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2023.4.4 諺集に見るわが人生(172)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「け」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「傾城(けいせい)」美人の意,および遊女の意。
(語源)中国の前漢一代の歴史を記した書物『漢書』にある表現が由来。『漢書』では「美人」が「一顧傾人城,再顧傾人国(一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の国を傾く)」と表現された。これは君主の寵愛を受けて国を滅ぼすほどの美女を指している。「傾国傾城(けいこくけいせい)」という四字熟語で表されることもある。
(実例)楊 貴妃(よう きひ)玄宗皇帝の寵姫。 玄宗皇帝が寵愛しすぎたために「安史の乱」を引き起こしたと伝えられたため、 傾国の美女と呼ばれた。
因みに楊貴妃の他、エジプト女王・クレオパトラ、スパルタ王妃・ヘレネ(小野小町とする説もある)が「世界三大美女」として称えられている。

 

「蛍雪(けいせつ)」苦労して勉学に励むこと。蛍窓。蛍の光窓の雪。晋の車胤(しゃいん)は、家が貧しく灯油が買えなかったので蛍をたくさん集め、その光で勉強をした。また、孫康(そんこう)も家が貧しく灯油が買えず、窓辺に雪を集めて、その明かりで書物を読んだ。こうした努力の結果、後にこの二人とも出世したという故事に由来する。
卒業式の祝辞の常套句であり、「蛍の光、窓の雪……」という歌詞もこの故事からきている。
蛍雪と言えば、旺文社から刊行されている大学受験生向けの月刊雑誌『螢雪時代』を思い出す。

 

「兄たり難く弟たり難し(けいたりがたくていたりがたし)」両者ともすぐれていて、優劣がつけられないこと。
(由来)「世説新語―徳行」に載せられたエピソードから。二世紀、後漢王朝の時代の中国でのこと。陳ちん元げん方ぽうと陳ちん季き方ほうという兄弟の子ども同士が、どちらの父親が優れているか、言い争いをした。決着が付かなかったので祖父に尋ねてみたところ、祖父は、「元方は兄たり難く、季方は弟たり難し(元方が兄だから単純に優れているとすることはむずかしいし、季方が弟だから単純に劣っているとすることもむずかしい)」と答えたという。
例えば、兄は勉強ができ、弟は運動能力に長けている。この二人の優劣は分野こそ違い付け難いことだろう。 次回に続く。

 

2023.4.7 諺集に見るわが人生(173)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「け」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

「軽佻浮薄(けいちょうふはく)」言動が軽々しく浮わついているさま。「軽佻」は、言動が軽々しいこと。「浮薄」は、あさはかなことの意味。同じような意味の語を重ねて強調したもの。
(出典)西国立志編一三「蓋しただ外面を飾り、言色を好(よく)するを務(つとめ)とするは、軽佻浮薄(けいテウふはく)にして賤しむべし」
(類義語)軽佻浮華(けいちょうふか)、軽率短慮(けいそつたんりょ)、軽佻佞巧(けいちょうねいこう)、鼻先思案(はなさきじあん)、喉元思案(のどもとじあん)など
(例文)思い返してみれば、若い頃は結構「軽佻浮薄」な行動をしていたものだ。

「敬天愛人(けいてんあいじん)」天を敬い人を愛すること。「敬天」は天をおそれ敬うこと。
西郷の座右の銘として知られる。 「道は天地自然のものにして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。 天は人も我も同一に愛し給う故、我を愛する心を以て人を愛する也」(南洲翁遺訓)が、その意味とされる。
(出典)これは西郷が言い出した言葉ではなく、他の人の言葉を借りてきたものである。では、誰の言葉からかということになると、最初に提唱したのは中村敬宇(中村正直)である。それは敬宇の学んだ中国や日本の儒学在来の敬天思想が、新しくキリスト教の「愛神」の思想に接触して、これを摂取し、深く感化されて「敬天愛人」へと結実したものと考えられる。

「桂馬の高上がり」将棋の駒(こま)の桂馬は他の駒と違って、盤の目を一つ飛び越えて斜め前に進むことができるが、前後や左右には動けないことから。
人は実力不相応な地位に上がると、思わぬ失敗を招くというたとえ。
(類義)桂馬の高飛び歩の餌食ともいう。桂馬はむやみに進み過ぎると、自分より弱い歩に取られてしまうことから。身の程知らず。人は失敗を重ねて自分の実力をしることになる。 次回に続く。

 

2023.4.11 諺集に見るわが人生(174)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「け」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」鶏の鳴き声の真似や犬のような盗みで人を騙したり卑しい行為をする人のたとえ。また、つまらない技能や下らない芸でも、時には役立つことがあるという意味もある。
▽鶏鳴=鶏の鳴き真似をすること。狗盗=犬のようにこそこそとわずかばかりの物をぬすむこと。
(由来)「中国戦国時代斉の孟嘗君(もうしょうくん)が秦に捕えられたとき、犬の真似をして盗みをするのが得意な家臣に白狐の皮ごろもを盗ませて秦王の愛妾に献上し、その口添えで釈放された。夜中に国境の函谷関まで来たが、関所の門は一番鶏が鳴くまで開けないことになっていたにで、今度は鶏の鳴き真似のうまい家臣に一声鳴かせると、それにつられて本物の鶏まで鳴き出したので、門が開かれ脱出に成功したという」故事から。
芸は身を助くといったところか。あまり聞かない四字熟語で変換に苦しんだが、内容は味があるので取り上げてみた。

「桂林の一枝、昆山の片玉」(けいりんのいっし、こんざんのへんぎょく) 
非常にすぐれていて、高潔な人のこと。または、貴重な人材や出来事。または、自身の出世を謙遜して言う言葉。
桂の木の林の中にある枝の一本という意味から。崑崙山は名玉の産地である。
日本では上級公務員試験に合格したところだろう。
少しばかりの出世のたとえ。
人格高潔なことを意味することもある。
桂とは日本のカツラではなく、クスノキ科の肉桂(ニツケイ)などをさす。
(出典) 『晋書』中国の晋の時代に、武帝が地方の長官に任命された郤詵(げきしん)に感想を尋ね、郤詵がそれに答え「私の役職は桂の中の一本の枝、山の一つの玉のようなものです。多くの官職の末席を得たにすぎません」と答えたとい故事から。
(注)ただ、現在では、こんなもんじゃ終わらないぞ!的な意味でも使われる。まあどこの国でも官僚は野心を抱いているのだろう。 次回に続く。

2023.4.14 諺集に見るわが人生(175)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「け」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「怪我の功名(けがのこうみょう)」失敗や過失、あるいは何気なくしたことなどが、偶然によい結果をもたらすことのたとえ。
怪我の功名の「功名」の語源は「高名」であり、手柄を立てるという意味の言葉である。高名がいつしか功名に変わったようだ。また怪我は、もともとは誤るや汚れる、偶然の負傷という意味を持つ「穢れる」の当て字とされている。
(例文)今回の実験の成功は、その前の大きな失敗があってこその結果です。まさに【怪我の功名】ですね(Domani.shogakukan.co.jp)。
この例文は「失敗は成功の基」と同じで、偶然性はないようだ。「偶々うまくいった」ということはある。これなどは「怪我の功名」なのかも知れない。

 

「逆鱗に触れる(げきりんにふれる)」竜が持つと言われる逆鱗に触れ、竜を激しく怒らすこと。転じて、目上の人を激怒させることなどについて言う。
(由来)「韓非子(かんぴし)」税難(ぜいなん)より。
「その喉下に逆鱗径尺なる有り、若し人これにふるる者あらば、則ち必ず人を殺さん。人主も亦た逆鱗有り、説く者は能く人主の逆鱗にふるること無くんば、則ち幾からん(竜ののどの下に直径1尺ほどの逆さに生えたうろこがあり、もし人がこれに触れたら必ず殺されてしまう。同様に君主にも逆鱗というものがあるので、君主に意見を述べるときには、その逆鱗に触れないように気を付けることが大切だ)
と説いたことから由来している。
(例文)口答えをしてしまったことが、親父のの逆鱗に触れてしまい、殴られるのを恐れ何回も家を飛び出した思い出がある。怖いものは「 地震雷火事親父」である。

 

「下戸の肴荒らし(げこのさかなあらし)」酒の飲めない人が、酒の肴を手当たりしだいに食い荒らすこと。
私は下戸なので酒席(めったに出ないが)出れば、することがないので、片っ端から料理を食べまくる口だ。 次回に続く。

 

2023.4.18 諺集に見るわが人生(176)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「け」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「袈裟(けさ)と衣(ころも)は心に着よ」 袈裟も衣も、ただ身に着けているだけではだめで、心にしっかりとした覚悟を持ってこそ、正しい仏道信仰といえる。
(脚注)米沢本沙石集(1283)七「法師の形として袈裟衣(ケサコロモ)をきながら、此悪行を企つる事返々(かへすがへす)不思議也とて」
法事などでお寺に行くと、住職が袈裟をつけて経をあげる姿はみるが、経をを聞く側は殆ど袈裟を着ているのは見ない。
住職(和尚・坊さん)は仏の道を説くが、本当に覚悟をもって信仰に打ち込んでいるのかは外見では分からない。中には「生臭坊主」もいるかも知れない。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということわざもある。

 

「下種の後知恵」愚かな者は必要なときに良い考えが浮かばずに、事が終わってから良い考えが思いつくものだということ。
下衆/下司とも(心根の卑しいこと。下劣なこと。また、そのようなさまやその人)。下司(げし)とは身分の低い役人。特に、中世、荘園の現地で実務を行った荘官のこと。京都にいる荘官の上司に対していう。げす。
私なども事が終わった後で、あの時はこうすればよかったなどと後悔したこと数多く、下司の一員だったと言えよう。

 

「下衆の勘繰り」・下劣な者、心の 卑しい 者ほど気をまわして邪推する・性格が悪い嫌らしい者は、 僻(ひが)みっぽく余計な邪心を巡らせる・「下種の勘繰り」「下司の勘繰り」とも書き同義。
性格悪い者が余計な事をしてきたり悪意から疑ってくる事。素直に取れば良い事でも、下衆な人は疑ってかかるので、結局は悪いと推量するの。それが僻みや妬みによるものが大きいので、そんな人は"下衆"という扱いになる。よって、「下衆の勘繰り」とは「上から目線」の悪口や陰口めいた言葉でもあり、言われた当人は面白くないどころか腹立たしく感じる。 次回に続く。


2023.4.21 諺集に見るわが人生(177)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「け」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「外題学問(げだいがくもん)」うわべだけの学問をあざけっていう語。書物の書名だけは知っているが、その内容はよく知らないえせ学問のこと。▽「外題」は書物の表紙にはった紙に書かれた題名。
(由来)史記抄(1477)二〇「文献通考には経籍考と云が二三十巻あるぞ。外題学問によからうぞ」
(実例)役立たない学問や内容がない学問として、例えば、世の役には立たないが権威ばかり主張する学者や教授などを「外題学問なのに威張り散らす」といった感じになる。よって、相手を批判したり、自らを卑しめて「外題学問」と用いられる。どんなに難しい学問をしていても、それが世の中に役立たないどころか誰も知らなければ、無意味ではないのかと説いている。

 

「下駄も阿弥陀も同じ木の切れ」足でふまれる下駄も人から拝まれる仏像も、もとは同じ木からできたものである。尊卑の差はあってもそれは境遇によるものであって、その根本は同じである意のたとえ。
また、はじめは同じでも、末には非常に違うことのたとえもある。
類語として、下 駄も仏も同じ木のはし。
下駄も仏も同じ木の切れ。
もう少し具体的に説明すると、同じ一本の木から、下駄の職人は下駄を作り仏師は仏像を作るように、人は、だれしも同じところからスタートしながら、生涯を終えるときに大きな差が出るのは、その後の本人の勉学や努力によるものである、というたとえ。
大人になって、小学校の同総会などに出ると現在の境遇の違いが明確に違うことを実感する。

 

「下駄を預ける」相手に物事の処理、責任などを一任する際に用いられる言葉。下駄と言えば、昔からある日本独自の履物のことだが、下駄を預けることがなぜ相手に責任などを一任することなのかというと、下駄を他人に預けてしまうと、その場から自由に動けなくなる。あとは、預かった人の心次第で、自分はじっとしているしかないところから生じた言葉。
(出典)浄瑠璃・天智天皇(1692)二「とても叶ふまじと御覧じ、奉公せよ召使はんなどとげたを預け給ひしか」
今も昔も、信頼できる部下に「下駄を預ける」ことは多くあるものだ。 次回に続く。

2023.4.26 諺集に見るわが人生(178)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「け」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「月下氷人( \げっかひょうじん)」縁結びの神。転じて、男女の縁の仲立ちをする人。仲人(なこうど)。媒酌人。▽略して「氷人」ともいう。
中国晋(しん)の令孤策(れいこさく)が、氷の上に立って氷の下の人と語り合った夢を見た。占いの人に夢占いをしてもらったところ、氷の上と下というのは陽と陰で男女を示し、『詩経しきょう』の句に「若者よもし妻をめとるならば氷の溶けきらない冬のうちに」というのは婚姻に関することであるから、おそらく婚姻の媒酌をして氷が溶ける前には成立する前ぶれであろうと言い、予言通りその後、令狐策は大守(たいしゅ)の依頼で、その息子のために仲人をすることになり、めでたく婚姻が成り立ったという故事から。
仲人は、結婚式のスピーチをしなければならないが、そのとき使う言葉のなかに、「偕老同穴」とか「比翼の烏」「連理の枝」などという難しい熟語がでてくることがある。


「偕老同穴(かいろうどうけつ)」とは、夫婦の仲むつまじい幸福な生活をいい、仲人は「このたびめでたく、『偕老同穴の契り』を結ばれまして、まことにご内慶の至でございます」などというように挨拶する。出典は詩経のなかの二つの部分から組立てたものだが、「穴」というのはあまりよい印象を与えないので、たんに「偕老の契り」ということもある。この他に「君子偕老」つまり、立派な人格のある夫婦は、「仲良く一緒に暮し老いても共に生きながらえる」という成句もある(https://www.iec.co.jp/kojijyukugo/)より。

 

「結構毛だらけ猫灰だらけ」「たいへん結構だ」の意をふざけていうしゃれ言葉、地口。
昔は、寒い季節、かまどの火が消されたあとも灰はあたたかく、猫がかまどの周りや、ときには灰の中に潜り込んで暖を取るというのはごく普通にあった光景だったことから生まれた地口。
地口とは、ことわざ・成句と似た発音の文句を作って言うしゃれ言葉のこと(https://gcnqf306.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-2fb0.html)。 次回に続く。


2023.4.29 諺集に見るわが人生(179)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「け」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「結構は阿呆の唐名」何を言われても「結構」としか言わないお人好しは、愚か者と変わりはないということ。人に同調してばかりいるお人好しをあざけっていうことば。「結構は阿呆の内」ともいう。▷唐名=別名。
(例文)そこまで人が良いと感心を通り越して呆れるね。まさに結構は阿呆の唐名じゃないか(proverb-encyclopedia.com)。
だまされる人は多く見てきたが、底抜けのお人好しではなく、下心が透けてみえる。

 

「外面如菩薩内心如夜叉(がいめんにょぼさつないしんにょやしゃ)」外見はやさしく穏やかに見えるが、心の中は邪悪で恐ろしいというたとえ。多く女性にいう。
「菩薩」とは、仏の慈悲の心で衆生を導く者のこと。
「夜叉」とは、残忍な鬼神のこと。
「如し」は、「~のようだ」の意味。
女性の顔はいかにもやさしくおとなしい菩薩のように見えるが、心の中は悪魔のように険悪で恐ろしいところがあるということ。
仏教の経文から出たもので、女性が仏道の修行の妨げになることをいった言葉。
『華厳経』に「外面菩薩に似、内心夜叉の如し」とある。 出典『華厳経』
「土佐の高知のはりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た」高知よさこい節の有名な歌詞。坊さんが彼女へのプレゼントをかうのだから、明らかに女性が仏道の妨げになっている。
ジェンダーの時代にはそぐわないことわざかも知れない。だが、しかしである。

 

「螻蛄才(けらざい)」《螻蛄には飛ぶ、登る、潜る、掘る、走るの五つの能力があるが、どれ一つとして卓越したものがないところから》多芸多才でありながら、どれも中途半端であること。また、そのような役に立たない才能。
日曜大工のようなもので、細かい作業は本物の大工の腕に遠く及ばない。好きで何でもこなすが「器用貧乏」の域を出ない。 次回に続く。