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      現在「懐古趣味」は江戸の職人の姿を当時の浮世絵師の手で描かれたものを彩色しなおすととともに、それぞれの職業を出典の「江戸職人聚(三谷一馬:中公文庫)」から選びだして解説しながら紹介している。 青色の太字をクリックすると 、画像が表示される。

 江戸の職人 第六話「紙」の部2021年後半


紙漉師
 紙の原料には楮(こうぞ)、三極(みつまた)が主に使われます。寛政10年(1798)刊『紙漉重宝記』には原料の処理方法と製紙の工程が記されており、その概略は次のとおりです。
〈楮苧(からむし)を刈り取る〉10、11月頃に刈り取り、長さ2尺5寸位に切り揃え、7貫を一束に たばねる。
〈楮苧を蒸す〉蒸す鍋を持たない者は、共同で鍋を借りる。冬の夜は5、6鍋ほど蒸すことが出来る(初釜は3時間半、次は2時間半で蒸し上る。)小口の皮がむけかける時に皮をむき、剝いだ皮を黒皮と云う。皮をとったあとの真木を薪として釜の借り賃にあてる。
〈楮苧皮を干す〉皮をむき、すぐに干す^2、3日で干し上げる。
〈同うす皮を削る〉干し上げた皮を、水に1日程度漬け、黒皮をすごき取る。この黒皮をさる皮と云い、是を川でよく洗い漉き上げたちり紙を生苧ずきと云う。
〈あく出し〉さる皮をけずり取った実を桶に入れ川でよく洗いさらし、押え石を置き. 零を切り、釜で煮る。けずった実をそそり(紙料)と云い、ねばりけを洗い流す。
〈楮苧を煮る〉棒を二本釜の中に立て、そそりを入れ、そばがらを焼いた灰のあくをとり 水に加えて煮る。(一説には灰垂といわれる木灰で4時間程煮る)煮えるにしたがい、2本の棒で芋を洗うようにかき廻し、片煮にならないようにする^
〈楮苧を叩く〉紙を漉く前夜にそそり(紙料)を洗っておき、翌朝、朝飯の米をとぎ、火 に掛け炊き上がるまでの間に前夜用意したそそりを叩きかため玉にして桶に入れておく。
〈紙を漉く〉桶のそそり(紙料)をかきとって漉き舟の水の中に入れ、すいのうで濾した とろろあおいの根の粘液を加え、混ぜ桁で音をたてるようにしてそそりと粘液を数回混ぜ 合せる、粘りが少ないようならとろろあおいを増す。この粘液の加減がむずかしく紙のよしあしにかかわる。(紙漉師2に続く)

紙漉師2
 次に楮苧の繊維が水の中によく均一に拡散するように竹の棒でかき混ぜ、竹を引き上げた時繊維がかからず海苔(ふのり)の液に見えるくらいまでよく攪拌する。
 馬の尾毛で編んだ簣を杉材の外桁に敷き内桁を重ね一緒に握って漉く、漉いた黄桁を桁 もたせに置いて水を切る、別の簣桁を使いもう一度紙を漉き、先の桁もたせの簣桁を入れ かえて、先に漉いた簣桁の紙を紙床に移す(紙漉き二の絵では左の木箱の上が純氏でその上に漉かれた湿紙が重ねられています。)
この作業をくり返して漉き続け、舟の中の紙料が少なくなり漉きにくくなれば始めのよ うにそそり(紙料)ととろろあおいを補充する。
 杉原紙は漉き桁が重いので男が漉き、女は半紙を漉くそうです。
〈乾燥〉漉いた紙の水分をよく切り、長さ一間の板(銀杏か栃の木)に湿った紙を表、裏 五枚ずつ、しべぼうき(稲わらで作った刷毛)でなでつけ、天日で乾燥させる。雨天の時 は火にかけて乾かす事もある。天日で乾燥させた紙は太陽の光で自然漂白され紙色は白くつやがあり置けば置くほど軽くなるそうです。
(㈠•㈡の出典•図説『越前紙漉図説』明治五年 小林忠蔵画)

扇師
 扇は扇骨を作ることから始まります。扇骨は竹を適当な幅に割り、割った竹の表皮をはぎとります。この皮はぎを栓引といいます。次に要の孔を舞錐であけ、当付といって飽(かんな)をかけ て親骨、中骨の形を整えます。を磨いて光沢をつけ、 要の孔に針金を通して金床の上で 金鎚で叩き、両端をつぶします。扇地紙の間に入れる骨のところは鉤(かぎ)でさらに薄く削ります。 扇の地紙は、普通三枚、舞扇では五枚和紙をはり合わせたものです。厚い木で作った扇面型を、重ねた紙の上にのせて庖丁で切り落とします。そして扇面に絵を描きます。これを絵付けと呼びます。
 絵付けの次は折りで、これが扇の手順のうちでは一番むずかしい肝心要の仕事です。まず折りがつきやすいように扇地紙を湿った布ではさんでおきます。折り目のついた二枚の型紙の間に扇地紙をはさんで型に沿って折り目をつけます。そのあと折り山をたたいて潰します。扇師の絵の右の年増は、机の前で折り山をたたいているところです。折り上がると中骨を通す穴をあけるために薄い竹篦(しっぺい)を、貼り合わせた扇地紙の間に差し込みます。 扇師の絵の左の娘は竹篦を差し込んでいるところです。よく折りをつけるために桐枠へ入れて締めつけます。竹篦であけた穴に息を吹き込んで穴をひろげておき、糊をつけた中骨を扇地紙の中に差し込みます。翌日まで型に入れて乾します。
   扇屋の折人髪すく今朝の秋(鳥おどし)
   風の直段をわける扇屋(武玉川)
  (出典・絵本『百人女郎品定』享呆八年 西川祐信画)

団扇師
『風俗画報」二百十二号で次のように記しています。
「絵団扇 蓬軒
 此東団扇は始め渋、藍、黄などの染紙に種々の浮世絵を 摺立たる至極粗造のものにして更紗形柄長団扇と呼び幅六寸丈八寸、柄長サ尺余りのものと角形製吹画等の二種あり、 吹画は二三種の絵の具にて好みの形を吹き付け柄は桐板の 挿柄にてあらい末のものなりしが安永年間には製法次第に進歩して蛤形、やまと団扇の二種を出しぬ但し俳優の肖顔を画きしやまと団扇は頗る人気に叶ひて売れ行き好かりしも花鳥を描きたる蛤形は評判あしく僅一ニ年にして廃れたり降って文政の初年市に出たる挿柄団扇は花鳥人物などを画き骨と紙の間に綿を挟みて膨らかになし一見押絵の如く如何にも都雅(みやび)の造りなりしかば大名の奥向きに持て囃(もてはや)されたり。(略)
 絵の女は竹骨に反古紙を貼っていて、中休みの一服というところです。後ろの団扇は乾か しているところで、女の裾のところにある寄木の箱は刻み煙草入れです。この反古を貼った団扇は渋団扇で、鲜屋、鰻屋、一般の家庭では台所で使われました。見てくれよりも丈夫で実用的な団扇です。河内の小山団扇は柄は丸竹で、渋団扇として名が知られていました。
(出典•合巻「出世奴小万伝」天保四年 歌川国直画)

提灯師
 今日見るような提灯が出来たのは、室町時代の末期です。当時は籠提灯と呼ばれ、竹、藤葛で籠を編み、それに紙か布を貼ったものでした。
 籠提灯の次に現れたのが箱提灯です。『好古日録』に「俗二云、箱挑燈ハ、豊臣公ノ時始テ製ス。上下ヲ藤葛ヲ以編ミタリ。板ヲ用ルハ、慶長(一五九六〜一六一五)已後ノコトト云。天正(一五七三〜九二)已前ノ挑燈ハ、籠二紙ヲ粘シテ用ユ」とあります。箱提灯は上下が箱で、火袋のところが 竹骨蛇腹に紙貼りになっていて、不用のときはたたむと小さな箱のようになります。この当時は柄のない箱提灯でした。
 江戸時代には種々の提灯が作られるようになり、その最初のものは元和(一六一五〜二四) 頃の赤白の色彩のある小さい丸提灯の「ほうずき提灯」です。次に承応(一六五二~五五)、 明暦(一六五五〜五八)になると定紋付の高張提灯が現れ、万治(一六五八〜六こ、寛文(一 六六一〜七三)の頃には柄の先に紐でぶら下げた、ぶら提灯が見られます。小田原提灯は天文(一五三二〜五五)頃、小田原の人甚兵衛が作ったもので、もっぱら旅行用に使われまし た。そのほかに武士が馬上で用いる馬上提灯、下に置くことの出来る弓張提灯があり、江戸末期になると火事提灯とも鉄砲提灯ともいわれる長提灯、役人用提灯、葬提灯、かんどうなどの提灯が作られました。提灯の張り方が『万金産業袋』に出ております。「〇箱てうちんの張がたなり。丸き板に六つ穴をぬきて、図の ことく天地にし、此穴へ竹の弓をこしらへはめて外へ少しそらし、其上へほねをむらなくならべて、麻のより糸を大は四所小は三所ほとづゝ、上下まつすぐにかけてつなきとめ、扱紙をはることなり。よく干て後右の竹の反をはづし内のかたをぬくなり」
(出典•合巻『左甚五郎腕雕一心命」文化七年歌川国満画)

傘師
 傘は、頭にかぶる笠と区別するために「さしがさ」「からかさ」と呼ばれます。我が国では古くは大笠に長柄をつけたものをさし、使用しないときは柄をはずしておいたようです。 欽明天皇十三年(552)百済から幡蓋が伝来し、その後、布帛を張った長柄傘が貴族、 僧侶などの上流階級で用いられました。
 絵の右の前髪の小僧は、すりこ木ですり鉢の中へ蕨糊と生渋を入れてすり混ぜています。 糊と渋を混ぜる要領は、渋を温めて熱いうちにするのが大切です。
 傘骨には鬼骨、松葉骨とあって、柄は竹か樫で作ります。 竹は真竹で、骨を作るのは蛇の目だと丸竹一本を60本、或いは50本に割り、番傘だと丸竹1本を30本乃至は25本に割ってほかの竹は使いません。丸竹一本を骨数に合わせて 割って、そのままに用いるのが大方の定めでした。骨作りの順序は、竹切り、皮むき、節とり、大割、小割、孔あけ、骨削り、目揃えなどとなります。
 左の人物は張師で、張っている傘は野立傘、踊傘などに使う大傘(朱傘ともいう)です。 傘の紙は美濃で漉かれた森下といわれる縦九寸八分横一尺五寸四分の紙を使いました。油は 荏の油を煮立てて引くと、粘りがなくよく散るそうです。油は一度塗って三日乾かし、次に 渋を塗り、もう一度油を塗ります。安物になると、油に似せて大根おろしの汁を塗ってごまかしたそうです。 (出典・絵本『北斎漫画』文化12年 葛飾北斎絵)


 

 
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