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保土ヶ谷宿を歩く(2)

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さて、前述は追分の道標までであったから、その続きに入る。
橘樹神社から旧帷子橋まで
 道にそって歩くと、直ぐ目の前に横浜では異色と言われる松原商店街に出る。(写真7)その昔、海岸沿いに松並木があったことが「松原」の由来だという。賑わう商店街を過ぎると、商店街の正面入口近くに「保土ヶ谷宿周辺散策案内図」が立っている。(写真8)この標示板はかなり詳細に道筋を紹介しており、これを参考にして歩けばポイントを見逃さずに歩けるはずである。
 商店街を抜けて相鉄天王町駅に向かう途中に、橘樹神社(別名天王様)がある。神社の由来は古く、1186年に京都の八坂神社の分霊を勧請奉紀(かんじょうほうき:神様を敬ってお造りするの意)したと伝えられている。確かに京風ではある。 神社はここがかつて橘樹郡(ほかに久良岐郡があった)と呼ばれていたことに由来すると思われる。(写真9)
 天王町に到着すると、駅前に歴史の道の標識がある。(写真10)ここが旧帷子橋跡とある。今は少し洪福寺よりに水路が移されている(写真11)昔はこの上流には捺染工場が集中しており、川の水が染め物工場から排水される水でいろいろな色に変化したのを覚えている。写真8の案内図で版画が表示されているが、これが広重描く名高い東海道五十三次の保土ヶ谷宿の版画(市歴史博物館蔵)である。保土ヶ谷宿を紹介する時必ず出てくるので有名である。

庚申塔と神明社
 ここから星川方面へ向かう路地が旧東海道で300mほど歩くと庚申塔があり、旧東海道の道筋を示している。(写真12)その直ぐ側に神明社がある。この神社は平安時代中頃に創建された市内で最も由緒ある神社の一つとされている。平成の大造営で、昔の姿が再現され、私の記憶にある神明様の木造の仮住まいの社とは、見違えるほどに立派な建立物となっていた。(写真13)
 先ほどの旧東海道の入り口の標識(写真14)に従い、JR保土ヶ谷駅方面に足を進める。道筋には寺が集中して残っている。

寺が集まる街道筋から帷子町・金沢横丁へ
 江戸時代からの遺骨が残されているという香象院見光寺を過ぎて、天徳院(写真15)、大蓮寺(写真16)、遍照寺(写真17、18)は美しい佇まいで多くの人が訪ねる。この辺りは、月見台という地名で屋敷町である。
 遍照寺の入り口で左に曲がると、帷子町商店街に入る。200mほどの長さの商店街で、JR保土ヶ谷駅まで続いている。駅の入口近くに「問屋場跡」の標識がある。(写真19)その中反対側には「金沢横丁道標」が立っている。(写真20)この道標は、当時名所として知られた杉田の梅林や金沢八景に向かう人々が、ここを左に曲がった分岐点であった。石彫の道標が残っている。(写真21)帷子商店街(写真22)が終わり、JRの踏切を渡ると直ぐに国道1号に出る。

軽部本陣と遊郭跡
 その目の前が軽部本陣跡である。(写真23)この本陣には思い出がある。ここに小学生の頃、友達の家族が寄寓しており、何回か遊びに行ったことがある。門を入ると、2階建ての黒い大きな屋敷があったのを覚えている。母屋の裏側には今井川が流れており、(写真24)対岸に向かって水道管が渡されており、黒く塗られた丸い直径30cmほどの管の上を子供達が平気な顔をして渡っていた。(写真今井川にかかる水道管))大人も同様で丸で生活道路のようなものであった。私は臆病だったので、下の流れを見ただけで、足がすくんで渡ることなど思いもよらなかった。
 そこを渡り、真っ直ぐ広い道に出ると、そこが瀬戸ケ谷町である。宿場が盛んであった時、ここには大門通から移された、遊郭があった。子供の頃はまだ生業を続けていた。後年その建物が会社の寮になり、縁あって入ることができた。中身は往時のままの造りで、浮世絵にあるように、大きな玄関を入ると、黒黒とした板の間の広間があり、そこは2階まで吹き抜けになっており、正面両脇に2階に通じる階段がハの字型に付いていた。2階には高欄風手摺があって、下を見下ろせるような構造で、浮世絵通りの姿を彷彿させ、強く印象に残っている。現在は全く面影もない住宅地である。

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 以下つづく「保土ヶ谷宿を歩く(3)」

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