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私の人間関係感

 人は無人島や電気や水道もない山奥にでも住まない限り、人との繋がりの中で生活している。それが人間関係である。人間関係は極めて多様である。親類縁者、友達、仲間、知人、歳を取れば主治医などを挙げることができる。人間関係は好き嫌いとは無関係で成り立っている。親類縁者などは義理という強い絆で縛られているから、余程のことがない限り縁を切るのが難しい。
 友達の中でも、この人だけというのが親友である。私にも小・中・高と学生時代いつも一緒にいた親友がいる。二人が現役の頃は職場を訪れたりしてよく顔を合わせていたが、同じ頃に定年を迎え、彼は家で畑いじりなどして、毎日を過ごしているような悠々自適な生活に入り、、世間から離れ、世捨て人のような暮らしを楽しんでいる様子だった。
 そのうち、大きな病を得て体が少し不自由になったと、後で知った。一度訪ねた時は、殆ど普通の状態に戻っていた。親友と言いながら、そういう事も知らずに連絡を取らなかったことは悔やまれる。その後は、年賀状のやり取りのみの疎遠な状態が続いている。気には懸けていても、足が遠のくのは何故だろう。心の中では大切に思っていても、行動に移れないのは、齢のせいなのだろうか、それとも不義理が重なり、会い難くなったせいなのだろうか。音信が取れない関係は心にずしりと重い。
 大人になり、社会に出てから知り合った友人は沢山いる。友人とは、現在進行形の形を保っている関係にある相手のことだと思う。その中でも、定期的に顔を合わせ、対等の関係あるものは、仲間と呼ぶことができるだろう。友人関係も疎遠になると、知人と言う範疇に入ってします。
 毎年かなりの数の年賀状を送るが、その大半はかつてはかなり親しかった、知人である。割合多いのがかつての職場の上司で、特に親しい間柄ではないが、その年代の人たちは、私より年長で相対的に律義で、型通りの印刷ではあるが毎年送られてくる。女子への年賀状は、私と職場を共にした年下で、先の逆の立場ということになる。これから決して会うということは無い人たちだ。
 年配者の知人は、最近富に訃報が多く、お悔やみの手紙を送りそれで、リストから外れていく。仕方のないことだが、悲しい現実である。
 年賀状の付き合いは、向こうから年齢を理由に縁切りを宣言するケースも増えている。これは素直に受け入れ、知人リストから外すことにしている。こうしたことから、袖振り合うも多生の縁で知り合った人が、生死も分からない別れとなるのも悲しいことだ。
 多分私も何れそうした形でフェードアウトしていくのかも知れないが、それは自分の考えでは今ではない。
 僅かな繋がりでも、私は相手が望まない限り、こうした人間関係も大切に維持していきたいと考えている。
 幸い私には自分の存在をホームページを通じて知らせる手段を持っている。今は告知しても反応は殆ど届かないが、年賀状を発送するたびに、アピールしていくつもりだ。
 誰でも手軽にインターネットを活用できる時代に入ったことは、それに深く関わった私としては喜ばしいことだが、残念ながら60代を過ぎた人たちは、中々そうした世界には信頼を置かないのか、そのツールを活用して交流できないのが、最大の悩みである。
 私は、地域の老人の集まりの活動には参加しないし、その気もないので、新しい人間関係が生まれることはないだろう。今ある人たちとの繋がりを大切して、自分のできるベストを尽くしていく積もりだ。


 

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