老子・莊子は共に「無用の用」という言葉を残している。これは「役に立たないと思われているものが、実際は大きな役割を果たしている」ということと解されている。
そこで、自分の身の回りにそういったものがあるか探してみた。あるある「無用」の集合体を見つけることができた。多少解釈は異なるから、それは違うという向きもいるかもしれない。
今まで数多く「モノ」を取り上げてきた。これらは便利そうで、一面無用なものだ。一つの例を上げると、年寄りで杖なしには歩行が難しい人は多い。一方で意地でも杖を使わず休み休み歩いている人を見かける。聞いてみれば、「わしゃまだ杖などいらん。自分の足だけで歩く」という答えが帰ってくるに決まっている。となるとこういう人には杖は無用な存在だ。杖が無用などではなく、人によって有用か無用かは決まる 。
この伝で行くこと、すべてのモノは有用にして無用となる。これは荘老子の言葉を間違って解釈していることになるのか。
現代解釈として「この世の中に存在するものが、すべて意味があり、役に立つとか立たないとか、ちっぽけな判断を人間がすることそのものがまちがっている」とする人もいる。
どうやら神の業と捉えているようなので、これでは身も蓋も無い。何事も神の御業などと御託宣されると、この稿は成り立たない。自己流で話を進めるとしよう。
10徳ナイフを例に上げれば、一つ一つは有用だが、使うのは1つの機能だけの場合が多い。残りの9つの機能は無用となる。キャンプに行った時などは使い道も多いので、そのもの自体が有用な働きをする。
こう考えてくると、無駄だだと思って捨てないで残しておけば、いつか有用となるはずだ。そうして私の周りは出番を待つモノが群れを為している始末だ。無用の空間などありはしない。
本来的説明としては、高層ビルの棟と棟をつなぐエクスパンションという設備がある。この果たす役割は、ビルとビルの間に人工的空間を生み出し、緩衝(衝撃を吸収する)空間を生み出すことである。一見無駄な設備のようだが、ビルの倒壊を防ぐのに大きな働きをする。とこのように説明するのが正解かも知れない。