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保土ヶ谷宿を歩く(1)

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はじめに
 保土ヶ谷という地は、私にとっては思い出深い場所である。何しろ生まれてから30数年間をそこで暮らしたからである。子供には遊びのテリトリみたいなものがあり、私にとっては横浜市立岩崎小学校学区がそれに該当する。これから東海道保土ヶ谷宿は、それよりは範囲が広いが、殆どカバーしている。大体神明社から境木地蔵までの範囲には、小学校や中学校の友達がおり、遊んだ場所だから裏道まで精通している。これから始める保土ヶ谷宿最初の訪問先、浅間神社は、そのテリトリの外にあるので、今回、初めて訪ねた場所である。それでは、保土ヶ谷宿史跡探訪に向かうとしよう。

 保土ヶ谷宿の歴史
 保土ヶ谷宿に入る前に、一応この宿場の概要を紹介することにする。(出典:東海道保土ヶ谷宿の飯盛女)
「保土ヶ谷宿は、慶長元年(1601年)東海道に伝馬制度が始められたとき、伝馬宿として指定され、その管轄する総距離は45町50間(約5キロ)である。宿駅として、休泊施設が設けられた。それが本陣及び脇本陣であり、一般客用には旅籠屋があった。旅籠屋には飯盛女のいる飯盛旅籠屋と、飯盛女のいない平旅籠屋があった。また休憩や食事のための茶屋や煮売屋があった。
 宿場は、追分から東方の見付まで街道の両側に松並木があり、宿場に入って間もなく帷子橋がある。この辺から旅籠屋、商家などが立ち並んでいた。街道を進むと、左に問屋場、右に高札場があり、この辺りが宿場の中心である。
 本陣の前で右に折れた街道は、茶屋橋の一里塚その隣の西方の見付まで、脇本陣の大きな建物が続いていた。
 見付から見付まで約2キロ、往還の幅は4間から4.5間であった。
 保土ヶ谷宿は 、他の宿場と同様幕府直轄領であり、保土ヶ谷、岩間、神戸(ごうど)、帷子の4町からなっていた。


 享和3年(1803年)の記録によれば、人口は
2022人、内男1064人、女956人であり、総戸数は453軒、この内本陣1軒、脇本陣3軒、茶屋本陣1軒、旅籠屋37軒があった。」と記されている。
 現在とは全く様変わりし、その跡は僅かしか残っていない。旅籠屋が37軒もあったというのには、いささか驚かされる。街道筋ににはその姿は見られない。後ほど昭和20年代の保土ヶ谷を回顧してみるが、今よりははるかに古い建物も残っており、そうした建物に入った思い出もある。
 そうした思いも込めて保土ヶ谷宿史跡を辿る散策に入る。

 浅間神社から八王子追分まで
 浅間町から帷子町に至る街道は、先の大戦で殆ど消失しており、神社等は再建されて昔の姿を取り戻しているものの、道標などは市が史跡保存のために最近できたもので、それだけが、当時を知る道しるべとなっている。トップ画面の地図の順に足を進めることにする。
 最初に訪れたのが、浅間神社(写真1)である。震災や戦火で幾度も消失し、現在の建物は昭和58年に再建を果たし、県下でも類を見ない社殿となったと記されている。(写真2)由来を記した標示板には起源は1080年源頼朝の時代とされている。(写真3)また、境内には横穴古墳群が残っている。(写真4)
 旧東海道は、国道1号線より1本奥の細い道路として残されており、保土ヶ谷町の軽部本陣までの間は、今の1号線と交わることはない。
 路面に旧東海道を示すプレートが埋め込まれているのを見つけた。(写真5)それに従い300メートルほど天王町方面に向かうと追分と記された道標が道の右脇に立っており、そこを右に曲がれば八王子へと続くと記されている。(写真6)
 写真を見るにはここをクリック
 以下つづく「保土ヶ谷宿を歩く(2」」

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