saji2017pre


2022.6.3 諺集に見るわが人生(90)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「か」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「駆けつけ三杯」駆けつけ三杯とは、酒の席に遅れて来た者に、罰として立て続けに三杯の酒を飲ませること。なぜ「三杯」なのかについては諸説あるが、もともとは武士の行う酒宴の作法の一つに「式三献」という儀式があり、そこからきたといわれている。
 「式三献」とは、武士が出陣するときなどに、三品の肴に酒を三度ずつ飲む儀式のこと。
結婚式などで行われる三三九度の杯なども、式三献の名残りといわれている。私は下戸だから駆けつけ三杯やらされたらTKOのじょたいになるだろう。約束事に遅刻したことはないのでそうした経験はないが、無理強いして酒をのまされようとして喧嘩になりそうになったことがある。結婚式も教会で行ったので、アルコール抜きだった。
 「陰になり日向になり」人に知られないような面においても,また表立った面においても。何かにつけて絶えず、関する人のために様々に力を尽くす様子。今ではあまり聞き馴染みのない言葉となってしまったが、私が 小学生の頃の教科書には載っていたように覚えている。ただし、陰日向無くということは、裏表がないような生き方を説いたように使われていた気がする。
 「陽炎、稲妻、水の月」捕らえがたいもの、実体のないもののたとえ。また、身軽で動きの速いもののたとえ。いずれも手に取って見ることができないところから。「陽炎稲妻月の影」ともいう。
 私には初めて目にすることわざだが、脚注として大観本謡曲・熊坂(1514頃)「取らんとすれども陽炎(かげらふ)稲妻。水の月かや姿は見れども手に取られず」とあり500年以上も前には使われていた記録があり、謡曲などのノリのいい表現の一つとして生まれたようだ。
 追記として、日本歌謡界に大きな足跡を残した古賀政男が作詞・作曲。1932年(昭和7年)3月発売の藤山一郎の歌で大ヒットした曲。「影を慕いて」
まぼろしの 影を慕いて雨に日に
月にやるせぬ 我が思い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦れつつ 忍び泣く
 次回に続く。

2022.6.6 諺集に見るわが人生(91)

 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「か」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「嘉肴(かこう)ありと雖(いえど)も食(く)らわざればその旨(うま)きを知らず」(礼記)いくらおいしいごちそうがあっても食べてみなければそのうまさはわからないの意から。聖人のりっぱな道も学ばなければそのよさがわからないことのたとえ。まず実践することの必要を教えたもの。また、大人物も実際に用いなければその器量を知ることができないことのたとえ。(補説)出典では、この後に「至道有りと雖も、学ばざれば其の善きを知らざるなり(聖人の立派な道も、それを実際に学んで身につけなければ、その真価は分からない)」と続く。
 私は学ぶの多くを書籍から得てきた。読書は趣味でもあった。しかし、最近は積読ばかりで、読みかけの本が山を成している。その上kindleといってネットで視る書籍も多く購入しており、それもつまみ食いの有様で余生を考えても、読み切れない。従って立派な教えも少しも身につかないままで終わりそうだ。
 「駕籠に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」駕籠に乗る裕福な身分の人もあれば、その駕籠をかつぐ人もいる。さらに、その駕籠かきの履くわらじを作る人もいる。世の中には貧富の差があり、さまざまな境遇の人がいることのたとえ。また、それぞれの立場の人の持ちつ持たれつの関係で社会が成り立っていることのたとえ。まことにごもっともなご説である。HP[江戸の職人」第1話で草鞋屋について紹介している。江戸の職人たちや現在の職人社会もそれぞれが横に繋がり、持ちつ持たれつの関係で結ばれていることに変わりはない。
 「貸した物は忘れぬが借りた物は忘れる」自分が人に貸した物はいつまでも忘れないが、人から借りた物はつい忘れてしまう。人間というものは自分勝手なものだというたとえ。私も上下巻の本の上巻を貸したが返してもらわないまま相手が転勤し、そのままになってしまったが、今でも忘れない。これといって大切な本でもないのに、妙に気になるものである。 次回に続く。

2022.6.6 諺集に見るわが人生(92)

 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「か」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「鹿島立ち」旅行に出発すること。旅立ち、門出(かどで)。奈良時代、東国から筑紫(つくし)、壱岐(いき)、対馬(つしま)などの要路の守備に赴いた防人(さきもり)が、任地へ出発する前に鹿島神宮の前立ちの神たる阿須波神(あすはのかみ)に道中の無事を祈願したことに始まる。鹿島と香取のニ祭神が鹿島を立ち、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定したことから出たことばという説がある。歴史的には小説に使われる程度のことわざ。
 「家胥(かしょ)の国に遊ぶ」いい気持ちで昼寝をすること。中国の黄帝が夢の中で「華胥の国」という理想の国で遊んだという故事からの引用。華胥(かしょ)は中国に伝わる伝説上の国。華胥国、華胥氏とも書かれる。 西北の果ての地にあるとされ、すべてが自然のままで為政者は無く、人々に欲望も無く、とても長寿であるという。そんな天国で遊ぶような夢を見る昼寝など経験はないが、昼寝は、導眠剤を飲んで眠る就寝より気持ちよいことは確かだ。このことわざ使っても意味は通じないだろう。ネットで検索すれば出てくるが。
 「臥薪嘗胆」復讐を成功するために苦労に耐えるという意味を持つ、 中国 の故事成語である。 紀元前5世紀の 呉 と 越 の国家間の戦争に由来する。 史紀・十八史略・蘇軾(そ しょく)1037年 - 1101年 )の詩『擬孫権答曹操書』中の句「僕受遺以来、 臥薪嘗胆 』(11世紀後半に成立)に求められる。 明治時代 の 日本 において、 三国干渉 が発生した時に、 ロシア帝国 に復讐するために耐えようという機運を表す スローガン として広く使われた。いまだにロシアとは北方四島の帰属や漁業協定でもめている。対ロシアに関しては臥薪嘗胆の状態にあるのは口惜しい話だ。 次回に続く。

2022.6.12 諺集に見るわが人生(93)

 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「か」から始めて、回顧 していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「鎹(かすがい)思案(じあん)」二つのことをどちらもうまくやろうと考えること。鎹でつなぎとめるように、二つのことをどちらも得ようと考える意から。鎹とは二つの材木を繋ぐめのコの字型の釘。
 「子はかすがい」ということわざはよく見聞きするが、かすがいのように、夫婦をしっかりとつなぎ留めておくのに、子供の存在は大きいということ。最近は若年離婚も多く、必ずしも子は鎹にはならない。
 「河清を俟つ(かせいをまつ)」(黄河が澄むのを待っても無駄なように)いくら待っても、望みの達せられないこと。「百年河清を俟つ」とも。出典には「子駟(しし)曰く、周詩に之有り、曰く、河(か)の清(す)むを俟つも、人寿幾何(いくばく)ぞ」子駟が言った、周の詩にこうある。濁った黄河が澄むのを待っていては、人の寿命がいくらあっても足りないではないか。とある(百年黄河の澄むを待つ)。
 現実にはこういうことはよくあるが、このことわざを使うという表現法はあまり見ない。「百年黄河の澄むを待つと言われるように自分の望みは達せられない」などいうフレーズなどは使ってみたい。
「風が吹けば桶屋が儲かる」江戸時代の『世間学者気質』という草子の中には、次のように描かれている(差別用語があるので一部書き換えた)。
 「今日の大風で土ほこりが立ちて人の目の中へ入れば、世間に失明した人が増える。失明した人は三味線を習うから、そこで三味線がよく売れる。そうすると猫の皮がたんといるによつて世界中の猫が大分へる。そふなれば鼠があばれ出すによつて、おのづから箱の類をかぢりおる。爰で箱屋をしたらば大分よかりそふなものじやと思案は仕だしても、是も元手がなふては埒明ず」
 このようなことから、「一見なんの関係もないようなところから、意外なところに影響が出る」という意味で、『風が吹けば桶屋が儲かる』ということわざが使われるようになった。
 実際現在でもウクライナ戦争で世界が制裁などの影響で例えば、株や不動産の世界では、一見無関係な事柄によって価格が上下するケースはよくある。これらは投資家が市場の先読みをすることが多いからである。今まさにこのことわざが生きている。
 次回に続く。

2022.6.16 諺集に見るわが人生(94)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「か」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「稼ぐに追いつく貧乏なし」一生懸命に働けば、貧乏で困るようなことはない 、という意味を表すことわざ。 遊ぶ暇がないほどまじめに働いていれば、それだけのお金が入ってくるので、貧乏になることはない、ということ。 また、貧乏だ、お金が足りない、などといって悩んでいる暇があるなら働くべきだ、という意味でもある。 したがって、働かなければ貧乏になり苦労をするから、人は働かなければいけない、という戒めの言葉でもある。広く知られていることわざで、日本人は勤勉だから、現在でも違和感なく生きている。
 「風に順(したが)いて呼ぶ」風上から風下に向かって呼ぶと声がよく通るところから、勢いに乗じて事を成せば、早くかつ容易に成功するたとえ。出典は「荀子」勧学から「風に順いて呼べば、声疾(はや)きを加うるに非ざる(あらざる)なり、而(しか)るに聞く者彰(あきら)かなり」事を成すには波に乗ることが大切だということだろう。
 「風にそよぐ葦」権力者の言うままになる、 定見 のない者のたとえ。 [由来] 「 新約聖書 ―マタイ伝・一一」のイエスのことばから。口語訳では、自分は「風に揺らぐ葦(権力に従う人)」でも「柔らかい着物をまとった人々(権力者)」でも「預言者」でもなく、「預言者以上の者」だとある。引用は聖書からであるが、日本では史紀など中国から伝来した文化によるものが多い。欧米では圧倒的に聖書から引用されるものが多い。
 「風邪は万病のもと」風邪はあらゆる病気の元になるから、あなどってはいけないという戒め。風邪は誰もがひくものだと軽視されがちだが、こじれると様々な合併症を引き起こすことから。「風邪は百病の元」ともいう。一般的に風邪とは、ウイルスによる「上気道感染症」で、「鼻や喉が炎症を起こすことによってなんらかの症状が出ている状態」のことを指す。ウイルスといえば新型コロナウィルスも風邪の一種の変態したものだろうか。風邪もコロナも私のような高齢者にとっては命取りになる。ご用心、ご用心。  次回に続く。

2022.6.20 諺集に見るわが人生(95)

 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「か」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「片口開いて公事を分るな(かたくちきいてくじをわかるな)」訴訟の裁きは、一方の言い分だけを聞いて判定してはいけないということ。「片口」は一方だけの言い分、「公事」は訴訟のこと。一方の言い分だけを聞いていたのでは、事の真相は分からず、双方の言い分を聞いたうえで、冷静な判断を下さねばならぬことをいう。類義語には、両方聞いて下知をなせ、片口きいては理がしれぬなどがある。企業等においてリーダーたる者の心得として、多くの意見を集約するには、このことわざが生きてくる。
「片手で錐は揉まれぬ」錐は両手で揉みながら穴をあける道具であり、片手では使えない。そこから、人々が力を合わせなければ物事はうまくいかないというたとえ。【同義語】片手で柏手(かしわで)は打てぬ。当たり前のようなことだが、人々が力を合わせるということは、利害得失があり、そううまくまとまるものではない。
 「刀を売りて子牛を買う(漢書)」戦いを止めて平和に暮らすことのたとえ。戦いに必要な刀を売り、農業に必要な子牛を買う意から。出典には「民の刀剣を帯持する者(腰につけている者)有れば、剣を売りて犢(とく)を買わしむ(子牛を買わせた)」とある。ウクライナ情勢をプレス発表で見ると、剣を売るどころか大量に買い込むことで、戦を続けている。西側諸国も在庫払いの武器供与で武器商人に多大な利益を与えている。最近西側で供給に異論が出ているが、決着はまだ先のようだ。いったん戦線が開かれると、このことわざは「空念仏」に終わてしまうようだ。
 「片棒を担ぐ」二人でかつぐ駕籠やもっこの片方を担当するという意味で、計画、主に悪事に荷担することをいう。. 似たような言葉に「先棒を担ぐ」「後棒を担ぐ」があるが、「先棒を担ぐ」は棒の前をかつぐ意で、人の手先として使われる、「後棒を担ぐ」は棒の後をかつぐ意で、主犯格の手助けをする(させられる)場合に使用される。ある企てや仕事などの一半をになう。荷担する。多く,悪い仕業についていう。
 犯罪には主犯格がいてそれを助ける仲間がいる。 最近のニュースでは持続化給付金搾取の事例は指南役と請け子がいて、請け子が個人事業主になり確定申告(虚偽の)済ませ、ネットで持続化給付金の受給を申請し、100万円近い給付金が振り込まれた。学生は怖くなり警察への自首も検討しているという。 次回に続く。

2022.6.23 諺集に見るわが人生(96)
 
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「か」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
 「語り下手の聞き上手」自己で話すのはあまりうまくないが、人から話を聞き出すのが上手であるということ。これをネットで検索すると「語り下手」は出てこない。聞き上手はたくさん出てくる。話すのが上手いのより聞き出すのが上手い方が大切だということなのだろう。
 「火中の栗を拾う」他人の利益のために危険な行動をとること。 火中の栗とは火にくべられた栗のことで、おいしそうに焼けているように見える。 けれども火の中にある栗はいつはじけるか分からず、拾おうとすれば大火傷を負うかも知れない。 そんな危険を冒してまで栗を拾おうとするのだが、その栗は自分が食べるのではなく、他人に食べさせるためだ。
 [由来] は少々長いが紹介する。17世紀のフランスの詩人、ラ・フォンテーヌの「寓話」によって知られる、「猿と猫」という話から「ある家に、猿と猫が暮らしていました。あるとき、家の主人が暖炉で栗を焼いているのを見て、それを食べたくなった猿が、猫にこんなふうに持ちかけました。『君はああいうのを取るのがうまいから、ひとつ、その腕前を見せてくれよ』おだてられた猫は、手をやけどしそうになりながらも、栗を一つ一つ取り出していきます。ところが、その一方で、その栗を猿が一つずつ食べてしまっていた、ということです」たとえ騙されたにせよ身の危険を顧みず、危険な作業を実行した猫は偉い。
 「花鳥風月」美しい自然の風景や、それを重んじる風流を意味する四字熟語で、風物や景色の自然を題材に、詩歌や絵画を創作するなどして風雅な趣を楽しむことをいう。例えば道元の詩に「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり」が有名である。五七五七七と韻を踏んだ見事な短歌に仕上げている。私も歌を詠むがこれほどまでに日本の原風景を表すまでには程遠い。これは別格である。 次回に続く。