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2023.9.2 諺集に見るわが人生(212)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「子供は親の背を見て育つ」子供は親のやっていることを見て育つ、ということ。 【詳しい解説】 子供にとって、親が日常でしていること(親のやり方)が、あたりまえのことであって、それが世間でも普通のことだと思って身につけてしまう。 また、親が世間にはあまり出さない、裏の部分 (赤信号で道路を横断する、ゴミのポイ捨て等)もよく見ているので、 親のそのような面も、倫理観として受け入れてしまうという意味もあります。
(実例)親がいくら子どもに立派な言葉をかけても、親の日々の生活がいい加減なものなら、何の説得力もない。たとえば、自分は読書をしないのに、子どもに「本を読みなさい」という言葉をかけても意味がなく、親自身が本を読む姿を子どもに見せることが一番だということ。
本当に子どもは親のしぐさを見ていて決して忘れない。

 

「子供は風の子」子供は元気で、寒風の中でも平気で遊びまわるものである。また、風の子なのだから、寒くても家の中にいないで、外で遊べ。 このことわざは「子供は風の子、大人は火の子」と後に「大人」の例を加えるのがフルバージョン。大人は寒がって火に当たりたがるからという意味だろうが、どう見ても単なる調子合わせの追加で、「火の子」はなんだか物騒なので、「子どもは風の子」で止めておくのが普通である。
私が子どもの頃はフルバージョンが一般的に使われていた。

 

「子に引かるる親心」我が子可愛さのあまり、親が冷静な判断ができなかったり、思い切った行動ができなかったりすること。子への愛情のために、親の心は鈍るという意味。「子に引かさるる親心」ともいう。
(類義)「子に迷う親心」「子故の闇」「子に惹かされるは親の因果」
・親バカは世の習い。 次回に続く。

 

 

2023.9.7 諺集に見るわが人生(213)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「この親にしてこの子あり」「この親にしてこの子あり」優れた親があってこそ、優秀な子が生まれるという意味で使われる。また、子は親の性質を受け継ぐものだという場合にも性質を受け継ぐものだという場合にも使われる。
ただし、悪い親から悪い子が生まれるという意味でも使われることがある。
本来は「優秀な親から優秀な子」の意味だったが、誤用で「悪い親から悪い子」も意味するようになったといわれる。
(使用例)医者の子が医者になるケースは非常に多い。また、悪徳商人がPTA会長を務める中学校で、その息子がいじめの中心にいるのに学校側は何の手も打てないでいるようなケースも見られる。 

 

「此の父有りて斯(ここ)に此の子有り(孔叢子)」賢明な父親からは立派な子が育つ。 子供がすぐれているのは父親が立派だからであること。また、子は親の資質を受け継ぐものだということ。
(故事)中国の戦国時代、斉の尹文子(いぶんし)が孔子の孫の思子(しし)に「自分の子が愚かなのは妻のせいだから追い出すのだ」と言った。そこで思子が「此の父有りて斯(ここ)に此の子有るは人道の常なり(立派な父から立派な子ができるのは道理だが、立派な父に愚かな子ができるのも天道の自然で、妻のせいではない)」と言って離別を思いとどまらせたという故事による。
DNAによる子孫への継承を思わせることわざだ。

 

「子はあるを嘆き、無きを嘆き」親にとって、子はあればあったで、そのためにわずらわされ心配事の種になるし、なければ無いで、子のない寂しさを嘆く種になること。
友人に子供のない夫婦がいるが、昔は悠々自適に生活に、羨ましく思ったが、この歳(85歳)になると後継者がいなのは寂しいものだ。今は音信不通である。 次回に続く。

 

2023.9.10 諺集に見るわが人生(214)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「子は一世、夫婦は二世、主従は三世、他人は五世(こは いっせ、ふうふは にせ、しゅじゅうは さんぜ、たにんは ごせ)」親と子の関係は、最も大切なものだけれども、他人との関係も大切にしなさい、という教え。
人が、生きているということは、現在、過去、未来を通して、多くの因縁によっている、ということを 現わそうとした言葉。親と子の関係は、今、生きている現世という1つの強いつながりで結ばれている。 さらに、夫婦の関係は、現世で結ばれ、再び来世でも結ばれようとする二世のちぎりであり、 主人とそれに従う人の関係は、前世と現世と来世の3つのつながりによって結ばれ、そして、他人との関係は、 さらに多くの5つの世をつながりとして結ばれている、ということのようだが、難しい仏教の「因縁」という言葉を説明するために、 方便として考え出されたものであろう。
親子の関係は現世(げんせ=このよ)だけで終わりで、夫婦になるとその関係は二世(現世と来世または前世と現世)にまたがり、主従は三世(前世、現世、来世)他人なら五世にもわたるという意味で、自分の血縁には淡くし、あまり縁もない他人ほど手厚く、すなわち、他人との関係を大切にしなさいという教えということになる。
現世の縁から考えれば、最も縁の深い子供がこの世かぎりで、縁の浅いと思われる他人が最も因縁が深いことになっている。一説には、この諺(ことわざ)は武家時代にできたもので、主従の関係を最も重んじたためといわれている。
現代は子と夫婦で構成される家族が最も大切になっているようだ。

 

「子は鎹(かすがい)」子は鎹とは、子供は夫婦の仲を繋ぎ止めてくれるものだというたとえ。
(注釈)「鎹(かすがい)」とは、材木と材木とをつなぎとめるために打ち込む、 両端の曲がった大きな釘。
子は鎹のように夫婦の間を繋ぎ止めるだということ。
夫婦仲が悪くても、子どもがいれば簡単には別れられず、夫婦の縁を保ってくれる。 次回に続く。

 

2023.9.14 諺集に見るわが人生(215)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「子は三界の首枷(こはさんがいのくびかせ)」親にとって子は、いくつになっても、どこへ行っても気にかかる存在で、一生自由を束縛されるものであることのたとえ。
(注釈)
「三界」とは、仏教でいう過去・現在・未来のこと。
「首枷」とは、罪人の首にはめて自由を奪う刑具の一種。
子を首枷にたとえて、親が抱く子への愛情が深いからこそ、子のために自由を奪われるということ。
『江戸いろはかるた』の一つ。
江戸時代は子だくさんだったろうから、首枷の締め付けは相当なものだったろう。現代においておやである。

 

「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」善い政治が行われ、人民が平和で不満のない生活を楽しむ様子。または、世の中が平和なことのたとえ。
「鼓腹」は食べるものが十分にあり、満腹になった腹を楽器のように打ち鳴らすこと。腹鼓のことか。
「壌」は土や地面のことで、「撃壌」は地面をたたいて拍子をとること。
古代中国の聖天使尭帝は、世の中がうまく治まっているか気になり町の様子を見に行った。
そこで、一人の老人が満腹になった腹を打ち鳴らし、地面を踏んで拍子をとりながら「世の中は平和で天子はいてもいなくても変わらない」という意味の歌を歌っていた。
それを聞いた尭帝は、人民が政治を行うものの力を意識すること
なく、満ち足りた生活が出来ていることが分かり安心したという故事(『十八史略』「五帝」)から。
はじめて見る四字熟語だが、字面が恐いので物騒な内容を空想したが、全く違って理想郷のことだった。

 

「小舟の宵ごしらえ」手回しがよすぎることで、大げさすぎることのたとえ。 すぐにでも船出のできる小さな舟が、前の晩から船出の用意をするという意味から。
(例文)私がお茶を飲むと思って用意してくれてたの?でも、用意が早すぎてぬるくなっているね。これぞ小舟の宵ごしらえというやつだ。 次回に続く。

 

2023.9.17 諺集に見るわが人生(216)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「子ほど喜ばせにくいものはなく、親ほど喜ばせやすいものはない」子供は親の愛情を当然のことと思っているので、ありがたく感じないことが多いが、親は子供から喜ばせて貰うことを期待していないので、子供がちょっとでも親への愛情を示すと大喜びすること。
親心は分かるが、子どもの心は分からないものだ。

 

「独楽の舞い倒れ(こまのまいだおれ)」自分ひとりで張り切ってやったあげく、結局は力が尽きて無駄なことに終わってしまうたとえ。くるくると回っていた独楽が、最後はごろんと倒れてしまうことから。
(例文)試行錯誤してみたのだが、結果は独楽の舞い倒れだった。

 

「ごまめの歯ぎしり」実力のない者が、いたずらに苛立ったり悔しがったりすること。 また、そのように悔しがってみても、ほとんど影響を及ぼさないことのたとえ。
(注釈・由来)ごまめ(鱓)が歯ぎしり(歯軋り)をして悔しがったところで、何も影響を及ぼさないことから。 「ごまめ」は小さなカタクチイワシを素干しにしたもので、イワシは漢字で「鰯」と書くように弱い魚で、それが干されているのであるから、実力がない者が何もできないさまを「ごまめ」にたとえられている。 また、「ごまめ」は目を見開いて歯を食いしばっているように見えることから、「歯ぎしり」とたとえたのであろう。
ことわざとしては覚えていたが、ごまめについてはカタクチイワシの素干しにしたものだということは知らなかった。きっと子どもの頃には食べたことがあるのかも知れない。

 

「胡麻(ごま)をする」自分の利益を図るために、人に取り入り、おべっかを使うこと。胡麻をするとき、つぶれた胡麻が擂り鉢の内側にくっついて離れなくなるように、人にべったりくっつくことから。
(例文)彼は胡麻をするのが上手だから、異例のスピードで出世をしたのだ。
こういう実例は結構あっちこっちで見かけるものだ。 次回に続く。

 

2023.9.22 諺集に見るわが人生(217)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

「米を数えて炊ぐ(こめをかぞえてかしぐ) 」米粒を一つ一つ勘定して飯をたく意味から、つまらないことにいちいち細かく気を使う人をいい、また物惜しみすることにたとえる。
「炊ぐ」とはお米をたく「炊飯(すいはん)」でも使われる漢字で、音読みでは「スイ」。訓読みでは、たく、かしぐ、などと読んで、お米をたく、料理をする、といった意味の過去使われていた読み方。出典: 『荘子』庚桑楚
炊飯器で飯を炊く場合でも、その前作業として米を研ぐ(とぐ)を欠かすことはできない。研ぐとは、米などの表面についた汚れを落とすためこすって洗うことで入念な作業が必要である。もし「米を数えて研ぐ」ということわざを作るなら全く反対の意味の造語になるかも知れない。

「子養わんと欲すれど親待たず」親が元気なうちに孝行せよということ。親の面倒を見る年齢になって親孝行しようと思っても、親はそれを待ってくれず、この世を去ってしまうことから。
(出典)この前に「樹静ならんと欲すれど風止まず」とある(風樹之嘆)。
今の時代は高齢化が進み「老老介護」という社会的問題も日常化しており、人生100年も珍しくない。国は介護保険などで対応しているが、こうした高齢者にユートピアなど存在しないかも知れない。

「五里霧中(ごりむちゅう)」物事の事情がまったく把握できず、方針や見込みが立てれられないことを意味する。また、手探りで何かをすることのたとえ。由来は、五里四方に立ち込める深い霧という意味の「五里霧」から来ている。
(由来)中国後漢の張楷が道術によって五里四方にもおよぶ霧を起こし、姿をくらまし惑わという故事に由来する。また、「五里先まで霧の中に包まれている」という意味で、およそ20キロメートル四方を霧に包まれているというのが、本来の言葉の意味である。
(類義)「暗中模索(あんちゅうもさく)」暗闇の中で手探りをするような状況を表現しているため、出口が見えないけれども何とか試してみないといけない場面などで使うのが適している。主に、企画やプロジェクトなどの方針や方法を決める場合に使われることが多い。 次回に続く。

 

2023.9.27 諺集に見るわが人生(218)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「惟日も足らず(これひもたらず)」やるべきことが多く、一日中かかってもまだ足りないこと。
(訳文)善人は、善いことをするのに、一日中かかりきりになってもまだ足りなく、悪人もまた、悪いことをするのに一日中かかりきりになってもまだ足りない
出典・ 書経・ 泰誓 (たいせい)・中「吉人善を為すは、惟日も足らず、凶人不善を為すは、亦惟日も足らず」とある。
(例文)惟日も足らずと思えるほど熱中できる何かがあるのは幸せなことだ。

 

「此(これ)もまた人の子なり」どんな境遇の者でも同じ人間だから大切にしなければいけなという戒めのことば。
(出典)六朝時代における「四海の内皆な兄弟」の思想。
「蕭統しょうとう」の「陶淵明伝とうえんめいでん」
中国、東晋とうしん末の詩人、陶淵明が彭沢(ほうたく)の県令として単身赴任した時、郷里にいる我が子の世話をさせるための下男を一人送った。その時に添えた手紙の中のことば。
(例文)貧しいものも此もまた人の子なり。貧しいからと卑しんではいけない。
(類義)「人類みな兄弟」トルストイ曰く「キリストの教えの一番主要なところは,彼が万人を兄弟と認めた点である。彼はいかなる人の中にも自分の兄弟を認めた。姉妹を認めた。したがって,彼は万人を,よしんば相手がだれであろうとも,どのような人物であろうとも,平等無差別に愛しいつくしんだ」と。
人を生まれ素性で差別することは良くないことだが、世界を見ればこうした差別を行っている国は多い。悲しい現実である。

 

「転ばぬ先の杖」失敗やトラブルを避けるために、事前に用心や準備をしておくことを意味する。転んでからでは遅いので、未来に備えて杖を持っておくという例えで、この言葉は江戸時代の浄瑠璃に由来するとされている。類語には「濡れぬ先の傘」「石橋を叩いて渡る」などがある。
私は旅行に出かけるとき、折り畳みの携帯傘を持参する。これなどは「転ばぬ先の杖」の典型だろう。 次回に続く。

 

2023.9.30 諺集に見るわが人生(219)
 今回は諺集(新明解故事ことわざ辞典:三省堂)「か行」の「こ」から始めて、回顧していくことにする。また諺からイメージできるものについても記述する(「」の前後の句読点は省略)。

 

「衣の袖から鎧が見える」表向きでは、穏やかな態度で接しているけれど、かげでは武力で押さえつけようとしているような態度をちらつかせている。
(由来)僧侶の衣の袖から鎧が見え隠れしていることから生まれたと言われている。僧侶は、仏に仕える身だから、鎧とは縁遠いはず。しかし、歴史上では僧侶が武装して戦をした事例は数多くある。
もともとは、寺院が自分たちを守るための自衛手段として武装したのだが、次第に寺院が力を持つようになると、武士と本格的に戦うようになった。織田信長が比叡山を焼き討ちしたり、豊臣秀吉が根来寺を焼き討ちしたのにはこうした背景がある。結局戦国時代以降、刀狩りをして僧兵という武装勢力を持つ寺院は姿を消した。
このことわざは、鎧の端をわざと相手に見せることで、交渉を有利に進めようという意図が伺われる。
(例文)あの人は顔は笑っているが、衣の袖から鎧が見えこわい。

「転んでもただは起きぬ」そこで利益になるものを得ることのたとえ。また、どんな事態になっても必ず何か自分の利益になるものを見つけ出すという、欲深い人間のたとえ。
(語源)「転んでも土を掴む」という言葉があるが、転ぶような失敗をしても、土くらいは得ることができる。という意味で、こういった言葉が原型とも言われている。
(補説)最近では、物事に機敏に対処できる人や、失敗してもくじけない人などのたとえに用いることもある。
中々真似できないことだが、そうした根性のある人がこの世の中のし上がっていくのだろう。

「コロンブスの卵」どんなに素晴らしいアイデアや発見も、ひとたび衆目に触れた後には非常に単純あるいは簡単に見えることを指す成句である。
その語源とされる逸話とは、ある席で「誰でも西へ航海すればアメリカ大陸に行き当たるのだから、アメリカ大陸の発見は大した業績ではない」と言われたコロンブスは、相手に卵を立ててみよと応じた。相手が諦めると、コロンブスはテーブルに卵の先端を打ち付けて平らにすることで立ててみせた、というものである。
この言葉は、独創性を議論するときによく引用される。言い換えれば、誰かが最初にそれを思い付かない限り、単純なアイデアでさえ見過ごされる可能性がある。
小学校のときこの話を先生から聞き、妙に頭の片隅に残っている。 次回に続く。