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灯懐古(詳録)

 終戦から69年。私が3歳の時この大戦は始まった。昭和18年には縁故疎開といって、三重県の母の実家に身を寄せていたが、辛い思い出ばかりの年月だった。それでも心に残る多くの思い出を、凝縮して残してくれた懐かしい時代でもあった。
 当時の日本は非常事態の最中にあった。「欲しがりません勝までは」のスローガンの下に、国民一丸となって困難な時期を取り切るために、耐乏生活を強いられていた。
 今回のテーマ「灯」は、そんな時期に遡って始まる。何事も倹約の時代だから、当然のように電気も統制下にあった。停電は当たり前であり、電気と言えば夜間照明位にしか使わないのに、それでも灯火管制と言って夜は暗闇の中で過ごすことになる。家の中の微かな明かりは、ロウソクか灯油ランプ(江戸時代に油商人が行商で売っていた油)だった。
 これらに火を点けるには火種というものが必要だった。どこの家にも竈(かまど)のそばに石英の石が2個置いてあったものだ。この石を叩き合うと火花が散る。この火花をソダと呼ぶ枯れ枝を小さく折って束ねたものに着火させるという仕事があり、それはもっぱら子供の持ち分だった。ライターで火を点けるのとは大違いで、慣れるまでが大変だった。それでも大人もこどももそれぞれが仕事を分担するのは当たり前だった。
 まるで石器時代にタイムスリップしたような話で、俄かには信じられないことと思うが。本当に経験しなければ書けない話だ。さて、着火したソダは直ぐに燃え尽きてしまうので、速やかに何処かに移す必要がある。そこの登場するのが、熾火(オキビ)という炭を細かく砕いた粉末状のモノに移す。これで火種を長時間保存することができる。熾火を使ってかまどの薪を燃やしたり、風呂(五右衛門風呂)を沸かすのに使う。無論ローソクに灯を点けたり、灯油ランプを点すのにも使われていた。
 結局戦争に敗れ、日本はさらに過酷な状態に置かれることになる。究極の貧困状態が続き、電気がどこの家庭でも使われるようになるまでには、長い時間を待たなければならなかった。
 電気が使えるようになったと言っても電燈の話で、他にはラジオくらいしか電化製品はなかった。電球と言えばマツダである。ガラスの中を真空にして中のフィラメントに通電して光らせるもので、大正末期には東芝が最初に売り出したものだ。ここでやっと光が戻ってきた。今家庭では殆ど見かけられなくなったが、蛍光灯にその地位を奪われる前までは、街の明かりを一手に引き受けていたものだ。壊れやすく、寿命が短く、電気を食うという欠点も多かったが、一種の温もりがあり、未だに愛好する人も多い。生産は打ち切られたようだから、手に入れるのは難しくなるだろう。
 取って代わって照明の代表格になったのが蛍光灯である。同じ東芝が1941年代にマツダ蛍光灯というブランド名で発売したのが始まりと言われている。一般に普及するのは1970年代になってからだが、当初は明るくなるまで時間がかかるため、「反応の鈍い人を表す」陰口の代表格でもあった。それでも技術大国だけのことはある。改良を重ね、電気を食わず、反応も早く、長持ちして、その上、昼光色や白熱球の光も出せるようになり、悪いイメージは払拭されていった。
 ところが最近LED電球が出現して、その地位は危うくなっている。我が家では、まだ居間などは円形の蛍光灯が主流であるが、それでも所々LED電球を使っている。玄関やトイレ、浴室など狭い場所では十分明るさを確保できる。値段はまだ少し高いが、消費電力が桁違いに少なく、電池でも長時間持って重宝だ。ライティングデスクや枕元に置いて使うのに重宝している。光の直進性が強いので、直接目に入ると眩しく、拡散性が弱いところなのがイマイチであるが、周囲の反射鏡や表面レンズを工夫すれば、直ぐ改善されるだろう。車のヘッドライトなどにもLED電球が使われてきているが、方向指示器やストップランプ、ハザードランプなども一体化してコンピュータ制御すれば、余計な部品は不必要になるだろう。まだまだこれから活躍の場は広がっていくことだろう。
 石器時代から近未来まで「灯り」の進歩を眺めてきたが、技術革新の早さには驚くばかりだ。それも国が平和で豊かであるからなせる業で、光を絶やさないよう、住みよい社会を後世にに残すよう肝に銘じることにしよう。
 


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