2023.5.4 諺集に見るわが人生(180)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「け」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「毛を慎みて貌を失う(けをつつしみてかたちをうしなう)」小さなことにばかり注意を払って、物事の根本を忘れてしまうことのたとえ。絵を描くとき、毛髪を一本一本丹念に描きすぎると、全体の容貌(ヨウボウ)がちがってきてしまうことから。
(出典)『淮南子(エナンジ)』「画く者は毛を謹みて貌を失い、射る者は小を儀して大を遺(わす)る(弓を射る者は的の小さな点ばかりをねらって、大きな部分に目がいかない)とある。(例文)細かいことにこだわり、毛を謹みて貌を失い本末転倒になるのは困る。
私も「マイペインティング」で人の顔を描いているが、一番難しい部位は「眼」である。サラッと描いた後目じりやまつ毛などの細かいかい所に手を入れていくのだが、特徴がかえって失われてしまうことの方が多い。直感的な最初の一筆の方が似ているのは不思議だが本当の話だ。
「犬猿の仲」仲が悪い"ことを意味する。. ただ仲が悪いのではなく、「顔を合わせると喧嘩が始まってしまうくらいの仲の悪さ」を表していて、"お互いを敵視している"や"絶対に分かり合えない"といったニュアンスが含まれている。
「犬猿の仲」の由来は数多あるが、その内の一つをピックアップして紹介すると「犬は昔から人間と近い距離で生活をともにする動物で、信頼をおいている飼い主を含む自分の縄張りを守ろうとする性質がある。しかし猿は、自分たち"群"の縄張りを守ろうという意識が非常に強く、犬のように人間を守ったりしない性質の生き物と思われている。こういった対立し合う2匹の性質の違いが由来となったとも言われている」とある。
人間の場合でも、仲が悪く対立し合って縄張り争いに発展するケースはザラにある。殺し合いにまでになるとは、犬や猿以上に険悪である。 次回に続く。
2023.5.8 諺集に見るわが人生(181)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「け」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「喧嘩過ぎての棒乳切り(けんかすぎてのぼうちぎり)」喧嘩が終わってから棒切れを持ち出すこと。時機に遅れて効果のないことのたとえ。争い果ててのちぎり木。「棒乳切り」とは両端を太く中央をやや細くした棒で立てると乳のあたりの高さになるもの。物を担ったり振ったりするためのもの。
(例文)助っ人がくるようだが、喧嘩過ぎての棒乳切りで今更来られても困る。
私は棒乳切りなるものは見たことはないが、江戸時代には物を担ぐのに使われていたようで、喧嘩をするのには適当な武器になったのだろう。現代なら野球のバットがそれに似ている。
素手の喧嘩なら大したこともなく終わる。後で棒乳切りがあったらと後悔する方が怪我ががなくてよい。
「懸河の弁(けんがのべん)」水を上から流すように、とどこおりなく弁舌を振るうこと。
[由来] 「世説新語―賞誉」に記された「但懸河妙辯、舌端短乏、北海湛智、心府匱窶」から。三~四世紀、中国の西(せい)晋(しん)王朝の時代。郭(かく)象(しょう)という学者は、頭の回転が速く、弁舌にすぐれていた。ある人はよく、「郭象が語るのを聞いていると、『懸河の水を瀉そそぐがごとし(空からつり下げたような急な川を、水が流れていくようだ)』で、流れが途切れることがない」と言っていた、ということからきている。
政治家のスピーチや噺家の芸に立て板に水のように喋るのを見ることがある。
「喧喧囂囂(けんけんごうごう)」多くの人が各々好き勝手に喋って、やかましく騒がしいという意味。「喧」も「囂」も 人々が口々に しゃべって やかまし い様、自分の考えを遠慮なく言うという意の「侃侃諤諤かんかんがくがく」と混同しやすいので注意。よく使われる四字熟語だが、書けと言われると「ごうごう」の字は難しくて書けない。26画もあるのがその原因だ。 次回に続く。
2023.5.11 諺集に見るわが人生(182)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「け」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「乾坤一擲(けんこんいってき)」「乾坤」は、「天地」「陰陽」「サイコロの奇数の目と偶数の目」「一か八か」という意味。「一擲」は「サイコロを一回だけ投げて勝負にでる」という意味になります。因みに「擲」は「なげうつ」とも読む字。つまり「乾坤一擲」は「天下を賭けるような大勝負に出る」ことを意味する。
由来は、中国・唐の時代の詩人韓愈の『鴻溝を過ぐ』。休戦して互いに引いた直後に、劉邦が項羽を攻撃した時の場面に「一擲乾坤」と書かれているところからきている。
長い人生の中においては誰でも何回かは「乾坤一擲」の勝負に出る覚えがあることだろう。
「賢者ひだるし伊達寒し」賢者は世俗に妥協しないために飢え,伊達者は薄着をするので寒い。俗人とちがった生き方をするものはつらい目にあうというたとえ。ひだるし=ひもじい、空腹である意。伊達=「伊達の薄着」の略で、着ぶくれで不格好になるのを嫌い、寒いときでも無理してう薄着でいること。
私が貧しい時着たきり雀で冬は寒い思いをしたことを覚えているが、これは伊達の薄着ではなく、モノがなく耐乏生活を強いられた時代を生きた経験を持つ者には理解できることだろう。
私のように賢者でない者は、世俗に妥協しながら跫音共栄している。その昔さる東大教授が闇の食物を拒否し、飢え死にした話は伝説として残っている。
「見性自覚(けんしょうじかく)」自身の生まれつき持っている性質を悟ること。
「見性」は自身の本質を見極めること。仏教の言葉で「悟り」に近い。俗人には中々到達できない境地である。
(類義)「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」禅宗の語。本来自分に備わっている、本性や仏心を見極め、悟ること。「見性」は自分自身の本性を見極めること。「成仏」は、仏になること。中国、唐宋時代に禅宗で用いられて根本教義になった語。
次回に続く。
2023.5.14 諺集に見るわが人生(183)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「け」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「捲土重来(けんどちょうらい)」一度敗れたものが、再び勢いを盛り返すという意味。 自分や誰かが、何かに負けたり失敗したりした後、再び勢いを取り戻して、盛り返す様子を表している。 「捲土」とは、砂ぼこりが舞い上がる様子のことで、「重来」とは再び起るという意味。 これは「砂ぼこりが舞い上がった後、一度収まっても、また舞い上がる」という様子を指している。 つまり、人も砂ぼこりと同じで、 敗れて落ちこむことがあっても、またきっと盛り返すときが来る 、というということを表している。
人は人生の中で、このことわざのように、何度負けても盛り返す。そういう力を秘めている。負け犬にならなないことだ。
「堅忍不抜(けんにんふばつ)」どんなことがあっても心を動かさず、じっと我慢して堪え忍ぶこと。▽「堅忍」は意志がきわめて強く、じっと堪え忍ぶこと。我慢強いこと。「不抜」は固くて抜けない意。意志が強く、何があっても心を動かさないこと。
出典蘇軾そしょく「鼂錯論ちょうそろん」蘇軾は政治家だけでなく、詩人・画家・書家としても活躍した人物。その文中にある言葉「古之立大事者、不惟有超世之才、亦必有堅忍不抜之志」からきている。その訳は「古の大事を立つる者、唯だ超世の才有るのみならず、亦た必ず堅忍不抜の志有り」と読む。その意味は「昔の偉人は才能が有っただけでなく、我慢強く耐え忍んで何事にも動じない心を持っていた」となる。
現代の政治家や評論家は一芸に秀でているのだろうが、おしなべて字が下手糞である。習字を学ぶ時間が無くなったせいだろう。色紙に討論後の結論を書く字を見ると、内容が薄っぺらに見えてしまう。 次回に続く。
2023.5.18 諺集に見るわが人生(184)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「け」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「犬馬の養い」《「論語」為政から》犬や馬にえさを与えるのと同じように、父母を養うのに、ただ衣食を与えるだけで敬意が伴わないこと。
(出典)弟子との子游(しゆう:孔門十哲のひとり)の問いに対する孔子の言葉として「今の孝は、是れ能く養うを謂う。犬馬に至るまで、皆能く養うあり、敬せずんば何を以って別たんや(現在の孝行とは、衣服や食物など生活に必要なものを親に与えておくことをいうようだ。しかし、これでは、犬や馬を飼うのと同じである。親を敬う気持ちが欠けていては、どこの人と動物との養い方の違いがあるのか)」とある。
現代では親の脛を齧るだけ齧って、家庭を持てば別居し、ろくに顔をみせない。飼い犬に向ける愛情の方が親より上というのが現状だろう。
「権謀術数(けんぼうじゅっすう)」主に社会や組織などの集団において物事を利己的な方向へ導き、自身の地位や評価等を高めるために取られる手段や策略であり、それらが用いられるさまを表す総称。「権」は権力、「謀」は謀略。「術」は技法、「数」は計算を意味するとされ、初出は中国宋代の儒学者・朱子(朱熹)の『大学章句序』。
現代においては多くの場合、集団において個人が負う役務そのものによってではなく、「それ以外の手段」によって集団内の地位・評価を高めようとする行為を特に指して言う。例えば、組織内において自身の発言力を高めるために対立する個人を組織から排除しようとしたり、あるいは自身の功績を実際以上に大きく見せるべく印象を操作するなどの場合がそれに当たる。
ライバルとしのぎをけずるビジネスマンの処世術としては有効であるともされる。
権謀術数を用いる者は愛嬌・相鎚・大げさな身振り手振り・はっきりとした口調・笑顔等を駆使し、好印象や強い印象・信頼を相手に刻もうとする。
よい印象が話し手に付加されることで、聞き手はその内容を真に受けやすくなる。こうなると、話し手は利己的な情報を聞き手に受け入れさせることが容易になり、話し手に都合のよい行動へと誘導されることになるとされる(wikipedia)。 次回に続く。
2023.5.21 諺集に見るわが人生(185)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「け」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「肩摩轂撃(けんまこくげき)」人や車馬の往来が激しく、混雑しているさま。 都会の雑踏の形容。 人の肩と肩が触れ合い、車のこしきとこしきがぶつかり合うほど混雑している意から。「肩摩」は肩と肩がこすれること。「轂撃」は車のこしき同士がぶつかること。
(出典)『戦国策』「斉策」
今日5月20日は横浜スタジアムは増築以来最大の観客数を記録した。最後まで息詰まる熱戦で、観客は席を去る者は無く、立ち見も出る超満員だった。帰りは大変で人々は【肩摩轂撃】 の有様であった。
「黔驢の技(けんろのわざ)自身の力量を自覚せずに、人に見せて力量の拙さから恥をかくこと。
または、見た目がよいだけで中身のない技量のこと。
「黔」は中国の黔州という地名。
「驢」は動物のろばのこと。
(出典)柳宗元・三戒・黔之驢 黔州(けんしゅう)にはもともと驢馬はいなかった。 物好きな者がいて、船に乗せて連れてきた。 しかし役に立たないので、山の麓に放した。
これを見た虎は、その体の大きいことに驚いて、 林の間にかくれその様子をうかがった。 しばらくして、近づいてみたが、おとなしくしていて、どんなやつかわからない。 ある日、驢馬が一声鳴いた。 驚いた虎は遠くまで逃げた。 喰われるかもしれないと恐れたのである。 しかし、近くによって見ると、これといって才能もなさそうだとわかった。 鳴き声にもなれてきた。そこで、また近づいて周りをうろうろと回った。 さらに近づいてわざと驢馬の体にぶつかってみた。 驢馬は怒って足で虎を蹴りあげた。これを見ると虎は喜んで言った。「お前の技はこの程度か」そして、跳びかかってのど元を喰ちぎり、肉を喰尽くすと去っていった。
職人は一生修練の場で生きる。若い頃はこのことわざにあるような恥をかいて、それをバネに一段ずつ上を目指すのだろう。 次回に続く。
2023.5.25 諺集に見るわが人生(186)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「御意見五両堪忍十両(ごいけんごりょうかんにんじゅうりょう)」人の意見や忠告に従うのは5両の値打ち、どんなことにもじっと耐え忍ぶことには10両の値打ちがあることをいう。他人の意見に従うことや忍耐をすることは、ことほどさようにたいせつなものであるというたとえ。
私も若い時は5度ほど職を変え、その後は迷いもあったが、定年まで勤め上げた。「堪忍十両」といったところか。堪忍は「かんにん」と読む「たんにん」ではない。
「鯉の滝登り」鯉が滝を登ること。 転じて、人の栄達、立身出世のたとえ。 [解説] 黄河の急流にある竜門という滝を登ろうと、多くの魚が試みたが、わずかな魚だけが登り、竜に化すことができたという言い伝えから、その魚を鯉と想定して言ったもの。
立身出世の意味を持っていることから、鯉の滝登りを描いた文様は古くから縁起のよいものと考えられている。他にも、商売繁盛や金運アップなど、幅広い意味が込められている。特定の季節を指した図柄ではないため、おめでたいものとして掛け軸などを1年中飾れるのもうれしい。
「光陰矢の如し」あまりに有名なことわざのひとつ。月日のたつのが早いことのたとえです。誰にとっても時間は平等に、あっというまに過ぎていくもの。だからこそ日々を大切に過ごしていこうという教えは、多くの人が共感するはず。
「行雲流水(こううんりゅうすい)」ただよう雲と流れる水。他の力にさからわないで、滞りなく動く自然のゆうゆうとした姿。自然のまま、なりゆきにまかせて行動するさまなどをたとえていう。▽「行雲」は空行く雲。「流水」は流れる水。諸国を修行してまわる禅僧のたとえにも用いられることがある。「流水行雲りゅうすいこううん」ともいう。
(由来)「行雲流水」は、11世紀の宋代に蘇軾が記した「謝民師推官与書」を出典とするとされる。当該の記述は、良い文章を書くための方法論である。大まかにいえば「文章は雲や水のようなものであり、形が最初から決まっているわけはないし、自然の流れに任せて、筆が走るなら走らせ、筆が止まるなら止めればよい」という趣旨の記述である。
文を記す者には教訓になる。 次回に続く。
2023.5.27 諺集に見るわが人生(187)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「後悔先に立たず」「してしまったことを悔やんでも仕方がない」という意味。終わったことは取り返しがつかないので、「後悔のないよう、しっかり準備をしておくこと」という教訓を含んでいる。
人生において失敗を経験しない人は、誰一人いないだろう。失敗すると自己肯定感も下がり、気分も落ち込んでしまいがちだが、失敗は成功につながる大切な成長材料でもあるため、怖れすぎずに自信をもって挑戦していく心構えが大切だ。
(類語)
「後の祭り(あとのまつり)」意味:時期を逃し手遅れになること
「覆水盆に返らず(ふくすいぼんにかえらず)」意味:一度起きた出来事は二度と元に戻らないこと
「転ばぬ先の杖(ころばぬさきのつえ)」意味:リスク回避のために前もって用心し備えること
「好機逸すべからず」よい機会は逃してはならないということ。チャンスはそう多くあるものではないチャンスが訪れたときは、それを逃さずに行動するべきである。いくら努力や才能があっても、機会に恵まれなければ成功はないののでだということ。
(類義)
・奇貨居くべし(きかおくべし)
・思い立ったが吉日(おもいたったがきちじつ)
・善は急げ(ぜんはいそげ)
・鉄は熱いうちに打て(てつはあついうちにうて)
・物には時節(ものにはじせつ)
私はプロ野球のある日は必ずテレビやインターネットで観戦する。最近特に感じるのは阪神タイガースの終盤の粘りで、どんなに負けている時でも、近本などが出塁すると、一気にそのチャンスを捉え逆転勝利してしまう。交流戦前に5連勝し、独走している。阪神おそるべし。私は最近だらしないベイスターズのファンっでヤキモキしている。 次回に続く。
2023.5.31 諺集に見るわが人生(188)
今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。
「肯綮に中る(こうけいにあたる)」物事の急所をうまくつくこと、要点を巧みに探り当てること。
(由来) 「荘子―養よう生せい主しゅ」に出て来るエピソードから。紀元前四世紀、中国の戦国時代、ある料理の名人が、王の前で牛を解体して見せたときのこと。その手際のよさをほめられた彼は、「精神を研ぎ澄ませて牛の体にある隙間に沿って刃を走らせれば、『肯綮(筋肉と骨のつなぎ目)』に刃が当たることなどありません」と答えた。ここから転じて、最も重要な点のことを「肯綮」というようになった。
(使用例)実用には今は使われないが、明治時代、鴎外・阿部一族の中で「する事はいつも肯綮に中っていて間然すべきところがない」とある。
職人技を評するには持って来いの「ことわざ」だ。
「攻撃は最大の防御」防御をする前に、先手をうって攻撃を仕掛けることが一番の防御方法という意味。
実際、戦争が防御と攻撃の2種類で成り立っているとするならば、そのうち自分のほうで徹底的にできるのが防御だから、防御をしっかりやることによって、あとのエネルギーは全部攻撃にかけられる。そうすると、「攻撃は最大の防御」になるということを、まずこの冒頭で言っている。「攻撃」を先に行えば「防御」する必要がなくなる。このことから、有効な防御方法とは、先手をうって「攻撃」することであると表現している。「攻撃」と「防御」という相反する言葉を巧みに使い分け、導き出されたことわざで、「攻撃は最大の防御なり」とも言う。
(由来)には諸説ある。代表的なものでは、孫子の兵法の一節で「勝つべからざるは守るなり、勝つべきは攻むるなり」(勝てそうもないなら守るべき、勝てるなら攻めるべき)」
(類義)「先手必勝」戦いの局面で相手よりも先に攻撃を仕掛ければ、必ず勝てるということ。▽「先手」は相手よりも先に戦いを始め、出鼻をくじくことによって局面を有利にすること。
「先んずれば人を制す(さきんずればひとをせいす)」先に動けば他人を制圧できる。先に動けば状況を制圧できる。『史記(項羽本紀)』の中の殷通の言葉「先んずれば人を制す、後るれば則ち人の制する所と為る」から。 次回に続く。