらとドキドキして入り込んだものだ。
 地面に大きなSの字を書いてSケンと言う遊びもした。これは地域によってルールは大きく違うが、私が経験したのは敵味方に分かれそれぞれのSの字の輪の中に入り、ケンケンで敵側の子を外に押し出すか両足立ちにさせてしまい失格させたり、身体をぶつけ合って、多くを押し出した方が勝ちという遊びで、ケンケンでバランスを取って戦うので必ずしも体や腕力が強いものが勝つわけでなく、バランスのいいものが勝つようなところが面白かった。
 遊ぶ仲間は大体同年代の近くに住む子どもで6~7人と少なかった。田舎のようにしっかりしたグループではなくボスも存在しなかった。上下関係を感じさせない仲間たちで形成されていた。他のグループと対峙するようなことも記憶にはない。遊び場を区切って今記述してしているが、この小さな広場では他に缶蹴りや、鬼ごっこ、メンコなどをした場所である。
 次回はザリガニ、ヤゴ(トンボの子)、メダカ、ドジョウなどを取って遊んだ水際の遊びについて記すことにする。  

2018.8.14 子どもの遊び(4)
 今回は家の裏手を流れる小川で遊んだ思い出を辿ってみる。
 この小川は裏山の石灰岩の崖から染み出てくるもので、水源は家の裏手から100メートルと直ぐ近いところにあった。川幅は広い所で2メートル弱で、狭い所では50センチほどであった。私の家の裏手はたまり場で、その先には地下のマンホールの入口がのぞいており、いったん大雨などが降ると増水し、落ちればマンホールに呑込まれ数百メートル下った今井川に吐き出されることになり「雨の日は水辺に近づいてはならない」と強く言い聞かされていた。
 普段はちょろちょろと流れるせせらぎで。絶好の遊びになっていた。この小川は短い距離なので大きな魚は育たない。主な水生動物はザリガニ、ヤゴ(トンボの子)、メダカ、ドジョウ、タニシなど.手ですくって獲って遊んだものだ。元々ここら辺は湿地帯で、家の中にいても百足(ムカデ)やゲジゲジなどは毎年出てくるし、風呂場にはよくナメクジが現れて、塩をかけて溶けていく様を観察したものだ。
 水辺に話を戻して夏は水の中に入って水をかけあってびしょびしょになって遊んだ、上流から笹船や折り紙で作った舟を流して楽しんだりもした。夏でも水温が上がらない井戸水と同じだったので、トマトやスイカを冷やす場所でもあった。流れがあるので青果物は網袋に入れ杭を打って抑えたような覚えがある。夏の初めには蛍が空中を乱舞する姿は目に焼き付いている。
 このせせらぎが下水に変わてしまったのは崖の上の」広い麦畑を造成して当時としては巨大な市営住宅の二階建てが林立し。そこの下水処理はすべて大きな土管でこの小川に吐き出すようになり、一瞬ですべての水生生物を死滅させた。
 こうしたずさんな計画によって、そこを無法地帯に変え、移り住んできた新人種は平気で大型ごみを捨てるようになり、そのつけは台風が来るたびにマンホールが詰まり谷戸下の住民は、家が床下浸水するというツケを払わされることになった。台風の度に腰までつかって上流からのゴミを攫ったことを何回経験したことか、この小川は災厄をもたらす何物でもない存在に変わっていた。時代を象徴するモダンなアパートは全く予想できる災害に無頓着であったのは、今ではとても考えられない無謀な計画に起因しており、破壊された生物系は今日の今日まで元に戻ることは無い。

2018.8.17 子どもの遊び(5)
 外で遊ぶ最も楽しくてスリリングなものは、丘陵の天辺(てっぺん)に大きく広がる麦畑と前回紹介した湧き水の出る崖に至る雑木林や藪、所有者不明の放置された段々畑をテリトリーとする遊びである。
 記憶では秋だと思うが、一面濃い緑の麦畑脇の小道で仲間と寝そべって空を見上げていると、色々な鳥が空を舞っていた。悠々と高空を滑空する鷹、その近くを急旋回して飛び去る隼、それより下には ピーヒョロロロと鳴きながら気持ちよく空を舞うトンビなどの猛禽類が生息していた。さすがに鷲は見かけなかったが。
 麦畑の中には雲雀(ひばり)が巣作りをしており、その特徴ある動作を観察すると飽きることはなかった。先ず空中から急降下し、麦畑に入ると真横にかなりの距離を移動して巣に入るという念の入れようで、これは弱い鳥の防衛本能のなせる業だと思う。一度巣を見つけて中を見ると丁度ウズラの卵のような小さな卵が小枝で囲った巣の中に納まっているのを見た。我々子どもたちも自然のルールを守り、それを持ちかえるようなことはしなかった。戦中育ちは意外としつけは厳しかったもので、弱い者いじめはしない。小さい子は守るという不文律ができていた。
 当時子どもたちの間では「ホンチ:剣をもつクモ(蜘蛛)の一種)」を戦わせる遊びが流行っていた。通常家の生垣としてどこにでもあるマサキ(柾)に生息しており、マサキの若芽の周囲を探し回って捕まえたのを覚えている。捕まえたホンチはマッチ箱に入れ、小学校に持って行き、休み時間に同級生同士でそれぞれのホンチを戦わせ興奮したものである。大人が闘牛や、闘犬、闘鶏に興づるのと変わりないと思うが、こうしたクモを使った殺し合いの遊びは諸外国には例がないということである。
 本当に闘争心の強いクモでマサキの垣根の合間で戦っている姿も何回もみた。友達同士の話では薔薇の木に生息するホンチが最強ということで、雑木林の入り口にある薔薇の藪をつついて探したがこれは捕まえることはできなかった。このホンチはバラケン(剣)と呼ばれ珍重されていた。
 なお、マサキの中で見かける同じようなクモで剣を持たないクモはババと呼ばれたが、これはマサキだけでなくどこにでも生息するようで、現在の我が家にも毎年のように壁を這っているのをみかける。ゴキブリの卵などを捕食する益虫なので、我が家では好きなように徘徊させていたる。今年はゴキブリが出て大騒ぎをしたところをみると、ババ不在の年なのかも知れない。
 次回は萱畑と雑木林の遊びについて思い出をつづることにする。

2018.8.21 子どもの遊び(6)
 子どもの遊びもいよいよ大詰め。アドベンチャーワールドの世界に入ることにする・
 丘陵地のちょうど真ん中ごろに放置された畑があって、そこには一面葦の葉が生い茂っていた。子どもたちにとっては百畳敷きの広間が与えられたようなもので、仲間同士で協力して地面を葦の葉をなぎ倒して、はだしで遊べるように敷き詰めたものである。先にも触れたことであるが、子どもたちの共同作業は、言われなくてもそれぞれ見つけて、僅か2~3日で草葺の大広間を完成させてしまった。
 今の子らには想像もできないだろうが、遊び場というのは、人が造るものでなく、自分たちで遊び場を作ってしまうのである。そうして造った遊び場は、子どもだけの天国。そこで寝転んだり、相撲を取ったりして、遊んだ思い出が強く脳裏に焼き付いている。
 そこはまた遊びの前線基地でもあった。葦原の先は雑木林の中腹に当たる入口になっていた。林の中にはブナやケヤキやカシの木が手が入らないままに巨木となっており、そうした樹木に無数に絡まったツル(蔦)が垂れ下がっていた。
 終戦後アメリカの映画を見て、一番面白かったのは「ターザン」である。この林の中はそれを彷彿とさせる絶好な場所であった。 思い出に残るターザンごっこ(遊び)は、 木から垂れ下がるツル にぶら下がり木から木へ飛び移る遊びでスリル満点だった。
 その遊びも林の中に飛び出す足場を造るところから始まり、着地する場所の確保などアドベンチャーと言っても決して無謀ではない安全への配慮も怠らなかった。「アーアーアー」と雄たけび(その実は子どもらしいボーイソプラノだったが)をあげ木から木へとマシラ(猿のこと)のごとく、滑空して着地するスリルは得も言われぬ快感であった。ツタが切れることも無かったし、ケガをしたものもいなかった。こうした遊びは男子の通過儀礼の一つで、度胸試しも兼ねていたのである。
 学校から帰るや否やカバンを放りだして、すっとんで秘密の遊び場に駆け付け、夕方どこかから聞こえる「御飯ですよー」という声が聞こえるまで遊んでいたものである。
 碌な教科書もなく、脱脂粉乳と塩辛いコッペパンの給食といった学校にはそれほどの魅力もなく、野イチゴやアケビを探し出して食べ、野山を駆け廻った少年時代の遊びを総括するなら、今は遠い昭和という、激動の戦中戦後を生き延びた子どもたちにとって「遊び」もまた「創意工夫」に満ちていたのである。

2018.8.25 縁日
 時の風物詩に欠かせない行事が縁日である。
 縁日は神仏にとって特定の由緒のある日で、毎月の5日は水天宮、18日は観世音、25日は天神様、28日は不動尊などがあるが、この日一日だけ寺院が秘仏とする本尊などを公開する御開帳を行い、この日に参詣すれば特にご利益があると人々に信じられてきたものである。
 特に、年の最初(または月の最初)の縁日を初天神、初観音、初不動など。干支を縁日とする場合は初午(はつうま: 2月の最初の午の日。全国各地の稲荷神社で豊作、商売繁盛、開運、家内安全を祈願する)、初巳(はつみ:鎌倉の銭洗い弁天が有名)などと称し、年の最後の縁日を納め(おさめ)の○○または終い(しまい)○○と称している。
 この日は庶民の息抜き、レクレーションの場ともなり、境内にはさまざまな市が立ち、夜店も出て、古くは見世物小屋まで出る、まるでカーニバルのような祭りであった。
 この縁日はご利益をもたらす祭り(例祭)で、毎日のようにどこかで縁日がある。「朝に観音、夕に薬師」などと言われ、人気の高い神仏に対し、多くの庶民が集まった。
 多くの人が出るところには必ず市が立つ(7/20「市」参照)。市とは露店の集まりであり、店と言っても屋台であったり、ただのテントであったりと半日も有れば出店可能なものばかりである。
 露天商には公道を使用することなどがあり、営業には食品衛生法に基づく保健所の営業許可や道路交通法に基づく警察署の道路使用許可が必要となる。
 縁日に出店する露天商には的屋(てきや)と言われる。(wikipedia抜粋)
 的屋とは基本的には祭礼や縁日や時節や年中行事で、寺社の参道や境内または門前町を主に、人出が見込まれる場所を渡り歩き商売をする、日本古来の伝統的な生業を指す。商売の手段としては、地面に引いた敷物のうえに商品を並べる簡易なものから、仮設建築としての見世物小屋を集団組織で営むものまで様々である。
 縁日で扱われる商品やサービスを次に示す。
「飲食物」焼き鳥・やきとん・串焼き・焼きとうもろこし・お好み焼き・焼きそば・今川焼・たい焼き・たこ焼き・明石焼き
「縁日すくい」金魚すくい ( 破れ易いポイで金魚を掬う遊び。すくった金魚は通常持ち帰ることができる)・スーパーボールすくい・ヨーヨー釣り( カラフルな模様の水風船をかぎ針で吊り上げる遊び)。
「射的」 遊戯銃でコルク弾を打ち出し、倒した景品をもらえる遊び。
 縁日は夏が盛んで、10月~4月までは出店は少なくなる。あと1月余りが的屋の稼ぎ時であると言えよう。

2018.8.30 地鎮祭
 日本では家を新築する時に地鎮祭と言う祀りごとを行うという風習がある。今でもこの儀式規模の大小はあるが、大概行われるようである。
 災厄を避ける祀りごとを行うことは、日本人なら誰でも知っている。これもまた日本の文化であり、伝統である。
 そこで今回は地鎮祭について少し詳しく調べてみた。
 地鎮祭は、土木工事や建築などで工事を始める前に行うもので、その土地の神(氏神)を鎮め、土地を使わせてもらうための許しを得る儀式である。別の呼び方としては、安全祈願祭、土祭り、地祭り、地祝いとも言う。
 その形式は次のようなものが正式なものである(Wikipedia)。
「一般的には、土地の四隅に青竹を立て、その間を注連縄(しめなわ)で囲って祭場となし、斎主たる神職のもと、建設業者・設計者・施主らの参列の上で執り行う。場合によっては、赤白の横断幕を張ったテントの中で行われる事もある。祭場の中には木の台(八脚台という)を並べ、その中央に神籬(ひもろぎ、大榊<さかき>に御幣・木綿を付けた物で、これに神を呼ぶ)を立てて祭壇(南向きまたは東向き)となし、酒・水・米・塩・野菜・魚等の供え物を供える。関西地方などでは、祭壇の左右に、緑・黄・赤・白・青の五色絹の幟に榊をつけた「真榊」を立てる場合もある。この五色絹は五行説における天地万物を組成している5つの要素、つまり木・火・土・金・水を表している」
 次に同じ出典から儀式の手順を示す。
「①手水(てみず、ちょうず):神事の会場に入る前に手水桶から掬った水で両手を洗い、心身を浄める。②修祓(しゅばつ):開式の後、祭典の本儀に先立ち、参列者・お供え物を祓い清める儀式。③降神(こうしん):祭壇に立てた神籬に、その土地の神・地域の氏神を迎える儀式。神職が「オオ~」と声を発して降臨を告げる。④献饌(けんせん):神に祭壇のお供え物を食していただく儀式。酒と水の蓋を取る。⑤祝詞奏上(のりとそうじょう):その土地に建物を建てることを神に告げ、以後の工事の安全を祈る旨の祝詞を奏上する。⑥四方祓(しほうはらい):土地の四隅をお祓いをし、清める。切麻(きりぬさ)・散米(さんまい)とも言う。⑦鍬入(くわいれ)の儀:斎鎌(いみかま)を使った刈初(かりそめ)、斎鋤(いみすき)を使った穿初(うがちぞめ)、斎鍬(いみくわ)を使った鍬入(くわいれ)等が行われる。設計・施工・建主に振り分ける事が多い。⑧玉串拝礼(たまぐしはいれい):神前に玉串を奉り拝礼する。玉串とは、榊等に紙垂を付けたもの。⑨撤饌(てっせん):酒と水の蓋を閉じお供え物を下げる。⑩昇神(しょうしん):神籬に降りていた神をもとの御座所に送る儀式。この後に閉式が行われる。⑪神酒拝戴(おみきはいたい):土器(かわらけ)の杯にお神酒を注ぎ、神職の合図で乾杯を行う」
 少し長くなったが、これはいわば形式であり、最近の新築現場を見ても非常に簡略化されており、建売などの場合、儀式なしと言うものさえ見かける。